光彦が逆光に映るそのふたつの人影を、目を凝らして確認しようとした時だった。 「橘くん?やっぱり橘くんね。」 「はい?」 表のシルエットからは、そう呼ぶ声が聞こえて来た。店の中にいる光彦を見て「橘くん」と呼んだその声は、明らかに女性の声であり、その声はとても耳に心地よく懐かしいものだった。そしてそのふたつのシルエットが、店の入口を一歩跨いだ時、光彦には、それが誰かすぐに分かったのだが、それでも半信半疑だった。 「千穂子…さん?」 「はい。私です。」 それは光彦が思ったように、彼の初恋の人である桜井千穂子だったのである。 「タチバナ画材店ってあったから、もしかするとと思ってお店の中を覗いてみたの。」 「それにこの子が、いま通っている絵画教室の筆が、もうダメになったって言うから。」 「そうだったんですか。で、そのお子さんは?」 「ああ、私の孫なのよ。お互いにもうそんな歳だもんね。」 そう言うと千穂子は、昔と変わらない笑顔を見せて笑っていた。それを見た光彦は、少し照れたような笑いを浮かべながら、千穂子に連れられていたその少年を手招きすると、筆の置いてある店の中へと案内したのである。
少年がそこに置いてある、いろいろな筆を確かめている間ふたりは、店のレジの側に置いてあるソファに腰掛けて、懐かしく話しをしたのだった。 「あれからもう随分経ったけど、その後、お変わりありませんでしたか?」 「千穂子さん、クラス会にも一度も顔を出さなかったし、仲の良かった子に聞いても音信不通だと言うし…」 「そうだったわね、ごめんなさい。」 「私ね、大学を卒業すると、直ぐにヨーロッパの方に留学して、それから帰国すると、その時に知り合った人と結婚したの。」 「それからというもの、日本とイギリスを行ったり来たりで。」 千穂子は少し戸惑ったように、そう話すと、テーブルに出されていた紅茶を口にした。
光彦はそんな千穂子が見せた、軽い戸惑いを感じはしたが、気にしないで話しを続けた。 「そうだったの…、それで今ご主人は?」 「うん。娘と一緒に東京の学会に出席していて、それなら折角だから一度あの子にも、私の育ったところでも見せてあげようと思って、それでこちらに。」 「あちらではヒロシマ、ナガサキって、いろいろと話題に上がるから。」 「でもこの辺りも変わってしまって、私が住んでいた処、いまでは駐車場だもの。嫌になっちゃうわよね。」 「ところで橘くん、ご家族は?」 「ああ、あなたと同じように娘に孫にと、もうそれなりだよ。」 そんな話しをしていると、それまで筆を見ていた少年は、数本の筆を持ってやって来て、千穂子の横にちょこんと座わると、何か耳打ちしていた。
すると千穂子は「クスッ」と笑って、光彦の方を見つめながら孫であるその少年、ジェームスに小さな声でなにやら話していた。それを聞いたジェームスは「ヤー、ヤー、イェス」と何度か軽く頷くと、光彦に向かって英語で何かを話したのだが、光彦は英語は全く分からないのである。
光彦がそのとき理解できたのは、“ドリンク”と“レモン”だけだったので、きっとレモネードかレモンソーダでも欲しがったのだろうと思い、千穂子たちを待たせて隣の店へと出掛け、レモネードとレモンソーダを買って来たのだった。 「ボク、これでよかったかな?」 「オォ!イエース。ファンタスティック!」 ジェームスはとても喜んだようにそう言うと、紅茶のために輪切りにして出していたレモンを、全部コップに入れて、その中にレモネードをたっぷりと注ぎ込むと、とても美味しそうに飲んでいた。 光彦は用意した飲み物で、少し英語も分かったかもと、自慢そうな顔をして見せていたが、千穂子はそんな光彦を見て小さく笑っていた。 「なにがおかしいの?」 光彦がそう尋ねと、千穂子は笑いながら小さく首を振って答えた。 「いいえ、何だか橘くんと始めてデートした時のことを思い出して。」
「それにまだ…覚えていてくれたんだね。レモン。」 「あのときオレンジジュースを頼んでくれたけど、後で私が紅茶、それもレモンティが好きだと分かると、次のデートの時からはレモンまで、それも丸ごと注文してくれて。」 「そして今でもああして…」 千穂子はそこまで話すと、息を詰まらせたように言葉を切って、ハンドバッグからハンカチを取り出すと、そのハンカチで目頭を被っていた。
光彦には何にがどうしたのか分からない。光彦は、隣で嬉しそうにレモネードを飲んでいたジェームスを見ると、ジェームスは両腕の脇を絞め、両の掌を上に向け、少し肩を上げて首をすくめ、腕を軽く開くようにして上げていた。それは、ジェームスにも分からないというポーズだった。 「急にどうしたの?」 「ううん、なんでもない。」 「さっきジェームスが言ったことね。あれ、レモネードじゃなくって、あそこに掛かっている絵のことだったの。」 「あの絵、とってもお母さんに似てるって…、あのレモンを持ってる絵。」 「だから私言ったのね、お爺ちゃんにもお母さんにも内緒だよって。」 「実はこのおじさん、おばあちゃんの初恋の人で、だからきっとあの絵、その頃のおばあちゃんだろうって。」 「なんだそうだったのか、ははは。」 「それじゃ娘さんも、あなたに似て綺麗な人なんだね。」 「嫌だわ、橘くん。何だか口も上手になっちゃって。うふふ。」 「いやはや、ははは。」 千穂子がそう言って笑うのを見て光彦は、とんだ勘違いをしたことに頭を掻きながら笑っていた。しかもその笑いは、千穂子にとっても光彦が初恋だったと知った、心底からの歓びで出た笑いでもあったのだ。
光彦はジェームスに向かって話した。 「ユア・グランドマザー、アイアム ファースト・ラブ フォエバー、アンド シー イス ベスト・フレンド。」 「バッツ マイ ファースト・ラブ、ユー アンド ミー オンリー・シークレット。」 するとそれを聞いたジェームスは、左手の指を輪っかにして、笑いながら「オキー、オキー、ドンウォーリィ」と言いながら、レモネードを飲んでいた。 「相変わらずね、橘くん。変な英語で…後で私がちゃんと通訳しておくわ、あなたが言いたかったこと。」 「ホントにありがとうね。今日はこの町に来てみてよかった。」 「それじゃ、そろそろ。」 「ああ、お互いにもういい歳だから、身体には気をつけるんだよ。」 「うん。あなたも気を付けてね。」 千穂子とジェームスがソファから立ち上がって、ジェームスが持っていた筆の料金を払おうとすると、光彦はまた変な英語で、 「ノーサンキュー。 アイアム ユア ジャパン ニュー フレンド、イッツ アニバーサリー・アイテム、プレゼント フォー ユー。」 「バッツ ネクスト オン ペイ、シー・ユー アゲイン。」 さすがにこれにはシェームスも悩んだ様子で、千穂子が笑いながら耳打ちをすると、ジェームスは「センキュ、センキュ」と光彦の両手を握ってしっかりと握手をしたのだった。
そして二人が店を出る最後に、光彦は千穂子にこう尋ねた。 「千穂子さん、あのスケッチ・ブックどうしたかなぁ?」 「今でも大切にしてるよ。あれは私のお墓まで持って行くつもりなの。」 「そう、ありがとう。それじゃ元気でね。」 「またこっちへ来ることがあったら必ず寄ってね。ジェームくんを連れて。」 「うん、そうする。」 ふたりがタクシーに乗って帰ると、光彦は店の奥に飾っていた1枚目の絵を外して、カンバスの裏側に書いてあった『My Sweet Memory』という文字を消し、代わって違う言葉を書いていた。そしてその絵と一緒に、幾つかの画材を梱包すると、千穂子から聞いたイギリスの住所宛に届けるため、集配へ手配の電話をしたのだった。
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