僕は海の上にかかる橋をぼんやりと歩いていた。風が寝不足の頭の中を潮の香りとともに通り抜け、さわやかな気分にさせてくれる。僕はこの海が好きだ。辛いこと、苦しいこと、何もかもを忘れさせてくれる。もうそろそろ君が歩いて来る頃だ。 僕たちが一緒に散歩する関係になったのは二ヶ月くらい前の話だ。僕はいつものように橋を歩いていた。ちょうど橋の真ん中でぼーっと海を眺めていたときに、彼女が話しかけてくれたのがこの関係のきっかけだった。そのときの会話は正直覚えていない。何気ない話だったんだろうと思う。二人の習慣が偶然重なって僕たちは毎日同じ時間に会って橋の上を散歩した。僕たちは毎日一緒に散歩をしているが、待ち合わせはしたことがない。散歩という暇つぶしにわざわざ待ち合わせをする必要がないし、どう誘えばいいのか正直言葉が見つからなかった。それに偶然重なった習慣ということも二人にとっては重要なステータスに思えていた。ただいつも別れ際に 「僕は明日も」 「はい。では、また」 というやり取りをするようにしている。彼女が遅れている日も僕は海を眺めて彼女を待っていた。いつの間にか僕は彼女を好きになっていたみたいだ。でなければ、偶然という不確かなものに運命的なステータスなど感じないだろうし(いや、不確かだからこそであるが)、海を眺めるという口実で自分を誤魔化し彼女を待ったりはしないだろう。さらに、僕の彼女に対する好意を自覚させたのは、僕は彼女と一体何の話をしたのかあまり覚えていないということだ。覚えていることと言えば彼女の顔と服装と声くらいだった。恐らく、心臓の音と彼女の顔しか見えていなかったのだろうと思う。今日は会えるのだろうか。会えるのならそろそろ来る頃だ。 「こんにちは」 彼女は白いワンピースを着ていた。彼女はいつも綺麗で清楚な格好をしているなと思いながら自分のくたびれた服装を見て少し恥ずかしくなった。彼女はにっこりと微笑んでいた。 「そうそう、この間言ってたカフェ」 僕の家の近くに小さなカフェがある。そのカフェで僕はよくコーヒーを飲むのだが、ここのコーヒーは薄くて、普段ブラックが飲めない僕でもブラックを楽しめてしまうほどである。そんなカフェをなぜ彼女に紹介したのかというと、ピザトーストがおいしいことと客が少ないので気を使わずゆっくりくつろげるからだ。一人で小説を読んだり書類を書いたりするにはもってこいの場所でお気に入りなのだ。 「行ってみたんだけど、あそこほんとにコーヒー薄いね」 行ったのなら是非、僕も一緒に行きたかったのだが。ところでピザトーストは頼んだだろうか。 「私、小麦アレルギーで食べられないの」 しまった。テンションを下げてしまった。いや、確かあそこのパンは米粉を使っていたはずだ。 「え?そうだったの!? 頼めばよかった」 あぁ、もう少しで橋が終わってしまう。 「あっそうそう、この間カレー作って余ったから持って来るね」 それは、うれしい。僕は感情を外に出すのが苦手だが、このときは力いっぱいの笑顔で喜んだ。そういえば、彼女は普段どんな暮らしをしているんだろう。 「もうそろそろ帰るね」 僕は橋が終わっていることに気がついていなかった。僕は彼女と最後のやりとりをすると、家路に着いた。 今日も仕事大変だったと思いながら、僕は彼女のことを考えていた。昨日はどんな話をしたっけか。彼女の顔しか覚えていない気がする。確かカレーをもらえるとかいう話が少しあった気がする。今日は会えるだろうか、そう思いながら水を飲み、いつもの場所に向かった。 しばらく時間が過ぎた。僕が海を眺めていると彼女は白いワンピースで僕のところに現れた。 「カレー、持ってきたの」 本当に持ってきてくれた。その場で食べてすぐにでも「おいしい」と伝えたい。まずくてもいいからおいしいと言いたい。 「今日は、少し遠回りしませんか?綺麗な砂浜におりられるんですよ」 断る理由などない。最近、橋だけの距離では短すぎると感じていたのは僕だけじゃなかったようだ。橋を抜けて角を左に曲がりしばらく歩くと砂浜に下りられる場所があった。僕と彼女は手をつないで砂浜を走った。帰り際に彼女は 「楽しかった、また来ましょうね」 と礼儀正しくお辞儀をした。 僕はもう散歩が楽しみで仕方がなくなっていた。もう目的はただの散歩ではなく、彼女に会いに行くためになっていた。今日は珍しく僕より早く来ていたようだ。橋の真ん中で手を振っている。 「こんにちは。カレーどうだった?」 おいしいに決まっている。 「今日も行かない?」 断る理由などあるもんか。 あれ?ここはどこだっただろう。 「昨日も歩いたじゃない」 それはわかっているんだが、はっきりと思い出せない。 「ほらそこの角曲がると……」 あぁ、思い出した。角を曲がると砂浜だ。少し遊ぼうと手を引こうとしたとき、手は空を切った。後ろを振り返ると彼女はいなくなっていた。 今日は会えるだろうか。昨日、彼女はどこに行ったんだろう。今日は来てくれるだろうか。そう思いながらお茶飲み、いつもの場所へ向かった。 もうどれだけ待っただろうか。なぜ来ないんだろう。昨日はなぜ急にいなくなってしまったんだろう。もう会えないのだろうか。そんなことを考えているといつの間にか夜が明けていた。 僕は家の近くのカフェで友人に会っていた。 「お前昨日眠れなかっただろ」 僕の顔を見るなり言ったところを察するに、目の下にクマでもできてしまっているのだろう。 「あぁ。あまり眠れなかった」 「だろうな。目の下にくまできてるぞ。歌舞伎やな」 「歌舞伎ゆーな」 「体弱いくせにさっさと寝ろよ」 「眠れないんだよ」 「不眠症か?」 友人はコーヒーをすすりながら、冗談交じりに少し笑いながら言った。 「あぁ。不眠症になった。睡眠薬がないと眠れない。でも、最近あまり効かなくなってるんだ」 「冗談だろ?」 「本当だ」 「いつから不眠症なんだよ」 友人から笑みが消えていた。 「少し前だ。今から大体二ヶ月前くらいかな」 「二ヶ月前?」 「あぁ」 「なんか悩んでんだったら俺に言えよ」 「もう終わりにするよ」 「何がだ?」 「仕事も全部」 「まぁ、不眠症になるくれーなら仕方ねーよ」 友人はコーヒーをまずそうにすすった。 その日、僕は酒を飲んだ。 「今日で終わりにしよう。僕も夢の中の住人になるよ」 そう呟くと酒を一気に飲み、いつものベットへ向かった。すると、橋の上に彼女がいた。 「ねぇ、僕と結婚してくれないか?」 「えぇ。今までここに来るのを待ってたのよ」 僕はもう深い深い眠りについていた。手元には空き瓶と大量の錠剤が散らばっていた。僕は夢の中に消えていった。夢の中の彼女と一緒に。
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