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作品名:純情回顧第4章 夢路を辿りて 作者:天野久遠

第2回   第2話 永遠のレモンティ
 光彦が逆光に映るそのふたつの人影を、目を凝らして確認しようとした時だった。
 「橘くん?やっぱり橘くんね。」
 「はい?」
 表のシルエットからは、そう呼ぶ声が聞こえて来た。店の中にいる光彦を見て「橘くん」と呼んだその声は、明らかに女性の声であり、その声はとても耳に心地よく懐かしいものだった。そしてそのふたつのシルエットが、店の入口を一歩跨いだ時、光彦には、それが誰かすぐに分かったのだが、それでも半信半疑だった。
 「千穂子…さん?」
 「はい。私です。」
 それは光彦が思ったように、彼の初恋の人である桜井千穂子だったのである。
 「タチバナ画材店ってあったから、もしかするとと思ってお店の中を覗いてみたの。」
 「それにこの子が、いま通っている絵画教室の筆が、もうダメになったって言うから。」
 「そうだったんですか。で、そのお子さんは?」
 「ああ、私の孫なのよ。お互いにもうそんな歳だもんね。」
 そう言うと千穂子は、昔と変わらない笑顔を見せて笑っていた。それを見た光彦は、少し照れたような笑いを浮かべながら、千穂子に連れられていたその少年を手招きすると、筆の置いてある店の中へと案内したのである。

 少年がそこに置いてある、いろいろな筆を確かめている間ふたりは、店のレジの側に置いてあるソファに腰掛けて、懐かしく話しをしたのだった。
 「あれからもう随分経ったけど、その後、お変わりありませんでしたか?」
 「千穂子さん、クラス会にも一度も顔を出さなかったし、仲の良かった子に聞いても音信不通だと言うし…」
 「そうだったわね、ごめんなさい。」
 「私ね、大学を卒業すると、直ぐにヨーロッパの方に留学して、それから帰国すると、その時に知り合った人と結婚したの。」
 「それからというもの、日本とイギリスを行ったり来たりで。」
 千穂子は少し戸惑ったように、そう話すと、テーブルに出されていた紅茶を口にした。

 光彦はそんな千穂子が見せた、軽い戸惑いを感じはしたが、気にしないで話しを続けた。
 「そうだったの…、それで今ご主人は?」
 「うん。娘と一緒に東京の学会に出席していて、それなら折角だから一度あの子にも、私の育ったところでも見せてあげようと思って、それでこちらに。」
 「あちらではヒロシマ、ナガサキって、いろいろと話題に上がるから。」
 「でもこの辺りも変わってしまって、私が住んでいた処、いまでは駐車場だもの。嫌になっちゃうわよね。」
 「ところで橘くん、ご家族は?」
 「ああ、あなたと同じように娘に孫にと、もうそれなりだよ。」
 そんな話しをしていると、それまで筆を見ていた少年は、数本の筆を持ってやって来て、千穂子の横にちょこんと座わると、何か耳打ちしていた。

 すると千穂子は「クスッ」と笑って、光彦の方を見つめながら孫であるその少年、ジェームスに小さな声でなにやら話していた。それを聞いたジェームスは「ヤー、ヤー、イェス」と何度か軽く頷くと、光彦に向かって英語で何かを話したのだが、光彦は英語は全く分からないのである。

 光彦がそのとき理解できたのは、“ドリンク”と“レモン”だけだったので、きっとレモネードかレモンソーダでも欲しがったのだろうと思い、千穂子たちを待たせて隣の店へと出掛け、レモネードとレモンソーダを買って来たのだった。
 「ボク、これでよかったかな?」
 「オォ!イエース。ファンタスティック!」
 ジェームスはとても喜んだようにそう言うと、紅茶のために輪切りにして出していたレモンを、全部コップに入れて、その中にレモネードをたっぷりと注ぎ込むと、とても美味しそうに飲んでいた。
光彦は用意した飲み物で、少し英語も分かったかもと、自慢そうな顔をして見せていたが、千穂子はそんな光彦を見て小さく笑っていた。
 「なにがおかしいの?」
 光彦がそう尋ねと、千穂子は笑いながら小さく首を振って答えた。
 「いいえ、何だか橘くんと始めてデートした時のことを思い出して。」

 「それにまだ…覚えていてくれたんだね。レモン。」
 「あのときオレンジジュースを頼んでくれたけど、後で私が紅茶、それもレモンティが好きだと分かると、次のデートの時からはレモンまで、それも丸ごと注文してくれて。」
 「そして今でもああして…」
 千穂子はそこまで話すと、息を詰まらせたように言葉を切って、ハンドバッグからハンカチを取り出すと、そのハンカチで目頭を被っていた。

 光彦には何にがどうしたのか分からない。光彦は、隣で嬉しそうにレモネードを飲んでいたジェームスを見ると、ジェームスは両腕の脇を絞め、両の掌を上に向け、少し肩を上げて首をすくめ、腕を軽く開くようにして上げていた。それは、ジェームスにも分からないというポーズだった。
 「急にどうしたの?」
 「ううん、なんでもない。」
 「さっきジェームスが言ったことね。あれ、レモネードじゃなくって、あそこに掛かっている絵のことだったの。」
 「あの絵、とってもお母さんに似てるって…、あのレモンを持ってる絵。」
 「だから私言ったのね、お爺ちゃんにもお母さんにも内緒だよって。」
 「実はこのおじさん、おばあちゃんの初恋の人で、だからきっとあの絵、その頃のおばあちゃんだろうって。」
 「なんだそうだったのか、ははは。」
 「それじゃ娘さんも、あなたに似て綺麗な人なんだね。」
 「嫌だわ、橘くん。何だか口も上手になっちゃって。うふふ。」
 「いやはや、ははは。」
 千穂子がそう言って笑うのを見て光彦は、とんだ勘違いをしたことに頭を掻きながら笑っていた。しかもその笑いは、千穂子にとっても光彦が初恋だったと知った、心底からの歓びで出た笑いでもあったのだ。

 光彦はジェームスに向かって話した。
 「ユア・グランドマザー、アイアム ファースト・ラブ フォエバー、アンド シー イス ベスト・フレンド。」
 「バッツ マイ ファースト・ラブ、ユー アンド ミー オンリー・シークレット。」
 するとそれを聞いたジェームスは、左手の指を輪っかにして、笑いながら「オキー、オキー、ドンウォーリィ」と言いながら、レモネードを飲んでいた。
 「相変わらずね、橘くん。変な英語で…後で私がちゃんと通訳しておくわ、あなたが言いたかったこと。」
 「ホントにありがとうね。今日はこの町に来てみてよかった。」
 「それじゃ、そろそろ。」
 「ああ、お互いにもういい歳だから、身体には気をつけるんだよ。」
 「うん。あなたも気を付けてね。」
 千穂子とジェームスがソファから立ち上がって、ジェームスが持っていた筆の料金を払おうとすると、光彦はまた変な英語で、
 「ノーサンキュー。 アイアム ユア ジャパン ニュー フレンド、イッツ アニバーサリー・アイテム、プレゼント フォー ユー。」
 「バッツ ネクスト オン ペイ、シー・ユー アゲイン。」
 さすがにこれにはシェームスも悩んだ様子で、千穂子が笑いながら耳打ちをすると、ジェームスは「センキュ、センキュ」と光彦の両手を握ってしっかりと握手をしたのだった。

 そして二人が店を出る最後に、光彦は千穂子にこう尋ねた。
 「千穂子さん、あのスケッチ・ブックどうしたかなぁ?」
 「今でも大切にしてるよ。あれは私のお墓まで持って行くつもりなの。」
 「そう、ありがとう。それじゃ元気でね。」
 「またこっちへ来ることがあったら必ず寄ってね。ジェームくんを連れて。」
 「うん、そうする。」
 ふたりがタクシーに乗って帰ると、光彦は店の奥に飾っていた1枚目の絵を外して、カンバスの裏側に書いてあった『My Sweet Memory』という文字を消し、代わって違う言葉を書いていた。そしてその絵と一緒に、幾つかの画材を梱包すると、千穂子から聞いたイギリスの住所宛に届けるため、集配へ手配の電話をしたのだった。


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