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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第27回   トラウマ
 新年になってラップトップを開いてみると、大学の友人や故郷の同級生、実家に帰省している大宮寮の住人たちから年賀状メールが届いていた。
 『新年あけましておめでとう 今年もよろしく 土居大樹』
 文面はいたって簡潔だったが、土居はデジタルカメラで取った写真を一枚添付していた。その中には、実家の富山の風景と餅つきををする彼の家族、それから一緒に連れて帰ったらしい猫のみーちゃんの姿も写っていた。雪が積もって真っ白になった庭先で、父親がついた餅を母や祖母たちと一緒に丸める土居を、みーちゃんがその足元でじっと見つめている。パソコンの前で、彗太は思わず笑みがこぼれた。
 一階にある郵便ポストにも、何枚か年賀はがきが入っていた。見ると、小学校の担任教師からだった。卒業してもう十年近く経つが、今でも彗太は彼らと年賀状の交換をしている。玄関ポストの前で、懐かしい気持ちではがきを読んでいると、台所から大和が声を掛けた。
 「摂ちゃーん、甘酒つくったんやけど、飲むか?」
 「あ、飲む」
 正月三が日は、バイト以外特にすることもなかったので、彗太は大和とふたりで家でだらだらしていた。時折芦屋がやって来て三人になっては、彼らの子どもの頃の話などを聞いた。二人とも奈良の生駒市出身の幼馴染で、大学も同じ大阪の芸大に通っていたらしい。
 「この人、今でこそこんなんですけど、昔はほんま気難しくてみんな大変だったんですよ」
 「あーもう、ヒロ。摂ちゃんに変なこと言わんといてぇや」
 普段は標準語だが、気を抜くと一部関西弁が出てしまう芦屋に、大和が恥ずかしそうに返した。たまに仕事のことでもめてはいるが、二十数年来の長い付き合いゆえか、なんだかんだ言いつつ仲はいいようだった。普段飄々としている大和も、幼馴染の前では本来の性質とでもいえる面を覗かせていた。彗太はそんなふたりが羨ましかった。
 
 三が日を過ぎると、世の中はふたたび通常どおり動き出す。彗太は毎年この時期になると、年のはじめであるにもかかわらず、何かの終わりに近づいているような感覚に陥る。事実、短い冬休みはもうすぐ終わろうとしていた。天気がよかったので窓を開けて、年末にとくに掃除も何もしなかった部屋を片付けていると、机の上に置いていた携帯電話が鳴った。誰だろう、と思いディスプレイを見ると、長崎の実家からだった。
 「もしもし、母さん?」
 少し声がうわずった。そういえば、年が明けてから実家に電話するのをすっかり忘れていた。彗太は文野が答えるのを待った。
 「あ、彗太?元気?ごめんね、急に電話して。今忙しくない?」
文野は尋ねた。珍しいな、と彗太は思った。いつもなら真っ先に「何で電話してこないの」と言われるはずなのだが、今日はそれがない。彗太は掃除機を壁に立て掛けて、受話器を持ったままベッドの上に座った。
 「あけましておめでとう。そっちは元気か?」
 「ああ、うん・・・」
 文野は少しのあいだ黙り込んだ。彗太は少し妙に思ったが、かまわず自分のほうから話を進めた。
 「そうそう、小学校の先生たちから年賀状来てたよ。小四の時の担任の長居先生、今佐世保の小学校にいるんだって」
 「ああ、そうなの」
 「あとさ、母さん北浜って覚えてる?保育園から一緒だったやつ。あいつ、来年教育実習で俺らの小学校に行くんだってさ。去年成人式で会ったけど、先生になるなんて一言も言ってなかったから、びっくりするよな」
 「うん」
 「門馬は?今あいつ何してんの?」文野の反応が乏しいので、彗太は弟の話を振ってみた。「もうすぐ学校はじまるだろ。あいつ、ちゃんと宿題してる?」
 「彗太、ちょっと話があるの」文野が改まった様子で切り出した。
 「話?」
 「そう、大事な話。電話で悪いんだけど、ちゃんと聞いてね」
 そう言うと、文野は一呼吸置いてから静かに言った。
 「今度、お母さん再婚します」
 「・・・は?」
 一瞬、彗太は母親の言葉がまるで理解できなかった。何かの聞き間違いだろう、そう思った。
 「河内先生、わかるわよね。門馬の小学校の担任の先生。あの人」
 まだ理解に達していない息子をよそに、文野は話を続けた。
 「お正月に先生のご実家、鹿児島なんだけど、そこに門馬と一緒にお邪魔して、ご両親ともお話してきたから。ええと、それから・・・」
 何から話せばいいか、彼女が頭を悩ませているあいだに、彗太にも段々と状況が理解されてきた。前からそんな予感はしていたのだ。
 「いつ入籍するとか、ううん、そもそも入籍するのかすらまだ決まってないんだけど、でも、一緒に暮らすことにはなると思うから」
 文野はなんとなく言いづらそうにしている。彗太はただ、黙ってそれを聞いていた。
 「彗太、聞いてるの?」
 「え?あ、ああ」
 ちゃんと聞いているし、状況も把握していた。母が再婚する。相手は弟の学校の教師で、もう同居するところまで話が進んでいる――ここまでわかっているのに、なぜか口からは言うべき言葉が出てこなかった。いつかこんな日がくることはわかっていた。そうしたら、ちゃんと祝福するつもりだった。なのに、「おめでとう」の一言すら出てこない。何かがおかしい、そう思った。釈然としないのだ。
 「・・・それでね、先生今、市内のマンションに一人で暮らしてらっしゃるんだけど」母は続けた。「門馬も転校する必要ないし、そっちのほうが交通の便もいいから、今度そっちに引っ越そうかって話になってるの」
 「誰が?」
 「だから、お母さんと門馬がよ。彗太も、学校の書類とか色々書き換えなくちゃいけなくて大変でしょうけど、大丈夫よね」
 いったい何が大丈夫だというのだろう、と彗太は思った。
 「たぶん、春休みのうちに引っ越すことになるから、今度こっちに帰って来るときは今の家じゃないかもしれないけど・・・」
 「いやだ」
 彗太はそう言うなり、電話を切った。あの家を離れるのだけは嫌だった。
 (引っ越すとか、何言ってんだよ)
 こんなのおかしい、と彗太は思った。あの家にはまだ、守が住んでいるのに。彗太は棚にしまった父の絵を引っ張り出した。
 (父さん)
 頭の中が煮立ったように熱い。千に会わなければ、彗太は唐突にそう思った。今すぐ彼に会いたくて、彗太はベッドの上に放り出した携帯電話をふたたび手に取った。そのとき、彗太の部屋の呼び鈴が鳴った。
 「誰だよ、こんな時に」
 彗太は携帯を置いて一階に下りた。玄関を開けると、そこにはつばさが立っていた。
 「・・・ペラ子?」
 「先生」
 彼女は彗太の顔を見た瞬間、今にも泣き出しそうな顔をして、ドアの隙間から寮の中に滑り込んだ。
 「あ、こら!」
 彼女の訪問があまりに思いがけなかったので、さっきまで彗太の頭の中で渦巻いていた興奮は一気に冷め、その突然の訪問への驚きに変わった。
 「何だよ、いきなりやって来て。何かあったのか」
 彗太はつばさの姿を見た。手にはなぜか、大きなボストンバッグをひとつ持っている。
 「泊めて」
 「はっ?」
 「家出してきてん。先生んち、泊めて!」そう言って、彼女は彗太の胸にしがみついた。
 「お・・・おい!」
 「うち、もういやや!あんな家におりたくない!友達の家はすぐばれるし、先生んとこ以外、うち、行くとこないねん!」
 「いいから、とにかく離れろ」
 彗太は自分のセーターからつばさを引き剥がした。こんなところを誰かに見られたら、また大変なことになる。つばさはてこでも動きそうにないので、彗太は仕方なく、彼女を自分の部屋に連れて行った。
 「・・・何があったんだよ、いったい」
 彗太はとりあえず、つばさを座らせようと机の椅子を引き出したのだが、彼女はそれを無視して彼のベッドに飛び込んだ。
 「こら!勝手に人のベッドに・・・」
 彗太はつばさを起こそうとして近づき、はっとなった。彼女はうつ伏せになって泣いていた。
 「・・・っく、う・・・」
 「あ、その、別に怒ってるわけじゃないんだぞ。ただ、何がどうなってるのか説明してくれねーと」
 彗太がそう言うのもむなしく、つばさは今度は声をあげて泣き始めた。
 「し、しーっ!静かに!いい子だから!」
 彗太は、弟が泣き止まないときにするように、つばさの頭を優しく撫でた。大和以外の住人が留守で、本当によかったと彼は思った。中三の教え子とはいえ、女の子を部屋に連れ込んでいると知れたら、間違いなく寮内で笑いものにされる。それだけはなんとしてでも避けたかった。彗太は必死で彼女をなだめた。
 しばらくそうしているうちに、つばさの嗚咽の声が穏やかな寝息に変わった。
 「っておい、寝たのかよ」
 彗太がうつ伏せになったつばさを寝返らせると、泣き疲れたのであろう、彼女は安らかに眠っていた。
 「まったく・・・」
 彗太はつばさの身体の下敷きになっていた父のグラバー園の絵を引きずり出し、それをもとあった部屋の隅に戻した。なぜか、彼女がやって来る前よりも、冷静に物事を考えられるようになっていた。
 「家出、か」
 なぜ、とは思わなかった。彗太はすぐに、彼女の母親の顔が頭に浮かんだ。
 「しかし、困ったな・・・」
 寮の住民に知られるのも困るが、彼女の両親にばれるのはさらにまずい。家出そのものよりも、家庭教師とはいえ、親族でもない男の部屋に泊まったことのほうが問題になりそうだった。受験にも響くかもしれない。彗太だって、会社にばれればクビになることは確実だ。それにあの母親だったら、彗太がいくら弁明しても、最悪の場合裁判沙汰にされかねない。そうなれば大学の学籍すら危うい。考えれば考えるほど、悪い結果しか思いつかなかった。
 「どうしよう・・・」
 彗太は頭を抱えた。その時ふと、『鶴見千鶴』の名前が頭に浮かんだ。彗太はさきほど置いた携帯電話を探して、『千』と登録されている番号に掛けた。
 「はい、鶴見です」
 「千?俺だけど」
 「ああ、彗太。どうしたの?」
 「いや・・・悪い、今忙しいか?」
 「夕飯食べてる」
 もうそんな時間か、と思って彗太は壁の時計を見た。つい先程まで晴れていた空は、いつの間にか、厚い鉛色の雲で覆われていた。
 「どうかしたの?」
 千にもう一度尋ねられ、彗太は答えた。
 「あのさ千、悪いんだけど、今から俺んちに来てくれねーか?ちょっと困ったことがあって・・・その、ペラ子、つばさが俺んちに家出してきてさ」
 「つばさちゃんが・・・?家出?」
 「ああ、それでその、色々と困ってるんだ。わかるだろ」
 「わかった、すぐ行くよ」
 三十分以内に着く、と言って千は電話を切った。彗太は椅子に腰掛けて、ようやく安堵のため息をついた。千を巻き込んでしまったようで申し訳なかったが、つばさにとっても、彗太とふたりきりでいるよりも『千鶴』と三人で一緒にいたほうが、あとでばれた時にまだましだろう。
 「・・・先生?」
 「ああ、起きたのか」
 目を覚ましたつばさは、彗太のベッドの上で上半身を起こし、きょろきょろと部屋の中を見渡した。
 「きたない部屋やなぁ・・・」
 「目覚ますなりそれかよ。今日掃除したんだぞ」
 正確に言うと、まだ「途中」なのだが。すると、つばさはいつものように大きく口を開けて笑った。
 「ったく、お前は・・・」
 彗太が呆れた顔をしていると、つばさは不意に笑うのをやめた。
 「ごめんな先生、迷惑かけて」
 「別に迷惑とかじゃ・・・」
 「ごめんな、うち、できへん子で・・・」
 彼女の目から、ふたたび涙がぽろぽろとあふれた。彗太はあわててつばさの頭を撫でた。そうすると、彼女は今度はすぐに泣き止んだ。
 「家で、何かあったのか?」
 彗太は彼女の頭を撫でながら、できる限り優しい声で聞いた。すると、つばさはぽつりぽつりと話しはじめた。
 「あのな、うち、ママと喧嘩してん」
 「うん」
 「うちの受験が近いせいで、前からちょっと、家ん中ピリピリしとったんやけど、うち、もう耐えられへんくて・・・」
 「うん」
 「でもな、ママ、昔は優しかったんよ。今の家に越してくるぐらいまでは、うちが何かあほなことしても、ええんよ、って笑って許してくれて。・・・でも、パパが・・・パパが、あの女の人を家に連れてきてから、ママはおかしくなってん」
 混乱しているのか、つばさの話にはどんどん脈絡がなくなり、受験の話から遠ざかっていった。
 「あの人んとこの子に負けたらあかん。いい学校に行って、いい会社に就職して、いい人と結婚して、そしてあの人らを見返したらなあかん、って」
 つばさの言う「あの人」という言葉には、幼い頃から積み上げた憎しみの思いが、呪いのように閉じ込められていた。この時だけ、彗太はつばさの表情に、彼女の母親の面影を感じとった。
 「それからずっと、塾行ったり、色んな習い事させられたりしたけど、結局うち何にもできんくて・・・。でもママはいつも、次はがんばろうな、って言うねん」
 彗太は、以前八尾家で彼女に会ったときのことを思い出した。
 「でも、がんばるって、何を?何のために?うち、ママにとって何なん?うちを使ってパパに仕返ししたいんやろ?パパはなんで助けてくれへんの?何でパパは浮気なんかしたん?なんであの人はパパと浮気したん?うちらがおるのに!」
 つばさの悲痛な叫びに、彗太はもう相槌を打つことができなかった。
 「もういや!うち、あの人らに振り回されんの、もういやや!」
 つばさは泣き崩れた。その時、ふたたび彗太の部屋の呼び鈴が鳴った。
 「悪い、ちょっと出てくる」
 彗太はつばさを部屋に残して、二階から階段を駆け下りた。その時、たびたび鳴るチャイムに反応した大和が、彼の部屋からひょっこり顔を出した。
 「なんや摂ちゃん、今日お客さん多いなぁ」
 「いいから、気にすんなって」
 彗太が手で追い払うようにすると、大和は苦笑しながら部屋の中に戻っていった。玄関のドアを開けると、心配そうな顔をした千が立っていた。
 「つばさちゃんは?」
 「今俺の部屋にいる」
 彗太は千を連れて二階にのぼった。よく考えれば、千を自分の部屋に入れるのは、あの日貧血で倒れた彼を運び込んで以来だった。
 「悪いな、こんなことに巻き込んで」
 「ううん。だって、家出してきた女の子とふたりきりじゃ、彗太も困るだろ」
 自分の部屋だというのに、彗太はノックをしてからドアを開けた。つばさは、彼と一緒に部屋に入ってきた『千鶴』の姿に気付くと、予期せぬ人物が現れたことに目を丸くした。
 「あ・・・」
 「こんにちは、つばさちゃん」千は『千鶴』になった。「私、摂津くんの友達で、鶴見っていいます。大体のことは彼から聞いたんだけど・・・」
 「来んといて!」
 近づいてきた千めがけて、つばさは彗太の枕を投げつけた。
 「おいっ、ペラ子・・・」
 「うち、この人嫌い!はやく追い出して!」
 つばさはヒステリックな声で叫んだ。彗太は、彼女の予想外の反応に呆然としてしまった。
 「つばさちゃん」
 一方、顔に固い枕を投げつけられた千は、それでも動じた様子を見せることなく彼女に近づいた。
 「こ、来んといてって言っとるやろ!」
 「私の話、聞いてくれない?」
 「うち、あんたの顔なんか見たくない・・・!」
 「だったら見なくていいから。話だけ聞いてくれる?」
 千はつばさに背中を向けて、ベッドの縁に腰掛けた。
 「あのね、摂津くんも一応男のひとだから、つばさちゃんをここに泊めさせるわけにはいかないの。あとから色々と厄介なことになるの、わかるでしょう?」
 「・・・」
 「本当はね、摂津くんもつばさちゃんのこと匿ってあげたいんだけど、それはちょっと難しいんだ」
 「だったら、うちはどこに行けばええの!」
 「うちにおいでよ」
 「え?」これには彗太が驚いた。
 「ベッドもひとつしかないし、ソファーも何もないけど、今日はうちに泊まっていいから」
 「おいおい、ゆき・・・じゃない、いいのかよ鶴子」
 「君は黙ってて」
 千は、話に割り込んできた彗太を制した。
 「つばさちゃんが、どうしてもここがいいって言うのなら、摂津くんを追い出して、私がここに残るから。もしそれも嫌なら、私も消えるし」
 「・・・」
 「つばさちゃんが、悪いんじゃないんだよ」
 最後の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているように彗太には聞こえた。彗太が部屋の隅で立ったままになっていると、またしても部屋の呼び鈴が鳴った。
 「誰だよ今度は」
 この忙しい時に、と思いながら窓から外を覗くと、寮の玄関前に落ち着かない様子で立っているつばさの母の姿が目に飛び込んだ。
 「お、お母さんだぞ」
 「え」
 「ペラ子、お前ここに来ること教えたのか?」
 「まさか、そんなはずないやん」話し声が自ずから小さくなった。
 「つばさちゃん、もしかして携帯もってきた?」千が尋ねた。
 「え?それはもちろん。ないと困るやん」
 「電源入ってる?」
 「うん」
 つばさはそう言うと、ボストンバッグの中から装飾だらけの携帯電話を取り出した。それだ、と千は言った。
 「それだ、って何が?」
 「最近の携帯電話って、GPS追跡機能とかが付いてるんじゃないの?俺もCMでしか見たことないけど、親の携帯から子どもの持ってる携帯の現在位置が確認できる機能が付いてる機種があったと思うんだけど」
 千はぺらぺらと述べた。うっかり一人称が「俺」に戻っているが、つばさは気付いていないようだった。
 「ど、どないしよ・・・」
 そうこうしているうちに、また呼び鈴が鳴らされた。居留守という手は効きそうになかった。
 「俺、出てくるよ」
 「え?」
 「俺がここの住人のふりして、彗太が留守だから、娘さんを部屋で待たせてますって言えばいいだろ?幸い、俺はつばさちゃんのお母さんとは面識ないし」
 「でも、大丈夫か?」
 また呼び鈴の電子音が聞こえた。次第に短くなる間隔に、つばさの母の苛立ちが感じ取れた。
 「大丈夫、うまくやるよ。彗太が行ってもきっと、火に油注ぐだけだから。じゃあ行ってくる」
 そう言うと、千は立ち上がって部屋を出て行った。

 千が大宮寮の玄関扉を開けると、つばさの母が、それこそ中に飛び込んで来そうな勢いで彼に迫った。
 「摂津さんは!?こちらに摂津さんっていう方がいはりますよね!?」
 「はい、確かに摂津ならおりますが」
 目は血走り、半狂乱になっている客人に対し、千はあくまで冷静に答えた。
 「その人を出してください!うちの娘が行方不明なんです!」
 「あの・・・どちらさまでしょうか」
 「八尾、八尾つばさの母です」
 「八尾・・・?」

 彗太の部屋では、彼とつばさが、窓のカーテンの隙間からそっと外の様子を窺っていた。
 「ふたりとも、何話しとるんやろ」
 「何かもめてるけど・・・」
 ひそひそと小声で話しながら、彗太は少し情けなくなった。はっきり言って、彗太は今のところ何の役にも立っていない。おろおろしているだけで、あとは全部千に頼りっぱなしだ。
 「あの人…鶴見さんやったっけ、あの人先生の何なん?」
 つばさが出し抜けにそう訊いてきた。
 「何だよ、こんな時に」
 「彼女?」
 「んなわけねーだろ」
 男だぞ、と彗太は心の中で思った。
 「友達だ、友達。あいつもさっきそう言ってたろ」
 「でもうち、前に学園祭であの人と会った時、そうは思わんかったで」
 「え?」
 「なんとなくやけど、先生はこの人のこと、ほんまに好きなんやなーって、そう思った」
 つばさがあまりに素直にそう言うので、彗太は言葉を失ってしまった。

 一方、寮の玄関先では、つばさの母親が千に食って掛かっていた。
 「つばさはここにおるはずなんよ。ほら、見てみ!」
 彼女は、これが証拠だと言わんばかりに携帯電話の画面を示した。
 「わかりました。でも、摂津くんは今ここにはいません」
 「嘘ついたってあかんで、あの人がうちの娘をたぶらかしたんやろ!?」
 「落ち着いてください。摂津くんは、今他のアルバイトで出かけてるんです」
 「嘘言わんといて!」
 「本当です、八尾さん、信じてください」
 千がそう言うと、突然、つばさの母の顔色が変わった。
 ――本当なんです、奥さん、信じてください
 「本当に、お嬢さんと摂津くんとは何もないんです」
 ――本当に、ご主人と私との間には何もなかったんです
 「あ・・・」
 「あの、八尾さん?」
 千は、自分を見る彼女の目つきがおかしいことに気付いた。彼女はそこに「誰か」を見出したかのように、食い入るような目で千の顔を見つめている。
 「あなた…名前は」
 「え?」
 「あなたの名前は」
 「鶴見、千鶴ですけど・・・」

 あっけにとられている彗太を前に、つばさは続けた。
 「実を言うとな、さっき鶴見さんが言うてくれはったこと、うち嬉しかってん」
 「あいつが言ったこと?」
 「うちは悪くないよ、って」
 「ああ」あれか、と彗太は思った。
 「でもなうち、やっぱりあの人のこと好きにはなられへんわ」
 「何でだよ」
 「怒らんといてよ。うちだって、別に好きで嫌いになっとるわけちゃうし」
 「何か理由があんのか?」
 彗太がそう訊くと、つばさは少しうつむいて唇を噛んだ。
 「・・・だって、似てるねんもん」
 「似てる?」
 「昔、十年くらい前に、パパが家に連れてきた女の人に、鶴見さんそっくりなんやもん」
 つばさは顔を伏せた。あまり思い出したくないことなのだろう。彗太は少し申し訳ない気持ちになった。
 「ペラ子、その・・・」
 「あれ?先生、何か変やない?」
 「変って、何が」
 「外、急に静かになったけど。どうしたんやろ」
 確かに言われてみれば、さきほどから話し声がしなくなっていた。帰ったのだろうか、と彗太は思い、そっと窓を開けて下を覗きこんだ。
 「・・・え?」
 彗太は、目に飛びこんできたその状況がすぐには理解できなかった。つばさの母はまだ下にいた。そして、なぜか両手で千の、千鶴の首を絞めていた。
 「先生?どうかし・・・」
 「千!」
 彗太は部屋を飛び出し、寮の階段を駆け下りた。玄関の戸は開いていた。そこで、千は彼女に喉元を締め付けられていた。
 「八尾さん!何してるんですか!」
 彗太はすぐに、千から彼女を引き剥がした。つばさの母親は、狂ったように何事かをわめきちらした。暴れようとする彼女を押さえつけながら、殺してやる、という言葉が聞き取れたとき、彗太は思わず背筋がぞっとした。
 「摂ちゃん、どないしたんや」
 玄関のただならぬ様子を察して、大和が部屋から駆けつけてきた。見たこともない女が玄関先で彗太と揉みあっているのを見て、彼は当然のことながら面食らったようだったが、床に倒れている千に気付くとすぐに、落ち着いた様子で彼のことを介抱した。
 「ママ!」
 ようやくつばさが二階から走って下りてきた。娘の姿を見ると、今まで暴れていた彼女は突然大人しくなった。
 「つばさちゃん」
 「何あほなことしてるの!何でそんなことするの!」
 「ごめんね、つばさちゃん、ごめんね」
 「何で・・・」つばさの目が潤んだ。彼女は母の元に駆け寄った。
 「ごめんね、つばさ」
 「あほやわ、ほんま。ママもパパも、うちも、みんな」
 そう言うと、彼女はぐったりとその場にしゃがみ込んだ。
 「摂ちゃん!」
 彗太が疲れてぼうっとしていると、今度は後ろから大和が叫んだ。
 「千鶴ちゃんの様子がおかしい」
 「え」
 見ると、千は顔を真っ青にして、目を見開き、手足を痙攣させながら過呼吸のような状態に陥っていた。これと同じ風景を、彗太はかつて見たことがあった。
 (鶴子)
 十年前、家の裏庭の松の木の下で、千鶴は今とまったくおなじように、ガラスを引っ掻いたような声を上げながら短く浅い呼吸をしていた。彗太はその声に、遠い記憶を揺さぶられた感じがして、一瞬軽いめまいがした。
 「あかん、舌噛んでしまうかもしれん」
 大和は首に掛けていたタオルを、千の口に無理矢理押し込もうとした。彼は激しく抵抗した。
 「ママ」
 暴れる千の手を押さえつけながら、彗太は確かに彼がそう言うのを聞いた。それからまもなく、千はそこでそのまま意識を失った。


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