「三十八度七分。自分、あほやなぁ」 大和はガラスの体温計をくるくると回しながら、彗太に言った。 「ええ年して、雪ん中傘も差さんと何時間もうろうろしとるからやで」 「・・・ていうか、体温計振り回すな。危ないから」 彗太はベッドの中から反論したが、大和の言うことは確かに正しい。まともに風邪を引いたのは、高校一年の冬以来だった。あの晩、千を家の近くまで送ってから寮に帰り着くと、すでに夜の十時をまわっていた。それからしばらく身体の調子がおかしかったのだが、今朝になって突如、ひどい頭痛と吐き気に見舞われた。それでも彗太が大学に行こうとすると、土居や祥司に止められ、結局、寮で留守番をしている大和に看病してもらうことになった。 「ほら、この薬飲んで」 「う・・・苦ぁ」 「よし!ぜんぶ飲んだな。えらいえらい。ほな、しばらく寝とき」 そう言って、大和は彗太をふたたびベッドに寝かしつけ、その上から毛布と掛け布団をかぶせた。 「暖かくするんやで。なんかあったら呼びや。俺の部屋、摂ちゃんの部屋の真下やさかい、床ドンドンって叩いたらわかるから」 「ん・・・」 色々言い返したいことがあったが、今はその気力もなかった。大和は冷却シートを貼った彗太の額をぐりぐりと撫でたあと、ほなな、と言って彼の部屋を出て行った。ドアが閉まると、風邪薬の副作用だろう、急に眠気が襲ってきた。もうろうとする意識の中で、彗太は、あとでバイト先に電話しなければと思った。今日はとても行けそうになかった。
昼過ぎに目を覚ますと、カーテンを開けた窓から、部屋の中に明るい日差しが注ぎこんでいた。 「腹、減った・・・」 空腹で身体を起こすと、頭痛は朝よりだいぶましになっていた。熱も下がったらしい。彗太はぬるくなった冷却シートを額から剥がし、一階の冷蔵庫に何か食べ物を取りにいこうと、ベッドから這い出た。少しだるい身体を引きずって一階の談話室におりると、大和が奥の台所で何か作っているところだった。それからもうひとり、彗太の見たことのない男が畳の上に座っていた。 「ああ、摂ちゃん。起きてきたんか」 大和は彗太に気付くと、すぐに台所から談話室に出てきた。 「もう体調ええんか?腹減っとるやろ。お粥つくったんやけど、食べるか?」 「ああ、うん。ありがと」 彗太は、眼鏡を掛けたその男を横目でちらちら見ながら、大和に答えた。ふと目が合うと、彼は笑うでもなく、座布団の上に座ったまま彗太に軽く一礼した。 「あ、どうも」 誰だろう、と彗太は思った。見た感じ学生ではない。ちょうど大和と同年代、二十歳代後半ぐらいに見えるが、きちんとしたスーツを着て髪を後ろに撫で付けているため、彼よりも少し年長に見えた。 「はいはい、おまたせー。摂ちゃん、そんなとこ立ってんと、こっち来て座りぃや」 大和はトレー片手にそう言って、部屋の隅に積んである座布団を一枚、畳の上に放り投げた。客人は、テーブルの上に広げられた茶封筒や書類をその隅に寄せた。 「おい、何だこれ・・・」座布団の上に座って、大和のつくった「お粥」を前に、彗太はつぶやいた。 「何って、お粥やけど」 「ここ、イチゴジャムみたいなのが乗ってるのは気のせいか?」 「ちゃうでー、ラズベリーコンポートやで。牛乳粥と合うやろうなーって思って」 「えぇ・・・」 「ああ、ミルヒライスですね」客人が少し笑って言った。「ご心配なさらず。私も子どもの頃よく食べましたが、おいしいですよ」 彼がそう言うので、彗太はまだ暖かいそれを一口食べてみた。味付けはかなり甘く、粥というよりむしろ食後のデザートのようだった。いつもの粥やお茶漬けのような味を期待しなければ、十分おいしく食べられる。 「ヒロ、みるひらいすって何?」 「あなた知らずにつくったんですか・・・それより大和、ちゃんと仕事は進んでいるんでしょうね?」 「あー・・・摂ちゃん、紹介するわぁ!こいつ前に言ってた俺の幼馴染で、裕人っていうねん」 大和は隣で牛乳粥を食べている彗太に、彼の幼馴染を示した。 「大和、はぐらかさないでください。どうもはじめまして、芦屋と申します」 「あ、はじめまして。摂津です」 久しぶりに聞くきれいな標準語で丁寧に挨拶をされて、彗太はどぎまぎと返答した。近くで見ると、芦屋は男の彗太が一瞬見惚れるほど端正な顔立ちをしていた。 「で、大和。原稿は?」 「う、ひつこいなぁ・・・。今週中にあげるって」 「なら明日また来ます」 「何で明日!?明日は無理!」 「なら明後日」 「明後日も無理!せめて週末!」 大和は珍しく慌てていた。彗太はさじで粥を口に運びながら、ふたりのやりとりを興味深く見ていた。いったい何の話をしているのだろう。 「だって・・・先週は廊下の蛍光灯取り替えたり、業者さん呼んで水道管修理してもらったり、色々忙しかったんやって。なぁ、摂ちゃん」 「え?あぁ、うん」 そういえば、先週末大学から帰った時、寮に水道工事の専門業者が来て大和と話しているのを見た。そのとき彗太は、何もそんなことまで大和がやらなくても、と思ったのだった。大家に頼めばいいのに、と。 「ところで、大和さんって何の仕事してんの?」 彗太は尋ねた。てっきり無職だと思っていたので質問しづらかったのだが、芦屋との会話を聞く限り、彼もちゃんと働いているようなので、思い切って訊いてみた。彗太は、いや彗太だけではない、大和を除く大宮寮の住人全員がずっと気になっていたのだ。 「絵本作家ですよ、一応」芦屋が答えた。 「いちおうって何、ヒロ」 「絵本作家?大和さん絵本描くの?」 「そりゃまぁ…絵本作家やからなぁ」 「私、今持ってますよ。見ますか?」 芦屋は仕事用の鞄の中から一冊の絵本を取り出し、彗太に渡した。堅い厚手の表紙には、どこかの町の風景画と、その本の題名が描いてあった。 「裕人、それだいぶ前のやんか。何でそんなん持ってるん」 「別にいいじゃないですか」 彗太は中を開いた。絵本の中にも、画面いっぱいに写実的とも抽象的とも取れる風景画が描かれていた。どうやら、物語はその町に住む少年を中心として進んでいくらしい。彗太は、海のあるその風景をなんだか懐かしく感じた。 「あ、あんまそんなにじっと見んといてー。それ、俺がまだ学生ん時に描いたやつやねん。恥ずかしいわぁ」 「これ、どこ?どこの町?」 「え?んー、別にどこでもないけど。まぁ、実家ではないわな」 「奈良に海はありませんからね」 物語の最後で、少年は故郷を離れ都会に引っ越していった。彼には家族も友人もいるはずなのに、なぜか誰一人として、その影すら描かれていなかった。最後のページで遠ざかっていく故郷の風景は、やはりどこか長崎に、というより父の描いた長崎の絵に似ていた。 「よろしければ、さしあげますよ、それ」 「えっ?」 「私はこの人の担当ですので、家にもう一冊ありますから」 芦屋はふっと優しそうな笑みを浮かべた。一方の大和は「やめてぇ」と顔を手で覆っている。こんな彼は珍しかった。 「それじゃ、私はそろそろ・・・」 「あ、まだミルヒライス残ってんねんけど、ヒロも食べる?」 「結構です。私はもう大人ですから。それより大和、明日もまた来ますからね。ちゃんと原稿進めるんですよ」 芦屋は最後に大和に釘を刺すと、広げた書類を再度鞄に詰め込んで、大宮寮を去って行った。 「あ、摂ちゃん、ごちそうさまか?おかわりいる?」 「ううん、もういいや」 食べたらまた眠くなってきた。もう一眠りすると大和に言って、彗太は絵本を持って部屋に帰った。ベッドに座り、彗太は相変わらず部屋の隅に置きっぱなしになっている父の絵を見た。彗太はなぜか不思議な気分になった。なぜ自分は、わざわざこんな古い絵を実家から持ってきたのだろう。家に帰ればまた描いてもらえるのに。 「ばかだなぁ」 彗太はその絵を棚の中に移動させた。今度実家に帰る時に持って帰ろう、と彗太は思った。さっきもらった大和の絵本も見せてあげよう、父はきっと気に入るだろう。そしてまた、新しい長崎の風景を彼に描いてもらうのだ。
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