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作品名:純情回顧第4章 夢路を辿りて 作者:天野久遠

第5回   第5話 最後の絵
 光彦は千穂子との再会を機に、近くの絵画教室での出来事まで、珍しくバタバタとした日を過ごしたのだが、それもようやく落ち着いたようで、ここ数週間というもの何ごともなく、また以前のように暇な毎日を過ごしていた。

 今朝からこれまでに来たお客といえば、あの絵画教室に通っているという奥さん連中だけで、それも光彦の店を茶飲み場のようにして、暫くソファに座ってゆっくりと世間話をすると、みんなが同じパステルのセットを買って帰っていったのである。どうやらそれは、絵美子が教室の先生に、光彦の店を利用してもらうよう口添えしたらしく、あれ以来こうしたお客が、少しながらも増えていたのだったが、商売っ気のない光彦には、それが有り難いような煩わしいような、少々複雑な気持ちだった。

 これまでの慌ただしさが嘘のように、それ以降にやって来たお客もなくて、光彦はひとり、また昔を思い出すようにして、店の奥でコーヒーを前にレコードを聴きながら、徐に愛用の“GITANES”のパッケージを開け、少し太めのそのタバコを取り出しすと、壁に残された最後の1枚の絵を眺めながら、そういえば、私がこのパッケージを始めて見た時と同じように、彼女もこのパッケージを気にしていたなと、見慣れたはずのそのパッケージを何度も見返していた。

 スピーカーからは下田逸郎の柔らかな声が流れ、曲名が彼の代表曲とされる『セクシー』に変わると、光彦はまた、当時行ったコンサートのことを思い浮かべたのだが、それは直ぐに違う思いに切り替わって、こうも立続けに珍しいお客、いや、珍しい客というよりも、懐かしい人たちに出会うなどというが、現実にあるのだろうか、やはりこれは夢?もし夢なのであれば…。

 光彦がそんなことを考えていると、例の青年がいきなり店のドアを押し開けて入って来るなり、「先生、いますか!とうとうやりましたよ。」そう嬉しそうな声で叫ぶと、青年は店の奥にいた光彦の元へと駆け寄った。

 その青年、仙石喜代志は、あの土手で光彦と出会ってからというもの、絵の道具などで何かと光彦の世話になっているうちに、光彦も昔、自分と同じように画家を目指した時期があり、社会人になってもなかなかその夢が捨てられなくて、結局はこうして未練がましくも、いまは画材店をやっているのだと聞いた。
 そんな話しから、その当時に描き掛けたままの数点の絵を見せてもらったのだが、光彦が言うように、あまりに自分の画風やタッチが似ていることに驚いて、以来彼は、絵を描いていて行き詰まると、いろいろと光彦に相談していたこともあり、いつしか彼は光彦のことを“先生”と呼ぶようになっていたのである。

 そんな仙石青年は、一度東京の有名芸術大学を卒業したのだが、やはり芸術家の道は厳しく、母が暮らすこの地の大学で、母の当初からの願いであった法律家を目指すため、再度大学に入り勉強していたらしかった。しかしそれでも、昔の光彦同様に画家への夢が捨てられなくて、母には内緒で絵を描き続けるため、家からはかなり離れたこの場所で、時間を見ては絵を描いていたというわけだ。

 そして今回、フランスのあるビエンナーレ展の募集に、先刻の絵の具を取りに来た際に描いていたという彼の絵が、めでたく賞を受けたということなのだが、そのビエンナーレ展はなかなか権威のあるもので、いわば世界の画家たちにとっての登竜門にもなっていて、そんなことから、あちらの画廊との契約の話しまで決まったというのだ。

 いつもは口数の少ない仙石青年だったが、やはりその喜びは大変なものだったのだろう。光彦の店に報告にやって来て、かれこれ2時間が過ぎようとしていた。彼が店の中でこれほど長く、そして自分の身の上話しまでを話すのは、恐らくこれが初めてだろうと思いつつも、光彦も他人事とは思えないほど嬉しくて、話しをはずませてしまっていたのだ。

 「先生のおかげです。」
 「私は何もしていないよ、君の努力と才能の結果なのだからね。」

 「いいえ、先生のおかげなんです。」
 「先生のくださったあの絵のおかげで、ボクの迷いも消えて一心に打ち込めたのですから。」
 「仙石君、そんなことないだろう。もう…大袈裟だなぁ。」
 「とにかくこれがやっとスタートだよ、もっともっと頑張らないとね。」
 「はい。先生、本当にありがとうございました。」

 仙石青年は興奮したままの口調で、そう話しながら顔を上げると、目からは滝のように涙が流れ、鼻水までが混ざったグショグショの顔になっていたが、それでも口元や目元には笑みを絶やさないでいた。

 そんな仙石青年を見て、光彦は机の引き出しからタオルを出すと「まあ、これで顔を拭きなさいな」と言って彼に手渡したのだった。仙石青年はそのタオルを受け取ると「先生のおかげです。先生のおかげです。」と繰り返しながら、再び嗚咽を発しながら泣いてしまったのだったが、光彦は、彼にそれほど恩義を感じてもらう事はしていないと思いつつ、少々困惑気味な苦笑いを浮かべて頭を掻いていた。

 「仙石君もういいから。」
 「時間も遅いし、そろそろ帰らないとお母さんも心配するでしょう。」
 「そうそう心配より何より、このこと、お母さんは知ってるのかい?」
 「いいえ、母にはまだ何も。」
 「とにかく先生に一番にお知らせしなくてはと。」
 「それはそれは、こんな大事なことを私に一番とは。私の方こそありがとうだな。」

 光彦がそう話すと、仙石青年はやっとタオルで押し隠していた顔を上げて、タバコを吸いながらまだ頭を掻いている光彦の方を見たのだった。すると今度は、「先生、あれっ!」と悲鳴ともつかない驚いた声をあげて、仙石青年は壁に掛けていた残りの1枚の絵を指差したのだった。


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