今日も平和だった。 どのくらい平和かというと、ありったけの山芋をすりつぶして海に流し込み、海水浴に来た人が今日の波はなんだかねっとりしてるなあと思うのも束の間、全身を猛烈なかゆみに襲われるのを想像して自分もかゆくなりだすくらいに平和だった。
今日も家路につき、留守番電話を確認する。 ――1件。 再生ボタンを押す。 「太陽の唯一の失敗は静物画じゃなかったことよね」 ……。 やはり彼女からだった。 ……太陽? 太陽の失敗談なんて、聞いたことがない。 そもそも太陽に対して、何らかの評価を下そうと考えたことすら無い僕にはピンとこないのが本音だ。その点、彼女は太陽に対して思うところがあり、しかも「唯一」としている事から、太陽の他の部分は認めているということだ。 そういえば太陽は何故「太い」「陽」なのだろう。別に太ってないのに。大陽だと大腸と見間違えやすいからとしか思えない。しかし文字割り当ては人間が行っていることだから太陽側に責任はない。 それより彼女の言葉だ。 彼女に言わせれば太陽は静物画でなかった事が失敗だった。それは存在形態自体に問題があったということであり、これを覆すのは不可能だ。これからも失敗したままで光を放ち続けなければならず、そう考えると窓に差し込んでいる夕陽の光も憂いを帯びているように思えてくる。 だが何故太陽は静物画でなかった事が失敗だったのだろうか。 当然、静物画だった場合のメリットがあり、すばらしい存在になり得たと考えたからこそ失敗だったと彼女は言っているはず。 静物画とは何らかの静物を描いたものを指すが…「太陽が静物画」というのがどういう物なのか最初に考えてみよう。 どこかに太陽が存在し、それを絵として描いたものは太陽の画だ。この場合はどこかに太陽本体が存在する事を意味している。太陽がどこかに存在している時点で「太陽が静物画」という定義からはずれてしまう。 なんだかややこしい。 「太陽が静物画」という定義をきちんと念頭に置いてみなければ。 「太陽が静物画」は「太陽=静物画」だから、現在太陽がある位置に静物画がある状態、という意味の方が正しそうだ。 画自体に描かれているものは何でも良く、極端な話、静物のみで構成されていれば漫画でもいい。 太陽系全域から読める漫画。しかも原作・ビッグバン、絵・太陽で数十億年続く超大作だ。 ……待てよ? 太陽自身が静物画なのだから自分で自分を描いては静物でなくなってしまう。漫画連載を今ある太陽の自転や発光と同じ位置づけと捉えれば説明がつかないこともないが、やはり無理がある。 となると彼女は別に宇宙規模の漫画を読みたいということではなさそうだ。 素直に静物画だった場合のメリットを考えてみよう。 ……。 そんなメリット、本当にあるのか? 人類が受けている太陽の恩恵は計り知れず、それを失敗だと言い切れるような汚点が太陽にあるのか、果たして我々が太陽を否定してよいものかすら僕にはわからないほどだが…。 どうしてもあげるというならば、静物画なら直視しやすくなる。目がチカチカしない、ということくらいか。 今は光度が高すぎて目がやられる恐れがあるが、静物画ならそんな心配もない。 だがそれ故に太陽が発光しないということになるので、世界が闇に閉ざされてしまう。 同時に人類の繁栄することはほぼ不可能なのではないかと思ってしまう。 それは大変なデメリットでは……。
――いや、違う。 それこそが最大のメリットだと彼女は言っているとしたら…。 人類、ひいては地球生命の存在を許したことが太陽の失敗だ、と。 それならつじつまも合おう。 彼女はそこまで地球生命を悪と考えているのか。 わからない。 わからないが今回ばかりは僕の推測が当たっていないことを願うばかりだ。
とにかく今日も平和だった。 明日も平和だろう。
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