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作品名:星空であいましょう 作者:木内薫

第5回   かおり 潤み
彼女のマンションまで車を走らせた。勤務が遅くなるときはいつも送って帰っていたが、いつもは到着したらすぐに車を降りて別れていた。
「もうすこし一緒にいたいかい?」
「冗談がうまいですね。」
「じゃ、もう少し話をしようか。」
「そうですね。じゃ5分だけ。」
エンジンを切り、低いボリュームで音楽を流していた。車外は深夜ということもあってほとんど車のとおりはなかった。時折スピードを上げた車が走りすぎ、静けさを破っていた。これまでのことをお互いが確認するように会話が流れていった。どれくらい時間が過ぎたかわからなかった。不意に彼女を見つめると今まで見たことのなかった笑みがもれた。恥じらいや照れ隠しに似た、愛おしい笑みだった。彼女の瞳には職場で見せる凛々しい輝きはなく、潤んだ瞳は僕をじっと見つめていた。吸い込まれそうになる感じだった。深緑の湖の底をのぞく感覚だった。
「手を出してごらん。」
彼女の手を僕の両手でそっとつつんだ。さきほどとは違い紅潮した頬と連動するようにその手は指先まで暖かさがあった。かおりは感じていた。彼女との距離感が一気に無くなった。行き交う車のヘッドライトが時折彼女を照らし潤んだ瞳がさらに美しく輝いていた。年齢や立場の違いをうち消すには十分すぎる美しさだった。
「抱きしめていい?」
僕はそのときの感情を包み隠さずに言った。彼女は頷きそして僕を受け入れた。彼女の手を肩に抱き上げ、そして強く抱きしめた。彼女の左のピアスが唇にふれた。耳元でささやいた。
「どんな感じ?」
「とても安心する感じかな。」
かおりのやわらかい頬に僕の頬を重ねた。僕は彼女に触れている。そしてもう一度強く抱きしめた。彼女はそれに答えるように強く僕を抱きしめた。
「僕で感じてもらえたんだね。それでいいんだよ。素直になるといい。」
カーステレオから音楽が静かに流れていた。僕はよく聴く音楽だが彼女は知らないだろう。僕が女の子に夢中になっていたころの音楽は彼女にはリバイバルでしかない。リアルタイムに生きていた僕はひとつひとつの曲に特別な印象を持ち、そして思い出が交錯する。
「あなたとは立場も年齢も関係ないの。違和感がなくなってしまったみたい。一線を越えてしまった気がする。」
彼女の手を握り続けていた。二人の危うい関係の糸がぴんと伸ばされ緊張している。このまま走り出したらもう後戻りできない。数時間前に感じた幼さが彼女から消えていた。女としての魅力と自信が現れていた。僕の印象がそうなったのか、あるいは彼女自身が変わったのかは分からない。

冷静さを取り戻そうと必死の彼女と僕がいた。必要以上に笑顔を何度も見せた。照れ隠しでしかない。その笑顔はもう僕たちの間では空しく、自分の感情を押し殺す以外の役目はなかった。時間が流れた。彼女を再び見つめた。時計は午前3時を回っていた。心地よい疲労感が時間の流れを極端に遅くしていた。再びじっと彼女の瞳をみつめた。幾分冷静さを取り戻していた彼女がそこにいた。そして僕は唇を重ねようとそっと近づいた。彼女は瞳を閉じることなくぎりぎりでゆっくりとそらした。僕が期待していた答えであり、またお互いに安堵した瞬間だった。
「もし、許したら、明日から普通に振舞えない。」
彼女が僕にこう言った。僕は彼女の再び潤んだ瞳を見つめてその言葉を頭の中で復唱し、そして静かに頷いた。

かおりが僕のことを特別な感情で受け入れてくれたことにこの上ない喜びを覚えた。彼女を振り向かせた僕はこのゲームには勝った。しかし、かおりというこれまでに出会ったことのない輝きをもつ女には負けた。僕は彼女に魅了され、そして生活のほとんどを彼女のことで埋め尽くしていた。ゲームの主導権を握るためにそうせざるを得なかった。そうしないとゲームに勝てなかった。いったい彼女はどう思っているのだろうか?次の一歩を歩みだした彼女はいったいどの方向に向かっているのだろうか?またかおりのことを考えるとスタートに戻っている自分がそこにいた。

かおり −完−


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