冬学期の後半はあわただしくはじまる。正月休みが明けるとすぐに、センター試験や入学試験で授業が休講になるため、学期末試験までは実質残り一ヶ月ほどしかなかった。彗太は午前の授業が終わったあと、購買でたまたま出くわした豊中と一緒に、正門の方へ中庭を横切って歩いていた。 「せやけど、びっくりしたよなぁ。ペラ子が急に家庭教師やめてまうなんて。いったいどないしたんやろ」 「さぁ・・・」 一昨日彗太のところにも、登録している家庭教師派遣会社から電話で同様の連絡があった。あの日以降、いずれそうなるような気がしていたので、突然の知らせにもそれほど驚くことはなかった。けれど今後あの家族がどうなるのか、他人事ながらも彗太は少しだけ心配だった。 「でもなぁ、高校受験どないすんねんやろな。というか、俺も新しいバイト探さなあかんわ…。摂津は?」 「俺はとりあえず、今学期が終わってからにする。今忙しいんだ」 八尾家のことが気にかかってはいたが、彗太は今は自分のことで手一杯だった。あれ以来、実家の母親からは一向に連絡がない。彗太自身も、そのことについてはなるべく考えないようにしていた。 「あ、ちょっと掲示板見てきてええ?」 豊中は、中庭の隅の一角へ小走りに走った。文学部の掲示板は薬学部と違い屋外にある。今日になって学期末試験の日程がいくつか貼り出されたので、その前にメモや携帯電話を手にした学生たちが群がっていた。彗太も豊中のあとについて行った。 「掲示板が外だと大変だな。雨の日とか特に」 「そうそう、そうやねん。冬場はこのとおり寒いし・・・あ、鶴見さんやん!あけましておめでとう!」 豊中は、人ごみのなかから見つけ出したその背中を、片方の手のひらでばしんと叩いた。突然のことで驚いたのか、千は小さく悲鳴のような声を上げた。 「わ、ご、ごめんなぁ。痛かった?」 「ったく、ばか」 彗太は、自分よりも少し背の低い豊中の頭を小突いた。彼は明るく気のいい人物なのだが、少し気安すぎるというか、男女問わず少々スキンシップ過剰なところがあった。彗太ですらしばしば肩や手を触られたりするが、当の本人にはまったく悪気がないらしい。とはいっても、休み明け早々同級生に冷たい眼差しを浴びせられ、さすがの彼も少ししゅんとなり、「掲示見てくるわ」と言って、そそくさとその場を離れた。 「おはよ。豊中のやつが、急に悪かったな」 面と向かい合って千の顔を見ると、この間の夜のことが思い出されて、彗太は途端に照れくさくなった。あのあと彗太は看護師に呼ばれて、それ以上ろくに話もしないまますぐに帰ってしまった。 「ええと…身体のほうはもういいのか?」 千は答えなかった。ただ、その黒い目でじっと彗太の顔を見つめている。今日は珍しく、彗太が以前あげた赤いチェックのマフラーをコートの上から軽く巻いていた。 「確か、昨日か一昨日退院したんだよな。検査入院とか言ってたけど、大丈夫だったか?ごめんな、俺忙しくて、退院の時迎えにいけなくて」 「別に、ひとりで大丈夫だから」 「またお前はそういうこと言う。あのな、疲れてる時はそう言っていいんだぞ」 「・・・」 「結局成人式にも行ってないんだろ。まあ、あんなことがあった後だから仕方ないけど、お母さんは楽しみにしてたんじゃないか?千鶴は一人娘なんだし、こんどの休みに振袖だけでも着てやったら?」 知ったような口をきいているが、実際のところ彗太は、鶴見家についてはほとんど何も知らなかった。ただ、十年前の当時、母親の話はそれなりにしていた千鶴が、一方の父親については何ひとつ語らなかったことが、子どもごころにも強く印象に残っていた。 「あ、そうだ千、今度・・・」 「・・・千ちゃんなら、今日は来ないよ」 「は?」 「千ちゃん、びっくりしたんだと思う。だって、友達だと思ってた人に、それも同性の友達に、いきなり・・・」 『彼女』はうつむきながら、気まずそうに小さな声で「見るつもりはなかったんだけど」とつぶやいた。 「え・・・?」 「とにかく、千ちゃん、今日はいないから。じゃあね」 そう言い残し立ち去っていく『彼女』のコートの下から、プリーツスカートの黒い裾がひらりと覗いた。いつもなら着ない服、少し高い声、それから『千ちゃん』。離れていく『彼女』の背中を見つめながら、彗太は、掲示板前の広場でひとり呆然と固まっていた。 「摂津おまたせー。あれ、鶴見さんもう行ってしもうたんかいな。っていうかどうしたん?ぼーっとして」 「あ、ああ・・・」 あまりに唐突な出来事に、彗太はまったく思考が追いつかなかった。まさか、こんなに何の前触れもなく『つる』が帰ってくるとは思いもしなかった。
「摂津くん、またどうかしたのかな」 土居は、さんざん酔っ払ったあげく、談話室の畳の上で眠り込んでしまった隣人に毛布を掛けた。泉も座っていた座布団を半分に折って、枕がわりに彼の頭の下に無理やり押し込んだ。 「また千鶴ちゃんのことで何かあったんちゃうか?前もそれで自棄酒あおって、泣くわ喚くわで大変やったやん」 散らかった空き缶などを片付けながら、祥司が言った。 「摂津くんてさ、普段はわりと大人しいけど、お酒入るとちょっと人が変わるよな。日頃の鬱憤が溜まっとるんかねぇ」 泉は笑いながら、眠っている彗太の頬を指で突いた。 「きっと疲れてはるんですよ。彗太さん、いつも真面目でしっかりしてはりますから」 ジョナの言葉に、祥司がうんうんとうなずいた。 「こいつ意外に勉強もちゃんとしとんのに、バイトもふたつ掛け持ちしとるもんなぁ。別にその金で遊んどるっちゅーわけでもなさそうやけど」 「お父さんおりはらへんねんやろ?実家のお母さんも大事にしとるみたいやし、ほんまええ孝行息子やんなぁ。婿にほしいわ」 「それは無理やろ」 「何でよー」 「まあまあ、おふたりとも・・・」 「でも、その家庭教師のバイト、クビになったんじゃなかったっけ」 土居がそう言うと、誰もそのことを知らなかったのか、三人はやや驚いた様子で彼を見た。 「摂津くん、さっきだってだいぶ飲んでたけど、いつもは酔っ払うとべらべら思ってること全部しゃべっちゃうのが、今日は珍しくほとんど何も言わなかったでしょ。俺たちが帰省してるあいだに何かあったのかな・・・」 「まぁまぁ、ええやん」 同じく談話室で晩酌をしていた大和が、若い四人に割って入った。 「ジョナの言うように、ちょっと疲れとるんやろ。摂ちゃん、内に溜め込むタイプやからな。今日はそっと寝かしといたろ」 大和は彗太の頭を軽く撫でてから、彼が懐に抱いていた焼酎の一升瓶を抜き取った。
その晩、彗太は妙な夢を見た。 どこかの島の岸辺だった。そこを、中学生の頃の自分と、同じ中学の制服を着た千鶴、それから千という三人で歩いていた。千鶴は今よりも少し幼くて、昔のように、彗太のことを「摂ちゃん」とあだ名で呼んでいた。彼女が『つる』なのか『千鶴』なのか、彗太にはわからなかったが、傍らを歩く千が彼女を「つる子」と呼ぶので、彗太も彼にならって、夢の中で彼女をそう呼んだ。潮気の強い浜辺には、彗太たちのほかには誰もいなかった。いつかここに来たことがある、と彗太は思った。それが小学生の時に遠足で訪れた伊王島だと気付くのに、そう時間はかからなかった。 (何でこんなところにいるんだ) 中学生の彗太ではない、どこかにいる現在の彗太が自分自身に問うた。あれ以来、伊王島には一度も訪れていない。それなのに、夢の中の島の風景や肌を撫でる風、さざ波の音、潮のにおいは、今その場に立っているかのように生々しく五感に働きかけた。そんな彗太の思いとは関係なく、昔の彗太は三人の先頭を切って島を案内していた。そのあとに千鶴が続く。一番後ろで、千がふたりの保護者のように彗太と千鶴を見守っていた。ひとりだけ制服姿でないその容姿は、よくよく見れば、彗太の記憶の中にあるまだ若い頃の父の姿によく似ていた。 (嘘だろ) いや、似ているどころではない。見れば見るほど、それは父、守そのものだった。 (やめてくれよ) 前はこんなふうではなかった。かつて彗太が頭に思い描いた千の姿は、守と少し似てはいたかもしれないが、少なくとも別人のそれだった。だが今、彼は父とまったく同じ顔をして、自分たちの傍らで微笑を浮かべている。彗太も千鶴も、ちっともそのことに気付かずに笑っている。それを彗太は昔の自分に伝えようとしたが、なぜか声を出すことができなかった。呼吸が苦しい。彼は夢の中でめまいがした。 彼らは岬の展望台にたどり着いた。やはりそこにも自分たちより他に人の姿はなかった。三人はそこで、ともに海に沈む夕日を眺めていた。彼らがお互いに何を話しているのか、彗太にはもう聞こえなかった。風も止んだ。きっともうすぐ目が覚めるのだと、彗太は漠然と思った。 (夜が来る) そう思った瞬間、彗太は唐突に目が覚めた。誰かがやってくれたのだろう、談話室の畳の上で、彼はサナギのように毛布で全身をぐるぐる巻きにされていた。おかげで寒くはなかったが、どうりで夢の中でも息苦しかったはずだ。彗太は重い身体を起こした。カーテンを開けると、ビルの間からのぞく東の空が赤く染まりはじめていた。
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