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作品名:トロイメライ 作者:zanpang

第10回  
 一学期の終業式は午前中で終わり、担任から諸注意を受けて、成績表と夏休みの宿題を受け取ると、彗太たちは上履きやら植木鉢やらを抱えてそれぞれ下校していった。
 「摂津ー、またプールでなー」
 「おう」
 坂の下で彗太は友人らと別れた。明後日からはさっそく夏休みの水泳の授業がある。中学受験を控えた同級生らはすでに色々と忙しそうだったが、彗太は受験もないし、夏休みの宿題もほとんど終わらせてしまったので、今年の夏は気が楽だった。坂の上を見上げると、雲ひとつない青い空から、まぶしい夏の日差しがぎらぎらと照りつけていた。
 彗太は合鍵で家の玄関の戸を開けた。守は例の絵画教室の件でまた出かけている。こんな暑い日に大丈夫だろうか、と彗太は身体の弱い父のことが少し心配になった。ランドセルをソファの上に置いて、ダイニングテーブルに目をやると、守から彗太に宛てた書置きが残されていた。
 『冷蔵庫にゼリーが入ってるから 鶴子ちゃんと食べてね お父さんより』
 職業柄か、ただのメモ用紙にもかかわらず、わざわざ文字の周りに絵を描いて、そのうえ色鉛筆で彩色までしてあった。男の子と女の子が一人ずつ、かもめの飛び交う海辺に仲良く並んで立っている。どうやらこれは彗太と千鶴らしい。
 「まったく・・・」
 彗太は笑いつつ、書置きをそこに残して、台所の冷蔵庫の扉を開けた。中にはラップをかけたガラス容器が二つ並んでいた。
 「な、なんだこれ・・・」無色透明のゼリーの中に浮かんでいるのは、一方は龍、もう一方はウサギだった。どちらもオレンジ色で、よく見ると果物のびわを包丁で切って作られているようだった。言ってしまえばただのびわゼリーなのだが、細かすぎる細工はまるで宮廷料理のようだ。守のあまりの凝り性に、彗太は感心を通り越して呆れてしまった。
 いずれにせよ、千鶴は驚くだろう。彗太はガラス容器と銀スプーンをトレイに乗せて、隣の鶴見の家へ向かった。呼び鈴を鳴らすとすぐに、水色のワンピースを着た千鶴が中から出てきた。
 「摂ちゃん!おかえりなさい。終業式終わったの?」彼女はいつもより明るい様子で玄関から飛び出した。「あ、何?それ」
 「びわゼリー。どーだ、すごいだろ。こっちは龍で、こっちはウサギなんだぜ」彗太はゼリーの入った容器を千鶴に取ってみせた。
 「わあ、すごい・・・これもおじさんが作ったの?」彼女は興味深そうに、あらゆる角度からびわの細工を眺めた。ガラスの器越しに、夏の日差しが千鶴の顔に落ちた。ひととおり見終えてから千鶴は、「食べるのがもったいないね」と彗太に言った。
 「うん、でも、冷たいうちに食べたほうがおいしいぞ。鶴子はどっちがいい?」
 「私は・・・」五秒ほど悩んでから、千鶴は龍のほうのゼリーを指差した。
 ゼリーを片手に、ふたりは摂津家のベランダに向かった。
 「うん、おいしい」
 「ん、まあまあだな」味はいたって普通のびわゼリーだ。彗太はびわのウサギの周りをスプーンで突いた。千鶴はにこにことおいしそうに食べている。
 「なんか、いいことでもあったのか?」彗太は尋ねた。彼が知る限り、千鶴はいつも少し悲しそうな顔をして、笑っているときもどこか暗い陰があった。だが今日は、いつになく明るくいきいきとしている。
 「あのね、今日ね、近くの神社でお祭りがあるんだって」千鶴は弾むような声で答えた。「それでね、夕方になったら連れて行ってもらうって、おばあちゃんと約束したんだ」
 「ああ」それでそんなに嬉しそうだったのか、と彗太は思った。
 「浴衣着せてもらうんだよ。楽しみだな、はやく夕方にならないかな」
 「今、鶴ばあは?」
 「今はちょっと、おばさんたちとお出かけしてる。でも夕方には帰ってくるって言ってたよ」
 千鶴は本当に嬉しそうだった。彗太はそれが何だか意外だった。彼はてっきり、千鶴のいつもの一歩引いたような態度から、彼女は鶴ばあに懐いていないのだと思っていた。
 ゼリーを食べ終えてから、彗太の家の台所で、使った器をふたりで片付けていると、鶴見家のほうから電話の鳴る音が聞こえた。
 「あ、私、ちょっと出てくる」千鶴はあわててベランダから飛び出し、鳴っている電話を取りに駆けていった。彗太がひとりで残りの片付けをしながら待っていると、五分もしないうちに、彼女はのろのろと彼のところに帰ってきた。
 「はやかったな」
 「うん・・・」
 千鶴はぼうっとして、そのまま居間のソファーの上に体育座りでしゃがみこんだ。
 「・・・どうした?」彼女の尋常でない様子に、彗太は心配になってソファーに駆け寄った。「さっきの電話、誰からだったんだ?」
 彗太の問いに、千鶴は、おばあちゃん、と短く答えた。
 「おばさんたちと急に出かけなくちゃいけなくなって、お祭りの約束、やっぱりだめになっちゃったんだって・・・」
 「そうか・・・」
 その声が、表情が、あまりにも哀れで、彗太は千鶴がかわいそうになった。泣き出しそうな気配はまったくないが、さきほどまできらきらとしていた彼女の瞳からは輝きが失われていた。彼は、何とかして落ち込んだ彼女を励ましてやりたかった。
 「しょうがねーから、俺が連れってってやるよ、お祭り」
 「摂ちゃんが?」
 「そう、感謝しろよ」
 素直に一緒に行こうとは言えない自分が憎かったが、千鶴は彗太の好意をわかってくれたのか、いくぶん嬉しそうな表情を見せた。
 そのあと、彗太は友人の家に出かける用事があったので、六時に神社の前で落ち合う約束をしてふたりは別れた。

 幼馴染の北浜の家に文野から電話が掛かってきたのは、少し日も傾きはじめた夕方の五時前だった。
 「彗太くん、お母さんから電話だけど。何か急な用事みたいよ」北浜の母親が、受話器を持って二階の彼の部屋にやってきた。ふたりはちょうど、テレビゲームで対戦をしていたところだった。
 「悪い、ちょっと中断」何の用だろう、と彗太は、突然の母親からの電話を不思議に思いながら受話器を取った。そもそも今日、北浜の家に遊びに行くことは特に伝えていなかったはずである。「もしもし?何だよいきなり」
 反抗期特有の、ちょっとひねた感じで電話に出ると、彗太、と文野の焦った声が聞こえた。何かあったのだ、と彗太は直感した。
 「探したのよ。家に電話しても誰も出ないから…でも、連絡がついてよかった」
 電話の向こうは人の声が騒がしかった。どうやら、文野は勤務先の病院の公衆電話から掛けてきているようだった。
 「何か、あったのか?」
 「お父さんが倒れて、さっき病院に運ばれた」
 彗太は血の気が引いた。文野の声はできるだけ平静を装っていたが、それでも動揺を隠しきれていなかった。
 「今、伯母さんたちと一緒に市民病院にいるから、できるだけ早くこっちに来なさい。ひとりでちゃんと来られるわね?」
 母の不安が、受話器を通じて彗太に伝わってきた。いつかこんな日がくるとはわかっていたが、それがこんなに急に訪れるとは思っていなかった。今朝まであんなに元気そうだったのに。
 「とにかく、急いで。病院に着いたら、受付で『摂津ですが』って言うのよ。それでわかるから」
 彼女はもう一度念を押してから電話を切った。彗太は北浜に簡単に事情を説明してから、最寄の電停まで全速力で走り、石橋行きの電車に飛び乗った。
 (はやく、もっとはやく走れよ)
 がたんごとんと揺れる電車の中で、心臓の鼓動だけがはやく波打っていた。焦るな、落ち着け、と自分に言い聞かせる一方で、彗太はどうしようもない不安に駆られていた。
 (父さん)
 車窓から見える港の空は、薄くピンク色に染まりはじめていた。彗太は紙の切符を手で握り締めた。
 病院では、文野が制服姿のまま、伯母の市子と一緒に彗太を待っていた。
 「彗太」
 彼女は息子の顔を見ると、一瞬泣きそうな表情をした。だが、彼女はそれをすぐに拭い、手短に今の状況と父の容態を説明した。
 「お母さんも行かなきゃいけないから、簡単に言うわね。今日、家に帰ってくる途中に、お父さんは道で倒れたの。すぐ病院に運ばれたんだけど、すごく危険な状態だって、先生が」文野は彗太の肩に手を置いて、まっすぐに彼の目を見た。「今晩が峠だって・・・だから、彗太も覚悟しておいて」
 さすがに最後の方は声が震えていた。最後に彼女は彗太を抱きしめると、市子に「よろしくお願いします」と言って、父のいる集中治療室に向かっていった。彗太は始終うなずくだけで、何も言うことができなかった。
 その晩、彗太は病院のロビーで夜を明かした。「寝てもよかよ」と隣に座る伯母は言ったが、彼は眠ることのできないまま、非常灯の緑の明かりと、時折聞こえる医師らの話し声のなか、ロビーのベンチで不安と闘っていた。外では昼間の晴天が嘘のように、強い雨が降り始めていた。

 朝の五時頃になって、ようやく文野がロビーに戻ってきた。
 「文野ちゃん」先に市子が気付き、ロビーのベンチから腰を上げた。
 「母さん」伯母に続き、彗太も疲れきった様子の母に駆け寄った。「父さん、大丈夫なの」
 すると、途端に文野の目から大粒の涙がこぼれた。彗太の脳裏に一瞬、最悪の事態の可能性がよぎった。しかし、文野は大きくうなずいた。
 「まだ意識は戻ってないけど、危険なところは越えて、もう大丈夫だって・・・」彼女は安心して力が抜けたのか、ロビーの床にへたり込んで、彗太の胸で声を押し殺しながら泣いた。
 ふたりは一度家へ帰宅することになった。まだ電車の出ていない時間だったので、伯母の車で家まで送ってもらった。後部座席の窓から見た外は、あいかわらず雨が降り続いていた。文野はすでに泣き止んで、いつもの冷静な母に戻っていた。
 「それじゃあ、母さんは病院に戻るから」文野は彗太を寝室まで連れていくと、簡単に身支度を整えてから、ふたたび出勤していった。「寝てていいのよ。もしお腹が空いたら、冷蔵庫に野菜炒めと生姜焼きが入ってるから。ご飯は炊飯器のスイッチ入れるだけで炊けるからね」
 「そのくらいできるって」
 「そうね、もう彗太も六年生だもんね」
 彗太は自分も病院に残りたかったが、ベッドに入ると考える間もなく眠ってしまった。

 目を覚ましたのは、昼をとうにまわった夕方の四時過ぎだった。まだ雨が止んでいなかったので外は薄暗く、午後なのか午前なのか、最初彗太は判断できなかった。ベッドから身を起こし、一階に降りようとしていると、家の外で車のエンジン音が聞こえた。
 (母さん?)
 母親が帰ってきたのだと思って、彗太は急いで階段を下りた。玄関を開けると、シルバーの乗用車が、彗太の家の前ではなく隣の鶴見の家の前に止まっていた。どこかで見たことがある車だと思ったら、運転席と助手席から鶴ばあの娘夫婦が降りてきた。それに続いて、後部座席から彗太の知らない女がひとり、雨の中傘も持たずに出てきた。まだ若いのに、なぜか悲痛そうな、やつれた顔をしていた。彗太が玄関の軒下で突っ立っていると、背後のベランダのほうから物音がした。振り向くと、窓の外に千鶴が立っていた。
 「あ・・・」彼女の顔を見て、彗太は昨日の約束を思い出した。「鶴子」
 彗太が窓際に近づくと、千鶴は一歩後ずさった。ガラス越しに見ても、雨に濡れた小さな身体が冷たそうだった。中に入れてやろうとベランダの戸を開けると同時に、雨の中から、鶴ちゃん、と呼ぶ鶴ばあの声が聞こえた。一瞬、彼女の肩がびくりと震えた。まだ用意できてないの、と今度は鶴ばあの娘の声がした。何かおかしい、と思いながら彗太がベランダの外に下りようとすると、千鶴は彼から逃げるように、隣の中庭のほうへ雨の中を駆けていった。
 (え?)
 彗太はまた、千鶴のあの目を見た。はじめて会った時に見せた怯えの表情が、今また彼女の顔に浮かんでいた。ふたたび表のほうから車のエンジン音が聞こえた。嫌な予感がして、彗太は玄関に走った。裸足のまま外に飛び出すと、ちょうど千鶴がさきほどの女に手を引かれて車に乗り込んだところだった。
 「つる」
 彗太の声を掻き消すように後部座席のドアが閉められ、千鶴を乗せた車は走り去っていった。その場に残された彗太に聞こえるのは、石畳の坂道に打ち付ける激しい雨音だけだった。隣家に咲くあじさいの花びらが、強い風に揺さぶられて、道路の上の水溜りの中にぽとりと落ちた。


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