来週長崎に帰る、そう伝えるために千に電話すると、彼は意外にも「見送りに行くよ」と言った。 「でもバスが梅田を出るの、夜の九時だぞ」 「うん。だからついでに、梅田で一緒に晩ご飯でも食べよう」 彗太は、実は少し驚いていた。まさかあのそっけない千が、わざわざ自分を見送りに来て、ましてや食事に誘うなどとは思ってもみなかった。携帯電話を手にしたまま返事せずにいると、千が「ひょっとして都合悪い?」と尋ねた。 「まさか」彗太は答えた。「じゃあ当日の・・・そうだな、夕方五時に、そこの駅前で待ち合わせな」 「わかった。それじゃ、また」 そう言うと、千は電話を切った。 彗太はベッドの上に仰向けに横たわった。暗くなった窓の外に目をやると、外ではいつの間にか小雨が降り出していた。一階からはまたピアノの音色が聞こえる。奏者はきっと大和だろう。またあの『ゴンドラの唄』を弾いている。
いのち短し 恋せよ少女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
ガラス窓を小さな雨粒が叩く。彗太は図書館でつるに会った日のことを思い出した。あれから三ヶ月近くがたつ。あの時彗太がたまたま傘を間違えなければ、こうやって千に会うこともなかったのかもしれない。
明日の月日の ないものを
彗太は部屋の片隅にある父の絵に目を移した。父がいつこれを描いたのかはわからないが、少なくとも十年以上は前である。絵の中のグラバー園は、千鶴と過ごしたあの頃のまま時間が止まっていた。
帰省の荷物とお土産を持って駅の改札口で待っていると、約束の五時から五分ほど遅れて千がやってきた。 「ごめん、遅れた」 「気にすんな。っていうか、大丈夫か?」 ここまでずっと走ってきたのか、彼は息を切らしていた。 「ちょっと、買い物に行って悩んでたら、時間がなくなって・・・はい、これ」 「え?」 「お土産。おばさんたちに」千は紙袋に入ったそれを彗太に手渡した。「大阪のカステラ。できたら早めに食べて」 「そんな、気遣わなくてもよかったのに」 こういう時、素直に感謝の言葉が出ないのが自分の悪いところだと彗太自身わかっているが、千もそれを承知しているのか、ただ軽く笑ってうなずいた。 ひとつ増えたお土産を手に、彗太と千は電車に乗った。大阪駅に近づいてくると、眼下にはごちゃごちゃとした雑多な街並みが広がり、林立するガラス張りのビル群の側面に反射する赤い夕焼けの斜光が目に眩しかった。電車を降りると、駅は相変わらず人でごった返していた。持つよ、と千は彗太の手荷物をひとつ、さっと手に取った。 「あ、いいって別に」 「だって重そうだし」と言いつつ、千はそれを軽々と持っている。こう見えて結構力持ちなのかもしれない。改札出口の方へ歩いていきながら、千は言った。「で、バスはどこから出るの」 「えーと、阪急の下の・・・なんだっけ」 「三番街?」 「そう、三番街のバスターミナル」 「ああ、あそこか」千は行ったことがあるのか、得心したような様子だった。「だったら、三番街で夕飯食べればいいかな。彗太、もう腹減ってる?」 「すごく」 実を言うと、彗太は朝からほとんど何も口にしていなかった。昨日夜遅くまでレストランのアルバイトをして、今日は起きてからずっと帰省の準備に追われていた。 JR線の改札を出て、ふたりは阪急の梅田駅まで歩いていき、そこから地下の飲食店街に下りた。店舗の間を流れる地下の人工河川の横では、子どもらが足を止めてしきりに水の中を覗きこんでいた。中に硬貨を投げ入れる者がいるのか、川底には結構な数の一円玉や五円玉が沈んでいる。同じように願い事をしようと、親にコインをねだる子どもたちを見て、千は懐かしそうに目を細めた。 「千、お前何食いたい?」 「俺は何でも・・・あ、あそこはどう?」 彼は前方の角にある店を指差した。焼き鳥屋のようだった。 「ここ昔、母さんと来たことがある気がする」 「ならここにするか」 暖簾をくぐると、焼き鳥の匂いと居酒屋らしい威勢のいい声で迎えられた。店内のカウンター席は酒を飲みにきた客らで満席だったが、隅にある禁煙席がひとつ空いていたので、ふたりはそこに通された。店の中では、プロ野球のナイター中継のラジオが掛かっていた。 「なんか、まさに居酒屋って感じだな」 彗太がメニュー片手に小声でそう言うと、横のカウンターで歓声が上がった。どうやらホームランで阪神に一点入ったらしい。彗太は野球にとんと興味がないが、向かいあって座る千は少し反応していた。若い店員がグラスに入った水を運んでくると、彼は少し珍しそうな顔で千のほうを見た。確かに、この場所に『千鶴』はあまりそぐわないかもしれない。 注文を終えたあと、料理が出てくるのを待っている間に、彗太がメニューに挟まれていた焼酎のリストを眺めていると、千が「今からバスに乗るんだろ」と彼をたしなめた。 「見てるだけだって。千は何か飲むか?」 「ううん。それに、千鶴はまだ未成年だし」 「千鶴はって、お前は?」 「俺は千鶴とつるよりも一つ上。つまり彗太と同い年」 「へぇ・・・」 そんな違いがあるのか、と彗太は思った。 「じゃあ、もしかして誕生日とかも違ったりするのか?」 「違うよ。つると千鶴は十二月だけど、俺は七月」 「七月って、もう過ぎてんじゃねーか」彗太が大げさに言うので、千はおかしそうに笑った。 「誕生日って言っても、毎年つるがケーキ買ってきて祝ってくれるだけだよ。しかも、結局それもつるが食べるし。まあ、今年はもらってないけど」 「・・・悪かったって」 そうこうしているうちに、注文した料理がテーブルに運ばれてきた。ふたりともまったく同じものを頼んだので、来たのも同時だった。料理は二段重ねの弁当のようになっていて、一段目には鶏肉と卵のそぼろ飯、二段目には焼き鳥やサラダ、漬物などが入っていた。さらにトレーの上には、鶏ガラスープの入った器が添えられている。 「うまそうだな。鶏ばっかだけど」 「焼き鳥屋だからね。・・・あ、柴漬けあげる」 「ん?ならトマト食っていいぞ」 千と彗太はおたがいに、それぞれが苦手な食べ物を交換した。彗太も弟の前では偏食をしないように厳しく言うが、自分自身、生トマトとメロンだけは食べられない。おいしいのに、と千は彗太があげたサラダのトマトをかじった。 「そういえば、どれくらい実家にいるの?」 「んー、まだ帰りのバス予約してないけど、たぶん二週間ぐらいだな。九月がはじまるまでにはこっちに帰ってくる」 「せっかくだから、もっと長くいればいいのに。大学の授業はじまるの、十月なんだからさ」 「でも、九月になったら弟が学校だし。家でひとりで留守番しててもな」 「ああそうか」千は甘い卵そぼろをおいしそうに食べながら言った。「門馬くんだっけ、元気?」 「ああ、うん・・・」 彗太は鶏ガラスープをスプーンで混ぜながら、先日の母との電話を思い返した。 「どうしたの?」 「いや、なんかさ、こないだ実家に電話したら、母さんが門馬の学校の先生の話ばっかしてきたんだよ。河内っていう先生らしいんだけど」 「ふうん?」 「でさ、その河内先生にもお土産買って来いって。いくら門馬によくしてくれるからって、わざわざ土産物なんて、ちょっと大げさじゃないか?ただの担任の先生だろ。まあ、買ったは買ったけど・・・」 彗太は持ってきた紙袋に目をやった。一番下には、例のたこ焼煎餅が入っている。 「河内先生って、男の先生なの?」千が尋ねた。 「へ?何で?」 「だって、女の先生かもしれないだろ」 「あ…そっか」 「だったら彗太もそんなにやきもち焼かないんじゃない?」 「べ、別にやきもちとかじゃねーし」 彗太はそう言ったが、文野の話しぶりから、河内を男だと思い込んでいたのは事実だった。確かに、もし明らかに女性とわかるような名前で文野が河内を呼んでいたなら、彗太もこんなふうには思わなかったかもしれない。 「彗太好みの、若くてきれいな女の先生だったらいいのにね」 「何だよそれ」 「こないだ佐野先輩がそう言ってたよ。彗太は女教師が好きだって」 「っな・・・」彗太は口にしたスープを吹き出しそうになった。 「部屋に入ったときに色々見つけたって先輩言ってたけど、どういう意味?」 「気にするな」 恥ずかしくて、彗太はしばらく面を上げられなかった。千はわかっているのかいないのか、それ以上は聞かなかった。大阪に戻ってきたら、まず泉に一言言わなければならない。
食事の後、会計を済ませてから店を出た後も、バスが来るまでにはまだしばらく時間があった。ふたりはとりあえず一階のバスターミナルに移動した。 「ここで待ってればいいか」 千は待合室のベンチを指した。他にもバスが来るのを待っている乗客らが、本を読んだり携帯電話をいじったり、思い思いにそこで待ち時間を過ごしている。 「なあ、千」 「ん?」 「俺、ちょっと買い忘れたものがあるんだけど。ここで荷物見張っててくれるか」 「うん、いいよ」 彗太は大きな荷物はそこに置いて、いったんバスターミナルを出た。買い忘れた、というと半分嘘になるが、先ほど三番街の飲食店街から移動してくるさいに前を通った喫茶店で、少し気になるものがあったのだ。 買い物を済ませてバスターミナルに戻ると、千はベンチの上で彗太の荷物に寄りかかって、うつらうつらしていた。 「あー・・・、千?起きてるか?」 「・・・あっ、ごめんちょっと寝てた・・・。早かったね。何買ったの?」 千は身体を起こすと、彗太が手に持った小さな紙袋を見た。 「ほら、誕生日、おめでとう」 「え?」 寝起きということもあって、彼は、彗太がケーキの入った袋を差し出しても、それを前にきょとんとするばかりだった。 「食べたばっか、ていうかそもそも一ヶ月過ぎてるけど、とりあえずケーキ」 「ケーキ?何で?誰に?」 「お前じゃなかったら、誰にやるんだよ。先月誕生日だったんだろ」 千がいつまでたっても受け取ろうとしないので、彗太は袋を千の膝の上に置いて、自分も彼の隣に座った。 「・・・」 千が何も言わないため、彗太は少々不安になった。よかれと思ってやったことだが、下手に気を遣わせてしまったかもしれない。 「あー、その・・・」 「あっ、ごめん、ちょっとびっくりして」千は言った。「俺、つる以外の人から誕生日プレゼント、ていうかプレゼント自体もらうのなんてはじめてだったから、何て言ったらいいかわからなくて・・・ええと、ありがとう彗太」 彼は珍しく興奮した様子でそう言うと、驚きと歓喜の入り混じった顔で「開けてもいい?」と彗太に尋ねた。 「そんな、ただのショートケーキだって。保冷剤入ってるから、家に帰ってから開けたほうがいいと思うぞ」 彗太が照れ隠しにそう言うと、千は「じゃあそうする」とケーキの入った箱を大事そうに抱えた。彗太は正直、こんなに喜ばれるとは思っていなかった。 ふたりが長崎行きのバスを待っている間にも、次々と他の方面へのバスがターミナルに到着していた。盆休みということもあって帰省客が多いのだろう、小さな子どもから大人まで、待合室の中は大勢の大きな荷物を持った人で埋め尽くされ、故郷を前にそわそわした空気に包まれていた。それぞれ向かう場所は異なるのに、彗太はなぜかとても懐かしい気持ちになった。こういう感情は、空間を媒体に伝播するのかもしれない。 「ごめんな、彗太」 「ん、何だよ突然、やぶからぼうに」 眠いせいか、少し言葉少なになっていた千が言った。 「俺、ちょっと彗太のこと勘違いしてた」 「勘違い?」 「うん。自分で信じろって言っておいて何なんだけど、最初、彗太は俺のこと『千鶴』としてしか見てないと思ってたんだ。だから色々親切にしてくれるんだ、って。それに俺も、何だかつるとのバランスを崩された気がして・・・とにかく、彗太のことちょっと恨めしかったんだけど、でも」 千は続けた。 「でも、彗太は俺のこと本当に『千』として見てくれてるんだね。ありがとう」 「千・・・」 彗太は、自惚れてるかな、と笑う千の横顔を見つめた。その見た目はどこからどう見ても女だ。彼に突然「自分は男だ」と告げられたときは、彗太も、いったい何馬鹿なことを言っているのだと思ったが、いつしかそういうこともあるのだと考えるようになっていた。真面目でおとなしく、少し神経質だが根は優しい彼を、彗太はいつの間にか友達のように思っていた。 「それと、色々協力してもらったのに、何か・・・ごめん、俺のままで」 「何言ってんだよ」 そうこうしているうちに、長崎行きのバスが到着した。 『二十一時発、大阪梅田発・長崎行き、ロマン長崎号にご乗車のお客様は――』 放送が掛かると、周りにいた数名が待っていましたとばかりに各々の荷物を持って動き出した。彼らも長崎に行くのだろう。 「バス、来たよ」 千は少し悲しそうな表情をして、彗太の手荷物を持ち立ち上がった。ぞろぞろと待合室を出て行く乗客らのあとについて、彗太と千も外に出た。もう夜の九時だというのに、外は蒸し暑い。 「じゃあ、元気でね。おばさんと門馬くんによろしく」 「お前もな。それと、もし俺のいない間につるに戻ったらメールしろよ」 「俺が?つるになったら、俺はメールできないんだけど・・・」 「あっ、そうか」 「まあとにかく、そうしたらつるにメールするように言っておくよ」 「大丈夫か?」 「うん。適当にごまかして説明しておく」 千の顔に少し笑顔が戻った。困惑するつるを想像しておかしかったのだろう。 「じゃあな」 彗太はもう一度振り返った。千はケーキの紙袋を持っていないほうの手で手を振った。 梅田から乗る乗客がすべて揃ったので、バスは定刻よりも少し早く出発した。彗太は窓から外の景色を振り返った。高層ビル、観覧車の赤、電車の線路の明かりが背後に遠ざかっていく。彼は目を閉じた。翌朝には長崎に着く。
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