中学に入学して間もないある日のこと、彗太は学校から帰ってくるなり、居間のソファーで休んでいた父に詰め寄った。 「父さん、俺の名前『ほうき』って意味だって、本当なの」 「へ?」 「だから、『彗太』って『ほうき』なのか?」 彗太は鞄も置かずに、ダイニング・キッチンの隅に立て掛けてある箒とちりとりを持ってきた。 「今日国語の先生に、名前を『慧太』って読み間違えられたんだ。で、あとで聞いたら、『彗』は『ほうき』って意味だって・・・」 守は目を二、三度ぱちくりさせてから、今度は腹を抱えて大笑いした。 「あはは!箒かぁ、確かにそうだね」 「まじかよ!っていうか笑うなぁ!掃除の時間にみんなにばかにされたんだぞ!」 ごめんごめん、と守はソファーから体を起こした。 「確かに、彗太の彗の字は掃除に使う箒って意味もあるけど、彗太の名前は、別にそこから取ったわけじゃないよ」 「じゃあ何で?」 「彗太の彗は、彗星の彗。太陽系の惑星じゃなくて、ハレー彗星とかドナティ彗星とか、飛んでくるほうね」 守はその場にあったスケッチブックと鉛筆を手に取った。白い画用紙の上にさらさらと夜空が描かれていく。そのなかに、白く長い尾ひれを持った天体がひとつあった。 「・・・どうして彗星なの?」 彗太もソファーの隅に腰を下ろし、そこに身を横たえている父に尋ねた。彼はふと、鉛筆を持つ手を止めた。 「それは…」 「それは?」 「そうだなぁ、なんとなく」 「えぇ?」 守の曖昧な返事に、彗太は拍子抜けしてしまった。 「うーん・・・困ったな。いつか、彗太が大人になったら教えるよ。だから今は内緒」 彼は困ったように笑った。もう中学生なのに、と彗太は思ったが、あえてそれ以上は追求しなかった。守はスケッチブックを閉じた。 「それより、中学校はどう?楽しいかい?」 「うん、まあまあ。同じ小学校から来てるやつが多いから、髪の色のこともあんまり注意されないし」 彗太は、母親譲りの明るい栗色の髪を指で示した。 「校則とかはめんどくさいけど、うちのクラスはみんな仲いいよ。俺さ、学級委員長なんだぜ」 「へぇ、すごいね」 「へへ」 彗太は腕の丈が余っている上着を脱いだ。これから大きくなるだろうと、文野があえて大きめのものを選んだのだ。ぶかぶかとはいえ、そのブレザーの制服を着ていると、自分がとても大人びたように感じられた。首元に結んだネクタイにはまだ慣れないが、格好いいものだと彼は思っていた。 「それとな、今、サッカー部に入ろうか化学部に入ろうか悩んでるんだ。北浜はもうサッカー部に決めたんだけどさ、化学部も面白そうなんだよ」 「うんうん」 「そういえば、父さんは中学のとき何部だったの?やっぱ美術部?」 「ピンポン、正解」 守は笑った。 「お父さんは彗太と違って、スポーツはてんでだめだったから。でも、美術部は女の子ばっかりで、男子部員は少し肩身が狭かったなぁ」 その当時を思い出したのか、守は懐かしそうに目を細めた。 「それで、高校も美術部?」 実を言うと、父の十代の頃やそれ以前の話はこれまでほとんど聞いたことがなかったので、彗太は興味津々になって身を乗り出した。 「高校は・・・うーん、一応美術部員ではあったけど。でも、あんまりちゃんと行ってなかったなぁ。幽霊部員だったよ」 「ふうん」 「芸大に進学するかどうかも、その時は少し悩んだんだけどね」 そう言った父の表情に、一瞬、暗い陰が落ちた。 「でも、今は行ってよかったと思ってるよ」 居間は、ベランダから注ぐ春のうららかな日差しで暖かかった。彗太はワイシャツの腕を捲った。 「大学かぁ」 ネクタイを緩めながら彼は言った。 「まだまだ先だけど、俺はどうしようかな」 「ゆっくり考えればいいよ。時間はたっぷりあるんだから」 「うん」 「彗太のしたいことをすればいい。きっとお母さんもそう言うよ」 「じゃあ、サッカー選手か宇宙飛行士」 「宇宙飛行士?」 突然出てきた単語に、守は目を丸めた。 「サッカー選手は前に聞いたことあるけど・・・何で宇宙飛行士?」 「だって、俺の名前『彗星』なんだろ」 「ああ」 「だったら、向いてるかなって」 彗太は無邪気に笑った。この頃はまだ、なりたいものにいつかなれるのだと素直に思っていた。世界は毎日広がっていくものであって、そこに自分ではどうしようもない不条理さがあることなど、彗太は考えたこともなかった。
それから二年後、自分の名前の由来を父の口から聞くことのないまま、その機会は永遠に失われてしまった。父にとっての彗星の意味を、彗太は大人になった今も知らない。
|
|