『ニュー・ビッグ・パレス 夏のそうめん流し大会 参加者募集中!』
寮の入り口にこんな張り紙を見たのは、家庭教師と掛け持ちしているレストランのアルバイトを終えて、夜遅くに帰宅したときだった。ポスターカラーで大宮寮の建物が描かれたその張り紙の中には、祥司や泉らと一緒に彗太自身の姿もあった。いったい誰がこんなものを、と思ってみたら、右下に小さく『主催者 西大寺大和』と書いてあった。 「あのひと、結構絵うまいんだな」 感心しながら寮の玄関扉を開けると、ちょうど本人が一階の廊下の掃除をしているところだった。 「あ、摂ちゃんおかえり。外のポスター見てくれたぁ?」 「そうめん流し大会だろ」 「そうそう。よし、これで参加人数は五人やな」 参加者募集とうたっているが、そもそも寮の住人が彗太を含めて六人しかいない。 「参加費用は酒かつまみでよろしく!」 「強制かよ」 「あはは、また酔っ払い摂ちゃん見るの、楽しみやわぁ〜。摂ちゃん、酒癖最悪やもんな!」 「そ、そんなことない」 大和は箒を手に持って笑った。 「あ、それでな、摂ちゃんにひとつお願いがあんねんけど」 「お願い?何?」 「土居くんも、そうめん大会に誘ったってくれる?」 大和は箒の柄で上の階を示した。 「え、何で俺が、土居くんを」 「ええやんー。同じ学校で同じ学部で学籍番号隣で部屋も隣やろ?」 「た、確かにそうだけど、だからって何で俺が」 「じゃあ、頼むでー」 大和はそう言うと、彗太の言い分も聞かず、さっさと掃除道具を片付けて自分の部屋に戻ってしまった。 「おい・・・」 廊下に残された彗太は、階段の上を見上げて半分絶望的な気分になった。
翌日、彗太は祥司を引き連れて土居の部屋に向かった。 「それくらい、ひとりで行きいや。自分ほんまかわいいなぁ」 「かわいくない!ていうか締めるな、痛いだろ!」 体格のよい祥司に後ろから羽交い絞めにされて彗太がじたばたすると、彼は面白がってかわいいかわいいと連呼した。 「俺のほうが年上なんだからな!」 そうやってじゃれながらも、土居の部屋の前にたどり着くと、彗太は緊張の面持ちでその扉を見つめた。 「そ、それじゃ、ドア、ノックするぞ・・・」 「たかがノックぐらいで、そんなにガチガチに緊張せんでも」 祥司は笑ったが、彗太には深刻な問題なのだ。正直言って、彼は土居が少し苦手だ。理由は色々ある。彗太はそっと隣人の部屋の扉に近づくと、外から中の様子を窺った。しようとしていることは、あくまでノックである。 「・・・ん?」 「どうしたん?摂津」彗太につられて祥司も声をひそめた。 「なんか今、中から聞こえたんだけど」 「何が?」 「動物の鳴き声、みたいな」 彗太の言葉に、祥司もそっとドアに近づいて耳を寄せた。 「あっ!ほらまた」中からふたたび鳴き声のようなものがした。 「これ、猫ちゃうか?」 「猫?」 「ほら、にゃーって言っとる」 確かに耳を澄ませば、それは小猫の鳴き声のように聞こえる。しかも、段々こちらに近づいているではないか。ふたりは土居の部屋の前で、泥棒が家の中を窺うように息をひそめ、古い木製ドアにぴったりとくっついていた。 「何してるの」 「わぁっ!つ、土居くん!」 振り向くと、そこにはスーパーの買い物袋を手に提げた土居が立っていた。 「いやあのっ、これは、忍者ごっこの一環でしてね!俺たち今からここで、忍法・隠れ蓑の術を練習しようと…」 「ばか」 下手な言い訳をする祥司を、彗太は肘でどついた。土居はふたりを不審そうな目で見ている。自分の部屋の扉に他人が張り付いているところを見れば、誰でも当たり前にそうするだろう。 「あ、そんなことより、玄関前に貼ってあるポスター見た?今度、ここでそうめん流し大会やるんだけど、土居くんも来る?」 彗太は、そもそもの用件を伝えることで話題を逸らした。うまくやったと自分では思ったが、祥司はあいかわらず土居の部屋のドアにくっついている。 「このばかっ、いいかげん離れろって」 「いやでも、今そこに・・・あ、何かドア引っ掻いとるって!ほらぁ!」 土居は何も言わず真剣な面持ちでふたりを見ている。額に冷や汗のようなものが見える。一方祥司は土居がそこにいることも忘れて、興奮した様子で中の様子を窺っている。連れてくるんじゃなかったと、彗太は今になって後悔した。 その時、バキッと何かが折れる音がして、祥司は彗太らの目の前でドアごと部屋の中に倒れ込んだ。 「な・・・」 「みーちゃん!」 すさまじい音が大宮寮の二階に鳴り響いた。突然の出来事に呆然とする彗太の脇を通って、土居は自分の部屋の中に駆け込み、祥司によって横倒しになった木の板の下を探した。すると、廊下とは打って変わって涼しい部屋の中から、にゃー、と先程の猫の鳴く声が聞こえた。小猫は土居の姿を見つけると、ベッドから飛び降りて彼に駆け寄った。 「よかった、下敷きになったかと思った」 土居はそう言うと、その黒い毛の小猫を胸に抱き寄せた。 「よ、よくないってぇ・・・」倒れた時に打ったのか、祥司は腹部を抱えて悶絶しそうになっていた。 「おーい、今なんかものすごい音したけどー」物音に気づいた大和が、一階から二階に声を掛けた。「どうかしたんかー?」 「な、何でもありません!」彗太はあわててそう答えた。
もともと蝶番のねじが緩んでいたらしく、祥司が寄りかかった重みで無残に壊れてしまったドアを大急ぎで応急処置したあと、三人は冷房の効いた土居の部屋で、猫のみーちゃんと一緒に、床に座ってテーブルを囲んでいた。 「天国・・・」 祥司はすでに、カーペットの上で仰向けになって大の字に寝転がっている。確かに外の暑さを地獄と呼ぶならば、ここはまるで天国のように快適だった。筋肉質な彼の腹の上が気に入ったのか、先程からみーちゃんはその上で丸まって眠っている。 彗太は部屋の中を見渡した。土居の部屋に入るのは無論はじめてだが、壁に取り付けられた冷房をはじめ、部屋の中には小型の冷蔵庫、電子レンジ、オーブントースター、おまけに持ち運び式の電気コンロまで用意されていた。部屋の一角には猫用のトイレもある。風呂とトイレと洗濯以外は、すべてこの部屋の中だけで生活できそうだった。 「摂津くん」黙りこくっていた土居が、ようやく重い口を開いた。「その、猫のこと・・・」 「ああ、うん、大丈夫。黙ってるから」 彗太がそう答えると、土居はいくぶんほっとした顔を見せた。その側らで祥司がいびきをかきはじめた。 「この筋肉バカにもちゃんと言っとくから、心配すんな」 そもそも告げ口などをしようにも、伝えるべき大家がここにはいない。どこか別の場所に住んでいるのか、彗太も部屋の契約の際に一度電話で話しただけで、本人にはまだ会ったことがない。長崎から越してきて、部屋の鍵を預かったのも大和からだった。 「このあいだ、道端に捨てられてるのを見かけて、放っておけなくて連れて帰ってきたんだけど、こういうところは普通ペット禁止だから困ってたんだ。ありがとう」 土居は軽く頭を下げて笑った。はじめて見る彼の笑顔に、彗太は少々面食らった。 「べ、別に、礼を言われるほどのことじゃねーよ」と彼は答えた。
金曜の夜、寮の一階の談話室は、酔っ払いたちの集まる居酒屋と化していた。 「次!俺、森祥司が歌いまーす!」 「よっ、日本一!」 床の上にはアルコールの空き缶と空瓶、それからスナック菓子のごみが散乱していた。その向こう、キッチンの水道からは、竹で作ったそうめん流しの装置が全長三メートルほどにわたって談話室までのびている。そもそもは普通に市販されている卓上用の機械でやるはずだったのだが、工学部の祥司が張り切りすぎて、こんな本格的なものになってしまった。彗太とジョナも材料の竹を刈りに、真夜中の大学に付き合わされた。 「ちょぉ、聞いてぇやジョナぁ、ひどいんやって〜」 「泉さん、ボクもうお酒ええです・・・」 そのジョナは、かわいそうなことに酔っ払った泉に絡まれ、彼女の愚痴に付き合わされている。すぐ隣では、祥司が卓上に上がって演歌を熱唱しているが、微妙にずれた手拍子を取る大和以外、誰もそれを聞いていない。 「おい!土居も飲めよ!」 「・・・え」 彗太は、部屋の隅でひとりちびちびと飲んでいた土居を捕まえると、彼が手に持っていた焼酎のグラスに、上から無理やりビールを注いだ。 「混ざったんだけど・・・」 「細かいことは気にすんな!お前それでも九州男児かぁ!?」 「いや、俺は富山出身・・・」 「とにかく飲もうぜ!な!?」 彗太は自分よりはるかに背の高い土居と肩を組むと、缶に入った残りの酒を一気に飲み干した。 「・・・」 「何だよ、嫌そうな顔しやがって」 「え?」 「だいたい土居、お前はいつもそうだ。大学で俺らが馬鹿やってても、お前はひとり澄ました顔で、興味なさそうにしてるだろ」 「そういうつもりじゃ、ないけど」 「ならどういうつもりだよ」 彗太は酔っ払って真っ赤になった顔を、土居の顔に近づけた。 「その、楽しそうだなぁって、いつも見てた」 「・・・へ?」彗太は間の抜けた声を上げた。 「俺、あんまり喋るのうまくないし、それにその、訛りがあるから・・・」ぽつりぽつりと土居は言葉を発した。「だから、うまく言えないけど・・・とにかく、別に興味がないとか、澄ましてるとかそういうのではないよ。でも、そういうふうに見えたのなら、ごめん」 彼も少し酔いが回ってきたようで、頬がほんのりと赤くなり、いつもより饒舌になっている。言ってしまってすっきりしたのか、彼はビールで割った焼酎の入ったグラスをぐいっとあおった。 「わ、悪い・・・」 反対に、少し酔いが醒めて冷静になってきた彗太は、土居の肩に回していた腕を離した。土居はため息をついた。 「千鶴ちゃん」 「は?」 「前、一緒に図書館にいたよね」 「あ、ああ」 突然話題が切り替わったので、彗太は戸惑った。気がつけば、いつのまにか土居の顔もだいぶ真っ赤になっている。 「あの子見ると、ダイフクのこと思い出すんだ」 「は・・・大福?餅?」 「ダイフク、昔実家で飼ってたうさぎ」 「う、うさぎぃ?」彗太は手に持っていたビールの缶を落としそうになった。 「目元のあたりとか、なんとなく似てるんだ。だから懐かしくて」土居は、にこにこと嬉しそうに実家のうさぎの話を語った。「まっ白で、ふわふわで、すっごくかわいかったんだ。でも、俺が中三の時に寿命で死んじゃって・・・」 ふいに土居の目が潤んだ。酔っているせいか、それを見た彗太までもらい泣きしそうになった。 「なんやなんや、そこ辛気くさいでぇ!俺が楽しい曲歌ったるわぁ」 祥司がテレビのリモコンをマイク代わりに、今度は童謡の『ふるさと』を歌いはじめた。無駄によく通るその美声が、談話室の中に響き渡る。 「ああ、だいふくぅ・・・」 「泣くな!ばかぁ!」 彗太は土居の背中をばしんと叩いた。
大切なだれかを喪う痛み。このときばかりは、彼の気持ちが痛いくらいにわかった。
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