少女Aは、差し出された手をじっと見つめた。期待と不信感。自分の中でうずまく感情は複雑に混ざり合って、それが何なのか自分でも分からない。ただ、この手をとれば、全てが変わる。それだけは確信していた。そして、確実に何かを失うことを彼女は知っていた。 少年Aは、少女Aに微笑んだ。
「大丈夫。俺は、君を迎えに来たんだ」
迎えに来た…どうして、彼がこんな表現をしたのか、彼女には分からない。彼こそ、人の家に侵入してきて自分を連れ去ろうとしている張本人なのに。でも、彼の笑顔はどこか不思議な優しさをもっていて、彼女は信じたくなった。
「あなた、誰なの?」
静かにそういうと、少年Aは答える。
「俺は、カイン」
* * *
なんなんだ、これは? 俺は、渡された台本を途中でやめて閉じた。台本をゆっくりおろすと、目の前には、感想を期待しているアンリが。
「で? どうだった? 和幸」
どうだった? てな…こんな、カインをヒーローに仕立て上げる話を、カインの俺にみせて、どう反応しろって言うんだよ。
「さあ。どうだろう」
まあ、アンリはそんなこと知っているわけはない。とりあえず、言葉をにごすことにした。 そもそも、俺がカインであることは極秘。誰が、殺し屋です、なんて自己紹介するもんか。といっても…俺は、誰も殺したことはないけど。 こうして、普通の高校に通って、普通の生活をすることができるのも、カインである事実を隠しているからだ。
「どうだろう、じゃないでしょ。何かしら、感想はあるはずよ」
授業前のあわただしい教室で、ひときわ高い声をあげるアンリ。なぜだか知らないが、こいつはことあるごとに俺にちょっかいをだしてくる。明るくてうそがつけない性格は、自然と人を集める。彼女の才能だろう。嘘をつくしか生きる方法がない俺とは正反対だ。映画研究会なんていう変人の集まりを組織できるのも、そんな彼女くらいだろう。俺も、その変人の一人だけど。高校にはいってすぐに、アンリに目をつけられ、しつこく勧誘されたのだ。同じクラスになったのが運のつきか。それからというもの、こいつの趣味につき合わされている。 俺は、また厄介ごとに巻き込まれるのか、とため息をついた。
「感想……」
正直に言おうか?俺はカインだが、こんなロマンティックな出来事にでくわしたことは一度もない。現実的じゃない。当然、そんなことはいえない。
「カインを題材に、こんなラブロマンスな映画つくったら、怖い人たちに目つけられるぞ」 「あら、どうして?」
絶対に心当たりがないわけじゃないだろう。俺に言われて、アンリは目をそらしてごまかしている。彼女もわかっているのだ。俺たちカインは、誰にとっても悪者だ。唯一、俺たちを支持しているのは、虐げられている人々。被害者。弱者。そういう人たちだけだ。権力を持つものは俺たちを嫌う。だが、世の中の常識をつくっているのは、そういう奴らだ。
「知ってるだろ? カインはただの人殺しだよ」
裏の世界では、俺たちカインは有名人だ。だが、表では、まるで都市伝説かのように語られている。殺し屋として裏の世界で育てられた少年少女。それが表で語られるカインだ。 だが、アンリは、俺の言葉にむっとした表情をみせた。
「そんなことないわよ」 「え?」 「カインはただの人殺しじゃないわよ」 「まぁた、お前はそういうこと言って……」
アンリは、どうもカインを神格化している節があった。今回だけじゃないのだ。こうして、カインを題材にした台本をもってきたのは。そのたびに、俺が難癖つけてボツにしてきたんだけど。
「いろいろ調べたのよ、これでも。カインのこと」 「え?」
アンリは、ぐいっと身をのりだしてきた。
「知ってる? 裏では、人身売買が当たり前のように行われてるって」 「……」
おいおい。どこからそんな情報ききだしたんだ? 俺は、何も答えられない。そんなこと、ただの高校生が調べ上げられることじゃない。
「じ、じんしんばいばい?」
しぼりだした演技は、無残なものだ。だが、夢中になって話しているアンリは、そんなこと気に留めることもない。
「そう。それで、カインはね、その売られた子供たちを取り返しているの。世間では、ただの殺し屋だなんていわれてるけど…本当は、子供たちを守るために…」
俺は、変な胸騒ぎを覚えた。
「アンリ、お前、もしかして……」 「え?」
俺の問いに、アンリは、丸い目をこちらに向けた。身を乗り出したアンリの顔は、驚くほど近くで、俺は思わず言葉を詰まらせた。
「なに?」 「い、いや……」
自然を装って、俺はイスの背もたれによりかかった。
「なんていおうとしたの?」 「なんでもないよ」
窓の外を見る。夕べと違うトーキョーの姿だ。太陽は、コフィンタワーにもその光をおしみなくそそいでいる。昼と夜で、姿を変えるのは俺も同じか。俺は、嘘をついて暮らしている。嘘をつかないと、昼の世界で生きていけない。でも、それは俺だけじゃないのかもしれない。 アンリにまた目をやる。彼女はまた台本を自分で読んでいる。高校に入学してから二年間、同じクラスで、よく一緒にいた。カインに興味をもっているのは知っていた。でも、なぜ今までその理由に気づかなかったんだろう。
「アンリ、台本、見せて」 「え?」
戸惑うアンリをよそに、俺はうばうようにアンリの手から台本を取った。また中を読み返す。
「……なによ?」
本当に、どうして気づかなかったんだろう。俺は、自然と笑みがこぼれているのに気づいた。アンリは、気味悪そうに俺のことを見ている。
「感想、言ってなかったよな、まだ」 「え?」
さっき読んだときに、なぜ気づかなかったのか。
「すごく現実味のあるストーリーだよ」
アンリは、俺の感想に目をぱちくりさせた。 そう。俺たちカインが迎えに行った子供たちは、今もどこかで生きているんだ。彼らもきっと、権力を恐れて、その過去を隠しているに違いない。俺が、カインだということを隠しているのと同じように。 たとえ、私は売られたんだ、と警察に言っても、何も正しいことはなされないだろう。皆、知ってるんだ。このトーキョーでは、正しいことをしても、自分の首をしめるだけだ、と。黙っているしかないんだ。
「いつから撮影するんだ?」 「え?」 「なんだよ、そのまぬけな顔は」 「だって、あんたがこういうことに前向きな姿勢みせたことないから」 「……まあ、ちょっとな」
断るには、ストーリーが現実的すぎたんだ。 ガラッと扉が開く音がして、担任が入ってくる。アンリは、あわてて席を立った。
「ちなみに」
自分の席に戻る寸前、アンリは俺に言った。
「これ、映画じゃなくて、文化祭の劇よ」 「……え」
アンリが自分の席に戻って、アンリがさっきまで座っていた席には中村が座った。中村は、後ろに振り返って俺ににやついた。
「相変わらず仲いいな。アンリとお前」 「……」
担任が、出席を取り始めた。俺は、アンリが言い残した言葉がひっかかって仕方がない。中村のセリフが頭に入ってこなかった。
「おい、藤本?」 「なあ、中村」 「あ?」 「文化祭の劇、てなんだよ」 「あぁ。アンリがはりきってるやつだろ。何やるのか知らないけど」
中村は、はは、と笑って、前に向き直った。 文化祭の劇で、あんな話をやるのか? カインのラブストーリーを? 劇で? どんな笑いものになるのか分かったもんじゃない。それよりも……大問題になるに決まってるだろう。てっきり、あいつの趣味でおわる話だと思っていた。あいつの撮影はただの遊びで、つくった映画はアンリのコンピューターで一生眠りにつく。今回もそうだと思っていたのに。 俺は、ため息をついて頭をかかえた。
「藤本!」
担任が、俺の苗字を呼んでいるのが聞こえた。声の調子からして、ずいぶん呼んでいたみたいだ。アンリの劇のことで頭がいっぱいで気づかなかった。そもそも、藤本、という苗字は、カインの皆が使っている苗字だ。俺の苗字じゃない。カインの苗字なんだ。藤本さんには悪いけど、俺はこの苗字を好きにはなれなかった。
「はい」
もう遅いだろうが、とりあえず、返事をする。担任は、眉をひそめて俺を見る。
「元気そうじゃないな。何、悩んでる?」 「何も悩んでませんよ」
たとえ悩んでたとしても、そう聞かれて答える奴があるか。この担任は、典型的な世襲教師だ。親のコネではいってきただけ。高校でも、かわいい女生徒ばかりに目をつけてはなんだかんだといちゃもんつけて、職員室に呼び出している。
「おそらく来週の期末試験の心配かな」
そう切り出して、担任は期末試験の話を始めた。 急に隣のクラスがざわつくのが聞こえてきた。何人かが気になって、顔を見合わせる。ホームルームで何か盛り上がれることがあるだろうか。
「転校生?」
誰かがそうささやくのが聞こえてきた。
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