そのとき仙石青年が驚いたのも無理はなかった。彼はしばしば光彦の店にやって来ていたが、いつも口数が少なく俯き加減でいたいた為、禄に店の中を見渡したこともなく、また、そんな仙石青年に対して、光彦も店の入り口で立っている彼に、必要なものを尋ねては用意していたのである。
更に加えて言うと、これまで彼との会話といえば、二人がよく会ういつもの土手で、彼が絵を描いている合間に話していたわけだし、光彦の描き掛けた絵を見せた時も、それは店の倉庫でのことだったので、仙石青年が店の奥のソファに腰掛けた、いや、そもそも店の奥にまで足を踏み入れたのすら、今回が初めてだったのである。 そんなことだから当然、こうして店の奥の壁に掛けられていた絵など、仙石青年は知る由もなく、また、そうした絵が最初は4枚飾っていたということも知りはしない。
そして何よりも仙石青年が驚愕したのは、壁に掛けられた絵が、今回の応募に送った自分の作品と、あまりに瓜二つだったことなのである。 仙石青年が、何度も繰り返し光彦に感謝した理由。それは彼が光彦の描き掛けた絵を引き継ぐような形で、それでも自分なりの画風やタッチを駆使して描いたわけだが、そのベースとなった構図や配色等については、光彦のものを参考にして完成させたものだったのだ。 当然そうした経緯は光彦も承知の上だったし、光彦自身、自分が描き掛けにしていた絵が、仙石青年の恵まれた才能で生まれ変わるのかと喜び、彼が作品を描きはじめる際に、これは贋作にならないか悩んでいた時にも、光彦はこんなものは作品でも何でもないので、とにかく何も気にしないで、自分の思うがままに描けばいいとのアドバイスも送っていた。
それは光彦にとっては極当たり前の事で、光彦が描き上げていた作品は、当時試作的に描いたものだったといっても、完成した絵とその描き掛けの絵とは、見た目にもあまりに程遠いものであり、そんな描き掛けの絵が、たまたま仙石青年が抱いていたイメージや感性に、ビジュアルとしてリンクしただけのことだと今でもそう思っている。だから光彦は、仙石青年にこれほど深く感謝される筋合いなど、自分にはないと思っていたのだ。
光彦は仙石青年が驚愕の声を上げて指差した、店の奥の壁に掛けていたその絵の方を向いて、かなり照れた様子で言ったのだった。
「ああ、あの絵か。あれは以前キミに見せたあの描き掛けの絵の完成なんだよ。」 「だけど全然そんな風に見えないだろう?」 「やっぱり私には、こうしたセンスというものが無いんだな。ははは。」
「いいえ、先生あの絵…、今回ボクが応募した絵とそっくりなんです!」 「まさかそんなこと。キミ、冗談もちゃんと言えるだね。」 「だけど嬉しいよ、そんなに言ってもらうと。」
「いいえ!冗談なんかじゃなくて、本当にそっくりなんです!」
それを聞いて光彦は、作品を描きはじめるとき仙石青年が、自分の描き掛けの絵の事で結構悩んでいたため、きっとそうした思いがあって、自分の完成した絵を始めて見て、心のどこかに罪悪感でも生まれてしまって、目にしたあの絵がそう見えるのだろうと思うのと同時に、仙石青年がせっかく夢を手にしたという時に、私が描き掛けた絵を見せたばっかりに、生真面目な彼に、あるはずのない幻影を見せてしまって、本当に悪いことをしたという気持ちでいた。
それほどに、試作と完成は似つかないものであって、況してや今日始めて、仙石青年は光彦が描いたまともな絵を見たのだから、そっくりも何も、そんなことが起こること事態、まず考えられないことだった。 光彦は興奮している仙石青年を宥めるように、「うん、ありがとう。もういいから。」と彼の肩を軽く叩きながら言うと、祝いの品を何か贈らないといけないからと、次に来るまでに欲しいものを考えとくよう彼に話して、彼が帰宅する姿を見送ったのである。
「しかし本当に良かったな、仙石君。」 「彼は才能があるから、きっと成功すると思っていたんだ。」
仙石青年を見送って店の奥で寛ぎながら、光彦は自分の事のように嬉しそうな顔で、誰に言うでもなくそう呟いた。
それから数日後のことだった。光彦の店に一通の手紙が郵送されて来た。手紙の送り主には「仙石紅葉」と書いてあり、どうやら仙石青年の母からの手紙のようだったが、名字は別としても、光彦にはその名前に覚えがあった。
光彦は「はっ」として、店に入ると慌ててその手紙の封を切った。すると封筒の中には、手紙と一緒に一枚の写真が同封されていたのであった。その写真には、仙石青年がまだ子どもの頃に母の紅葉に抱かれた姿が写っていた。光彦はその写真を見て、仙石青年がここで話したことは、彼の私への気遣いや幻影などではなく、本当にそうだったのかも知れないと思えた。
そして手紙にはこのように書いてあった。
前略 この度は息子が大変にお世話になりました。 思えばあの子が小さな頃に、わたくしが話したあの子の父親との想い出話だけで、あの子は一度も見たこともない父親を慕うかのように、自分が父の夢だった画家になるのだと芸術大学にまで通った訳ですが、世間というものはそれほど甘いものではないと痛感し、この地へと戻って参りましたところ、奇遇にも貴方様と出会い今回の結果。
聞けば貴方様がこれまで、息子が密かに続けていた絵の手助けや相談等、いろいろな面でサポートして下さったとか。そして今回、ひょんなことから海外で賞を頂いた上に、何やらあちらの画廊との契約も勝手に済ませてしまったようで、いつしかわたくしの及び知らないところで、あの子の夢だった画家への第一歩を踏み出すに至ったようでございます。
この1週間のうちには、表彰を受けるためフランスの方へと旅立つのですが、同時に画廊との契約や勉強のためにと、そのままフランスの方で暮らすことに決めたようで、その時わたくしも一緒に行くようにと言われております。
それにしても人生というのは不思議なこともあるものですね。
先日あの子が貴方様の描かれた絵を見たらしく、その絵がこの度の応募で搬入した自分の絵と瓜二つだったと聞きいたのでございますが、その絵と言うのは、実はあの子が、私を描いたものらしいのでございます。それにその時お店の方で流れていた曲が、わたくしの想い出の曲と同じだったとも言っておりました。 それでわたくしは、息子と同じ絵を描かれ、わたくしの想い出の曲と同じものを聴いていたという、貴方様のお名前を聞いて、それはもう驚いたのでございます。
あの子がフランスへ発つまでに、一度は貴方様の下へとお伺いすると思いますが、わたくしはその時、あの子にいろいろと訊ねられましたが、何も話してはおりませんし、この後も何も話さないつもりでおります。勝手なお願いとは解っておりますが、できることなら貴方様も何も話すことなく、ただあの子の未来を見守ってくださればと思い、こうして筆を取った次第でございます。
『幾年の 夢路辿りて行き着くも 今は昔か泡沫の刻』
こう貴方様は最後に詠んで下さいましたね。その後お身体は変わりございませんでしょうか? いつまでもお身体の方大切にして、お元気であられますように…。 かしこ
その手紙は紛れもなく樋川紅葉からのもので、その当時、光彦は病気や仕事の忙しさ、絵描きの夢への挫折等いろいろな事が重なり、彼が原因で家庭崩壊の危機に陥ったことがあった。
そんな時に知り合ったのが樋川紅葉という女性で、今の生活の何もかもが嫌になっていた光彦は、いつしか紅葉に安らぎを求めてしまていったのだが、ある日突然、理由を知らせることもなく紅葉は姿を消してしまったのであった。
光彦はそのとき家庭を捨ててまで必死に紅葉を探し廻ったのだが、そんなときに持病の心臓発作で生死を彷徨うことになり、気がついたとき側にいたのは、彼の妻であり家族だったのである。以来、彼の家庭は何ごともなかったように、また元の暮らしに戻ると、光彦は仕事を辞めて今の店を始めたのだった。
ただはじめの入院のとき、最初に駆け付けたのは誰あろう樋川紅葉で、そのとき光彦が紅葉に詠んだ句が、その手紙に書かれていたのだった。また、光彦が入院したことを家族に知らせたのも紅葉で、彼の家族がやって来た時にはもう紅葉の姿はなく、それ以来彼女を見ることもなかった。 それから数度、心臓発作と手術で生死を彷徨っていた光彦には、紅葉との間に子どもが出来ていたことなど知らず、当然そのことは、彼の家族たちも知らないことで、その子どもというのが仙石青年だったのである。
そしてその仙石青年は、フランスに発つという2日前に光彦の店にやって来た。 「先生!先生、いますか?」 「ああ、誰かと思えば仙石君か。それでいつ発つの?」 「はい。明後日にはもう日本を離れます。」
「そうか、何だか寂しくなるなぁ。」 「はい、ボクもです。これまで先生にはお世話になって、何だか父のように思えて甘えました。」 「……そ、そうか。私もキミのことを分身のように思えていたよ。」
「先生、いつまでもお元気でいてくださいね。こっちへ帰ったら一番に寄りますから。」 「ああ…、そうだね。帰って来たらいつでもおいでよ。」 「はい。」
光彦は父親とは名乗れない寂しさと、自分によく似たこの青年への愛おしさに、込み上げて来るもの必死で堪えながら話しをしていた。そして約束していた贈り物を尋ねると、仙石青年は壁に掛かっていた最後の1枚の絵が欲しいと言い、光彦は快く承諾したのだが、仙石青年はその絵に光彦のサインとその下に自分と母へという文言も入れて欲しいと言った。
光彦は何十年ぶりに自分のサインを入れると、その下に「喜代志くんと紅葉さんへ」と書き加えたようとしたとき仙石青年が言った。
「先生、下には“喜代志と紅葉へ”と書いてください。」 「あ、ああ…。ところでほかに欲しいものはないのか?」 「はい、それだけで十分です。」 「そうか。それじゃ、梱包するから少し待っていてよ。」
光彦は今書いたサインが擦れないように細工をして、カンバスを新しい額縁をに入れ替えると、額縁をもうひとつ余分に入れて梱包した。その額縁は光彦が自ら作った手造りのものだった。荷物があるので車で送ろうかと光彦が言うと、そこまでやってもらうのは悪いからと、タクシーを呼んで欲しいと喜代志は告げた。 タクシーがやって来ると、光彦は梱包した絵を抱えて店の外まで見送ったのだが、急に涙が出て来て欠伸をする真似で誤魔化していた。 そして喜代志はタクシーに乗り込むと、直ぐに窓を開けて言った。
「先生、奥さんやご家族と仲良くやってくださいね。」 「ああ、キミもお母さんを大切にして、とにかく自分に負けるんじゃないぞ。」
その言葉を聞いた喜代志はニコッと笑顔を見せながら、タクシーの窓を絞めながら小さく呟いたのだった。
「それじゃ父さん、行って来るよ。いつまでも身体、大切にしてね。」
ただ、彼がそう言い残した言葉は、真実を知って言ったものなのか、彼が父への思いを光彦に重ねて言ったものなのかは定かではなかった。
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