翌日、光彦はいつものように妻を会社まで送って、自分の店へと車を走らせた。毎日の見なれた風景が、何故かいまは、走馬灯のように車窓を過ぎて行く感覚を覚えつつ。
「おじいちゃん、調子よくないの?何だかお顔が青くなってるよ。」 「なぁに心配はいらないよ。少しじっとしていれば治まるから。」
駐車場に車を停めると、助手席から慶太郎がそう言って、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。 彼の娘、檸檬と孫の慶太郎は、昨日は夫が出張だったこともあってか、結局は光彦の家にそのまま泊まり、檸檬の方は、緊急の仕事が入ったらしく、朝早くに動物病院の方に出掛けてしまい、慶太郎は小学校が光彦の店から近いこともあって、今日はこうして、光彦たちと一緒に出掛けて来たのである。
「ふぅーん。」 「ほら、もう慶太郎は学校に行かなきゃな。遅刻しちまうぞ。」 「うん。それじゃ行って来ます!」 「ああ、気を付けて行くんだぞ。」
歳を経て光彦は、昔からあまり丈夫ではなかった心臓が、たまに締め付けられるように痛むことが増えていて、今日はここに着いた途端痛みを感じ、その様子を慶太郎が見て取ったのだったが、こうした痛みは、ほんの15分、20分じっとしていれば無くなってしまう。そしてここまでの道のりで、光彦が妙に感じたあの違和感は、この心臓の痛みを伝える前兆だったのだと、そのとき彼は勝手に納得していた。 そんな光彦は暫くハンドルを握ったまま、全身に汗をかきながらも、車の中から道行く人たちを眺めていたが、昔馴染みの顔などは見当たらず、ただ元気に学校へと走って行く子どもたちの姿ばかりが目に映っていた。
「この体、本当にどうしたものやら。」 「それにしても、見なれたヤツらの顔すらほとんどなくて、よく知らない顔ばかりが通り過ぎていくなぁ。」 「本当にこの辺りも変わった、私も歳を取るはずだ。」
光彦が独り言のようにそう呟いて「ふっ」と笑った時だった。一人の学生らしき青年が、明らかに画材と分かるような荷物抱えて、キョロキョロしなが小走りに駆けて行ったが、その行き先は彼の店がある方角だったため、光彦は昨日のことを思い出して、もしかするとと、急いで車から飛び出して、その学生の後を追うように商店街の路地へと足を運ぶと、彼の店の前では、困った顔をしてうろうろしている学生がいた。
やっぱりそうか…光彦はそう呟やくと、その場から学生に呼び掛かけて、急ぎ足で店の前まで来ると慌ててシャッターを上げ、店の奥からその学生が必要としている、ヴァーミリオンとプロシアンブルーを取り出し、謝りながらその絵の具のチューブを学生に手渡すと、学生は深々と頭を下げたと同時に、一目散にバス停まで駆けて行ったのだった。
「こりゃあ、本当に済まないことをしたな。」 「あまりの暇さに、すっかり忘れてしまっていた。」 「私もそろそろ潮時かも知れないが…、しかしあの子の成長を、もう少し見守りたい気もする。」
昨日は光彦が早めに店を閉めてしまったため、学生が店にやって来た時には、もう店のシャッターは下りていて、それで頼んでおいた絵の具を受け取ることができず、仕方なくこんな朝早くにやって来たのだった。 口数の少ないあの学生とは、光彦が、店からは少し離れたところにある土手を散歩している時、たまたま絵を描いているところを見かけ、そのとき青年が描いていた場所が昔、光彦が気に入って何度も描いた場所だったことから、何気なく声を掛けて知り合ったのだが、光彦にはそんな青年の描くタッチや色使いが、とても他人のようには思えなくて、それ以来、あの青年には格安で画材を提供していたのである。 そんな彼が、今日はどうしても描かなくてはならない題材があると言って、そのために必要な絵の具を至急入荷して欲しいと、光彦は頼まれていたというわけなのだ。
光彦が店を開けてからは、いつものように古いステレオにスイッチを入れ、自らが調合したマンダリンのブレンドコーヒーを飲んで、のんびりと過ごしていると、やがて時計は正午の時を刻んだが、それまでに光彦の店にやって来た者といえば、相も変わらず、この店を文房具店と間違えてやって来たお客と、絵画教室に通っている、お馴染みのお客の数人しかなかった。 しかし退屈だからといって、光彦があのとき筆を置いてからは、もう二度と筆を取ることなどもなく、店の中でこうして音楽を聴いて、コーヒーを飲み、タバコを吸いつつ、近所の子どもたちが声を掛けてくれるのを、ただ待っているだけであった。
いつもなら昼食を済ませると、光彦は一度店を閉めて、あの土手までのんびりと散歩をするところなのだが、光彦が店を閉めようと立ち上がって振り向くと、店の前には大人と子どもらしき人影が立っていたのだ。
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