20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第23回   Das andere Ich
 つばさの模試の結果が出たのは十一月の下旬だった。成績が送られてきた次の日、彗太はつばさの授業がなかったにもかかわらず、彼女の母親から夕食に誘われた。
 「俺、あのおばさん苦手やねんなぁ・・・」
 自転車に乗って八尾家に向かう途中、共に誘われた文系科目担当の豊中が言った。英語担当の茨木も招待されていたのだが、彼は何やかんやと理由をつけてうまく断ってしまった。 「模試の結果のことで何か言われんのかな。あー、嫌や!」
 彗太もはっきり言って行きたくなかった。彼もつばさの模試の成績結果を見たが、前よりだいぶよくなったとはいえ、志望校合格のラインにはまだまだ届いていなかった。自転車をこぎながら、マフラーと上着の間から入ってくる風が冷たくて、彼は片手で上着の前を掻き合わせた。
 つばさの母に招き入れられ、ふたりが八尾家のダイニングに上がると、食卓にはすでに、つばさと彼女の父親が席についていた。父親が家にいることは珍しかったので、ふたりは驚いて顔を見合わせた。彗太はもうかれこれ半年以上八尾家に通っているが、まだ一度か二度しか彼の姿を見たことがなかった。それは向こうにとっても同じことのようで、彼はふたりが来ると、初対面の相手にするように席を立って頭を下げた。一方のつばさは落ち込んだ様子だったが、彗太らの姿を見て、若干ほっとした顔を見せた。
 食事中、つばさも彼女の父親もほとんど会話を交わさなかった。彗太と豊中はてっきり、つばさの母親に、成績が芳しくなかったことの嫌味を言われるのだと思っていたが、彼女は珍しく受験の話はせずに、始終娘の小さい頃の話をふたりに語って聞かせた。
 「で、つばさちゃんが四歳の時にこの家に越してきたんです。主人は前からこの近くの会社で働いとったんですけど、引っ越してきた当時、私はまだ慣れへんくて。朝つばさちゃんを幼稚園に連れて行って、家に帰って家事をして、それが終わったら夕方にまた幼稚園に迎えに行って・・・っていう毎日やったんですよ」
 「そうですか」
 なぜ今彼女がこんな話を自分たちにするのか、彗太にはさっぱり理解できなかったが、とりあえず相槌を打った。
 「その時は主人も色々と忙しくて、毎日つばさちゃんとふたりで、遅くまで帰りを待っとったんです。でも、つばさちゃんが年長さんの頃やったかな、この人がちょっと・・・家の外であほなことしまして」
 「おいお前、やめへんか。お客さんの前でみっともない」
 ようやくつばさの父が口を開いた。娘と同じように気が強そうな顔立ちだったが、なぜか妻には頭が上がらないようで、制止する声もなんだか及び腰だった。
 「ええやないの。で、色々あったんですけど、最終的には元の鞘に落ち着いたんです」
 「はあ・・・」
 彼女の夫は、妻がその話をしている間じゅうずっと顔を伏せていた。つばさは、そんな父をじっと探るような目つきで見つめていた。
 結局二時間ほど滞在したあと、彗太と豊中は八尾家をあとにした。帰り際に、つばさの母はふたりに「つばさのこと、どうかよろしくお願いします」と念を押した。
 八尾家からの帰り道、自転車を漕ぎながら豊中が言った。
 「なーんか、居心地悪かったわぁ・・・おばさん、何で俺ら呼んだんやろな」
 「さあ・・・」
 彗太にもまるで見当がつかないが、居心地が悪いと言う豊中の感想には同意見だった。会社勤めの父親と専業主婦の母親、それから中学三年生になる一人娘。十年ほど前に越してきたという一戸建てのマイホームは、あまり広くはないものの三人暮らしをするには十分で、一般的に見れば、八尾家はごくごく普通の幸せな家庭のはずだった。だが、彗太にはあの家がなんとなく不気味に感じられた。彗太はぞっと背筋に寒さを感じた。短い秋が暮れて、大阪にもうすぐ冬が訪れようとしていた。

 十二月になった。泉が冬物のジャージに着替えたので、彗太もダンボールの中にしまってあったコートの類を引っ張り出した。外は寒いが、かといって雪が積もりそうな気配はほとんどない。大阪は降る割にめったに積もらないと、以前大和が言っていた。長崎は南国といってもいちおうすぐ西に東シナ海が位置しているので、年によってはそれなりに雪が降る。坂が多い町なので、まれに積もったりすると色々大変なのだが、彗太は雪も好きだった。
 大学の中庭のいちょう並木はすっかり落葉して、平日のまだ日が落ちる前だというのに、外では侘しく閑古鳥が鳴いていた。息を吐くと、それは煙のように白くなって消えた。薬学部棟を目指しながら、彗太がなんとなくグラウンドのほうに目をやると、その端にある合宿所の前に立つ、白く小さな背中が目に入った。千だ、と彗太は思った。彼も冬物のコートに衣替えしたようだった。遠くから見ると真っ白だったが、近くで見ると、白というよりはごく薄いクリーム色だった。彗太は千をおどかそうと思って、後ろからそっと彼に近づいた。
 「・・・わっ!」
 「うわ」背後から彼の首に腕を回すと、千は少し驚いて声を上げたものの、すぐに「なんだ彗太か」と落ち着いた様子で言った。
 「腕、放して。はやく」
 「え、うん・・・」
 千が少し嫌そうな反応をしたので、彗太はすぐに彼から離れた。千は彼のほうに向き直ると、むずがゆそうに喉元に手をやった。
 「俺、首触られるの嫌いなんだ」
 「あ、そうか、悪い」
 「いいよ。おはよ、彗太」
 千は、叱られたあとの子どものようにしゅんとなった彗太に、少し困った感じで笑った。
 「ところで何してるの?こんなところで」
 「俺はお前が立ってるのが見えたから・・・千こそ何してんだよ、この寒いのに」
 「俺?俺はこれ見てただけだよ」千は後ろの古い建物を指差した。
 「合宿所?」
 合宿所、という名前を与えられてはいるものの、この施設はもうすでに使われていなかった。なんでも戦前に建てられたものらしいのだが、他の歴史ある建造物と違って無機質な鉄筋コンクリート製なので、とくに評価も保存もされることなく、来年度までに取り壊されることが決まっていた。彗太は無論この合宿所に入ったこともなければ、こんなに近づいて見るのもはじめてだった。よく見れば、ところどころ壁に亀裂が入っている。そういえば、十数年前の神戸の震災以降、立ち入り禁止になったのだと誰かから聞いた。
 「冬休み中に取り壊されて、新しい合宿所ができるんだって」
 千が言った。言われてみれば、周りには建築資材らしきものがちらほら見られる。誰からも見捨てられたその建物を、千はまるで友に別れを告げるように、物悲しそうな表情で見つめていた。
 「好きだったのか、これ」
 「あ、わかる?」千は子どもっぽく、はにかみながら笑った。「俺だけじゃなくて、つるも好きだったんだよ。いや、つるが好きだから俺も好きって言ったほうが正しいかな」
 「つるが?」
 「うん。きっと、自分に重ねてたんだろうね」
 「え、これを?」
 彗太は改めて目の前の寂れた廃墟を見た。コンクリートの外壁は装飾もなく無機質で、アルミの窓枠は錆び付き、ガラスは曇って一部割れている。とても千の言うように、つるの姿とは結びつけられなかった。
 「わからない?」
 千は、今度はそう聞いた。この場にいるのは彗太と千のふたりだけだった。数千人の学生が学ぶはずのキャンパスは、まるで死んだように静まり返っていた。
 「似て・・・るかぁ?つると合宿所」
 「俺は似てると思うけどね」
 「どこが?」
 「どこがって言われると困るけど・・・そうだな、全然役に立たないところとか、誰からも必要にされてないところとか」
 千は淡々と言った。
 「それから、もう何のためにあるのかわからないところも」
 「やめろよ」
 彗太は途中で聞いているのがつらくなって、千を言い差した。つるのことはほとんど知らないが、なぜか彼女がひどくかわいそうになった。脳裏に十年前の千鶴の姿が浮かんだ。
 「それでも俺は、つるが好きだよ」
 彗太に反論するように千はぼそりとそう言うと、小さな手に白い息を吹きかけた。
 「なんだ、寒いのか?」
 彗太は何の気なしに千の手を取った。それは、びっくりするほど冷たかった。彗太は思わず手を離した。
 「・・・」
 「・・・つるは、冷え性だから・・・」
 千はうつむいた。マフラーをしていないため、コートの間からのぞく白い首筋がいかにも寒そうだった。彗太は突然肌が粟立ち、一種変な気持ちになった。
 「俺、もう行くよ」
 「あ、ちょっと待て」彗太は、自分の赤いチェックのマフラーを首から外した。「これ、やる」
 「え・・・」
 「使え。見てて寒そうだ」
 「彗太・・・さっきも言ったけど、俺、首に何か巻くの嫌なん・・・」
 「いいから!」
 彗太はそう叫んで、無理やりマフラーを千に押し付けた。突然の大声に、千は一瞬怯えた表情をした。彗太は自分でも、なぜこんなことをしているのかわからなかった。これ以上ここにいると、急に湧き上がってきた感情を抑えきれなくなりそうで、彗太はその場から走り去った。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 68