ちょっとした変化が起きたのはそれから二年たってからだった。牧子は相変わらず面白くないOL生活を送り、雅博は細々とバイトとしながら生活の大半を芝居に費やす日々を送っていた。
その日は深夜まで雅博は帰ってこなかった。劇団の公演は最近終わったばかりで、次の舞台の準備にもmまだ入っていないはずだ。いつもなら牧子が仕事から帰ってくる頃には家にいて「おかえり」と、あの屈託ない笑顔で迎えてくれるのだが。 日付が変わってしばらくしてから、雅博が帰ってきた。 「遅かったね。……どうしたの」 珍しく深刻な顔をしていた。牧子の問いにも答えず、居間のソファーに座り込む。こんな雅博を見るのは初めてだった。 「解散するんだよ。」 「解散? なにが??」 あまりに唐突な言葉に牧子は聞きなおした。有名なロックバンドとか、国会とか、色々な名詞が頭に浮かんだ。 「劇団が、さ」 牧子は言葉を失った。運営が厳しいという話は翔子からも聴いていたが、それは小さな劇団はどこも同じだ。だが、まだ解散というほどの状況ではないはずだが。 「経営の問題だけではなくて。簡単に言うと、仲間割れだよ。方針が違うってさ」 雅博は多くは語らなかったが、どうやら内部の勢力争いという構図があったようだ。その火種が大きくなり、ついに翔子を始め、中心メンバーの半分が退団するという話になったようだった。 「よくある話だけどね、こんな小さなしがない集団で、なんでこんなつまらない結果になるんだろう。僕には理解できないよ。一生懸命、やってきたのに……。皆、莫迦だよ」 雅博は悲しそうにそうつぶやいた。 劇団は以前より少し大きくなっていた。人数も増え、しかしその分まとまりがなくなってきたことも事実だ。それは翔子や雅博の話から想像がついた。でも、いわば役者バカの雅博にとっては、芝居が出来る空間である事に変わりはなく、彼にとってはかけがえのない場だ。そこが無くなる。 牧子は隣に座って背中をなでた。男性にしては細い背中が、ますます細く見えた。
それからしばらく雅博はバイト以外は家にこもっていた。しばしば劇団関係者からの電話があったが、あまりまともに応対していないようだった。朝、牧子を送り出し、ぼちぼちと家事をし(余計に仕事が増えることがあるので、牧子としてはあまり好ましくなかった)、バイトに行き、テレビを見て、寝る。そんな生活を送っていた。 「ちょっと出かけてくる。帰りは何時になるかわからないから」 久しぶりにバイト以外の用事で外出した雅博は言葉通り帰って来なかった。時期が時期である。牧子の心の中に言い知れぬ不安が湧きあがる。連絡を入れようかどうしようかと何度も携帯を手にしたが、結局かける事ができなかった。
ほとんど一睡もせず朝を迎え、仕方がないので出勤の用意をして家を出る頃になって、雅博が帰ってきた。 「連絡くらい入れてよね」 安堵しながらつい強い口調でたしなめる。 「ごめん。今後の相談をしてたもので」 雅博はいつもの笑顔で言った。牧子は少しほっとしたが、時計を見ながら、 「あぁ、もう、時間がないわ。その話、帰ってからじっくりと聞かせてもらうから。絶対よ!」 じたばたしながらそう言うと出勤した。 その日は正直なところ、仕事にならなかった。睡眠不足と雅博が心配なのとで注意力は散漫になり、データの入力ミスを連発した。 昼休みにも一緒に昼食を摂っていた同僚に、「顔色がくすんでるよ。」とチェックを入れられ、帰りの駅の階段を二段ばかり踏み外した。
あたふたと帰宅すると、雅博が夕食を作って牧子の帰りを待っていた。雅博の顔を見て、開口一番に、 「朝の話は?」 と咳き込むように聞く。 「まぁ、そうあせらずとも。ゆっくり行きましょう」 雅博は柔らかい笑顔で牧子を手招きする。さんざん心配させておいて、ゆっくりもクソもない。牧子はむっとした表情で食卓についた。 「他人事みたいに、なによ。どれだけ人が心配したと思ってんのよ」 雅博はビールをグラスに注いだ。 「わかってるよ。牧ちゃんが心配してくれてるの、充分にわかってます。感謝してるよ。ああせい、こうせいと横から口を出したいのを我慢して、ここしばらく僕の事見てくれてたもんね」 そして、少し改まった口調で切り出した。 「劇団は解散するけど、芝居はやめない。知り合いの紹介でプロダクションに所属する事になった。」 雅博の口にしたプロダクションは有名なタレントも何人か抱えている会社だった。そういう話題に疎い牧子にはピンとこなかったが。 「そう。それが良いのか悪いのか、私にはさっぱりわからないけど、舞台の仕事ばかりじゃなくなるのよね?」 「多分ね。選り好みをしてる場合じゃないし……」 「そう、なんだろうね、きっと」 自分の世界に置き換えたら、勤めていた会社が倒産して、せっぱ詰まって派遣会社に移籍して、持ち込まれる話を断れないような状況とでも理解すればいいのだろうか。 「……それでさ、牧ちゃん」 「なに?」 「牧ちゃんとしては、このままの状況でもいいのかな」 「なにが?」 「だからさ……」 雅博は言い澱み、ばつが悪そうにビールを飲んだ。 「だからさ、このまま今まで通りに、僕がここにいてもいいのかって事。これから先、僕がどうなるのか、僕自身にもさっぱりわからないから、正直なところ。……先々、もし、結婚とか、子供とか、色々考えているのなら。僕と付き合っていて、機会を逃すんじゃないかとか、考えているのなら」 「やめようよ、そんな話」 牧子は思わず遮った。そして雅博を見つめた。 「あなたに養ってもらおうなんて考えてもいないから。結婚してほしいとも思ってない。私は雅博が芝居をしているのを見ているのが好きなの。舞台に立っている雅博を見るのが好きなの。一緒にいるのはそれが傍で観られるから。……それに、実際のところ結婚するメリットってあまりないと思うのよね。ほら、私、こんな性格だし。今のままの生活で、何か不自由があるとも思えないんだけど。少なくとも私にはないわ」 雅博は複雑な表情を浮かべた。 「それって、僕に甲斐性が無いって事だよね。まぁ……、実際に無いから反論も出来ないけど」 「そういう意味じゃないわ。なんて言ったらいいのかしら……。そうね、あなたの才能に投資しているとでも思ってよ。ね、ほら、とりあえず次が決まったんだから、良かったじゃない」 「……なんだかなぁ」 牧子の畳み掛けるような口調に雅博は困惑したようだった。弱ったような表情のままビールを一口飲んだ。
その晩、久しぶりに安心した表情で眠る雅博とは反対に、牧子はなかなか寝付けなかった。夕べは寝ていないのに、少しも眠気を感じない。 雅博の才能に投資する。あんな傲慢な言葉が自分の口から出たことが信じられなかった。本当に自分はそんな事を思っていたのだろうか。
結婚について考えた事がないなんて、それは嘘だ。実家の母は牧子が雅博と同棲している事を知っていた。若い頃は自分も恋人(後に夫になった)と『神田川』のような生活をしていた母は、一緒に暮らす事についてとやかく言うことはないが、時々電話で話す時、「あんたももういい歳なんだから」という常套句がつく。暗に「早く身を固めろ」というプレッシャーを感じていた。気がつけば、もうすぐ三十歳だった。昔の友人の半分は結婚していて、子供がいるのも少なくはなかった。 なんで今さらこの人相手にそんな嘘をいうのか……。あんな話を自分から切り出したのだ。よくよく考えた末の思い切った決断だったに違いない。それを大人が子供をあしらうような態度を取ってしまって、雅博は傷ついたかもしれない。
私は莫迦だ……。
牧子は眠る雅博の額にかかる髪をそっと払うと、唇を寄せた。 「ごめんね。」 本当は違う。本当は別れたくない。離れたくない。だからあんな強がりを口走った。私があなたの足枷にならないために。足枷を嫌って、あなたが逃げていかないように。強い大人の女のふりをしただけ。多分、そうなのよ。 雅博の髪を指に巻きつけながら、牧子は少し泣いた。
移籍してからも雅博の芝居への情熱は変わらなかった。ただ、舞台以外の仕事が入るようになった。テレビドラマの仕事(大抵は死体役とか一言二言のエキストラだったが)もあれば、テーマパークのアトラクションに出演なんていうモノもあった。 「なんでも屋だね。」 雅博はそういって笑っていたが、決して満足している訳ではないのはわかっていた。舞台が好きなのだ。牧子にもそれが痛いほど伝わってきた。しかしなかなかチャンスはめぐってこなかった。
「舞台、どうよ。」 久々に翔子から電話が入った。相変わらずのぶっきらぼうな喋り口調で雅博にオファーをしてきたのだ。知り合いの脚本家から翔子に問い合わせがあったらしい。翔子は劇団を辞めた後、フリーの脚本家として活躍していた。テレビの連続ドラマを書き下ろして賞を取ったのを機に、仕事は順調に増えていた。 「前の舞台をたまたま観に来てたんだって。それで『今度の新作に雅博を起用したいんだけど連絡とってよ。』って、頼まれた。雅、する?」 「勿論!」 雅博は受話器を持ちながら小躍りせんばかりに喜んだ。
その脚本家が率いる劇団の公演に客演という形で雅博は出演した。久しぶりの舞台という事もあり、雅博のここしばらくの欲求不満を全部爆発させて昇華させたような舞台だった。 牧子は公演の間中、毎日のように劇場に足を運び、千秋楽には涙をこぼす雅博をみて貰い泣きをした。観客の拍手がくらくらするほど心地よかった。 舞台は客の入りもまずまずで、新聞や演劇雑誌には好意的な記事が載った。その記事の中には「山本雅博の若手ながらもベテランに引けをとらぬ演技が、物語の展開を引き締めていた。今後の活躍に期待したい。」というような短いけれど絶賛するようなものもあった。牧子は思わずその記事をスクラップした。 この舞台が転機となり、事務所から持ち込まれる仕事は徐々に質が上がっていった。テレビの仕事も、最後のロールに名前が載るようになってきた。ようやく軌道に乗った。牧子はそう確信した。
「映画?」 雅博からその話を聞いたのはそれから半年ほどしてからだった。 「そう。映画。それもかなりデカイ話なんだけど……」 雅博はスタッフと主なキャストの名を挙げていく。牧子でも知っているような著名な面々だった。 「台本をもらったんだけど、凄く目立つ役なんだよね……」 「すごいじゃない! 良かったね!」 思わず歓声を上げる。しかし雅博の表情は冴えなかった。窓のカーテンを開け、暗くなった外に目をやる。ガラスに映った雅博の瞳はなんとも頼りなげだ。 「なんで? 素直に喜べない?」 「そういう訳じゃないよ。嬉しいんだけど。」 わざと少しおどけた調子で牧子は雅博の顔を覗き込んだ。雅博は遠くを見つめていた。 「どうしたの? ちょっとビビってますかぁ?」 雅博は不意に牧子を抱きしめた。思った以上に強い力に牧子は戸惑う。 「茶化すなよ。……本当にビビってるんだから」 耳元で溜息まじりのかすれた声が響いた。力のない声だった。 「順調すぎて怖いんだよ。凄い勢いで、知らない世界へ踏み込んでいくようで」 「……大丈夫だよ」 牧子はそっと背中に手を回した。母親が子供をなだめるように、軽く背中を叩く。 「時々、夢を見る。山を登っているんだ。一人で延々と。道は険しくて、先は霧がかかっていて見えない。でも昇らなきゃ……そう思って歩き続ける。そしたら急に崖から落っこちて、目が醒める」 雅博は牧子の身体を離すと、その場にゆっくりと座り込んだ。膝を抱えて腕の中に顔をうずめた。 「自分でも情けないんだけどね。不安だけが膨らんでいく……」 牧子もその傍らに座り込み、肩に手を回した。 「大丈夫。大丈夫だよ。雅博はきっと成功する。保証するよ。あ」 雅博は牧子を抱き寄せ、その場に覆いかぶさるように押し倒す。 「前、僕に投資する、みたいな事言ったろ?」 牧子の首筋に顔を埋めてきた。耳元に熱い呼吸を感じ牧子は思わず首をすくめる。雅博の手はいつになくせわしない動きで牧子のセーターの下にもぐりこんできた。本当に不安でしょうがないのだ。確かなものにすがりつきたい、そんな勢いで牧子の身体を愛撫する。 「……そんなくだらない事、忘れてよ」 「僕に投資して失敗だったとか、思ってる?」 「思ってないわよ。そんな事。絶対思ってないから」 雅博を強く抱きしめる。大丈夫、大丈夫と呪文のようにつぶやく牧子の唇を雅博はむさぼるように自分の唇でふさいだ。 甘美な刺激の波間に引きずり込まれながら牧子は雅博に呪文をかけた。 大丈夫。あなたは絶対に大丈夫……。
<3へ>
|
|