センター試験の連休に入った頃、アルバイト先のレストランから家に帰る途中、大通り沿いに歩いていた彗太の横で突然一台の自動車が止まった。 「摂津くん」 「あ、芦屋さん」 どこかで見たことのある外車だと思ったら、大和の幼馴染で出版社の担当編集者の芦屋だった。運転席の窓から頭を出して、彼は彗太を手招いた。 「今から帰られるところですか?」 「はい、バイトが終わったんで」 「ちょうどよかった。あなたに渡そうと思っていたものがあったんです」 そう言うと、芦屋は彗太に小さな紙封筒を手渡した。 「今週末からなのですが、私たちの出身校で卒業生の作品展をやるんです。そのチケットなので、もしお時間がよろしければ覗いてみてください」 「え、作品展って芸大の?いいんですか?俺がチケットもらって」 「いいんですよ。それから、このことはできれば大和には内緒で」 「?」 「大和に言うと嫌がりますから。それと、チケット二枚ありますので、どなたか一緒に誘ってみては」 それでは、と言うと、芦屋はふたたび車を走らせた。 部屋に帰ったあと、彗太は芦屋にもらった封筒を開けてチケットを見た。彼の言ったとおり中には二枚入っており、裏面に交通アクセスなども書いてあった。 「どうしようかな」 チケットをもらったのはいいのだが、ともに行く相手が思いつかなかった。彗太自身も芸術にあまり詳しいほうではないが、彼の周りの人間もそういった方面に興味があるとは思えない。別に一人で行ってもいいのだが、せっかくチケットを二枚もらったのに、それではなんだかもったいない気がした。週末に暇そうな相手として、まず祥司の名前が浮かんだが、すぐに却下した。悩んだ挙句、彗太はとりあえず隣の土居に今週末の都合を聞いてみることにした。
「はい?ああ、摂津くん、どうしたの」 まだ夜の八時過ぎだったが、少しうとうとしていたのか、部屋の中からは眠そうな顔をした土居が出てきた。 「悪い、起こした?」 「ううん。廊下じゃなんだから、入んなよ」 彼はドアを開けて彗太を招き入れた。今でこそ互いの部屋を行き来することも珍しくなくなったが、彗太が土居を訪ねることも土居が彗太を部屋の中に入れることも、一年前には考えられないことだった。人間変わるものだ、と思いながら、ソファーの上で彗太はコーヒーを淹れる土居の背中を見ていたが、変わったのは、そう思っている自分自身かもしれなかった。 「はい、熱いから気をつけて」 「さんきゅ」 「ミルクと砂糖はどうする?」 「砂糖はいいや、牛乳だけ」 紙パックから直接牛乳を注いで、それが黒いコーヒーと混ざるのを待った。土居は何も入れずに、まだ熱いそれを口で吹いて冷ましていた。 「で、どうしたの?」土居が再度彗太に尋ねた。 「土居くん、今週末用事ある?」 「今週?特に何も予定はないけど」 「あのさ、さっき知り合いから芸大の美術展のチケットもらったんだ。これなんだけど」 彗太はそれを隣に腰掛けた土居に見せた。彼はそれを受け取ると、さっと両面に目を通した。 「美術展か・・・」 「もし暇だったら、一緒に行かねーか?」 「ああ、うん・・・」 土居は少し迷っているように見えた。ひょっとして嫌なのだろうか、と彗太は思ったが、土居はそれをすぐに察したらしく、あわてて首を横に振った。 「別に、行きたくないんじゃないよ。ただ、俺じゃなくて千鶴ちゃん誘えばいいのに、って思って」 「へ?」 「こないだ購買で会った時、千鶴ちゃん、京都の美術館の特別展に行ったって言ってたよ。ポスター展って言ってたけど、絵とかも好きなんじゃないかな」 「へえ・・・」 彗太は、彼女が図書館で美術の本を借り出していたことを思い出した。そう言われてみれば、彼女は以前にも何度かそこで芸術関係の書物を読んでいた。 「彼女、最近少し変わった?」 ようやく冷めてきたコーヒーをすすりながら、土居は何気なくそう口にした。 「あいつが?変わった?」 「年明けぐらいからかな、急に女の子らしくなったというか・・・いや、元々すごく女の子らしい子だなと思うけど、でも、前はたまに男っぽいところがあったよね。俺だけかな、こんな変なこと思うの」 土居は笑ったが、彼の言葉は的を得ていた。彗太は何も答えることができなかった。 「摂津くんも最近何だか変だし、実を言うと俺たち、休み中に千鶴ちゃんと喧嘩でもしたのかなって思ってたんだ」 「あ・・・いや、喧嘩ってわけじゃ」 「なら誘えばいいのに」 「でも、あいつ来るかな、俺が誘って」 もしこれが千であったら、彗太も真っ先に彼を誘うのだが、相手がつるだと思うとなぜだか躊躇してしまった。携帯電話の番号もメールアドレスも知っているのに、千がいなくなってからは、その番号には一度も掛けていない。向こうも彗太の連絡先は知っているはずだが、もちろんメールの一通も寄こしたことはない。正直なところ、彗太はまだ彼女のことをよく知らなかった。 「やっぱり摂津くん変わったよ」 「俺が?どこが」 「千鶴ちゃんに接する態度。前は男同士みたいに仲が良かったのに、今は腫れ物に触れるみたいだ」 それから、土居は言い方がまずかったと思ったのか、ごめん、と一言謝った。まだ半分ほど中身の入ったマグカップをテーブルの上に置いて、土居は少しのあいだ沈黙した。彼は一対一になると意外にたくさん喋る方なのだが、今日は特に口数が多い。しばらくした後、ふたたびカップを手にとって土居が口を開いた。 「彼女、少し寂しそうだった」 「え?」 「このあいだ購買で少し話したとき、そう思ったんだ。実は俺、購買に用はなくて前を通りがかっただけだったんだけど、千鶴ちゃんがひとりで不安そうに立ってるのが見えたから、思わず声を掛けたんだ」 「・・・」 「なんとなくだけど、誰か捜してるのかな、って」 千だ、と彗太は思った。きっとつるは、消えてしまった自分の半身を捜しているのだ。かつて千が、雪の中でそうしていたように。 「一緒に行ってあげなよ。千鶴ちゃん、きっと喜ぶよ」 土居がそう強く勧めるので、結局チケットはそのままに彗太は自室に戻った。壁の時計を見ると、もう九時前になっていた。 (千) どうしてつるを置いていったんだ、と彗太のなかで新しい感情が芽生えた。彼女の隣にいるのは彼がふさわしい。自分ではない。自分はいつも彼の隣から彼女を見ていた。彼女もまた、千を挟んで彗太のことを見ていた。その間がぽっかりとなくなってしまって、彗太は彼女との距離の取り方がわからなくなってしまっていた。土居の言うように自分が千の場所に立っていいのか、いまだに確信が持てなかった。 (千、俺はどうすればいい?) 彗太は携帯電話の電話帳を開いた。千鶴の名前はない。つるの電話番号は、いまだに千の名前で登録されていた。彗太はほぼ無意識的に通話ボタンを押していた。 「・・・摂津くん?」 出たのはつるだった。どうしたの、という声に混じって、背景に自動車のエンジン音など雑音が聞こえる。どうやら彼女は今外にいるらしい。 「つる子か?」 「千ちゃんなら、今はいないよ」 「わかってる。つる子に用があるんだ」 「私に?」 「今日、今度芸大でやる美術展の入場券をもらったんだ。二枚あるから、ほしかったら一枚やるよ」 またやってしまった、と彗太は思った。なぜもっと素直に真っ直ぐ言えないのだろう。これでは勘違いされてしまう。一緒に行ってあげなよ、という土居の言葉が彗太の背中を押した。 「その、行き方とかわかんねーだろ。だから一緒に」 「摂津くんと?いつ?」 「今週末」 「うん、行く」 つるは意外にもあっさりと承諾した。彗太は何だか拍子抜けしてしまった。昼過ぎに駅で待ち合わせる約束をして、最後に彼女は「おやすみなさい」と言って電話を切った。 「あー・・・」 携帯電話を放り出して、彗太はベッドの上の枕に顔を埋めた。 「中学生か、俺は・・・」 少し冷たい枕が、火照った頬に心地よかった。いったいいつの間に、こんなふうに彼女を意識するようになったのだろう。彗太は小学生の頃の千鶴、そして千と出会う前のつると同じように、今のつるを見ることができなかった。この半年以上ずっと会っていなかったはずなのに、その間彗太は千を通して、彼女の内にある深い孤独を目にしてしまった。そして、自分は彼女のそこに強く惹かれている。 (父さん) 彗太は父の名を読んだ。頭に浮かんだのは千の顔だった。
|
|