摂津家が大阪から長崎に越してきたのは、彗太が二歳の頃だった。病弱だった父、守の療養のため、彼の姉の嫁ぎ先である長崎を選んだというのが表向きの理由だったが、実際は、単に守がこの町に住みたかっただけなのだと、彼の死後に母親から聞かされた。摂津の家は、細い急な階段の坂道をのぼった先にあった。父が知人から買い取ったらしいその木造の一軒家は、古くて狭いながらも、軒先と家の裏手に小さな庭があり、そこから眼下に港を一望することができた。物心つく頃にはすでに、彼はその家で父母と共に三人で暮らしていた。
「あっつ・・・」 坂をのぼりながら、彗太は手で額の汗を拭った。学校から帰る前に教室の気温計を見た時には三十度と少しあったが、外に出てみると実際もっと暑く感じる。地面のアスファルトと背中の黒いランドセルが焼けるように熱い。誰がこんな色にしたのだろう、いっそ透明にすればいいのに、と時々本気でそう思う。坂の両側の高い塀が強い日差しを遮ってくれるのはいいのだが、同時に海からの風も遮られてしまうので、今日のように湿度の高い日はかえって蒸し暑い。はやくここを抜け出そうと、彗太は階段をのぼる足を速めた。 坂の階段をのぼりきると急に辺りの視界が開け、少し傾斜の緩くなった道の両側に、いくつかの古い家が立ち並んでいる。彗太の家もその中のひとつだった。梅雨が明けて少し赤みの差しはじめたあじさいが、各々の家の庭先から道端に顔を出している。自宅まであともう少しというところで、ふと、隣家のあじさいの間に小さな、白い人影が目に入った。彗太はなんとなく不審に思った。隣の家には老女がひとりで住んでいる。だが、今見えたのは確かに老女ではなかった。 そっと近づくと、かすかに水の音がした。むせかえるような土と緑のにおい。人の気配を感じ取ったのか、少女はホースで花に水をやりながら彗太のほうを向いた。玄関前の柵越しに二人の目が合った。それと同時に、あっ、と小さな叫び声のようなものをあげ、彼女は水の出たホースをそのまま放り出して、家の中へと走り去ってしまった。彗太は呆然としたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 「なんだよ、変なやつ・・・」少女が去り際に見せた、何かに怯えたような目が、彗太の頭に焼きついて離れなかった。
「ああ彗太、おかえり。早かったね」 「ただいま」 家に帰ると、父親が台所の冷蔵庫の前になんだかそわそわした様子で立っていた。庭に面したダイニングには、スケッチブックや鉛筆といった画材が、いかにも作業途中といった感じで木質の床に転がっていた。またか、と彗太は思った。一応、画家を生業としている父の守は、看護師の母、文野に代わって、普段は家にいて摂津家の家事全般をこなしているが、後片付けと整理整頓だけはどうも苦手なようだった。というか、どこでも場所を選ばず絵を描く癖があるので、しばしば家中のいろんなところで蓋の開いた絵の具のチューブやらパンくずやらが見つかってしまうのだ。その度に守は文野にこっぴどく叱られるのだが、その癖はいっこうに治る気配がなかった。今日は油絵の具でないだけまだましだ。 「父さん、何してるの?」とりあえずランドセルをその辺において、冷蔵庫の中の冷えた麦茶を取りに来た彗太が尋ねた。 「なんか急に食べたくなってさ、アイスクリーム。材料買ってきて自分で作ってみたんだよ。三・・・二・・・一!はい完成!」磁石で冷蔵庫に貼り付けているタイマーの電子音が鳴ると同時に、守は勢いよく冷凍庫の戸を開けた。「ちゃんとできてるかなぁ。彗太も食べる?」 彼は子どものようにきらきらとした目で彗太に尋ねた。彗太ももう、アイスクリームごときではしゃぐほど幼くはないので、ん、と小さく頷いてから、二人分のガラスの器とスプーンを食器棚に取りにいった。 「そういえば、千鶴ちゃんにはもう会った?」冷凍庫から取り出した金属製の器の中身を混ぜながら、守が彗太に尋ねた。 「ちづる?」 「隣のおばあちゃんのお孫さん。さっき、外でお隣の庭のあじさいを描かせてせてもらってたら、ちょうど来たところでね。ほら」彼は床の上のスケッチブックを指した。手にとって見ると、鉛筆で、あじさいの花と白いワンピース姿の少女が描かれていた。さっきの子だ、と彗太は思った。 「五年生だって言ってたから、彗太よりひとつ年下だね。しばらくこっちにいるらしいよ」 「ふうん」彗太は興味なさげな返事をしながら、心の中で、ちづる、と呟いた。絵の中に描かれた彼女の目もまた、わずかに怯えの色を含んでいる。 「彗太、スプーンと、何か入れ物」 「あ、うん」彗太はスケッチブックを置いて、ガラス容器とスプーンを父のところに運んだ。いつの間に買ったのか、守はアイスクリーム専用のスプーンで金属容器からそれをすくい、ガラスの器の中に盛りつけた。やたらカラフルなのと、何か黄色い欠片が入ったものと、どうやら二種類作ったらしい。 「こっちはマーブルチョコ味。で、こっちはカステラ味。どう、おいしそうでしょ」 「・・・」 チョコレートはともかく、なぜアイスクリームにカステラを入れるのか。彗太は父に一言そう言いたかったが、いつものことなのであえては言わなかった。凍ったカステラを食べたことはないが、とりあえず不味くはないだろう。 「じゃあ、こっちの器は千鶴ちゃんに持って行ってあげてね」 「え?俺が?」 「はい、いってらっしゃい」 守はアイスクリームを盛った器とスプーンを彗太に持たせ、問答無用で彼の背中を押した。さっきのことがあったので、正直彗太はあまり気乗りしなかったが、仕方なく言われたとおりにすることにした。表に出ると、相変わらずの強い日差しで早速アイスが溶けはじめた。彗太は急ぎ足になった。鶴見、と書かれた隣の表札の前に来ると、玄関前の庭先にはまた彼女の姿があった。ちょうど、出しっぱなしにしていたホースの水を止めに出てきたところのようだった。 「おい」彗太はぶっきらぼうに声をかけた。「アイス、食うか」 彗太に気づくと、彼女はふたたび驚いた顔をしたが、今度は逃げなかった。 「父さんが作って、持っていけって。ほら」開いていた門から庭に入り、彗太は片方の器を千鶴に差し出した。「はやく取れよ、溶けるだろ」躊躇していた千鶴に、彗太はなかば無理やりそれを押し付けた。千鶴はおずおずとそれを受け取ると、小さな声で、ありがとう、と言った。 「これ何?この黄色いの」 「カステラだって」 そう、と彼女は言うと、スプーンでそれをすくって口に運んだ。 「座る?」千鶴は裏庭に面した縁側を目で示した。裏庭には、玄関から家の横を通って直接行くことができる。そこにもあじさいが咲いていた。 「鶴ばあは?」彗太は尋ねた。隣家の老女を、彼はそう呼んでいた。 「おばあちゃん?今ちょっとお出かけしてる」千鶴はベランダから家の中に目をやった。家の中も外もしんと静まりかえって、時折思い出したように蝉の鳴く声がしては、またぷつりと途絶えた。 縁側に並んで腰掛けると、ちょうどそこが庇の陰になっていたのと、港から斜面を吹き上がってくる風があったのとで、ほかよりいくぶんか涼しかった。 「うまいか?それ」 「どっち?」 「カステラのほう」 さっきから千鶴が、カステラが入ったほうのアイスクリームにばかり手をつけているので、彗太は尋ねた。千鶴は手を止めて、少し考え込んでから答えた。 「おいしい、けど、別々に食べたほうがいいと思う」 「やっぱり、そうだよなぁ」彗太は笑った。それにつられたのか、千鶴もまたわずかに笑みを見せた。 (なんだ、ちゃんと笑えるじゃねーか) 彗太のほうでも少し緊張が解けた。 「お前、五年生だっけ」 「うん。ええと、摂津くんは六年生、だよね。おじさんから聞いたんだけど」 「そう、一個先輩な」 しばらく沈黙が流れた。彗太は軽く伸びをしてから、白いペンキ塗りの縁側に仰向けに横たわった。横になってみると、アイスを食べ終えて空になった器に、少し傾きはじめた日の光が透けて、きらきらと光っている。 「さっき、ごめんね」 「ん?」彗太はごろんと千鶴のほうに寝返りを打った。 「急に人がいたから、びっくりしたの」そう言って、彼女は少し気まずそうに言った。「私、人見知りするらしいから・・・」 「・・・」 この体勢からは逆光になっていてその表情を窺い知ることができなかったが、彗太にはそれがとても悲しい声に聞こえた。 「泣くなよ」 「泣いてない」 また長い沈黙が流れた。彗太自身、なぜ彼女が泣いていると思ったのか、自分でもよくわからなかった。 「お前、いつまでここにいるんだ?」彗太は寝転がったまま訊いた。 「わかんない」 「ていうか、学校は?まだ夏休みじゃないだろ」 「学校は、先生に言ってお休みさせてもらってる。大丈夫だよ、教科書とかノートとか全部持ってきてるから」 千鶴は淡々と言う。あまり学校が好きではないのだろうか、と彗太は感じた。 「もし、勉強でわかんないところとかあかったら、俺が教えてやってもいいぞ。もう習った問題だからな」 「ん・・・ありがと」 「あ、お前、あてにしてないだろ」 千鶴はくすくすと笑った。 その時、鶴ちゃん、と家の中から千鶴を呼ぶ声が聞こえた。彗太は身を起こした。 「鶴ばあ?」 「帰ってきたみたい」彼女の顔から、すっと笑みが引いた。ふたたび、鶴ちゃん、という声がした。 「おばあちゃんが呼んでるから、行くね。あ、食器・・・」 「いいよ、うちで洗うから。じゃあ俺も帰るな」 「ごめん、ありがとう。おじさんにもお礼言っておいてね」千鶴は立ち上がり、ベランダのフランス窓を開けた。「バイバイ」 ぱたん、と観音開きの窓が閉められた。それに合わせて、ベランダに咲くあじさいの葉が西日を受けながら静かに揺れた。
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