一月も半ばを過ぎ、巷ではセンター試験が間近に迫っていた。一度浪人している彗太にとってはあまりいい思い出でもないのだが、テレビに映る受験生たちの姿を見ていると、数年前の自分を思い出して少し懐かしくなった。彗太は部屋の窓の外を見た。雨は降っていないものの、相変わらず空に厚い雲がかかっているせいで、もう昼近いというのに外はどんよりと暗い。週末の休みなので、食料や日用品などを買出しに行きたいのだが、寒くてなかなか部屋を出る気がしなかった。布団の中でテレビを見ながらだらだらしていると、突然、部屋の戸をドンドンと叩く音がした。 「誰だろ」 彗太はコーヒーカップを棚の上に置いて、ベッドから這い出した。どうせ祥司だろうと思って扉を開けたら、意外にも、そこに立っていたのは土居だった。 「摂津くん、みーちゃん知らない?」 ドアが開くなり、彼は明らかにあわてた様子で彗太にそう言った。 「みーちゃんて、あの猫の?」 彗太が尋ねると、土居は大きくうなずいた。 「さっき、部屋を換気しようと思って窓とドアを開けてたら、ちょっと目を離した隙にいなくなってて・・・」 「え、外に出ちゃった」 「たぶん。二階の廊下はもう捜したんだけど」 土居は廊下をきょろきょろと見渡したが、みーちゃんの姿はない。もちろん、彗太の部屋にも来ていない。 「どうしよう、大家さんに内緒で飼ってるから、ばれたら捨てに行かされたりして・・・」 というより土居が追い出されるのでは、と彗太は思ったが、結局一緒に一階に捜しに下りてみることにした。いずれにせよここの大家、つまり管理人は滅多に寮に来ないため、たとえ他の住人にみーちゃんの存在がばれたとしても、何とかうまくやり過ごせるだろう。それに、いちおう寮の玄関には鍵が掛かっている。だから少なくともまだ建物内にはいるはずだ。 「大丈夫、心配ないって」 「うん・・・」 ふたりが二階から階段を下りようとしたとき、ちょうど誰かが外から帰ってきた。 「うわっ、なんやこれ、かっわええなぁ!」 玄関の方から聞こえた聞き覚えのない声に、彗太と土居は顔を見合わせた。男の声だが、大和でも祥司でもない。階段の上からそっと玄関を覗くと、そこにはやはり見たことのない中年の大柄な男が立っていた。そのうしろには大和もいる。 「って、土居くん。あのおっさん、みーちゃん抱いてるぞ」 「え、嘘」 相手が黒い服を着ていたので最初は気が付かなかったのだが、よくよく見れば大きな手に黒猫、みーちゃんを抱えている。 「よーしよし、ええ子やな。大和、この子うちの子か?」 「いや・・・?ちゃうと思うけど」 いくつかある大きな荷物を玄関先の土間に下ろし、大和は息をついて答えた。 「あれ、摂ちゃんに土居くんやん。何しとんのそんなとこで」 「げっ、や、大和さん」 大和に見つかったので、ふたりが仕方なしに下におりると、みーちゃんを腕に抱きかかえた中年男と目が合った。年は四十代半ばぐらいだろうか、割と背の高い土居よりもさらに一回り大きく、そのうえ真冬だというのに真っ黒に日焼けしていたので、正確な年齢はよくわからなかった。彼はふたりを見ると、人のよさそうな笑顔でにかっと笑った。 「ふたりともここの住人かいな?」 「は、はい」 「ほんなら自己紹介せなあかんな!俺が大宮新やで、よろしゅうな」 「はあ」 「あー、おっちゃん、おっちゃん」大和が三人のあいだに割って入った。「この子らふたりとも、おっちゃんのこと全然知らんからな。ってことで紹介するわ、俺の伯父で、ここの大家です」 「そうそう、俺が『ニュー・ビッグ・パレス』の大家さんやで!」 大宮は満面の笑みでそう言うと、手に抱えたみーちゃんに、「なー」と同意を求めた。彗太は隣の土居を見やった。予想通り、彼も「よりによって」という顔をしている。彗太だって、こともあろうに大家に見つかるとは思っていなかった。 「おっちゃんな、これでもいちおうカメラマンで、年中ポルトガルとかスペインとかあのへんを行ったり来たりしとんねんけど、今日は仕事で久々に日本に帰ってきてん」 みーちゃんにでれでれになっている大宮に代わって、大和がふたりに説明した。 「おい大和、ちゃんと俺の代わりに管理人の仕事やっとったか?」 「はいはい。管理人代理、ちゃんとやっとったで」 大宮と大和に聞こえないように、彗太が小声で「知ってた?」と土居に訊くと、彼はぶんぶんと首を横に振った。 「それより、この猫どうしたんやろ。どっかから迷い込んできたんやろか。土居くん知っとる?」 「え、い、いえ、知りません」 「首輪してへんな、野良猫やろか。そのわりに毛並みがきれいやけど」 大和は伯父の手からみーちゃんを受け取ると、よしよしと頭を撫でた。彼も動物が好きらしい。 「なぁ大和、もし飼い主がおらんねんやったら、この子うちで飼わへんか?ええやろ?」 「うちって、この寮でか?かまへんも何も、あんたの寮やろ」 大和は伯父に答えた。それから、はらはらと成り行きを見守っていたふたりを見て言った。 「おっちゃんがこんなこと言うとるけど、ふたりはかまへん?アレルギーとか平気か?」 「大丈夫です!」 あまりに速い土居の返事に、大和は一瞬きょとんとしたが、すぐいつもの笑顔に戻って 「じゃあ決定な」と言った。 そんなわけで、大宮寮に新たな住人と猫一匹が増えることになった。
その晩、大宮寮、もといニュー・ビッグ・パレスでは、大家と猫の歓迎会という妙な飲み会が開かれた。土居も隠し事がなくなって安心したのか、みーちゃんを膝に乗せてはやくも二本目の熱燗に手をつけている。 「そうか、摂津くんは長崎の出身なんか」 「はい、二歳までは大阪だったんですけど」 彗太は大宮と一緒に飲んでいた。彼は甥っ子の大和と違ってあまり飲まないようなので、彗太もつられて今日は酒を控えた。ただ煙草は吸うのか、時々海外の銘柄の箱を胸ポケットから取り出してはまたしまうという動作を繰り返していた。彗太が訊いたところ、今は禁煙中らしい。 「そうか、長崎か・・・ええところやな」 「大宮さん、行かれたことあるんですか?」 「若い時分に、一回だけな。もう二十年以上前やけど、きれいなところやったわ」 大宮はその当時を思い返したのか、どこか遠い目をした。 「友達と一緒に行ったんやけど、そいつが体力のないやつでなぁ。長崎って坂が多いやろ。移動するの大変やん。せやのにそいつが眺めのいい高いところに行きたがるから、地図とにらめっこしてちょっとでも楽なルート探したり、歩かれへんくなったそいつを負ぶったり・・・大阪に帰る頃には俺の方がくたくたやったわ」 そう言って彼は笑った。やはり親戚だからだろうか、笑うと大和によく似ていた。 「確かに坂は、慣れてもきついっすね。俺の実家も急な坂の上にあって、小さいころはそこでよく遊んでたんですけど、高校生にもなると毎日上り下りが面倒くさくて、結局反対側の広い道路から、父のバイクで遠回りして通学してました」 「バイク通学か、かっこええなあ。ところで摂津くん、今いくつになるんや?」 「今二十一で、四月に二十二になります」 「そうか・・・」 大宮は彗太の顔をじっと見つめた。何か探るような、それでいてなぜか昔を懐かしむような目だった。 「あの、何か・・・?」 「いやいや、何でもあらへんよ。ほら、もう一杯飲むか?」 「あ、じゃあ、遠慮なく」 二杯目のビールを飲みながら、久々にひとに話したからだろうか、彗太は故郷の風景を思い起こした。思い出の中にある長崎は美しい。帰りたい、そう思う一方で、今は帰りたくないという、相反する思いが胸の中にあった。そこで待っている真実に目を向けることが怖かった。
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