足がすくむような、切り立った断崖の上から、娘は足元を見下ろした。 遥か下の方に細い谷川の流れが見える。 谷から吹き上げてくる強い風に煽られて、娘は思わず後ろに下がった。
鬼泣き山……。うっかり入り込んだ者は二度と出てこられないと言われている。 村人は勿論の事、旅人や怖いもの知らずの行者でさえもこの山に入るのは恐れていた。
風の強い日にはそら恐ろしい唸りが山から響いてくる。 あれは鬼の泣く声だと、村人は信じていた。
そんな山に娘は一人で入ってきた。 昼夜を問わず、うっそうとした山の中を歩き続け、この場に辿り着いたのだった。 「鬼なんか、おらんではないか……。」 娘はその場にしゃがみこみ、ぼんやりと空を見上げた。 木々の枝の隙間から見える空はどんより曇っていた。もう歩く力も残っていない。 どのくらいそうしていたか、娘はふらふらと立ち上がりもう一度崖の淵に立った。娘は履いていた草鞋を脱いだ。そして、ふわりと宙に身を投げた……。
*
ぱちぱちと木のはぜる音が響いていた。 娘はゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界に、赤々と燃える焚き火が見えた。 炎の照り返しで顔が熱い。 娘は身体を起こし、辺りを見回した。洞窟の中だった。 何故自分がこんなところにいるのかわからなかった。 確か自分は断崖絶壁から身を投げたはず。 「目が覚めたか……。」 岩をこするような低い恐ろしい声が響いた。 「だ、誰?」 娘はおびえて、岩肌にすがりついた。 焚き火の向こうになにやらうごめく物があった。娘は目を凝らした。 ぼうぼうに伸びた髪と髭の中から、赤い目が鋭く光っている。 大きな男の更に二周りはあろうかという身の丈に、恐ろしく太い手足。 獣のような牙と恐ろしい角。それはまさしく鬼だった。 娘は悲鳴を上げて、後ずさった。逃げようとしたが、腰が抜けて立ち上がれない。 鬼はあざ笑った。 「何故逃げる。お前はわしを探しておったのであろう。」 そう言いながら焚き火越しに娘を見据えた。 「お前はわしに食われたくて、わざわざ山に入ったのであろう。 やっと会えたと言うに、何故逃げる。」 娘はがたがた震えながら言葉を探した。 「そ、そうじゃ。死のうと思って、お、お前に食われてやろうと思って。」 鬼はもう一度笑った。 「あまり美味そうではないの。痩せすぎて、食う場所がないわ。」 そう言われて娘は自分を見た。 確かに汚れて、やせ細って、とても食欲をそそるような身体ではない。 「……痩せたのは、男にだまされて、メシも食えなんだからじゃ。」 娘は自分の肩を抱きしめた。身体が震える。 恐怖ではなく怒りと悲しみの震えだった。 「夫婦になると約束しておったに、嘘じゃった。 だまされて、売られて、ええように玩ばれて……。 生きておっても、なんもええことがない。死んでやろうと思うたんじゃ。」 娘は泣きながら喚いた。 「鬼! お前までうちを莫迦にするのか?! 食う値打ちもないのか、うちは?!」 鬼は黙り込んだ。どうやら困っているらしい。しばらくして、後ろを向くと なにやらごそごそしていたが、娘の方に向き直り、焚き火越しにぬっと手を伸ばした。 「ひっ……。」 娘は身を引いた。とっつかまると思ったのだ。 しかし、鬼の手にはボロボロの茶碗が乗っていた。 「飲め。水じゃ。」 娘は恐る恐る茶碗を受け取った。しばらく茶碗を見つめていたが、 思い切ったように一息に飲み干した。 「……うまい。」 疲れ果てた身体にしみわたるようだった。 しばらく鬼も娘も黙り込んでいた。娘は膝を抱えて、 炎の向こうに見え隠れする鬼をぼんやりと見つめていた。 向かい合っているうちに、鬼への恐れが少しずつ薄れてきた。 「鬼。」 娘は口を開いた。 「なんで助けた。」 鬼も炎越しに娘を見つめた。 「知りたいか。」 「ああ。知りたい。」
*
自分がどの位この山におるのか、自分でもようわからん。 じゃが、その昔、わしもまたお前と同じ人間じゃった。 お前と同じ……いや、少し違う。わしは男で、お前よりも年老いておった。
女房、子供と一緒に暮らしておった。 百姓しながら細々暮らしておったんじゃが、わしは悪い病にかかっておった。 ばくち好きという悪い病じゃ。 町で野菜を売った金をばくちで使い果たす事も度々じゃった。 女房にはよく泣かれた……。
そのうち、女房は流行り病で死んだ。子供を食わしていかにゃならん。 それでもわしの悪い病は治らなかった。 借金が膨らみ、田も畑も手放した。 もう百姓ではやっていけん。賭場のヤクザの使い走りになった。
子供は売った。大店の下働きとして雇われていったそうじゃ。
そんなくだらない事をしながら歳を取った。 ヤクザの使い走りも年寄りには出来ん。しまいには川原乞食じゃ。 自業自得というやつだ。
このままではどうせ野垂れ死ぬ。 野垂れ死にするくらいなら自分から死んでやろうと思った。
山に入り、ふらふらと彷徨った。谷川にかかるつり橋を通りがかった時、 身を投げようと決めた。
その時、たまたま通りがかった旅人に止められたんじゃ。もみ合っているうちに、二人して谷川に落ちた。
……わしは死ななんだ。その旅人がわしの身体の下になったんじゃ。 死んだ旅人はまだ若い男じゃった。死んだ男の身体を川から上げて、 持ち物を調べた。何か金目の物はないかと思ってな。 そんな時でもそんな事しか考えん、どうしようもない人間じゃ。
その男は見覚えのあるお守り袋を首から下げておった。 ……息子じゃった。 借金のかたに売り飛ばした息子だったんじゃ。
こんなくだらない、くずのような男を助けるために、息子は死んでしもうた。 生きる値打ちもない、こんな男のために、息子は死んでしもうた。
わしは息子を抱きしめて、泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……。 どれだけ泣いたかわからん。そのうち、気がついたら、わしは鬼になっておった。 死なん身体になってしもうた。息子の命を食らい、生き延びてしまったから、 人の命を食らう鬼になってしもうた。
山にはいつの間にか鬼が住むという噂が広がった。 妙なもので、人を食らう鬼がおるという話が広まれば広まるほど、 人間どもがやって来る。 死にたいヤツ、わしを退治しようという愚かなヤツ、どちらにせよ、 わざわざ自分から食われに来るのじゃ。自分を大切にせん、阿呆ばかりじゃ。
のう、娘よ。死にたい人間を食って何が悪い。どうせ死ぬつもりではないか。 そうは思わんか……? *
言葉とは裏腹に、鬼は焚き火の向こうで泣いていた。 真っ赤な目からは血の涙が滴っていた。 「鬼よ。」 娘は静かに口を開いた。不思議と恐ろしさは消えていた。 目の前の鬼が哀れに思えてきた。 「……お前、自分を呪っておるんじゃな。お前が食っているのは、自分なんじゃな。」 鬼がうめき声を上げた。その声は狭い洞窟に響いて、恐ろしいうねりになって 駆け抜けた。 炎の向こうで鬼の影がゆらりと揺れた。 「!」 一瞬のうちに娘は鬼の腕の中に捕まっていた。 「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。」 間近で診る鬼の顔はおぞましい程醜く、血生臭かった。 長く鋭い爪がぎりぎりと身体に食い込んでくる。必死で身をよじったが 逃れようもない。 「で、お前はどうなんじゃ。」 ぬらぬらと赤い舌が娘の頬を舐め上げた。 耳元に吹き付けられる熱い息には強い死臭が混じっていた。ざざざっと総毛立つ。 娘は思わず叫んだ。 「いやじゃ、死にとうない! 食われとうない! 食わんでくれ!」 鬼の手がゆっくりと娘から離れた。娘はへなへなとその場にへたりこんだ。 鬼は足元の娘を見下ろしながら、静かな声で言った。 「ならば山を下りろ。生き抜け。いいか、覚えておけ。死ぬ気になったらいつでも食ってやるぞ。」 *
川下の川原で一人の娘が倒れているのが見つかった。 どこから来たのかわからなかったが、どうやら鬼泣き山から流されてきたようだった。 娘は何も語ろうとはしなかった。 鬼泣き山で、よほど恐ろしい目にあったのだろうと人々は噂した。 娘は村の尼寺の世話になる事になった。縁談が幾つも持ち込まれたが、 何年かして自分も仏門に入り、そこで尼僧として生涯をまっとうした……。
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