薄暗い神殿。少年は、じっと中央の大きな箱を見つめていた。 少年の周りには、黒いマントに身を包んだ、なんとも怪しい老人たちが息をのんで箱を見つめている。 少年は、老人たちを見回す。マントでしっかりとは見えないが、皆、どこか、見覚えのある老人たちだ。 ふと、ぽん、と誰かが少年の肩をたたく。
「大丈夫?」
少年が振り返ると、やはり黒いマントに身を包んだ女性が微笑んでいる。少年は、彼女の顔を見ると、安堵して微笑む。
「少し寒いだけだよ、母さん」 「そう」
彼女は、ぎゅっと息子の肩をつよく握り締めた。 少年には、母親がなぜ急に表情をこわばらせたのか分からなかった。四歳の少年には、運命を知るにはまだ幼すぎた。
「フォックス」
箱のほうから、低い声が聞こえた。少年は、名前を呼ばれて振り返る。箱の傍に立ち、こちらを見つめている男は、おもむろにフードをおろす。男の無精ひげは、まだ若い顔立ちに似合わない。
「フォックス、お父さんのところへ行きなさい」
母はそう言って、少年の背中をそっと押した。周りの老人たちもその様子をじっと見守っている。フォックスは、多くの視線を浴びながら、箱のほうへと歩みを進める。
「フォックス・アトラハシス」
少年の父親は、息子の名前をゆっくりと、呪文を唱えるかのように口にした。異様な緊張感に包まれ、フォックスの歩みはなんだか遅くなる。 フォックスは、父親に促されるまま、箱の前に立つ。この箱の存在は昔から知っていた。かくれんぼをしたとき、何度かこの箱の中に隠れようとしたことがある。しかし、そのたびに、どこからともなく『誰か』が現れ、フォックスを止めた。そして、すぐに父親の元へ連れて行かれ、何時間も説教をされたものだ。三、四回それを繰り返し、やっとこりたというのに、なぜいまさらこの箱の前に立たせるのだろうか。フォックスには分からなかった。 父親は、そんな息子に説明をする様子もなく、周りを囲む、二十人近くの老人たちを見回す。
「アトラハシスの子供たちよ。 ニビルの王、エンキからの神託がくだった。 再び、我々『ルル』に罰が下されようとしている」 「……父さん?」
父親の、こんなに恐ろしく深刻な声は聞いたことがない。フォックスは、おびえた表情で父親を見上げた。しかし、どうやらおびえているのはフォックスだけではないようだ。周りの老人たちからも不安の声がもれるのが聞こえてくる。
「パンドラの箱は、日の出とともに開かれる」
父親はそういうと、箱を見つめた。フォックスははっとして父親と同じく、箱を見つめた。
「パンドラの…箱?」 「ニヌルタも、エンリルからの神託を受け、まもなくここに現れることだろう」
父親のその言葉で、老人たちは一気に戸惑いの声をあげた。
「アトラハシスの子孫たる我々の使命は、ニヌルタから、パンドラの箱を守ることである。 そして……エンキはさらに私に命じた」
父親はそういうと、難しい表情でフォックスを見下ろす。
「私に、アトラハシスの王から退き……」
その言葉で、老人たちのざわめきはどよめきに変わった。
「なんと!」 「まさか?」
老人たちの視線は、フォックスに集まった。
「……え?」
父親は、覚悟をきめた表情で息子を見下ろしている。
「新しいアトラハシスの王に、我が息子、フォックスをすえよ、と」 「……王?」
時がとまったかのように、その場は静まりかえった。フォックスには、わけが分からなかった。アトラハシスという言葉は、彼にとってはただの名前にすぎなかった。アトラハシスの子供が何を意味するのか見当もつかない。ましてや、王とはどういうことなのか。 父親は、詳しい説明をするそぶりもなく、ただしゃがみこみ、フォックスを見つめた。
「フォックス。パンドラの箱が開いたとき、お前に、エンという名を授ける」 「……エン?」 「王、という意味だ」 「父さん、よく分からないよ。いったい、どういう……」
フォックスがすべてをいい終わらぬうちに、父親はまくしたてるように言葉を続ける。
「アトラハシスの王となるお前の役割は、エンキからの忠告によく耳をすまし、 『ルル』にふりかかる災いをしりぞくことだ」
フォックスの頭は、父親が言葉を発するごとに、どんどんこんがらがっている。
「ルル?」 「ルルとは、私たち人間のこと」
母親の声が静まる神殿の中に響いた。母親は、王となる息子をじっとせつない表情で見つめている。
「あなたの使命は、私たち人間を、エンリルの裁きから守ることなの」 「エンリル……」
フォックスは、また初めて聞く単語を、ふとつぶやいた。母親は、何も言わずに、それにうなずいた。
「アッシュ。日の出だ」
神殿の窓から外を眺めていた、一人の若い男が父親につぶやいた。彼もやはりマントに身を包んでいる。 父親は、すっと立ち上がると、再び箱を見つめた。
「フォックス・エン・アトラハシス」
フォックスは、その新しい名前に違和感を覚えながらも、父親をゆっくりと見上げる。
「箱が開くぞ」 「!」
窓から日の光が入るとともに、箱から不思議な光がもれはじめる。がたっと大きくゆれ、フォックスは思わず後ろにとびはねた。
「……動いた?」
周りの老人たちも、箱の異様な様子にたじろいでいる。ある者は、急に思い立ち、祈りをささげ始め、ある者はただ呆然と箱を見つめていた。 一瞬、爆発するかのように、まぶしい光が箱からあふれ、急に何事もなかったかのように静かになった。それを見届けると、父親はフォックスの背中を押した。
「え?」 「今日から、これを預かるのが、お前の使命だ」
ぎいっと、きしむ音とともに、ひとりでに箱が開き始める。フォックスは、目を見開いた。ごくりとつばをのみ、じっと開いていく箱の中を見つめる。
「……え」
箱の中に眠る運命に、フォックスはそんな間の抜けた声しかだせなかった。
* * *
神殿の外。止めてある黒いバイクによりかかり、男は日の出を見つめながら、タバコをすっていた。歳は十九。あごには、剃りのこしのひげが無造作に生えている。髪はかるく肩にふれるほどの長さで、ぼさぼさだ。たくましい二の腕をみせびらかすように、白いTシャツの袖をまくしあげている。彼を知らない人間が彼を見れば、ワイルドだ、という印象を受けるだろうが、実際はただズボラなだけだった。
「やれやれ、アトラハシスに先をこされるとはねぇ」 「タール!」
タールと呼ばれた男は、思わずタバコを落とした。あわてて振り返ると、そこには神秘的な顔立ちをした、黒髪の少年がふくれっつらで立っている。その鋼のような黒髪は、少年の腰まで伸び、真ん中で分けた前髪も胸にかかるほどの長さがある。瞳も黒真珠のように、漆黒で大きくクリっとしている。 タールはそのまっすぐな瞳に見つめられて、まぬけな笑顔をもらした。
「レッキ。なに怒ってんだ?」 「ちゃんと伝えたよね? エンリルの神託!」
タールは、やれやれ、とタバコの火を消し、ため息をつく。
「分かってるよ。心配するな」
そういうと、天に手を差し伸べる。空気をつかむように、ぐっと手を握ると、一筋の光とともに、大きな剣が現れる。タールは、力強く剣の柄を握り締め、肩にのせた。
「邪魔なアトラハシスの一族には滅んでもらおうか」
その言葉に、レッキは視線をそらした。
「どうした? レッキ」 「……」 「罪悪感は必要ないだろ。エンリルは、すべての『ルル』を消し去るつもりなんだからな」
タールは、剣を肩におき、神殿へと歩みを進める。
「今から何人殺そうが、何も変わらないだろ」
レッキは何も答えず、落ちているタバコを見つめた。
「タバコ……ポイ捨てしないで」
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