冬休みになると、土居も祥司も地元の成人式に出るために、それぞれの実家に帰ってしまった。泉は彗太と同い年なので、成人式は去年すでに済ませているのだが、毎年年末と正月には親戚全員で集まることになっているらしく、珍しくジャージ以外のちゃんとした服装で、実家のある京都に帰っていった。ジョナはこの冬休み、例の彼女と一緒に長野へスキー旅行に行くらしい。彗太もできることなら長崎に帰りたかったが、年末・年始とアルバイトの予定が立て込んでいたのであきらめた。それに新学期がはじまれば、すぐにつばさの私立高校の受験がやってくる。結局、年の暮れの大宮寮に残ったのは彗太と大和のふたりだけだった。 「ごめんなぁ、摂ちゃん。俺、今日出版社の人らと忘年会やねん。留守番よろしくな」 大晦日の日の夕方、大和はそう言うと、車で迎えに来た芦屋と一緒に出かけていった。彗太はひとりになってしまった。話し声もなければ、古びた木の廊下を歩く足音もない。こんなに静かな寮ははじめてだった。 「あー、暇だな・・・」 この日に限ってバイトが休みだったので、談話室でひとりごろごろしながらテレビを見ていたのだが、それにもすっかり飽きてしまった。せっかくひとりなのだから、奮発していい酒でも飲もうと思い、彗太は自転車で近所のスーパーに向かった。 大晦日のスーパーは人でごった返していた。皆今日は夜更かしをするのだろう、買い物カゴの中には、年越し蕎麦や夜食用のラーメン、スナック菓子やアルコール類がよく見られた。彗太もビール缶を腕に抱えて、菓子売り場でつまみを物色していた。柿ピーにするかエイヒレにするか悩んで、結局両方買うことにした。今日ぐらいいいだろう。 ビールとつまみと明日の朝食のパンを自転車のカゴに乗せて、彗太は暗い夜道を漕ぎ出した。顔に当たる空気が冷たい。車道を走る車に次から次へと抜かされていく。一年最後の日だというのに、彗太のまわりでは、世の中はまるでいつもと変わらず動いていた。一年で最初の日もきっと、特に何も変わったことなく迎えるのだろう。そんなことを考えながら、大通りの信号が変わるのを待っている間、彗太はふと気が変わって自転車の向きを変えた。 十分ほどペダルを漕いで、商店街のアーケードを抜けると、三階建ての白い小さなマンションの下に辿りついた。大学から東に三キロほど離れたそのマンションの入り口には、片仮名で『レーベンスフロイデ』と書かれていた。たぶんドイツ語だろう。だから彼、ないし彼女は、このマンションを選んだのだろうか。彗太は二階の角の一室を見上げた。 (あれ・・・留守か?) 部屋は電気がついていなかった。もしかしたら、例の結婚式場のウェイトレスのアルバイトに行っているのかもしれない。しかし大晦日に披露宴を催すカップルがいるだろうか。実家、という可能性もある。彗太は何も聞いていないが、夏休みに帰省しなかったようだから、ありうるかもしれない。それともどこか他のところへ―― 「何してるの?」 「うわぁっ!?」 突然肩を叩かれて、彗太は飛び上がった。危うく倒しそうになった自転車を、千は買い物袋を持っていないほうの手で支えた。 「だ、大丈夫?ごめん、そんなにびっくりすると思わなかったから」 彗太のあまりの驚きぶりに、逆に千のほうが驚いたようだった。 「で、こんなところでどうしたの?」 怪しんでいるわけではないようだが、千は不思議そうな目で彗太を見た。 「べ、別に。奇遇だな。千こそこんなとこで何してるんだよ」 あまりにうそ臭い台詞だと自分でも思うが、千はたいして気にしたふうでもなく、「ここ俺んち」と答えた。 「ここのマンションの二階に住んでるんだ。二〇一号室」 「へ、へぇー」 「あがってく?」 「は?」 「お雑煮とおせちつくったんだけど、ひとりぶんって難しくて・・・つくりすぎたから、よかったら食べて」 特に断る理由もなかったので、彗太はそのまま千の家に邪魔することにした。マンションの前までは何度も来たことがあったが、中に入るのははじめてだった。彗太は少し緊張しながら、千のあとについて階段をのぼった。二階のいちばん端の部屋の前に『鶴見』と書かれた表札が掛かっていた。 「適当に座っていいよ。狭いけど」 部屋の照明をつけると、千はすぐに電気ストーブとテレビのスイッチを入れた。彗太は言われたとおり、ワンルームの部屋の中央に置かれた小さなテーブルの前に座った。 「お前んち、何もないな」 「いきなりそれ?」 千は、冷蔵庫の中に買い物袋の中身を移しながら言った。 「物増やすの、嫌いなんだ」 確かに、彼の部屋はシンプルを通り越してむしろ殺風景だった。彗太の部屋も昔はそうだったが、弟が生まれてからは少し趣味が変わって、ぬいぐるみやその他細々したものが増えていった。今彗太がいる千の部屋は、はっきり言って何もない。大きな家具はベッドとクローゼット、テレビ、それから勉強机と彗太の目の前にある小さなテーブルだけだった。鏡もなければ装飾のひとつもない。唯一生活感を感じるものといえば、机の横に平積みになっている本の山ぐらいだった。 「お前さ、趣味とかないの?」 「え・・・趣味ぐらいあるよ。数独とか。それより彗太、餅いくつ?」 台所で何かやっていると思ったら、雑煮を温めていたらしい。彗太は気になってその様子を見に行った。 「わ、すごいな」 「あ、まだ途中だから」 千は調理台に広げたおせちの重箱を手で隠した。こぢんまりとした黒塗りの箱の中には、色とりどりの正月料理がきれいに飾りつけられていた。 「食っていい?」 「だめ、そっちの箱の外に出てるやつしか。で、お雑煮の餅は何個にするの」 「ていうか、雑煮って年明けてから食うんじゃねーの?あれ正月料理だろ」 「え、そうなの?」千は鍋をかき混ぜる手を止めた。「俺んち、いつも大晦日に食べてたけど・・・」 「たぶんお前んちだけだ」 彗太がそう言うと、千は「そうなんだ」と言って頬を赤らめた。珍しい表情だった。 「じゃあ、来年になってから食べる」 千がそう決めてしまったので、雑煮はしばらくおあずけになった。テレビで年末の特番を見ながら、ふたりはおせちの材料の余りと彗太の買ってきたつまみ、それから年越し蕎麦を食べて、夜中の十二時になるのを待った。 「お前料理うまいなー」 「つるは下手なんだけどね」 千と何気ない会話を交わしながら、彗太は今この瞬間を、心から幸せだと感じていた。守が亡くなる数年前までは、こうやって毎年三人そろって、夜遅くまで一階の居間で食べたりし雑談したりしていた。いつも文野が先に酔いつぶれてしまうので、年明けは結局いつも守とふたりで迎えていた。十一時を過ぎると、守がわざわざ手打ちした蕎麦を食べて古い年を送った。文野を起こさないように、そっと小声でカウントダウンをした。日付が変わると、ベランダから外に出て新しい年の空を眺めた。あの頃、彗太は幸せだった。
テレビで年明けのカウントダウンがはじまった。あと残り一分を切って、彗太も千も手を止めてテレビに見入った。 「結局・・・俺のまま年越すことになったな」 千がぽそりとつぶやいた。カウントダウンは残り四十秒を切った。 「え?」 「つるのいない年越しなんてはじめてだ。何か変な気分」 残り三十秒を過ぎると、テレビに表示される数字が一段と大きくなった。 「今年はすごく変な年だった。彗太と会ってからだけど」 「それはこっちの台詞だろ」 十五秒を切った。もう今年が終わってしまう。 「来年はどうなるかなぁ」 「実際どうもならねーだろ。数字が変わるだけなんだから」 あと十秒。ふたりともテレビの画面に身を乗り出した。 「九、八、七、六・・・」 彗太はちらと隣に座る千を見た。いつの間にこんなに大きくなったのだろう。 「五、四、三」 彗太はそっと手を伸ばした。あの頃と同じように、大きな手で自分を支えてほしかった。 「二、一――」 ぶつん、と何かが切れるような音とともに、突然視界が真っ暗になった。さっきまで見入っていたテレビも、天井からぶら下がった照明も、窓の外の町の明かりもすべて消えてしまった。 「え、何?」 千は電気の消えた部屋の中で彗太を探した。ベランダのカーテンの向こうから差し込む月明かりで、家の中はそれなりに明るかった。 「停電、みたいだな」 彗太は立ち上がって、部屋の照明のスイッチを切ったり入れたりしたが、何も起こらない。ついでにブレーカーも見てみたが、そちらにも異常はなかった。 「こんなことって、あるんだね」 千はベランダのカーテンを開けた。遠くに見えるはずの大阪の都心の夜景も、今夜はすべて地上の闇にとけていた。彼はベランダの窓を開けて外に出た。彗太もそのあとに続いたが、もちろん空気は凍てつくように冷たい。 「寒い、でも、すごい」 空を見上げると、普段からは信じられないくらいたくさんの星が見えた。 「プラネタリウムみたいだ・・・」 白いため息とともに、千はそうつぶやいた。 「千」 「ん?」 「あけましておめでとう」 「…おめでとう、彗太」 それからしばらくのあいだ、ふたりは寒空の下で冬の星座を眺めた。オリオン座の三ツ星も、青白く光るおおぐま座のシリウスも、あの頃故郷で見たものと少しも変わらず瞬いている。 「今年もよろしくな」 「うん、こちらこそ」 彼のとなりで、彗太は心底満ち足りていた。何も変わってはいない、彗太はそう自分に言い聞かせた。失ったものなど、はじめから何もないのだ。
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