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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第31回   Ambivalenz
 年が変わって少し暖かくなったのか、雪よりも雨が降ることのほうが多くなった。どうせ降るなら雪のほうがいいと思いつつ、大学図書館の二階の窓から、彗太は雨に濡れた中庭の景色を見下ろしていた。こうして見ると、黒や紺色など、案外みんな地味な傘ばかりを差している。ただでさえ空が暗くどんよりとしているのに、あんな色では気が滅入りそうだ、と彗太は思った。彼は試験勉強をする手を止めて、深くため息をついた。

 昨日の夜、つばさの父親から彗太の携帯に電話があった。あの件以降、八尾家から直接連絡がきたのはそれがはじめてだった。
 「その、先日は妻と娘がご迷惑をかけまして・・・」
 「いえ、そんな」
 ちょうど風呂上りだった彗太は、予期せぬ電話に少々驚きながら、タオルで髪の毛の水分を拭った。
 「家庭教師のほうも、事前に何も連絡せんくて、ほんまにすいません」
 「いや本当に、俺のことは気にしないでください。それより、お嬢さんは」
 「つばさは・・・」
 八尾はそこで言葉を詰まらせた。もとはといえば、彼女は母親と喧嘩して家をとび出してきたのだ。結局のところ、すぐ家に戻ることになったわけなのだが、その後何事もなかったのだろうか。
 「このあいだ、家族でよく話し合いまして」
 しばらくして八尾が答えた。
 「先生には申し訳ないんですけど、高校受験はもうやめよか、ってことになって」
 「えっ、高校には行かないんですか?」
 「あ、いえ、例の私学のことです。近所の公立高校なんですが、娘のやりたいようにやらせることにしました」
 「ああ、そうですか」
 彗太はなぜかほっとした。きっと、そのほうがよかったのだ。
 「まぁ、当然そっちの高校も試験はあるんで、今はそれに向けてがんばってます。なんや、そこの学校はバスケ部が強いらしくて。まだ受験してもおらへんのに、早く高校行きたい行きたいって毎日言うてます」
 八尾はさきほどよりも若干明るい声でそう言った。彗太もそれにつられて、思わず笑顔になった。元気そうでよかった、と心の底からそう思った。
 「それから、あの、妻も・・・摂津先生によろしく、と」
 八尾は声を改めて言った。
 「本人もほんまは直接謝りに行きたいんですけど、あの、色々事情があって、こんな形なんですが」
 「あ、はい。本当にお気になさらず」
 「それから、その、鶴見さんにも・・・」
 いまひとつはっきりしない物言いをする八尾だが、千鶴の名前が出てくると、彼はまた言葉を止めた。八尾が千鶴を知るはずはなかった。きっとつばさか、そうでなければ彼の妻が彼女の名前を教えたのであろうが、彗太はなんとなく、この男が以前から千鶴のことを知っているという確信があった。
 「・・・話しますか、千鶴と」
 「え?」
 「今、ここにいますよ」
 彗太は嘘をついた。もとより騙すつもりはなかったが、八尾がどんな反応を示すのかが見たかった。案の定、電話の向こうの彼は動揺しているようだった。返答を待ちながら、彗太は十年前の千鶴を思い出していた。何かに怯えた目。帰りたくない、彼女はそう言った。
 「・・・いえ、やめときます」
 しばらくして八尾が言った。
 「あの子も会いたくないやろうし、俺もあわせる顔がありません。俺からの電話やったってことも、できたら言わんといてあげてください」
 「・・・」
 「ただ、申し訳ないことをした、と・・・」
 それが彼の妻の行為に対してなのか、それとも自分自身の行為に対するものなのか、彗太には判別がつかなかった。だが、もう二度と会わないほうがいいのだと、彗太も思った。八尾はもう一度、懺悔するように深々と謝ってから電話を切った。

 図書館の閉館時間が近づいてきたので、彗太は必要な本を借り出して出口に向かった。真冬の夜八時ということもあって、すでに中はがらんとしていた。雨はまだ止んでおらず、この調子だと明日の朝まで続きそうだった。玄関内側に備え付けられたステンレスの傘立てに、彗太は自分のビニール傘を探した。雨に濡れて冷たそうな格子に目を走らせると、白いプラスチックの取っ手がふたつ目に入った。千の傘だ、と彗太は直感した。柄の部分にはやはり、漢字で「千」と書いて丸で囲ってある。書いた場所が場所のためか、黒のマジックで書かれたそれは擦れて消えかけていた。自分の傘と千の傘、二本のビニール傘を手に、彗太は図書館の玄関前で立ち止まった。
 「今日は間違えないでね」
 彗太がぎょっとして振り向くと、きっと本が入っているのだろう、重そうな袋をひとつ提げた『千鶴』が立っていた。彼女が『彼』なのか『彼女』なのか、彗太は少しの間迷ったが、服装と左手首にした腕時計から、つるの方だと判断した。
 「間違えないように確認してたんだよ、ほら」
 彗太は千の傘をつるに渡した。
 「それより、この持ち手のところ、『千』の字が消えかけてるぞ。あとで書き直しとけよ」
 「ゆきの字?」
 つるは首をひねった。
 「ああ、これ…確かに千ちゃんの『千』だけど、これは千鶴の『千』だよ。千羽の鶴って書いて『千鶴』だから」
 「え、でもお前・・・」
 確か、彼女は以前、千円札の『千』と書いて『ゆき』と読むのだと言った。その時、変な説明の仕方をするものだと彗太は思ったのだ。
 「だって、鶴の字は画数が多いから、こういうところには書きにくいんだもん。これだって、最後の一角が歪んじゃって、片仮名の『チ』みたいに見えるし」
 つるはやや不満そうに唇を尖らせた。その表情がいつもより妙に愛らしかったので、彗太は思わずどきりとした。
 別にどちらから何を言うでもなく、ふたりはともに図書館をあとにした。真っ暗な中庭にはもうほとんど人がいなかった。この時間になると正門は閉められてしまうので、グラウンドの脇を通り、裏の通用門を目指して歩いた。水溜りを避けながら、明かりの消えた学生会館の前を横切り、合宿所の前に来たところでつるは足を止めた。
 「ん、どうした」
 「え?別に・・・バイバイ」
 一緒に帰っているつもりはなかったのか、つるは思い出したように隣の彗太に手を振った。可愛くないな、と思ったが、結局彗太はその場に踏みとどまった。
 「なんだ、合宿所まだ残ってるじゃねーか」
 冬休み中に解体されるはずだったはずのそれは、工事が遅れているのだろう、いまだに周囲を青いビニールシートで覆われていた。それでも一部は取り壊されたのか、上部に屋根のない鉄筋の一部が見えた。
 「千ちゃんと連絡がとれないの」
 つるがふと、傘を叩く雨音に掻き消されそうなほど小さな声で、かつて合宿所と呼ばれたコンクリートの塊を見つめながら言った。
 「連絡って、普段はどうしてるんだよ」
 「どう、って?」
 「メールとか電話とかできるのか?」
 彗太は至極まっとうな質問をしたつもりだが、つるは、きょとんとした表情で彼を見つめた。
 「・・・そうだね、いつもは携帯にメールくれたりする。私がちょっと落ち込んでるときなんかは、呼べばその晩には飛んできてくれるんだけど」
 「ふうん」
 嫌なことがあると夢の中で入れ替わる、という千の言葉を彗太は思い出した。つるは本気で、友達のことをしゃべっているかのような口ぶりだった。
 「それってもしかして、俺のせい?」
 彗太がそう言うと、つるは透明なビニール傘の下から上目遣いに彼を見た。彗太は妙な気持ちになった。ここにいる『彼女』は千とまったく同じ顔をしているのに、『彼』ではない。そしてその『彼』は、なぜか自分の父と同じ顔をしている。
 「摂津くんのせいなのかどうか、私にはわからないけど」
 「うん」
 「でも千ちゃんも、摂津くんのこと好きなんだと思うよ。友達として、だけど」
 「うん・・・」
 なぜか、彗太は泣きそうになった。つばさが言ったように、自分は彼に恋をしていたのだろうか。満たされた幸福感と心の高揚が恋の定義だとするならば、ひょっとしてそうだったのかもしれない。
 「それか、私のせいかも」
 「え?」
 雨の中、つるはふたたび合宿所のあったほうに目線を移した。
 「私がわがままで、誰の役にも立てなくて、人としてここにいる意味がないから、千ちゃんもいい加減、愛想尽かしたのかもしれない」
 「つる子」
 すると、つるは目を丸くして彗太の顔を見た。
 「私のこと『つる子』って呼ぶの、千ちゃんだけなんだけど」
 「あ、悪い。嫌だったか?」
 「ううん・・・」
 つるはそのままうつむいた。
 「摂津くんは、千ちゃんに似てるね」
 「俺が?」
 「ほんとにちょっとだけだけど」
 つるはほんの少しだけ笑った。彼女の笑顔を見るのは、本当に数ヶ月ぶりだった。
 「そう言うお前は、昔から全然変わってないな」
 「そうかな。少しは変わったつもりなんだけど」
 「いーや、十年前のまんまだ」
 彗太は手袋をしたまま、指でつるの額を軽く押した。実際、彼女は千鶴よりも情緒面において幼いと彗太は感じていた。つるは千という小さな殻の中で、歪んでいびつな形に成長してしまった。だが、彼女には千しかいない。彼だけが彼女を肯定しうる存在なのだろう。だが、千という自己を絶対に否定しない存在を手に入れた一方で、同時につるに植えつけられた強い自己否定が、彼と彼女自身を苦しめている。
 「・・・ごめんね」
 「ん?」
 「もうずっと前だけど、私、摂津くんにひどいこと言った。あなたのことなんか知らないから、もう話しかけるなって」
 「ああ」
 彗太はあのコンビニでの一件を思い出した。去年の梅雨の頃だから、もうかなり前のことになる。
 「あのお祭りの日、お父さんが倒れたんだって、あとから千ちゃんに聞いたんだけど、なんだか謝りづらくって・・・ごめんなさい」
 「もういいって。俺も行ってやれなくてごめんな」
 彗太はようやく、自分を待っている幼い千鶴を迎えに来られた気がした。
 「寒いな、そろそろ帰ろう」
 ふたりは横に並んで歩き出した。傘のぶんだけ距離は離れている。彗太はずいぶんと重そうなつるの袋を持ってやった。最初、彼女は遠慮してなかなか渡そうとしなかったが、彗太が「今、身体鍛えてるから」と言うのを聞いて、ようやく彼にそれを譲った。片手に傘を持ちながら、もう一方の腕で雨に濡れないようにそれを抱えていると、これがかなり重たい。
 「ごめん、やっぱり重かった・・・?」
 「なっ、ばーか、このぐらい平気だ。っていうか、この中いったい何が入ってるんだよ」
 「家から持ってきた独和辞典と和独辞典と英英辞典と、それからさっき図書館で借りた美術展の図録」
 「・・・誕生日プレゼントは電子辞書にしてもらえよ」
 彗太の言葉に、そうだね、とつるは笑った。


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