それはあまりにも突然だった。写真誌に雅博の姿が載ったのだ。それも「熱愛デート発覚」などという見出しをでかでかつけられて……。 相手は牧子ではなく、舞台で共演したことのあるベテランの女優だった。初秋の深夜の街を並んで歩く姿が見開きで載っていた。記事の主役は雅博ではなくむしろ相手の女優だ。雅博よりも芸能界では格上で、恋多き女として有名でもある。その次のターゲットに雅博が選ばれたという訳だ。 こんな記事が世間に出るなんて夢にも考えた事はなかった。牧子は最初あっけにとられたが、次の瞬間には今までに感じたこともないほどの怒りを覚えた。 仕事から帰ってきた雅博の前に無言で雑誌を突きつけた。 雅博はマネージャーから前もって聞かされていたようで、動揺した様子はなかった。 「芝居の打ち上げの延長で、やましい事はなにもない」 雅博はきっぱりと言い切った。 「怒るだろうなぁ、とは思ったけど。本当になにもない。マネージャーに聞いてもいいよ。……こんな言い方もどうかとは思うけど、彼女の方の話題作りっていう事情もあるみたいだし。色々あるんだよね、この業界って」 他人事のようにあっさりと言いながらソファーに勢いよく座る。 牧子は手にした雑誌を叩きつけるように食卓に置いた。思った以上に派手な音がして、雅博は思わず振り返った。 牧子は露骨に不機嫌な表情でエプロンを外し、寝室に向かった。雅博が困ったような表情を浮かべて、部屋を覗きに来た。 「そんなに怒らないでよ。本当に何も無いんだって。写ってないけど、後ろにマネージャーがいたんだよ」 「もういい! わかった!」 とげとげしい口調だった。雅博の言う事は本当だとはわかっていた。わかってはいたが、怒りは収まりそうになかった。雅博の他人事のような口ぶりも気に入らなかった。もっとも狼狽した様子を見たとしたら、もっと腹が立ったに違いないのだが。 牧子はベッドに身体を投げ出し、枕に顔を埋めた。 「ほっといてよ。」 くぐもった声で叫ぶ。 雅博はベッドの端に腰をおろした。困惑した表情で牧子を見つめた。しばらくして溜め息混じりにつぶやく。 「悪かったよ。でも、もっと割り切って受け止めてくれるかと思ったんだけど」 「割り切って?」 牧子は顔を上げて雅博をにらみつけた。 「割り切って? 何を? 彼氏の浮気現場の写真を見せられて冷静にいられる女なんていないわよ!」 「だからぁ、浮気なんて」 「わかってるわよ! わかってるけど、『ああそうですか』ってすぐに言えないでしょうが!」 牧子は跳ね起きた。 「私はあなたみたいに単純じゃない! あなたが考えるほど出来た女でもないんだから!」 「ちょっと、牧ちゃ……」 「ちやほやされて、面白おかしく毎日くらしているあなたと違って、ストレス高いのよ!」 「なんだよ、それ」 さすがの雅博もむっとしたようだった。珍しく強い口調で言い返そうとする。 「僕にだってそれなりに」 「わかってるわよ!」 これ以上言ってはいけない、と判ってはいたが、一度爆発した感情は止まらなかった。 「そんな事わかってる! でもね、どんどん先に進んでいくあなたを見ていると、自分が情けないのよ。惨めなのよ。違う世界の人みたいに思えてくる。私の居場所がなくなってくる……」 いつの間にかぼろぼろに泣いていた。こんな惨めな自分を雅博に見られたくない。 牧子は猛然と寝室を出ると、床に転がしてあったハンドバックを拾い玄関へ向かう。慌てて雅博が追ってきた。 腕をつかまれる。 「ちょっと、ちょっと!」 「離して!」 牧子はその手を振り払うとミュールをつっかけ、表に飛び出した。 「牧ちゃん!」 後ろで声が聞こえたが、振り返らず階段を駆け下りた。そのまま通りへ出ると、早足で歩き出した。 どこに行くという考えはなかった。とにかくあの場から逃げたかったのだ。いたたまれない気持ちだった。感情の爆発にまかせて口走った言葉は消しようがない。雅博の顔をまともに見られなかった。 いつもならバスで十五分はかかる道をひたすら歩き、駅にたどり着いた頃には真夜中に近い時間だった。肌寒いくらいの外気だったが、必死に歩いたので身体はじっとり汗ばんでいた。全身に疲労感を感じる。 のろのろと階段を上り、券売機の前に立つ。時刻表を見ると、次の電車が最終だった。 どうしようか……。切符を買って、終電に乗って、何処にいくというのか。 財布から五千円札を取り出し券売機に入れた。目の前のほとんどのランプが点き、そのうちの一つを迷いながら押した。 どこへ? 他に思いつかなかった……。
実家に辿りつくには電車を二つ乗り継がなければならない。一つ目の乗り継ぎで既に電車はなくなった。仕方ないので駅の外へ出た。未明まで開いている店を探して周辺を歩いたが、結局見つけられず駅前のコンビニに入った。 さっきまで汗ばんでいた身体はとっくに冷たくなり、ひどく寒かった。暖かいコーヒーを買い、手で包み込む。ほっとするような温もりだ。 バックの中で携帯電話が何度もなっているのは気付いていたが、出る気にはなれなかった。雅博が心配してかけているのだろう。そういう人だ。 ふと外を見ると、高校生くらいの若者が数人外で地べたに座り込んでいた。この世の誰もが行き場を失っているような気がした。 コンビニの店員が不審そうな顔をしているのはわかったが、牧子はそのままコンビニに居座り、空が白んでくる頃に駅に戻った。
実家に辿りついたのはまだ早朝だった。ふと今日がまだ金曜日だったことを思い出した。あとで職場に連絡をいれなければならない。 久しぶりの帰郷だ。半年、いやもう少し経っているだろう。鍵は一応持っているのだが、こんな時間に勝手に開けたら母はびっくりするに違いない。そう思い、インターホンを鳴らした。 「……はい?」 だいぶ時間が経ってから寝ぼけたような母の声がした。 「牧子です。ただいま」 「はぁ?」 すっとんきょうな声だった。牧子は吹き出しそうになった。しばらくしてガチャリと施錠を外す音がして、門扉の向こうの戸が開いた。 「どうしたの?」 寝巻き姿でびっくりしている母の姿を見て、牧子は涙が出そうになった。慌てて洟を啜り上げ、不自然なまでに陽気な声を出す。 「帰って来ちゃった」
家に入ると牧子は食卓についた。母が湯を沸かし、コーヒーを入れた。 「朝ご飯は? パンでいい?」 パジャマの上にエプロンをかけ、手早く二人分の朝食を作る。無駄の無い母の仕事をぼんやりと眺めた。 しばらくするとこんがり焼けた食パンと、一つの皿に豪快に盛ったオムレツとブロッコリーが牧子の目の前に現れた。 「で、なんで急に帰って来ちゃったの?」 母は牧子を見つめた。牧子はぽつりぽつりと昨夜の顛末を説明した。母は黙って聴いていた。 「気が済むまで居てたらいいけどね。……あんまり雅博くんに心配かけなさんなよ」 母はそれだけ言うと食べ終わった自分の食器を片付け始めた。 「あんた、なんでもいいけどお仏壇に挨拶なさいよ」 牧子は気の無い返事をした。隣の部屋には父親の仏壇がある。牧子が大学生の頃に亡くなり、昨年十三回忌を済ませている。 食事を終えテーブルの上を片付けると牧子は仏壇に手を合わせた。優しい表情の父の遺影を見上げる。優しい笑顔なのに怒られているような気がした。 「私もうちょっとしたら出かけるから。あんた、出かけるんだったらちゃんと戸締りしてよ」 母が洗面所から叫んでいる。長年の仕事は昨年退職していた。 「仕事?」 「パートよ、パート。言ってなかったっけ? お年寄りにお弁当の宅配やってるトコの手伝いしてるのよ。一人で家にいても暇だしね。私にボケられても困るでしょ?」 母はばたばたと身支度すると慌ただしく出て行った。まったく相変わらずせわしい母だった。 就職を機に牧子が家を出たいと言った時、 「いいんじゃない? 私も身軽になるわ」 と笑っていた。半分強がりもあるのだろうが、残りの半分は本音のようだった。慣れない一人暮らしに四苦八苦する牧子を尻目に、随分自由を満喫していたようだ。世間の母親とは違い、腹が立つ程個人主義の母なのだ。若い頃には随分ウーマンリブだとかフェミニズムと言った思想に影響されたらしい。きっと小生意気な女だったのだろう。もっとも当の本人は、 「私のそういうところにアノ人は惚れたのよ」 と臆面も無く豪語しているのだからどうしようもない。 プチ台風のような母が出勤した後のシーンと静まり返った家の中に、時計の音だけが響く。八時半だった。 牧子は携帯をバックから出す。待ち受け画面には不在着信の表示が出てくるが、その内容を確認せず、会社に電話をかけた。 フレックス勤務をいいことに早朝から出勤している後輩に「体調不良で休む」とだけ伝えた。 「お大事に」 後輩の言葉はいかにも事務的で、社交辞令的だった。牧子は顔をしかめながら電話を切った。再び待ち受け画面に戻る。メールの表示も出ていた。一瞬迷いながらも、メールを開ける。 四通のメールが届いていた。
『何処にいるんですか。電話にもでないし。ちゃんと話しましょう。連絡ください』
『牧ちゃん、心配しています。連絡してよ』
『大丈夫? 何処にいるの。連絡してください』
『今日から一週間大阪に行かなくちゃいけない。その前にちゃんと話したかったんだけど。一週間いないから、その間に帰ってきてください。僕の顔を見なくても済む。それと、できたらメールでも電話でもいいから連絡して。直接がイヤならマネージャーの携帯でもいいから、連絡して。 牧ちゃんの気持ちに全然気付かなかった。怒るのも当然かもしれない。大阪の舞台が終わったらちゃんと話そう』
どんな顔をしながらこのメールを打ったのかが容易に想像できる。雅博にこんな事を書かせる自分の莫迦さと、彼の優しさに耐えられないほど切なくなった。 牧子は携帯を握り締めながら声を上げて泣いた。
その日は全く何をする気にもならなかった。静まり返った家の中で、何をするでもなくベランダに出てみたり、今は物置状態のかつての自分の部屋にはいってみたり、本棚の中の埃臭い小説を引っ張り出してみたり、留守番の猫のようにうろうろしていた。そのうちに眠たくなり、母親のベッド(自分の布団は押入れの中だった)にもぐりこんだ。そういえば、昨夜はほとんど寝ていない。牧子はスイッチが切れたように眠り込んだ。夢も見なかった。
三時過ぎに母が帰宅したようだがそれすら気付かず、夜になって母にたたき起こされた。 「あんたね、泊まるのはいいけど人の布団で寝る気? 自分の布団くらい出しなさいよ、まったく」 ずけずけと言われる。傷心の娘に向かって酷い母だと牧子はぶつぶつ文句をいいながら、ベッドからでた。居間には布団が既に出してあった。 「あんたの部屋、物置になってるからここで寝なさい。居座る気なら自分で部屋かたづけてね」 「はいはい」 「夕ご飯の支度もしないで、冬眠のクマじゃあるまいし、人の布団で寝こけて……。働かざるもの食うべからざる!」 「はいはい」 そう言いながらも夕食は既に用意されていた。母なりに牧子を気遣ってくれているのだと思うと嬉しかった。 家は居心地が良かった。一人で食べる食事の味気なさやテレビの音の寒々しさに自分の感覚が慣れてしまっていたことに改めて気付く。母と過ごす時間が少しずつ牧子の心をほぐしていくような気がした。
翌日もまるまる一日ごろごろしながら過ごした。母が出かけた後はふらふらと近所を散歩した。もう何年も近所を散策するような機会はなかった。 お互いの一人暮らしも思えば長くなった。十年はゆうに超えている。そんなに遠くに住んでる訳でもないのに、母とは月に一度電話で話す程度だ。今の自分のように母は寂しいと思っていたのだろうか。 「一人暮らし、寂しい?」 牧子は夕食の支度を手伝いながら母に聞いてみた。何を今さら、と母は笑った。 「最初はちょっと寂しかったかな。話す相手もなし、ご飯を作ってもおいしいともまずいとも誰が言う訳でもなし。まずいって言われたら腹が立つけど、怒る事もなし」 「気楽でいいって言ってたじゃない。」 「あら、そうだったかしら。」 母は笑いながらとぼけてみせた。 「気楽は気楽よ、勿論。でもま、私も人の子だからね。寂しいと思うこともあるわ。……でもさ、牧子がどこで何をしていようが、私の娘であることに変わりはないし。行方不明になったとか、死んでしまったっていうのは別だけど、住んでるところも働いてる会社もわかってるんだから。どこかで繋がってるってわかってれば、問題ないんじゃないの?」 「……あっさり言ってくれるじゃないですか」 牧子は苦笑いしながら、母の言葉を心の中で反芻した。どこかで繋がってるってわかってれば、それで問題ないんじゃないですか。どこかで繋がってるって……。それは自分の探している答えそのもののような気がした。
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