八月になった。大宮寮の住人らは彗太を含め全員、相変わらず寮に留まっている。カナダからやってきたジョナはともかく、それぞれ三重、京都出身の祥司と泉もめったに実家に帰らない。休み中、彼らは昼前まで部屋でごろごろしているか、そうでなければ談話室に降りてきてテレビを観ている。今日は妙に静かだと思ったら、みんなどこかに出かけているらしい。ジョナはまたきっと彼女のところだろう。彗太はひとり談話室で、家庭教師のアルバイトの仕事を片付けていた。 「はぁ・・・」 受け持つ教え子の宿題の添削をしながら、彼はため息が出るのを禁じえなかった。この冬高校受験を控えた彼女は決して悪い子ではないのだが、彗太の教えている数学と理科が壊滅的に苦手らしい。あぁ、と彗太はふたたび赤ペンを手に頭を抱えた。計算式の中で、アルファベットのqがいつのまにやらアラビア数字の9になってしまっている。これでは先が思いやられる。なんだか頭痛がしてきたが、それでも、何もしていないよりは気が紛れた。 「千、か・・・」 彗太はあれから何度も千鶴の話を考えなおした。十年前、千鶴は千とつるに分かれた、いや、千鶴から千が分かれて千鶴はつるになり、今は男の千が表に出ている―― 「わかんねーよ!」 彗太は赤ペンを放り出した。こんなことを、このところ何度も何度も繰り返している。どうして千鶴はあんな妙なことを言い出したのだろうと、彗太は嘆いた。それ以上に、彼女の話を信じてやれなかった自分自身を責めた。 「後悔跡を濁さず、ってやつやな」 「祥司さん、『後悔先に立たず』です。それから、『立つ鳥跡を濁さず』やと、ボク思います」 一度、家で酔っ払った時に、勢いで祥司とジョナに相談したら、翌日には寮の住民全員に知れ渡っていた。千鶴の話の内容ではないが、彗太と彼女が幼馴染であることは、大宮寮では今では周知の事実になってしまった。 「あ、摂ちゃんやん」 「大和さん」 大和がスリッパをぺたぺたいわせながら隣の台所にやってきた。 「見てみて、知り合いからそうめんもろたんやけど、摂ちゃんも食う?」 お中元と思しき箱から、大和はそうめんの袋をひとつ取り出した。もうそんな時間か、と彗太が壁の時計を見ると、針は正午を少しまわっていた。 「煮えたぎる〜熱湯に〜茹〜でら〜れ〜て〜♪」 即興の変な唄をうたいながらそうめんを茹でる大和の横で、彗太は二人分の器や箸、そうめんつゆなどを準備していた。大和は料理がうまい。といっても今つくっているのはそうめんだが、ごくたまにその腕をふるっては、彗太ら学生にご馳走してくれる。先日彼がつくってくれた酢豚は、正直実家の母親のものよりずっとおいしかった。 「なぁなぁ、摂ちゃん」 「ん?」 「そうめんってさ、一把に何本か色つきが入っとるやん。緑とかピンクとか」 「ああ、あるな」 「それで俺思うんやけど、七色のカラフルなそうめんがあったら面白いと思わへん?その名もレインボー・ソーメン」 「そんなもん誰が食うんだよ」 彗太は大和の意見を一蹴した。彼は料理の腕自体はすばらしいのだが、凝り性なのか、たまにいらない「おまけ」を付け加えてしまうという悪い癖があった。件の酢豚にも、何を思ったのかサクランボを入れようとしていたので、寸前に泉らによって止められていた。 「きれいやと思うねんけどなぁ」 大和はのんびりと言った。こういうところは、なんとなく父の守に似ている。仕事に出ずに家にいるところもそうだ。ただし、こちらは父よりずっと若く、色黒で、至って健康そうである。 氷水で冷やしたそうめんの器を持って、彗太と大和はリノリウム床の台所から畳張りの談話室に移動した。 「あー、やっぱり夏はそうめんやわぁ」 「うまいな、これ」 ふたりは向かい合わせに座って、間に置いたそうめんの鉢をつついた。暑さではやくも氷が溶け出していた。彗太はふと、昔、父のつくったカステラアイスのことを思い出した。そして、こんなことを覚えているのはもはや自分だけなのだと思うと、途端にひどくむなしくなった。 「摂ちゃん、また落ち込んでるん?」 「え?」 「なんか浮かん顔しとるから。幼馴染の子と喧嘩したんやったっけ」 喧嘩、というと語弊があるが、他に表現のしようがない。千やつるのことについては、彗太は他の者には一切しゃべっていなかった。 「元気出しぃ。俺なんか、幼馴染ともう二十七年も付き合っとるけど、いまだにしょーもないことで喧嘩するで」大和は人のいい笑顔で笑った。「もうこいつとは二度と喋らへん!って思うこともあったけど、なんか、おたがいに離れられへんねんなぁ。なんでやろ。やっぱ、懐かしいんかな」 懐かしい、という言葉が彗太の心に残った。そうだ、懐かしいのだ。結局のところ、彗太は彼女に何を求めているわけでもなかった。ただ、ずっと忘れていた何かとても大切なことを、彼女が思い出させてくれるような気がしていた。 「摂ちゃんの場合は女の子やから、また事情が違うやろうけど。でも、仕事とか体面とか色々余計なこと考える前の友達は、やっぱいつまでたっても特別やと思うで。よくも悪くも」 それから大和は、気長にな、と付け加えた。
夕方になり少し涼しくなってから、彗太は近所の大型スーパーに買い物に行った。盆休みには長崎に帰省するつもりなので、あまりたくさん食材を買い込みたくはないのだが、冷蔵庫の中がまたしても空っぽになってしまったので、彗太は飲み物とアルコールとレトルト食品を少しだけ買って帰ってきた。スーパーの建物から出ると、彗太は真っ直ぐ家に向かった。 大通りを過ぎると、人も車も急に少なくなる。基本的に学生街なので、夏休みがはじまってみんな実家に帰ってしまったのかもしれない。少しあたりが薄暗くなってきた。静かな通りを歩いていた彗太はふと足を止めた。前方に、電柱にぴたりと寄り添う人の影がある。 (何だ?) 不審に思い立ち止まって見ていると、それはそのままずるずるとアスファルトの地面にしゃがみこんだ。 「・・・あ!」彗太はすぐに駆け寄った。「大丈夫ですか」 近づいてその腕を取ると、彗太はぎょっとした。千鶴だった。真夏なのにえらく着こんで、学校帰りなのか、胸に辞書やらノートやらを抱えている。それにしても顔色が真っ青だった。 「お、おい、大丈夫かよ」 千鶴は彗太の顔を見やると、ふるふると頭を振った。 「体調悪いのか」 「・・・貧血・・・」彼女はそれだけつぶやくと、苦しそうに腹部を押さえた。 「お前、まじで顔色悪いぞ。ちょっと、俺んちで休んでいけ。この近くだから」 彗太が心配になって千鶴の手を引くと、彼女はおとなしくそれに従った。 千鶴を連れて大宮寮に帰ってくると、ちょうど玄関のところで大和に出くわした。 「摂ちゃんおかえりー・・・って、え?え?」 「今取り込み中だから、あとでな」 彗太は興味津々で自分たちを見ている大和を尻目に、千鶴の手を引いて二階に上った。また話のネタにされるのだろうと思ったが、今は弁解どころではない。『摂津』と張り紙のしてある自室の扉を開けて、彗太は彼女をひとまず自分のベッドに寝かせた。 「悪い、汚いけど」掃除しておけばよかった、と本気で思った。彼女は言われるがまま、あいかわらず苦しそうにその上に横たわった。 「大丈夫?」 「・・・そう見える?」 彼女は少し怒ったような口調でそう返すと、グレーのパーカーの上から両腕で下腹部を押さえた。 「・・・っ」 「そ、そんなに痛いのか」彗太は焦った。「盲腸、虫垂炎じゃねーのか。救急車呼んだほうが・・・」 「やめて」千鶴は携帯電話を手に取った彗太を制した。「ただの生理痛だから」 え、と彗太は間抜けな声を上げ、数秒してからようやく、彼女の言葉の意味を解した。 「あ、わ、悪い、すいません・・・」 「最悪」 「すまない、ごめん、ほんとに」 「違う。つるのこと」彼女は眉間に皺を寄せながら言った。「おかしいんだ。何か嫌なことがあって俺と交代しても、生理の前にはいつも必ずつるに戻るのに」 おかしい、と彼女はもう一度繰り返した。 「もう一ヶ月以上も俺のままなんだ。こんなこと今までなかった。君と会って以来、あの子、全然目を覚まさないんだ」 ベッドに横たわる彼女の声は本気だった。嘘をついているようには見えなかった。 「どうしよう・・・」 『彼』は痛みで頭が混乱しているようだった。 「ごめん」 「君のせいだ」 「ごめん、千」彗太ははじめて彼の名を呼んだ。「俺、お前が元に戻れるように、何でもするから」 「・・・」 「だからもう、心配するな」 彗太はベッドの脇に座って、横になった千の手を取った。彼女を、彼を信じようと、彗太はそう心に決めた。
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