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作品名:他人の匂い 作者:齊藤狐兎

第1回   好々爺の悪臭
通学路を進む足は異様に重かった。足枷をはめられて歩いているような感じ。
行きたくない行きたくない。帰りたい早退したい。まだ学校に着いてもいないのに。
「健二君おはよう」
 声のした方に目をやると、隣の家に住む山田のおじいさんが健二に向かって会釈していた。両手にゴミ袋を持っている。
「おはようございます。お久しぶりですね」
「そうだねえ。健二君がアフリカ旅行に行って以来だから、二週間振りくらいかな。おみやげにもらったマサイ族の木彫り人形、健二君が選んでくれたんだって。あれ、いいよねぇ。あの憎らしい表情。ケースに入れて居間に飾ってるんだ。本当にありがとう」
「喜んでもらえてよかったです」
「アフリカはどうだった」
「すごかったですよ。象とかライオンとか、なんかもう世界が違いすぎて、日本で悩んでいたのが馬鹿みたいに思えました」
「そうかそうか、それはよかった」
 山田のおじいさんが言った。笑顔が大便を拭いたあとのティッシュみたいにクシャクシャだ。
好々爺。そんな言葉がぴったりくる。なんだか元気が出てきた。今日はこのまま突っ走るぞ。
「それじゃあ、行ってきます」
 頭を下げておじいさんの横を通り過ぎようとしたその時、とてつもない悪臭が健二の鼻腔を襲った。
「うわぁーーー」
強烈な臭いに二メーター弱飛び退く。
「大丈夫かい、健二君」
「なんか、とんでもない臭いがして……」
「とんでもない臭い。ひょっとしてこれかなぁ」
 おじいさんは手に持ったゴミ袋を持ち上げて、犬のようにクンクン嗅いだ。
「そんなに臭わないけどなぁ」
首をかしげるおじいさん。その間も強烈な臭気は健二の鼻腔を犯し続けていた。
「失礼します」と頭を下げ、万引きしたスーパーの出口で声を掛けられた少年のように、走ってその場から立ち去った。
 おじいさんが見えなくなる距離になってから立ち止まり、一息ついた。
一体あの強烈な臭いはなんだったんだ。意識を刈り取られるような臭いだった。おじいさんの言う通り、あのゴミ袋が臭いの源だとしたら、あの中には一体なにが入っているんだろう。
昨日の二時間ドラマみたいにバラバラにされた死体だったりして。
想像して寒気がした。
 袋の大きさからして子供だろうか。そこらへんを歩いていた小学生を無理矢理家に連れこんで・・・。いや、待てよ。もし死体を切断したのだとしたら別に一回で捨てなくてもいいのだ。おじいさんは一体だれを殺したのだろう。奥さんかなぁ。娘さんかなぁ。無差別殺人って可能性もある。そうなったらもう推理しようがない。
 ピッピッピッピッピ。腕時計が鳴った。八時半を知らせるアラームだ。アラームは耳障りな電子音と共に健二に客観性をもたらした。
 危ない危ない。いつもの妄想癖が出てしまった。
 あんなやさしいおじいさんが人を殺したりするわけないじゃないか。魚や食肉が腐ったってあんな臭いくらいするだろう。でもあんな殺人級の臭いになるのか……。
 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。こんなことばかり考えてるからいじめられるんだ。
健二は頭のモヤを振り払うように全力疾走で学校に向かった。
 
 からすの鳴き声が響く夕焼け空。健二は半開きの口で地面を見つめていた。蟻の生態観察をしていたわけではない。本人は家に向かっているつもりなのだが、足がまったく動いていないのだ。
「どうしたんだい。浮かない顔して」
 顔を上げると、山田のおじいさんが慈悲深い眼差しで健二を見ていた。
「別になんでもないです」
 目を逸らして答えた。
本当は急行電車に飛び込みたいような心境だったが、赤の他人のおじいさんに言うようなことではない。
「そうかい……。こんなおいぼれでも相談に乗るくらいは出来るから、なんかあったらいつでも言ってきなさい。健二君は長男の孫によく似ていてねえ。他人とは思えないんだよ」
 その言葉が健二を繋ぎ止めていた理性の糸を叩き切った。涙がとめどなく溢れる。
「僕は、なにも間違ってないんです。ただ僕は正しいことをしただけなんだ」
「そうかそうか。健二君は悪くない。一体なにがあったんだい」
 山田のおじいさんが幼子をあやすように言った。
「帰りの、会で、なにか、伝える、ことがありませんかって、日直が、言うから、掃除が、行き届いて、ないって、言ったんです。うっ。だって、廊下も、教室も、ほこりだらけで、ひどかったから」
「そしたら、クラスの友達にいじめられたんだね。そうかそうか。よしよし、健二君はなにも悪くない。なにも心配することはないよ」
 山田のおじいさんが健二の肩を抱いた。
「おじいさん、僕、僕・・・」
健二はおじいさんの一見薄いが骨太な胸に飛び込んだ。そして次の瞬間おじいさんを思い切り突き飛ばした。
憐れなおじいさんは尻から転倒し、後転が途中で失敗した結果、肛門を宙に晒しているような格好になった。
「くせええええええええ」
 思わず口に出していた。突き飛ばしたのも本能による反射的なものだった。
なにが起こったのか理解できず呆然とするおじいさん。突き飛ばした健二も自分のやったことが信じられなかった。
「す、すいません。あまりにもく……」
 その先が言えない。臭いと言われていい気がする人間などいない。
「すいません。失礼します」
 どうしようもなくなって、その場から逃げ出した。おじいさんは呆けたような表情でその後姿を見つめていた。

なんであんなことしたんだ。人に暴力を振るうなんて最悪だ。分からない。分からない。
家に帰ってきてからずっとこんな調子だった。頭が混乱してスクランブル交差点みたいになっている。
あの臭いのせいだ。あれはゴミの臭いなんかじゃない。山田のおじいさんの体臭だ。一体いつからあんな体臭を発するようになったのか。アフリカ旅行に行く前はなんの臭いもしなかったわけだから、ここ二週間の話だろう。
肝臓の調子で体臭が変化すると、NFKのためして頂戴でやっていた。ひょっとしたら山田のおじいさんもどこかが猛烈に悪いのかもしれない。もし病気だったら早く治療しなければいけない。でもどうやって訊けばいいんだ。
「おじいさん、体臭やばいから、病院に行ってきたほうがいいと思いますよ」って訊くのか。それともさりげなく「最近の人間ドッグってすごいらしいですよ」なんて言って検査を勧めるか。
 どっちにしても自分には無理だ。そんなコミュニュケーション能力はない。
健二は頭をかきむしってベッドに倒れこみ、そのまま眠りの世界に引きずりこまれていった。

パチっと目が覚めた。部屋の中は真っ暗。照明のひもを引っ張り電気をつける。時計を見たら三時十五分。
熟睡感はあるのにほとんど寝ていなかったのか、と一瞬思ったが、すぐにそれが大いなる勘違いだと気がついた。外を見れば一目瞭然。街灯だけが気を吐く真っ暗闇の世界だ。十二時間近く寝ていたらしい。
ベッドの上で体を伸ばした。キュルキュルと胃袋が泣いている。なにか食べなくては。
階段を下りて居間に行くと、食卓にラップが掛かったカレーライスが置いてあった。普段疎ましいだけの母親もこういう時には感謝せざるをえない。
レンジでチンして、あまり大きな音を立てないようすするようにカレーライスを食べる。するとどこからか救急車のサイレンが聞こえてきた。
こういった第三者の緊急時に健二の胸は躍った。怪我なのか病気なのか。命に別状はあるのかないのか。救急隊員になった自分を妄想するのだ。
サイレンの音が近づいてくる。この町内だろうか。さらにサイレンが近づく。
救急車が壁一枚隔てて、健二がカレーライスを食べているその真ん前に止まった。
嫌な想像が頭をよぎる。
ひょっとして、自分が死んだのではないか。
死んだ死んだ死んだ死んだ。まだ十四歳なのに。まだキスもしたことないのに。キスだけじゃなくてその先だっていっぱいしたかったのに。秋葉原だってまだまだ行きたいし、サンリオピューロランドだってまだ行ってない。まだまだまだまだやりたいことがたくさんあるのになんで死ななきゃいけないんだ。
理不尽な死に対する怒りと恐怖で発狂する寸前、隣のアパートからの救急隊員の声で我に帰った。
救急車を呼んだのは隣のアパートの誰かだ。そりゃそうだ。ピチピチの14歳が死ぬわけない。死ぬ理由がなにもないんだ。
安堵して健二は外へ出た。
闇の支配に抵抗するように、救急車の点滅灯が光を放っている。
隣のアパートから山田のおじいさんが担架に乗せられて出てきた。
あんなに元気だった山田のおじいさんがどうして。昨日のおじいさんとの一幕がフラッシュバックした。
ひょっとして、自分が突き飛ばした拍子に……。
 心臓のBPMがハードコアのビートを刻みはじめた。
 まさかあれくらいで人間が死ぬわけない。でも相手は七十を過ぎた老人だ。司法解剖されたらどうしよう。
 おじいさんは救急車に乗せられ、耳をつんざくサイレンと共に去っていった。
 胸の前で合掌しながらおじいさんの無事を祈った。助かれ助かれ助かれ助かれ。
強く押し合っている両手に額から大量の冷汗が滴り落ちた


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