朝、諫早インターチェンジにつく頃に彗太は目を覚ました。外はよく晴れていた。乗務員から配られた紙パック入りの緑茶を飲みながら、三十分ほどしてバスは定刻よりもはやくJR長崎駅前の県営バスターミナルに到着した。 「うーん・・・」 彗太はバスを降りると一度大きく背伸びをした。もう慣れたとはいえ、十時間も狭い車内に座りっぱなしでいると、さすがに疲れる。時計を見るとまだ朝の七時前だった。彗太は駅前の停留所から電車に乗った。この時間ならまだ、母は家にいるかもしれない。 電車を降りて、彗太は荷物を手に急な坂道をのぼった。早朝だがもうすでに暑い。唸るような蝉の声の中を歩きながら、首筋に汗が流れ落ちた。狭い階段をのぼり終えると、あとは楽な傾斜が続く。彗太は実家の隣の駐車場の前で足を止めた。 「・・・」 かつて鶴ばあの家が建っていたところは、今はアスファルトの更地になっている。摂津家との間には金網フェンスが築かれ、両家の間に生えていた松の木は、彗太の家の庭に移された。玄関先に植えられていた見事なあじさいも、今はもうない。いつまでもこうしていても仕方がないので、彗太は足を進めた。 「彗太!おかえり!」 玄関の呼び鈴を鳴らすと、すぐに文野が表に出てきた。 「あんたまた少し痩せた?ちゃんとご飯食べてるの?夏バテなんじゃない?色も白いまんまだし、どこにも遊びに行かなかったの?」 「ていうか、中に入れろよ!」 彗太は両手に荷物を持ったまま文野の質問攻めに遭い、玄関先に立ったままになっていた。肌の色が白いのは遺伝だろう、と彗太は心の中で母につぶやいた。文野は大笑いして、彗太の荷物を半分手に取った。 家の中は、窓を開けて風通しをよくしてあったため、涼しかった。五月の父の命日に一度帰省しているので、あまり久々という感じはしないが、一階の居間の家具の位置が以前と少し変わっているのに彗太は気づいた。 「門馬は?」 彗太はとりあえず荷物を置き、文野に尋ねた。彼女は出来上がった朝食をテーブルに運びながら、まだ寝てる、と言った。 「今日も学校でプールの授業があるらしいんだけど、お母さんご飯食べたらもう出かけるから、悪いけどあとで起こしてあげてくれる?」 「うん、わかった。何時から?」 「えーと、十時?十時半?どっちだっけ」 「まあいいや、九時頃になったら起こすよ。母さんの部屋だよな」 「うん、よろしくね」 文野は微笑んだ。化粧の仕方を変えたのか、以前よりも少し若く見えた。 久々に母親のつくった食事を食べ、彗太は仕事に行く彼女を玄関で見送った。今日は早く帰ると言っていたので、夕飯にまた何かつくる気なのだろう。五月に帰ってきたときには、その日の夜の食卓にカレーと寿司とエビフライが同時に出てきた。 彗太はテレビの上に移動した壁掛け時計を見た。まだ八時前だ。少し眠りたい気もするが、九時に門馬を起こさなければならないので、それまでは起きていなければならない。彗太は自分の荷物を持って二階の自室に向かった。小学校を卒業するまではあまり使っていなかったこの部屋だが、中学入学と同時にエアコンを入れてもらって以来、計三度の受験もあって、そこで過ごす時間が長くなった。久々にドアを開けると、部屋の中は案外きれいだった。空気もこもっていない。たぶん、昨日文野が掃除しておいてくれたのだろう。彗太は部屋の窓を開けた。海のにおいを含んだ風が、部屋の中に流れこんできた。帰ってきた、と彼は思った。 九時になったので、彗太は門馬を起こしに一階へ降りた。日はもうだいぶ高くなっている。彼は一階にある母親の寝室の扉をそっと開けた。ベッドの上では、門馬がタオルケットに包まれた状態で猫のように丸くなって寝ていた。 「おい門馬、朝だぞ。はよ起きらんね」 「んー・・・」 「学校でプールあるんだろ。遅るっばい」 「あ・・・あんちゃん・・・?」門馬は寝ぼけ眼で彗太の顔をとらえた。 「さ、起きた起きた」 弟が目を覚ますと、彗太はすぐに彼から掛け布団を奪った。こうしないと寝起きの悪い門馬は起きないのだ。ふたりの父である守もそうだった。門馬は彗太に引っ張られる感じでベッドから出た。ぼんやりと洗面台に向かう後ろ姿を見ながら、また少し大きくなったな、と彗太は思った。文野が電話で言っていたとおり、門馬は耳の後ろから足のつま先まで真っ黒に日焼けしていた。彗太は朝食の味噌汁を温めなおし、焼き鮭と卵焼きを電子レンジにかけている間、保温しておいた米を茶碗に盛り付けた。そうこうしているうちに、顔を洗った門馬が居間にやってきた。 「あ、門馬。今日のプールの授業って何時からなんだ?十時?十時半?」 「今日は十時から」 「それなら、ちょっと急いだほうがよかかね。まだ味噌汁温まってないから、先に着替えてきな」 彗太がそう言うと、門馬は素直にそれに従った。いつもは生意気盛りだが、久々に会うということもあってか、今日はずいぶんとおとなしい。しばらくして、パジャマからTシャツと半ズボンに着替えた門馬が、プールバッグを手に戻ってきた。 「ごはんは?」 ダイニングテーブルの椅子に座るやいなや、門馬は兄に向かってそう尋ねた。 「ごはんは?じゃなか。手伝えよ」 「眠い、おなかすいたぁ」 「まったく・・・」 ぶつぶつ言いつつ、彗太は朝食をトレーにのせて運んだ。弟のわがままはやはり相変わらずだった。いきなり箸を付けはじめた門馬を、彗太は「まず『いただきます』だろ」と諭した。 「いただきまーす。テレビ見てよか?」 「だめ、食事中」 彗太は弟の頭をこつんと叩いた。摂津家では家族の誰かが一緒にいる時、食事中のテレビおよび携帯電話は原則禁止になっている。少し厳しいかもしれないと自分でも感じているが、父親がいないぶん、兄である自分がしっかり躾けなければいけないと彗太は思っていた。門馬もそれ以上は聞かなかった。彼は少しわがままなところもあるが、ちゃんとした理由をつけて説明すれば素直に従うという物わかりのよさも持ち合わせていた。その点、一見利口で大人の言うことをよく聞くいい子だが、内実は頑固で我の強い彗太とは正反対だった。 「門馬、お前また背伸びた?今何センチになっとっと?」 彗太は門馬のよい食べっぷりを見ながら、頬杖をついて尋ねた。 「あのな、夏休み前に保健室で測ったら、128センチあった!クラスで二番目!」 「へえ、そりゃごつかね」 嬉々として話す門馬を前に、彗太もつられて笑顔になった。比較的背が高いのは父親譲りかもしれない。身長だけでなく顔つきや食べ物の好みなど、門馬はあらゆる面において、今は亡き父の守によく似ていた。彗太は父の子どもの頃を知らないが、きっとこんな子だったのだろう。 朝食を終えて歯を磨かせると、すでに十時十分前になっていたので、彗太は車で門馬を学校まで送っていった。校門の前で車を止めると、門馬の同級生であろう子どもたちが、彗太らのまわりにわらわらと集まってきた。 「うわぁ、運転手付とか摂津すげぇー」 「なあ摂津くん、そい摂津くんのお兄ちゃん?」 「あんまり似とらーん」 「ええなぁ送り迎え」 子どもたちは好き勝手に思い思いのことを言っている。門馬はかばんを持って、少し誇らしげに助手席から降りた。 「じゃあ、終わったら迎えに来るから。ここで待ち合わせな」 「うん」 弟を送り出して、彗太は運転席から懐かしい母校の校舎を見た。あの頃とちっとも変わっていないことに、彗太はなぜかほっとした。 家に帰って一人になると、彗太は急に眠気に襲われた。一時間半後にはまた門馬を迎えに行かなければならないのだが、あまりにも眠いので、彼は居間のソファーで仮眠を取ることにした。携帯電話のアラームを合わせてから、ソファーに身体を横たえ目を閉じると同時に、自分が一気に眠りに落ちていくのがわかった。
背中に違和感を感じて目を覚ますと、どこかで携帯電話がけたたましく鳴っていた。 「へ・・・?」 彗太は身体を起こした。枕元に置いたはずのそれは、いつの間にか彼の背中の下に潜りこんでいた。どうりでくすぐったかったはずだ。音と振動を止めようと思って、携帯電話を手に取り、液晶ディスプレイに表示されたデジタル時計を見ると、門馬との約束の時間をとうに過ぎていた。 「やべっ・・・寝過ごした」 彗太はソファーから飛び起きた。車のキーを取り、あわてて家を出ると、ちょうど門馬が学校から帰ってきたところだった。 「あ・・・」 弟の隣には大男がひとり立っていた。三十代後半ぐらいだろうか、がっしりした体格、短く切った髪に褐色の肌と、いかにも健康そうだった。彗太は直感で、それが誰なのかを察した。彼は彗太を見ると、人のよさそうな笑顔で笑った。 「あ、摂津の兄さんか?よかった、待ってもなかなか来んから、何かあったんじゃないかと心配してたんだ。一組の担任の河内いうもんです」 「あ・・・はい」 やっぱり男か、と彗太は思った。 「彗太ぁ、お前寝てただろ。頭に寝癖ついてんぞ」 門馬はまだ湿った髪のまま、彗太のところに走ってきた。 「プールが終わったあと、摂津がいつまでも校門前に立っとるもんだから、こりゃ日射病になってしまうと思って。そいけん連れて帰ってきたんだけど」 「それは、すいません」彗太は頭を下げた。「ほら門馬、お前も先生にお礼言わんか」 彗太が門馬にも頭を下げさせようとすると、河内は「よかよか」と言って笑った。 「そいじゃ、俺はそろそろ」 「じゃーなー、先生」 「あ、ちょっと待ってください」 彗太はそう言って、急いで家の中から土産物の入った袋を取ってきた。 「これ、つまらないものなんですけど」 彗太は例のたこ焼煎餅を河内に手渡した。ど派手なパッケージを前に、今更になって、これを選んだことを後悔した。 「あの、弟がいつもお世話になってるって、母から聞いて。その、よかったらもらっといてください」 「えぇ!?俺に!?」河内はやや大げさに驚いた。「うわぁ、ありがとう!こんなんもらえると思っとらんかった・・・嬉しいなぁ。大阪名物?へぇー、すごか、どうもありがとう!大事にする!」 「いやその、ほんとに大したものじゃないんで・・・」 河内の喜びぶりに、彗太は逆に戸惑ってしまった。その後も彼は何度も礼を述べて、坂道を走って去っていった。 「面白い先生だろ、河内先生」 門馬が嬉しそうに言った。彗太は弟の言葉に、ただ「ああ」と答えただけだった。あまりにも人がよさそうな人物だったので、彼はなんだか拍子抜けしてしまっていた。
その週末、仕事が休みの文野と門馬、さらに守の姉の市子を連れた合計四人で、彗太自身の運転する車に乗って、市郊外にある守の墓参りに出かけた。途中スーパーで供え物のお菓子と線香、ろうそく、花などを買って、燦々と照りつける太陽の中、再度車を走らせた。 「彗太ぁ、アイスー」 「あー、伯母さん、門馬にクーラーボックスからアイス取ってやって」 彗太は運転席から、後部座席に座る伯母の市子に頼んだ。同じく後部座席に座った門馬は、市子からさっきスーパーで買ったアイスクリームを受け取ると、おいしそうにそれを食べはじめた。 「こら、あんまりそう急いで食べるな。腹こわすぞ」 「まあまあ、いいじゃないの。こう暑いとすぐに溶けちゃうし」 彗太の言葉に、後ろで市子が苦笑した。彼女は甥の門馬に少し甘い。 「お義姉さん、門馬がアイス落とさないように見ててやってね」 助手席から文野が心配そうに言った。墓参りにもかかわらず、車内はむしろ遠足のような雰囲気に包まれていた。 あまり広くはない墓地の駐車場は、すでにほかの車でいっぱいだった。なんとか空いたスペースを見つけてそこに車を止め、四人は車外に出た。 「俺、水汲んでくるよ」 彗太がそう言うと、俺も行く、と門馬が後ろからついて来た。 「お墓にばしゃって水掛けるの、俺がやりたい」 「はいはい」 彗太は外の水道でバケツに水を汲み、弟に柄杓を持たせた。門馬はわかっていないのか、守の墓まで行く途中にも、柄杓を手に共同墓地の中を無邪気に走り回っていた。一方の彗太は、水の入った重いバケツを持ってその後を歩いた。日差しで頭がくらくらする。ここに来るのは何度目だろうか。免許を取る前はいつも伯母の車に乗せてもらっていたが、最近ではもっぱら自分で運転して来る。灰になった父が冷たい土の中に埋められた日、このあたりは雨が降っていた。あれから何年が経つのだろう。 「彗太ぁー、はやく来いよー」 先に摂津家の墓にたどり着いた門馬が、階段の上から彗太を呼んだ。文野と市子もいる。彗太はバケツを持って走った。 きれいに片付けられた守の墓を前に、四人は手を合わせた。この時ばかりは門馬も状況を察して、神妙そうな面持ちで目を閉じていた。彗太は心の中で、最近身の回りに起こったことを亡き父に報告した。大学のこと、寮のこと、それから千鶴――千のこと。彗太は、千とつるのことを他の誰にも話したことはなかった。千自身はそれについて特に何も言わないが、この件は一切他言無用なのだと彗太は感じていたし、自分たちの関係はそれで成り立っているのだとも知っていた。 「彗太、もういい?」 かなり長い間そうしていたのか、文野が申し訳なさそうに彗太の肩を叩いた。門馬はすでに、伯母をつれてそのあたりを散策している。すると、その近くを、墓参りに来たのであろう十名ほどの家族連れが通りかかった。その中のひとりに、彗太は見覚えがあった。 「あら、お隣のおばあちゃんの・・・」 文野がつぶやいた。鶴ばあの娘もこちらに気がついたようで、遠くから軽く会釈をした。彼女のほかにも、その夫子どもや親戚と思しき人びとが集まっていた。きっとそのうちの何人かは、数年前鶴ばあの葬儀に参列した時に何らかの形で会っているのだろうが、喪主を務めた彼女の長男を除いて、彗太は誰一人として顔を覚えていなかった。その長男も彗太たちに気付くと、丁寧に頭を下げた。鶴ばあによく似た優しそうな人物で、もう五十をとうに過ぎたのだろう、頭には白いものが混じっていた。彗太はなんとなく千鶴の顔を思い出した。少し似ている気がする。親戚だからだろうか。 「じゃあ、お母さんたちももう行こうか」 文野はそう言うと、夫の墓にもう一度手を合わせた。その時、彼女が彼に何を話したのか、彗太には見当もつかなかった。
精霊流しの日の夜、彗太は門馬を連れて街におりた。本当は文野も行きたがっていたのだが、大掛かりな行事ゆえ、怪我人に備えて病院で待機することになった。彗太は一方の手に藁のむしろに包んだ供え物を、もう一方の手に門馬の手を取って狭い坂道をおりた。 「こら門馬、人が多いから絶対に離れるなよ」 すでにそわそわしている門馬を、彗太は自分のほうにぐいと引き寄せた。 大学に入学した当時、他郷出身の友人らと話していて彗太は驚いたのだが、彼らの大半が精霊流しを夏祭りと思っているか、ないしは秋におこなわれる長崎くんちと混同していた。確かに、毎年これを見に長崎にやって来る観光客も多く、精霊船や爆竹の音は賑やかでとても騒がしいが、亡くなった人の冥福を祈るためのれっきとした仏教行事である。とはいっても彗太自身、その騒がしさの中にある悲しみに気付いたのは、父が死んだ後になってからだった。 「なーなー、彗太」門馬が彗太の手を引いた。「帰りにコンビニでアイス買ってもよか?」 「お前なぁ・・・」 まだ幼い門馬は父の死に実感がないのか、縁日か何かにでも行くように、無邪気にはしゃいでいた。彗太は「あとでな」と言って、できるだけ人の少ない道を選びながら川沿いの通りに出た。供物の収集所はいくつかあるが、彗太が来るのはいつもここである。最も人の集まる大波止よりましとはいえ、ここもかなり人が多い。弟が迷子にならないように、彗太はその手を握りなおした。 「あっ」 その時突然、門馬が視線の先に何かを見つけた。 「河内先生だ」 そう言うやいなや、彗太があれほど離れるなと言ったのに、門馬は勝手に彼の手をはなして、人ごみの中にひとりで走っていった。 「こらっ、門馬!」 彗太はあわててその後を追った。 「せんせー!」 「あれ、摂津」 河内はふたりの姿に気付くと、いくぶん驚いた顔を見せた。彼は容姿はいたって普通なのだが、とにかく体躯がいいので、暗いところでも文字通り頭一つ抜きん出ていた。門馬はその彼に駆け寄ると、いきなり横から飛びついた。 「すいません、弟が」 後から追ってきた彗太は、河内から門馬を引き剥がし、頭を下げた。 「はは、元気でよかよか。ところで摂津、ちゃんと宿題やっとるか?」 「はい、あとは作文だけで」 「何で彗太が答えると」 「いーだろ別に」 そんな兄弟を見ながら、河内は微笑ましそうな顔をした。彼もまた、大きな手に供物を包んだむしろを二つ持っていた。手元に注がれる彗太の視線に気付いたのか、河内は少し困った様子で言った。 「や、お恥ずかしながら、妻と子どもの分でね」 「あ・・・すんません」 彗太はぱっと目を逸らした。河内に妻子がいたとは知らなかった。そして、彼女らがもうこの世にいないということも。 「ええと、君らも?」 河内は、彗太が手に持っている供え物を指した。表情から察するに、守のことはもうどこかから聞いているのだろう。彗太は軽くうなずいた。話が難しくなってきたせいか、門馬はふたりから少し離れたところで、収集所に備えられた他の供物のほうに関心をやっていた。風は不思議と涼しく、遠くのほうからは爆竹が鳴り響く音が聞こえた。 「あの・・・失礼ですけど、奥さんたちはどうして・・・?」 彗太は訊いた。なぜか、自分にはそれを訊く権利があるような気がした。 「交通事故、かな。もう五年も前だけど」 河内は努めて明るく答えようとしていたが、その表情には暗い影が差していた。彗太はただ、そうですか、としか答えることができなかった。他に何も言えるはずがなかった。どんな同情の言葉や励ましの言葉をもらっても、死んだ人間はもう帰ってこないのだから。 (俺も、いつか死ぬのか?) 彗太は心の中で自問した。すぐ近くでも爆竹が鳴りはじめた。と同時に、場の空気が一挙に熱くなった。しかし、彗太の心はそれとは逆に冷めていた。 (俺が死ぬ?そんなわけないだろ) 誰かが答えた。そうだ、自分が死ぬはずはない。死んではいけない。生きなければならない。そう、父と約束したのだから。 「彗太ぁー、せんせー」 門馬がふたりを呼んだ。彗太は急に、周りの気温が二、三度上がったような気がして、逆に身震いがした。 河内と一緒に供物を収集所に置いて、彗太は手を合わせた。むしろには文野と相談して、絵筆と絵の具、それから砂糖菓子を包んだ。守ならきっと感激してくれるだろう。その横で、文野よりも少し若いぐらいの年頃の女がひとり、彗太と同じように供物を供えて手を合わせていた。 「・・・?」 どこかで見たような顔だった。しかし、どこだったのかさっぱり思い出せない。 「あの…何か?」 「あ、いや、何でもないっす」 視線に気付いた女が怪訝そうな顔でこっちを見たので、彗太はあわてて首を振った。彼女は少し不思議そうにしたが、すぐにまた暗い海に向かって手を合わせた。 背後のほうからは、爆竹の炸裂音とともに道路を練り歩く行列の声が聞こえた。海の彼方へ向かって吹く風に乗って、死者の魂がふたたびあの世へ帰っていく。
八月も半ば、梅雨ではじまった夏がもうすぐ終わろうとしていた。
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