病院の待合室の時計が八時を回った。それをちらりと見て、芦屋はコートを手に取り、革張りのベンチから腰を上げた。 「すみませんが、私はそろそろ」 「あ、はい。どうもありがとうございました」 彗太も立ち上がって、彼に頭を下げた。 「・・・大丈夫ですか」 「え?」 「あなたも怪我されてるでしょう、手のところ」 芦屋は、包帯が巻かれた彗太の左手の甲を、痛々しそうな表情で見た。 「詳しい事情はわかりませんが、あまり無理なさらないように」 芦屋が去った後、彗太は静かなロビーでひとりきりになった。耳鳴りがする。時折、夜勤の看護師が急ぎ足で廊下を通り過ぎていく足音が聞こえた。 あのあと、大和が電話で呼んだ芦屋の車で、千は近くの総合病院に運ばれた。彗太はその場を大和に任せ、一緒に車に乗り込んで千に付き添った。病院に着いて、つばさの母と揉みあった時に引っ掻かれた手の傷の治療を受けてから、彗太はかれこれ二時間近くロビーで千を待っていた。 (千) さきほど大和から、芦屋の携帯に電話が掛かってきて、つばさの父親が彼女らを連れて帰ったということを聞いた。彗太はこの件を大事にしたくなかったので、病院で事情を尋ねられても、すべて「知らない」で通した。指を組んだ手の傷が、むずむずと痛痒い。千の容態はどうなっているのだろう。彗太はいらいらと時計の針を見た。芦屋が帰ってから、まだ十五分しか経っていなかった。 (父さん) ふと父のことが頭に浮かんだ。非常灯の緑の明かりと薬品のにおいで、昔の記憶が呼び起こされたのだ。こうやってロビーで守を待つのは何度目だろう。自分はいったい何度、こうやって指を組んで神に祈ったのだろう。そもそも神などいるのだろうか。信じてもいないのに救いを求めている自分に気付くたび、彗太はそんな自分が馬鹿らしくなった。都合よく願いを叶えてくれる存在を神と呼ぶならば、そんなものは存在しない。 「鶴見さん」 どこか遠くで、千鶴の名前を呼ぶ声がした。誰だろう。千鶴がそこにいるのなら、彗太が教えてほしいくらいだった。 「鶴見さん!」 「・・・はっ?」 突然肩を叩かれて、彗太は伏せていた面を上げた。見上げると、目の前に若い女の看護師が立っていた。 「もう、しっかりしてくださいよ。妹さんのことで先生からお話があるので、すぐに来てください」 「は、はい」 彼女のあとについて診察室に行くと、そこに千の姿はなく、五十代ぐらいの男性医師がカルテを手に椅子に座っていた。 「ああ、お兄さん。どうぞ座ってください」 彼はそう言って、彗太に席を勧めた。彗太が怪我の治療を受けているあいだ、千の診察の手続きをしたのは芦屋だが、彼はどうも自分たちのことを兄妹だと説明したらしい。 「それで、妹さん、千鶴さんの容態なんですがね」 医師は言った。 「発作のほうもだいぶ落ち着いて、今は病室で静かに眠ってはります。首の怪我のほうも、しばらく痕が残るかもしれませんが、たいしたことないので大丈夫です。ただ・・・」 「ただ?」彗太は前のめりになった。 「なに、そんな心配そうな顔せんでも大丈夫。ちょっと一日検査入院させましょうってことだけなんで」 「そ、そうですか・・・」 「明後日には退院できますよ」 それからもうしばらく医師と話したあと、彗太は先程の看護師と一緒に、診察室を後にした。 「妹さんに会われはります?」 「いいんですか」 「もう面会時間過ぎてますから、少しだけですけど。でも、寝てはりますから、起こさんといてあげてくださいね」 そう言って、彼女は同じ階の小さな個室に彗太を案内した。部屋の電気は消えていて、窓からカーテン越しに注ぐ街の明かりで中は照らされていた。彗太は物音を立てないように、そっと病室の戸を閉めた。病室の中は、廊下よりも少しだけ涼しかった。窓際にあるベッドに近づくと、そこには千が目を閉じて仰向けに横たわっていた。 「あ・・・」 彗太は一瞬、その場に立ったまま硬直した。ベッドに横たわる千の姿は、まるで死んでいるように見えた。忘れかけていた記憶が呼び起こされそうになった。彗太は恐るおそる、彼の顔に自分のそれを近づけた。耳元でかすかに聞こえる寝息に、彗太は安堵のため息をついた。 「びっくりさせんなよな」 彗太は包帯をしていない右手で千の頬に触れた。まだ温かい。まだ生きている。まだ、死んではいない。 「はは」 ばかだな、と彼は思った。自分たちが死ぬわけがない。千の頬を撫でながら、なぜか、目から涙がこぼれた。 「ん・・・」 その時、千のまつげがかすかに動いた。彼は閉じていたまぶたをゆっくりと開くと、虚ろな目で彗太をとらえた。 「彗太・・・」 「千、大丈夫か」 青白い街の明かりに照らされて、千は薄く笑った。よく見ると、首筋に指の形をした痣と、爪を立てたような痕がいくつも残っていた。 「うん。さっき注射打ってもらって、だいぶ楽になった」 見ると、彼の左腕には小さく注射針の痕があった。彗太は腕を伸ばしてその手を取った。 「彗太、その手、どうしたの」 「何でもない、大丈夫だ」 「・・・泣いてるの?」 「嬉しいんだ」 「嬉しい?」 彗太は千の手を取ったまま、ベッドに上半身を寄り掛からせた。 「・・・彗太?」 幼い頃のように、その腕で自分を抱きしめてほしかった。はじめてひとりで小学校に行った日、帰り道に坂道で転んで泣きながら帰ってきた彗太を、父は笑顔で迎えて胸の中であやしてくれた。サッカーの引退試合に負けた日、彗太が悔しくて悔しくてひとりで泣いていると、彼は何も言わず、大きな手で彗太の頭を撫でてくれた。難産だった門馬の産声が聞こえたときは、分娩室の前で歓喜の声をあげながら、ともに抱きしめあった。 「彗太・・・どうしたの?」 記憶と現実の狭間で、彗太は救いを求めていた。六年前のあの日、半分置き去りにされた自分を救えるのは、ここにいる「彼」だけなのだと思った。彼だけが、自分をあの頃に連れ戻してくれる。彗太は涙に濡れた頬をさらに近づけた。 「す・・・」 「父さん」 唇が触れる直前、そのあいだから漏れた息に生きている喜びを感じながら、自分の中で何かが音を立てて崩壊していくのを彗太は感じ取っていた。
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