朝、目が覚めるといつもより妙に寒かった。休日だがレストランのアルバイトがあるので、嫌々ベッドの中から這い出てカーテンを開けると、窓の外には一面の雪景色が広がっていた。 「は・・・」 彗太は予想外の光景に言葉を失った。昨晩の天気予報で降ると聞いた気もするが、こんなに積もるとは誰も言っていなかった。彗太は思わず窓を開けて外に身を乗り出した。 「うわっ、寒い」 「おーい摂津ー!」 「あ、祥司」窓の下では、祥司が土居を連れて雪の中を走り回っていた。 「雪!雪やでぇ!ほらぁ!」 そう言うやいなや、祥司が上に向かって投げた雪玉が彗太の顔に直撃した。 「なっ・・・何すんだてめ・・・」 「摂津も下りて来いやぁー」 「よし、すぐに行ってやるからそこ動くなよ!」 彗太は上着を羽織ると急いで階段を下りた。玄関のところには祥司と土居以外にも、ジョナや泉、大和の全員が集まっていた。 「あ、摂ちゃん、おはようさん。見てこれすごい雪」 「なんだ、大阪もこんなに積もるんだな」 「でも、こんなんたぶん十年ぶりぐらいやで。びっくりしたわぁ」 大和は湯呑みで熱い茶をすすりながら言った。その横で、ジョナが感慨深げに外の景色を見ていた。 「ボクも、大阪来てからこんなにたくさんの雪見たん、はじめてです。なんか懐かしいですわ」 「ああ、ジョナ、カナダ出身やもんな。何て町やったっけ?ハンバーガー?」 「バ、バンクーバーでっしゃろか・・・?」 「あーそれそれ。クマバーガーみたいな」 泉は適当にそう返すと、今度は腹が減ったとひとり言を言いはじめた。 「おーい、摂津!かまくら作ろー」 「かまくらはさすがに無理だと思うよ・・・」 祥司に無理やり外に引っ張り出されたのだろう、寒さに震えながら、土居は寮の外の玄関先に立っていた。彗太が見る限り、彼はどうも暑さにも寒さにも弱いらしい。 「でも、昼までには溶けてしまうんやろなぁ・・・」 大和がそうつぶやくと、全員が空を見上げた。まだ朝なので気温は低いが、空は青く晴れ渡っていた。
九時ごろ、彗太はいつもよりかなり時間に余裕を持って家を出た。雪で自転車に乗れないためだ。バイト先のファミリーレストランまでの雪道を歩きながら、彗太は千のことを考えていた。『雪』と『千』で同音なので、どうしても連想してしまう。 (雪、ゆき、千) 路上に積もった雪を踏みしめながら、足の運びに合わせて一歩一歩、彗太は心の中で唱えた。 (ゆき、ゆき、ゆき) 先日彼にマフラーをあげてしまったので、首元が少し肌寒かった。結局、彼はあの後どうしたのだろう。あれからしばらく会っていない。来週末からは、はやくも大学の冬期休暇に入る。彗太は、千が年末年始に、埼玉の実家へ帰省するのかどうかすらも知らなかった。 (千、千、千) 今、彼はどこで何をしているのだろう。千に会いたかった。顔が見たかった。会って話がしたかった。いや、ただ遠くから見つめるだけでもよかった。 ファミリーレストランの建つ国道沿いまで来ると、車や歩行者に踏まれて、雪は泥ですっかり汚れてしまっていた。まだ十時前だったが、大和が言っていたよりもはやく雪は溶け切ってしまいそうだった。
夕方になるとまた雪が降りはじめた。さほど強くはなかったのだが、傘を持ってきていなかったので、彗太はこの日は残業せずに帰ることにした。 六時ともなると、外はもうすっかり夜だった。そういえばもうすぐ冬至だな、と彗太は思った。大通りは青や白のクリスマスの電飾で彩られていた。彗太はふと子どもの頃を思い出した。彼はクリスチャンではないが、クリスマス前になると毎年、学校の友達について行っては、近所の教会で天使の形をしたビスケットをもらって帰ってきた。西浜町の商店街には定番のクリスマス・ソングが流れ、アーケードに飾られた赤や緑のきらきらした飾りを眺めながら、彗太は守に手を引かれてケーキを買いに行った。あの頃は、今よりももっと賑やかだった気がする。景気が悪くなったせいだろうか。それとも、自分が変わったせいだろうか。そんなことを考えながら、しんしんと雪の降る通りを足早に歩いていると、前方から見覚えのある傘が歩いてきた。透明なビニール越しに、千と目が合った。 「あ、彗太・・・」 千は笑わなかった。目にかすかに怯えの色を呈したあと、その場に立ち止まって彗太を見つめた。彗太もその場で歩みを止めた。午前中はあんなに会いたかったのに、いざ会ってみると、彗太は彼に掛ける言葉が見つからなかった。 「傘、忘れたの?」 どこかで聞いたことのある言葉だ、と彗太は思った。そうだ、つるだ。もう半年以上前に、つるが今と全く同じことを言った。 「家出たときは、降ってなかったから」 「じゃあ、途中まで一緒に入っていく?」 ようやく千が少し微笑んだ。きっと、あの雨の日のことを思い出したのだろう。彗太は傘の中に入り、千の手から傘を取った。千もやはり、つると同じように困った顔をした。 「いいんだって。俺のほうが背、高いだろ」 「でも・・・ほんとは俺のほうが高いんだよ」 「そうなのか?」 「少なくとも、彗太よりはね」 千はそう言いながらも、彗太を見上げた。彗太もあまり背は高くないが、『千鶴』も小さいので、並んで歩くと十数センチの目線の差があった。間近に見下ろすと、千のコートの襟首から赤い布がわずかにのぞいていた。見慣れたチェックの模様で、それが自分のあげたマフラーだと彗太は気付いた。彼はそれを首に巻くというよりも、肩の上に掛ける感じで、白いコートの内側に入れていた。ふたりはとりあえずそのまま歩きはじめた。どこへ行くのか、千も彗太も聞かなかった。 大通りを抜けると車の往来も人通りも少なくなった。小雪のちらつく中を当てもなく歩いていると、ふいに、千がぴたりと足を止めた。 「どうした?」 「ううん・・・なんか、そこに千鶴がいたような気がして」 「千鶴が?」 彗太は思わず聞き返した。千の見つめた方向を目で追ったが、千鶴はおろか、猫の一匹すらも見あたらなかった。家と家の間の空き地にあるのは、ただ闇と静けさばかりだった。 「いいや、行こう」 千は彗太の手を引いた。氷のように冷たい手は、かじかんでいるのだろう、うまく力が入らないようだった。 ふたりはまた黙々と歩きはじめた。彗太はいつしか、彼がつるを、ひいては千鶴を捜しているのだと気がついた。時折何もない暗闇や、あるいは、アスファルトの上に落ちた街灯の明かりの奥を見つめて立ち止まっては、ため息をついてふたたび歩きはじめる。彗太はただそれに大人しくついて行った。彼の隣で、彼のバランスが少しずつ崩れていくのを、彗太は感じ取っていた。そのバランスを崩したのは紛れもない彗太自身だ。『つる』と『千』の微妙な関係は、他者と深く交わらないことで成り立っていた。ふたりだけの閉じた世界でしか、彼らの存在は成り立たないのだ。 「俺、つるは俺がいないとだめだ、って思ってたけど」 突然、千が独り言のようにつぶやいた。 「でも、だめなのは俺のほうだったのかもしれない。このごろ、目が覚めるたびにぞっとするんだ。また俺だ、って。前はつると代わるたびに、つるは楽ばっかりしててずるいなって思ってた。でも今は・・・今は、普通に毎日生きることのほうがつらい」 「うん・・・」 「つるがもう現れないんじゃないかと思うと、どうすればいいかわからなくなる。寝ても醒めても終わりがないんだ。ずっと生きてかなくちゃならない」 それが普通なのだ。そう彗太は思ったが、あえて言わなかった。言ってしまえば、千の中の均衡が完全に崩れる気がした。 ふたりは雪の中をさらにさまよい歩いた。川を渡って、電車の線路を越えて、彗太は気がつけば、まったく知らない場所に来ていた。静かな住宅街を歩いていると、時折家の中から、テレビを見ながら居間でくつろぐ家族団欒の話し声が聞こえた。千は相変わらず、何かを捜すようにあたりを見渡しながら歩いていた。その姿を見失わないように、彗太は傘を持って、ふらふらと歩いていく彼のあとについた。放っておくと、彼が雪に溶けて消えてしまう気がした。 「こら。風邪引くぞ」 彗太は、傘から半分身体がはみ出している千の肩を、自分のほうに引き寄せた。黒い髪に薄く白い雪が積もっていた。彗太はそれを、傘を持っていないほうの手で払った。そして、その手をそのまま千の頬に滑らせた。 「そんな顔するなよ」 千の頬は、雪に触れたように冷たかった。目にはほんの少し、いつか見た怯えの色が宿っていた。 「つる・・・帰って来るかな」 「ばーか、当たり前だろ」彗太はにっと笑って、千の頬をつねった。「心配すんな。つるのことは俺が必ず見つけてやるから。だから、今日はもう帰ろう」 彼が手を離すと、千は少し笑って、赤くなった自分の頬を手でさすり、こくりとうなずいた。
彗太は嘘をついた。彼は、つるを連れ戻す気など、もはやなかった。このままずっと永遠に千のまま生きていけばいいと、そう思っていた。
|
|