芸大は思っていたよりもずいぶん遠かった。最寄駅から電車を数回乗り継いで、ようやく目的の駅にたどり着いた頃には、つるとの待ち合わせの時間から一時間半近く経っていた。 「結構時間かかったね」 「悪いな。乗り換えの時間、ちゃんと調べとけばよかった」 実を言うと、途中で電車を一本逃したために、そこでかなりの待ち時間を食ってしまったのだ。 「ううん。それより、なんかお腹空いちゃった。あそこにコンビニがあるから何か買ってくる」 そう言って、マイペースにコンビニに入っていくつるのあとを彗太は追った。そこで中華まんをひとつずつ買って、それを食べながらふたりはふたたびキャンパスを目指して歩きはじめた。 「それ、うまいのか?」 彗太は自分の買った肉まんを頬張りながら、隣でつるがかじっているピザまんを見やった。最近では色々な種類の中華まんがあるが、ピザ味の中華まんを食べるくらいならピザを食べればいいのにと彗太は思う。 「おいしいよ。食べる?」 つるは隣を歩く彗太にひょいとそれを差し出した。彗太は一瞬戸惑ってから、そこから手で一口分をちぎって食べた。 「ん、これ意外といけるな」 あまりピザらしくはないが、溶けたチーズと絡み合ったトマトソースが、コンビニの安いふわふわした中華まんの皮と案外合う。 「でしょう?私、ピザは耳の部分が好きだけど、ピザまんは具が主役だと思ってる」 千もそうだが、つるは食べ物の話になるとやや饒舌になる。目をきらきらさせながら、彼女はピザまんの魅力について語った。 「俺のも食っていいぞ、ほら」 「あ、うん。どうもありがとう」 人から何かもらうのは気が引けるのか、つるは深々と頭を下げてから肉まんを手でちぎろうとした。だが、歩きながらというのと、寒さで手がかじかんでいるのとで、うまく一口分取ることができないようだった。 「あのさ、そのまま食えば?」 彗太がじれったそうにそう言うと、つるは小さな口で皮の部分を少しだけかじった。 「もっと食っていいのに」 「ううん、ありがとう。おいしい」 つるは少し照れながら、もういちど頭を下げて礼を言った。彼女が普段よく食べるのを知っているので、彗太はそれを少々他人行儀に感じた。これが祥司や泉であったら、間違いなく「一口」で半分以上は持っていかれる。だが彗太は、そんなつるの態度について別に悪い気はしなかった。
会場になっている大学構内の展示ホールには、センター試験当日のうえ、まだ開催初日ということもあってか、人はそれほど多くなかった。受付でチケットと交換にパンフレットを受け取ってから、彗太はつると一緒に会場内に入った。 中は案外広く、白い壁に沿って、過去の卒業生らのつくった作品が所狭しと展示されていた。洋画に限らず日本画、写真、彫刻、あるいは陶芸であったり、一言に芸術大学といっても色々な学生がいるらしい。彗太自身は絵を描かないが、父がいちおう画家を生業にしていたので、こういうものを見ると自然に心が騒ぐ。 「あれ・・・つる子?」 気が付くと、さっきまで隣にいたはずのつるの姿が見当たらなかった。彗太があたりを見渡すと、彼女は彼とは全然違う場所にいた。そもそも順路は定められておらず、入場者は各々の好きな順番で作品を見て回ることができるようになっていたのだが、彼女は一枚の絵の前で立ち止まって、それをじいっと見つめていた。彗太は彼女のほうに近づいた。 「何の絵だ、それ?」 不思議な絵だった。暗い青の中に、青白い光の尾のようなものがひとつ描かれていた。彗太は、その青を美しいと思うと同時に、一種不気味さのようなものを感じ取った。どことなく、それはいつか写真で見た彗星に似ていた。 「・・・」 なぜか心臓の鼓動が速まった。彗太もつると同様に、何か魔法にでもかけられたようにその絵に釘付けになった。色といい構図といい、決して彼の好む絵柄ではない。なのに、彗太はその場から動くことができなかった。 「って、あっれぇ、摂ちゃん!?」 突然、聞き覚えのある声で名前を呼ばれてうしろを振り向くと、珍しくスーツ姿の大和と芦屋、それから大家の大宮が立っていた。 「あ、どうも」 「な、なんでこんなところにおるん。千鶴ちゃんまで連れとるし・・・」 「私がチケットを差し上げたんですよ。お久しぶりです」 芦屋は彗太の隣にいるつるに気付くと、彼女を見て軽く微笑んだ。自分を病院に運んでくれた人物と知ってか知らずか、つるも遠慮がちにぺこりと頭を下げた。 「ちょ・・・ヒロ、俺何も聞いてへんで。何で事前に言うてくれへんかったん」 「まあまあ、ええやんか。せっかく来てくれたんやから」 大宮は大和と芦屋の間に入って、少し怒った様子の甥をなだめてから、彗太と壁に飾られた絵を見比べて、一瞬はっとした表情を見せた。 「その絵・・・」 「え?ああ、これ・・・変な絵だなって」 彗太はそう言ってしまってから、少し失礼な言い方だったかもしれないと思った。だが大宮は「そうか、変か」と言って笑った。 「なんや、それ『彗星』やんか」 大和が言った。 「俺が学生時代一番好きやった絵でな、昔コンクールで賞も取ってるんやで。ほんまに憧れててなぁ…せやから当時の俺の絵、その絵の影響ごっつ受けとるねん。なんや恥ずかしいから、摂ちゃんも千鶴ちゃんも俺のは探さんといてな!」 「あっちにありますよ」 「裕人!」 「それでは、私たちは他のところを回ってきますから、どうぞごゆっくり」 芦屋はそう言うと、まだ文句を言っている大和を連れて立ち去っていった。 彗太とつると大宮の三人になって、初対面の人間を前に緊張しているせいか、つるは少し困ったような顔で彗太を見た。 「どうした?」 「うん・・・これ、彗星なのかな」 小さな声でそう答えて、彼女はもう一度壁に掛かっている絵を見上げた。その時彗太はなぜか、彼女がこのまま絵の中の闇に溶けてしまうような気がした。 「この絵な、実は俺の友達が描いてん」 大宮がつるに話しかけた。 「ひょろっとしたやつでな、いつもこんな暗ーい、変な絵ばっかり描いてたんよ。俺も気になって一度、何でいつも彗星なんって聞いたんやけど、あいつ逆に、『ああ、これは彗星なのか』って」 大宮は彗太を見た。 「描いてる本人もわかってなかったんやろうな。『いつも聞かれるから困る』って言うとったわ。でも彗星って言葉が気に入ったんか、それからはあいつも『彗星』って呼んどったけど」 彗太は答えることができないまま、大宮の話を聞いていた。それまでぼんやりとしていた何かが、突然くっきりと輪郭を表しはじめた。『それ』の正体が何なのか、彗太はなんとなく察していた。 「気なんか合わせようと思っても合わへんのに、なぜか俺ら、いつも一緒に遊んどってん。俺はカメラ持って、あいつはスケッチブック持って。あいつ、彼女に会うときも俺のこと連れて行ったりして、俺まで一緒に彼女にしばかれたんやで」 大宮は笑いながら、少し泣きそうな顔になった。 「卒業した後は、お互い引っ越したり海外に行ったりしてなかなか会われへんかったんやけど、時々手紙は交換しててん。けどあいつ、いーっつも自分の子どもの話ばっかり書いてきてなぁ。ひとりでおつかいに行けるようになっただの幼稚園のかけっこで一番になっただの、逐一報告してくんねん。でも俺の住所が海外で、しかも不定なもんやから、手紙が俺の手元に届くのに二年近く掛かることもあってん。せやけど、何年か前から全然連絡が来んようになってな・・・それからしばらくして、亡くなったって、人づてに聞いたんやけど」 つるも気付いたのか、大宮と彗太の顔を交互に見やった。 「最後にもらった手紙でその子が中学生やったから、ちょうど今このくらいの年頃かなと思っとったけど・・・まさか、うちの寮に来るとは思てへんかったわ。人生、何があるかわからんな」 大宮は懐かしそうに彗太を見た。優しい目だった。 「いつ、俺だってわかったんですか」 彗太は尋ねた。彼はここに父の絵があることも、父がこの大学に通っていたことも、今日まで何一つ知らなかった。守だって彗太が大学に通うため大阪に行くこと、そして、そこで古い友人に会うことなど知る由もなかっただろう。 「摂津っていう苗字聞いたときに、すぐぴんときたけどな。だって自分、文野ちゃんに顔そっくりやねんもん」 大宮はそう言って破顔した。笑った時にできる頬の皺が彼の年齢を感じさせた。父と同年代であろう大宮の少し寂しそうな笑顔を見ながら、彗太は、父も今であればこんな風に笑うのだろうかと思った。
芸大からの帰り道を、彗太とつるは無言で歩いた。駅までバスが出ているのだと、途中でバスに追い抜かされてようやく気付いた。すでに道半ばまで来ていたので、結局一月の寒空の下をそのまま歩くことになった。 「摂津くん」 「ん?」 「駅、そっちじゃないよ。こっち」 相当ぼんやりしていたのだろう、つるは少し心配そうな顔をした。 「大丈夫、ちょっと考え事してただけだから」 「・・・本当?」 「本当。だからそんな顔すんな」 彗太は笑ってみせたが、本当に自分がちゃんと笑えているのか確信がなかった。 (父さんが、死んだ) 大宮の言葉を聞いてから頭の中がぐちゃぐちゃで、ちょっとしたことで自分という存在が崩れてしまいそうだった。死ぬはずがないと言う自分と、どうして生きているのだと言う自分がいて、たがいに葛藤しあっている。妥協点を見つけたいのに、それができない。いや、それを見つけてしまうことを自分が避けているのを、彗太自身気付いている。そして、誰かがそんな自分を見つけ出してくれるのをずっと待っている。 「摂津くん」 つるの声で彗太はふたたび現実に呼び戻された。彼女の印象は、父の昔の絵を見たときのそれに似ている。彗太は、自分がなぜつるの闇の部分に惹かれているのかがわからなかったが、きっと自分の中にも同じような部分があるからなのだと、今ふと気が付いた。 「泣きたい時は、泣いてもいいんだよ」 「え?」 「悲しい時は悲しいって言っていいんだって、千ちゃんが言ってた」 「千が・・・」 「そう言う自分は絶対に泣かないくせにね。そういうところ、摂津くんと一緒」 つるは手をのばして、涙など流れていないはずの彗太の頬を拭った。彼女の手も、やはり千と同じく氷のように冷たかった。その冷たさに、彗太は病院で父の死体に触れたときの温度を思い出した。
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