私の荒い息遣いだけが響いてくる。
はぁ……はぁ……はぁ……。
私の目の前にはあの男が倒れていた。頭から血を流して、床の上に大の字になって、目を見開いて、口をだらしなく半開きにして、そしてピクリともしない。 頭の下からは生き物のように赤い血が静かに広がって行く。
死んだ?
私はへなへなとその場にへたり込んだ。真夜中のアスファルトは冷たかったが、そんなこと全く気にならない。 私は恐る恐る男に近づき、ズボンのすそを引っ張ってみた。 「ねぇ。ちょっと」 なんの反応もない。 「ちょっと、大丈夫……?」 今度は足をゆすってみた。が、やはりなんの反応もない。
死んだ……。
私は男から手を離した。私の手は所在投げに自分の髪を触ったり、肩をさすったり、胸元をこすったりしていたが、地面に転がっていた自分のハンドバッグにたどり着いた。震える手でバッグを開け、携帯電話を取り出す。
警察に……ちがう、救急車だ。
とにかく今は救急車を呼ぼう。そう思った。
ひどい男だったのだ。バイト先の本屋の先輩だった。ほっそりした、色白の、理知的な文系のイケメン。最初の印象は悪くなかった。だから付き合って欲しいと言われた時も、特に嫌な感じはしなかった。 でも、付き合ってみたら本当にひどい男だった。 私の事を自分の所有物だと思っていたに違いない。自分の趣味をことごとく押し付け、私がそれに興味を示さないと頭が悪いだのなんだのとひどく罵られた。 一か月も経たないうちに頭に来て別れようと思ったら、泣いて説得された。
僕は本当に君が好きなんだ。 今まであった誰よりも、自分自身よりも君が好きなんだ。 僕は未熟で、子供で、君を満足させられないかもしれない。 でも、本当に君が好きなんだ。 僕は君から離れられない。
そこで情にほだされたのが間違いだった。 身体の関係を結んでからあの男はDV男と化した。注意をすると殴られる。口答えしたらまた殴られる。別れようと言えば首を絞められた。飲み会なんかに行こうものなら、包丁を突き付けられて、浮気をしたのだろうと迫られた。
ストーカー。 そう。ストーカ―以外の何者でもなかった。
身の危険を感じて、警察に相談した。警察から通告を受けて、あの男はぱったりと姿を見せなくなった。 ……案外、あっさりと諦めた? やっぱり実はヘタレだったんだ。もっと早くに手を打っていればよかった。 そう思って、安心した矢先だった。
同窓会の帰り、最終バスを逃してしまったので歩いて帰る事にした。歩いたってたかだか三十分だ。 深夜の道路を足早に歩いていると、あいつが現れた。 あいつはずっと監視していたのだと言った。
今日は同窓会だったんだよね。 随分楽しそうに話していたじゃないか。 誰なの、あいつ。 あいつと付き合おうとか思ってるんじゃないよね。 だめだよ。僕を裏切るなんて。 君は誤解しているんだ。 僕は君から離れられない。
あの男の眼は完全に逝っちゃってた。血走っていて、瞬き一つしないで、じっと私を見据えていた。そしてその手には鈍く光るナイフ。 揉み合いになった。 私も必死だったのだ。こんな男に殺されたくはなかった。何度かナイフで腕を切られたが、痛みは感じなかった。 はずみだった。思い切り突き飛ばしたら、足がもつれて、あいつは仰向けにひっくり返った。そこに歩道と車道を仕切っている縁石があった。それだけのことだ。運悪くあの男は後頭部をその縁石に強打した。 運が悪かった。 そして、運が良かった。私には。
警察からはなんのお咎めもなかった。だって私も怪我をしていたし、警察にはもともとストーカー被害として相談してあったのだもの。当たり前じゃない。 そう、ようやく私は平和を取り戻した。
何年かして、私は結婚した。 ストーカー被害のトラウマは自分でも思った以上に根強く残っていて、もしかしたら一生結婚なんてできないかとおもったけど、それでも素晴らしい男性に出会えた。かなり年上で、イケメンでもないけど、人間的に素晴らしい人だった。例の事件の事も打ち明けたが、全てを受け入れてくれた。 新婚生活は穏やかで、楽しかった。 「なんか背中がヘンなんだ」 不意に夫がそんな事を言いだした。 「寝違ったのかと思ったけど、なかなか治らなくて。だんだんひどくなるような気がする。重いような痛いような。ちょっと見てくれる?」 私はシャツを脱いだ夫の背中を調べた。特に何もないようだったが……。 「なんか、ちょっと腫れてる?」 右の肩甲骨の辺りが少し腫れているような感じがした。 「ああ、そうかな。腕が少し動かしにくい」 「湿布でも貼っておく?」 「そうするよ」 湿布を貼って様子を見る事にした。
それからしばらくして、夫がまた湿布を貼ってほしいと言ってきた。 「貼ってからしばらくは治ってたんだけど、最近また痛い。前よりひどくなっているような……」 私は夫の背中を見た。肩甲骨の上は確かに以前より少し腫れが大きくなっていた。私はまた湿布を貼った。
腫れは日増しに悪化してきた。毎日のように湿布を貼っていたが、良くなるどころかどんどん大きくなっていく。そして熱を持ってきた。病院に行ったが原因はわからない。抗生物質もステロイドも効かなかった。 夫は仰向けで寝られないようになった。背中が痛くて、寝られないのだ。 布団の上にうつぶせになって、痛みをこらえる。眠ることもできないようだった。
その夜、夫はひどく苦しんだ。 布団の上でうつぶせになったまま、獣のような唸り声を上げて、痛みをこらえている。私はおろおろしながら夫を見守るしかない。 夫の唸り声がひと際大きくなった。 脂汗を滝のように流しながら、背中を波打たせて悶え苦しんでいる。パジャマがすれるのが痛いと言ったので、私は慌てて夫のパジャマをめくって背中を出した。
私は息を飲んだ。
夫の肩はパンパンに腫れあがっていた。いや、盛り上がっていた。それはサッカーボールほどの大きさだった。 「……ひっ!」 そしてその腫れがぶよぶよと生き物のように動いている。 やがてその腫れは人の顔になった。 目があって、鼻があって、口があって……。 背中に顔が出来あがった。
人面疽。
それも、あの、男の……。
目を見開き、だらしなく口を半開きにし、真夜中の路上で寝っ転がって動かなくなったあの男の死に顔、そのもの。
夫がひと際高く唸り声を上げ、そして急に黙りこんだ。夫の全身から力が抜けている。 私は茫然と夫と背中の顔を見比べた。 「……ねえ、ちょっと」 動かなくなった夫に震える声をかけることしかできない。 「ちょっと……、大丈夫?」 その時、背中の男が、私を見た。 あの時はピクリともしなかったあの男の顔が、目が、私を見つめている。
唇が微かに動く。
誰なの、この男。 だめだよ。僕を裏切るなんて。 言ったろ? 僕は君から離れられないって。
静まり返った部屋の中に、私の荒い息遣いが響いている。そして、私の手は所在投げに自分の髪を触ったり、肩をさすったり、胸元をこすったりしていた……。
了
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