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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第16回   夏祭り
 「先生、頭痛いのん?」
 「・・・二日酔い」
 教え子と理科の問題集を前に、彗太は机に肘をついて頭を抱えていた。
 「知ってる?未成年は酒飲んだらあかんねんで」
 「俺は二十一だ!」
 彗太がそう言うと、つばさはけらけらと笑った。大声を出すと頭が痛い。
 「それより集中する!この問題まだ途中だろ。せっかくの土曜を無駄にする気か」
 「二日酔いのひとに言われたくないわぁ」
 「うっ・・・。これ終わったら、休憩にするから」
 つばさは「よっしゃ」と言うと、先ほどからほったらかしにしていた化学の問題に再度取り掛かった。
 今日の朝、彗太が蝉の鳴き声で目を覚ますと、東向きの窓から差す朝の日差しの中、住人らは散らかった談話室の畳の上でそのまま雑魚寝していた。彗太のすぐ隣には、すやすやと寝息をたてて眠る土居の姿があった。彗太より先に起きていたのは大和だけで、なぜか顔を見るなり爆笑された。自分が昨晩何をしたのかはよく覚えていないが、不思議なことに、土居に対する苦手意識や胸のしこりがすっかり消えてなくなっていた。
 「先生、終わったで」
 「ん」
 彗太はつばさが自信満々に出してきた回答―といっても基礎練習問題だが―の採点に取り掛かった。彼が赤ペンでチェックをしている間、つばさはあくびをしながら自分のベッドの上に横たわった。
 「寝るなよ、まだあるんだからな」
 「んー・・・でも、ちょっと疲れてん」
 今にも眠ってしまいそうなつばさを、彗太はそれ以上責めなかった。疲れているのはよくわかる。夏休み中とはいえ、毎日バスケ部の練習のために学校に通い、そのあと週四日・三時間の家庭教師をこなすのは少々きつい。彗太は、窓際にハンガーでぶら下げてあるバスケ部のユニフォームに目をやった。今は中学最後の引退試合に向けて猛練習中らしい。つばさは小さな寝息をたてはじめた。あと五分したら起こしてやろう、と彼は思った。

 彼女が両親と暮らす八尾家は、大宮寮から電車で二駅ほど離れたところにある。少し遠いので、彗太は大和に借りた自転車で、週に二回この家に通っている。前任だった薬学部の先輩の仕事を引き継いでから、そろそろ半年になろうとしていた。
 (あー、頭痛い)
 彗太はこぶしでこめかみをぐりぐりと押さえつけた。文野が頭痛の時によくやる癖だと、昔祖母に言われたことがある。別にこれで頭痛がよくなるわけではないが、いつもついやってしまう。
 その時突然、大音量で携帯電話の着信音が鳴った。
 「うわっ!?」
 「あーごめん。うちや、うち」つばさはその音に気づいて目を覚ますと、部活のスポーツバッグの中から装飾だらけの携帯電話を取り出した。
 「あ、亀っち?うん・・・うん・・・わぁ、行く行く!へ?あぁ大丈夫、童顔もうすぐ帰るから。ほんならまた後でな」つばさはそう言って電話を切った。
 「おい、ペラ子・・・」
 「先生おはよう!採点終わった?」
 「童顔ってのは俺のことか!」
 「えーでも、うちが付けたんとちゃうし。うちが、先生童顔やねん!って友達に言ったら、みんなが勝手にそう呼ぶねん」
 「って、結局お前が言ったんじゃねえか」
 「だってぇ!事実やもん!それに、童貞よりはましやろ」そう言うと、彼女ははっとなって、「豊中先生のあだ名」と付け加えた。豊中とは、つばさの国語と社会を受け持っている彗太の大学の同級生である。
 「そんなことより、うち、お祭り行かなあかんから、はよ終わらせよ」つばさはマイペースな様子でそう言った。
 「お祭り?」
 「うん、夏祭り。今日、この近くの河川敷であるんやって」
 彗太の脳裏に、ふと十年前の約束が思い起こされた。千鶴、もといつると千に会うまでは、彼自身すっかり忘れていたのだが。
 「先生どうしたん?まだ頭痛いん」
 「いや・・・」
 雨の中、ずっと自分を待っている小さな千鶴の姿が目に浮かんだ。はやく迎えに行かなければ、彗太はそう感じた。

 呼び出し音を十回ほど鳴らしたところで、千がようやく電話に出た。
 「・・・はい?」
 「あ、俺、彗太だけど」
 彗太はそう言うと軽く咳払いをした。彼の携帯電話の番号はだいぶ前に教えてもらっていたのだが、こうやって直接電話をかけることははじめてだった。寮の自室のベッドの上に座って、彗太は少しそわそわしながら受話器を右から左に持ち替えた。
 「なあ、今時間あるか?」
 「用件は?」
 それに対し、千はずいぶんとそっけない。彗太はさっそくめげそうになったが、それでもなんとか、今日河川敷で夏祭りがある旨を伝えた。
 「ふうん、お祭り」
 「千も来るか?せっかくだし、一緒に行こう」
 相手が千であるせいか、今回は素直に誘い文句が出た。千は、電話の反対側で少しの間考えてから、「彗太だけ?」と尋ねた。
 「ああ、うん。俺だけだけど」
 「なら行く」
 彗太は彼がなぜそんなことを訊くのか不思議だったが、とにかく一時間後に直接現地で会う約束をして、電話を切った。

 夜の七時、日が暮れて暗くなりだした河川敷に、ぞろぞろと人が集まりはじめていた。
 「あ、千!こっちこっち」
 他の見物客に混じって、千が堤防の階段を下りてきた。下で手を振っている彗太に気づくと、彼は少し微笑んだ。
 「おまたせ。何?そんながっかりしたような顔して」
 彗太の顔を見るやいなや、千はそう言って、まわりの見物客らに目をやった。すぐ側では、色とりどりの浴衣をまとった四、五人の少女らが和気あいあいと連れ立って歩いている。
 「もしかして、俺が浴衣着てくると思った?」
 「はぁ?」
 「悪いけど、そういうことはつるか、他の女の子に言ってあげて」
 「ばーか、そんなんじゃねぇよ」
 彗太はそう答えたが、千の言葉は半分図星だった。あの日、千鶴は浴衣が着たいと言っていた。結局それは叶わなかったのだが、彗太の頭の中にいる、一緒に夏祭りに行くはずだった千鶴はなぜか、祖母に着付けてもらったのであろう浴衣姿で彼を待っていた。
 「じゃ、行こう」
 千は河原の夜店の明かりを指した。電話ではあんなふうだったが、彼はそれなりに楽しんでいるように見えた。縁日の屋台が並ぶ通りに出ると、人ごみの熱気と乾いた土の上を歩く足音、ソースや綿飴のにおい、どこかから聞こえる祭囃子が、縁日独特の不思議な雰囲気を醸し出していた。
 「迷うなよ」
 彗太は、人の波に押し流されて、どこかに行ってしまいそうな千の腕を引いた。
 「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから。それにしても、縁日だけなのに結構人が多いね」
 人ごみの中を並んで歩きながら、千はあたりを見渡した。
 「昔は花火大会も一緒にやってたんだよ。今は景気悪いせいか、やめたみたいだけど」
 ほんの少しだけ寂しそうな顔で彼は言った。
 「昔は、って、来たことあるのか?」
 「俺じゃなくて千鶴がね。昔、この近くに住んでたから。言ってなかった?」
 そんなこと、彗太には初耳だった。そもそも千鶴が大阪出身ということ自体、今はじめて知った。
 「大阪人なのに、全然訛ってないんだな」
 「ん・・・確かに俺はね。母さんも九州のひとだしな。でも千鶴は少し、訛ってたと思うよ。つるがそうだから」
 「え?でも鶴子も普通だったぞ」
 彗太は十年前の記憶を引っ張り出した。あまり口数の多い子ではなかったが、大和らが話すようなこてこての関西弁ではなかったと思う。
 「じゃあ、気を遣ってたんじゃないかな。知らないところで、ひとりで、人の家に預けられてたわけだし」
 「そう・・・だったのか?」彗太は千の言葉に、内心少しショックを受けた。あの頃千鶴は自分にも、本当は打ち解けていなかったのだろうか。それが顔に表れていたのか、千はすぐに「俺がそう思うだけだから」と付け足した。
 「あれ?でもお前、今、商店街の近くのマンションで一人暮らししてるよな。実家は?」
 「小六の春に母さんと埼玉に引っ越したんだ。ていうか彗太、なんで俺の家知ってるの?教えたっけ?」
 「え、あ、うん」まずい、と彗太は思った。相手が千とはいえ、授業が終わって帰宅するつるのあとをこっそりつけて行ったとはさすがに言えない。千は、そうだっけ、と首をかしげていた。
 「まあいいや…あ、かき氷だ。買ってきていい?」
 「う、うん。俺も行く」
 大きく『氷』と書かれた暖簾をかかげた屋台には、涼を求めた祭りの見物客らが長い列をなしていた。彗太と千もそれに並んで、たがいにひとつずつかき氷を注文した。夜の七時過ぎとはいえ、店員から受け取った時点で、発泡スチロールのカップに入った氷はすでに溶けはじめていた。彗太は、ストローの先を切って作ったスプーンで、シロップのかかった氷の山を崩しながら、隣の千の手元に目をやった。
 「かき氷でみぞれ頼むやつって、ちょっと珍しいよな」真っ白い氷を食べている千を見て、彗太は笑った。「なんか、氷だけ食ってるように見える」
 からかわれて少しむっとしたのか、千は反撃に出た。
 「彗太こそ。俺、ブルーハワイ注文する人なんてはじめて見た。おいしいの?それ」
 「俺はいつもこれだけど。食ってみるか?」
 彗太は真っ青に染まった氷の塊を千の前に突き出した。彼は明らかに躊躇していたが、少しだけ、と言って自分のスプーンでそれをすくった。
 「あれ、お前左利きなんだな」
 「そうだよ」
 そういわれてみれば、腕時計も右の手首に巻いている。千鶴はどうだったろうかと思い記憶をたどると、向かい合わせに座って一緒に勉強していた彼女も確か、彗太の側から見て右、つまり左手に鉛筆を握っていた。つるのことも考えたが、利き手について思い出せるほど、彗太は彼女のことをよく知らなかった。
 「どうだ?」彗太は氷を口の中に運んだ千に尋ねた。
 「・・・これ、色もあれだけど、味もあんまりおいしくないんだね・・・」どうやら彼の口には合わなかったらしく、もうさっそく自分のみぞれ氷に手を付けている。
 「えっ、でも、うちの家族は全員、かき氷にはブルーハワイかけるけど」
 守も文野もまだ小さい門馬もみんな、縁日では必ずブルーハワイのかき氷を頼むし、夏に自宅の冷蔵庫に入っているのもこの青いシロップである。彗太がそう告げると、千はそれを想像してみておかしかったのか、珍しく声をたてて笑った。
 「何だよ、笑うところかぁ?」
 「だって、家族みんなでおいしそうに、この青いかき氷食べてるって考えると。ところで、おじさんたちは元気?」
 千は何気なくそう訊いた。突然、スプーンを持つ彗太の手が止まった。
 「彗太・・・どうしたの?」
 察しがいいのか、千は彼の様子がおかしいことに気づくと、すぐさま心配そうな表情で彗太の顔を覗き込んだ。自分が心配されているとわかって、彗太はあえて明るく振舞った。
 「母さんはあいかわらず。時々うちに電話してきて、家のこととか仕事のこととか、ぐちぐち言ってる。弟は・・・そうか、まだ知らないよな。俺が中二のときに生まれて、門馬っていうんだけど、こいつもまあ元気」
 それから彼は、声が揺れないように、喉の奥から絞りだすような気持ちで言った。
 「父さんは、中三の春に死んだ」
 死んだ、という言葉は、心配するまでもなくあっさりと口から出てきた。あまりにも簡単で、自分でもおかしいぐらい早口になってしまった。こうやって口にすることで、まるで自分が父親を殺したように感じた。
 「そう・・・なんだ」
 千はうつむいた。少しの間、沈黙が流れた。
 「ごめん、ちょっと、ここ人が多くて食べづらいから、あっちに移動してもいいかな」
 千は人気のない河原を目で示した。
 「ああ、うん」
 彗太がそう答える前に、もう千はひとりでそちらに向かっていた。彗太はあわててそのあとを追った。
 賑やかな縁日とは対照的に、砂利の敷き詰められた河原の上は静かだった。市街地を貫流する川なので、その川岸もあまりきれいではないのだが、ずっと向こうの対岸ではバーベキューをする人びとの姿が見えた。
 「少し疲れたか?」
 彗太は横から千の顔をのぞき見た。空には月も星もなく、川面には街の明かりばかりが映っている。千は泣いていた。
 「・・・え!?お、おい」
 「心配しないで、これは俺じゃない」声の調子はいつものままで、千は軽く鼻をすすった。「俺はおじさんには会ったことないから。今泣いてるのはつるか、そうじゃなかったら千鶴だ」
 暗い川を見つめながら、彼はほおを伝う涙を拭おうとはしなかった。
 「つるが、おじさんのことよく話してたよ。優しいひとだって」
 そう言うと、千はようやく腕で涙を拭った。それから、手に持ったかき氷のカップを、狼狽して何もできないでいた彗太の前に差し出した。
 「彗太も食べていいよ」
 「え、っていうかお前、大丈夫か」
 「食べていいよ。はい」
 千はもう一度そう言うと、今度は有無を言わさず、彗太の口の前に自分のスプーンを突き出した。仕方がないので、彗太は素直に従って口を開いた。もし人目のあるところだったら、こんなことは絶対にしないだろう。白いみぞれは、思っていたよりとても甘かった。
 「もう少しだけ、つるに泣かせてあげてもいい?」
 千がそう訊くので、ああ、と彗太はうなずいた。千は声を殺して泣いていた。彗太はこのときはじめて、『彼ら』の本心を垣間見た気がした。


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