ホテルとカメラの充電切れについて
「奏太。着いたぞ。」 ウィスパーボイスでゆさゆさと右肩が揺さぶられ、関谷崇の顔がぼくの隣にあった。 ぼくの目が覚めたのを確認して、彼はバックパックを背負った。そのときにフワリとメロンのようないい香りがした。関谷崇のコロンの匂いなのかもしれない。さっき顔を寄せたときも同じ匂いがした。 もう夕暮れだった。一本道の先に聖なる島が見えた。お客が他にいなかったため、バスの運転手は僕等の泊まるホテルの前で停車してくれた。僕等はお礼を言うとホテルへ向かった。こじんまりとした建物だ。隣にはレストランもある。カウンターには金髪の女の人がいて、ハローと英語で迎えてくれた。ぼくは予約していることを告げ、その後にもう一人泊まりたい人がいると伝えた。彼女はOKと承諾してくれ、一緒の部屋でいいの?と聞いてきた。僕はいや、別々で・・・と言いかけたが、関谷崇は一部屋いくらか尋ねた。彼女はPCをカタカタと調べ、今空いている部屋だと80ユーロだと告げた。僕の部屋は、事前に安い部屋を交渉していたこともあり、69ユーロだ。 「なぁ、奏太。一緒の部屋じゃだめかな。おれ80も出せないかも。」 ぼくはあまり知らない人と一緒に泊まったことがなく、少し戸惑ったが、彼なら大丈夫だろうと思いOKした。それに69ユーロの半額で泊まれるなら夕食も贅沢ができる。ぼくは69ユーロと二人分の朝食代18ユーロをカードで払った。現金も少なかったし、関谷崇からキャッシュでもらえるのも嬉しかった。 部屋は2階だ。EVがあったのかもしれないが、2階だったのでまあいいやと思い、赤い螺旋階段でお互い重い荷物を背負いながら向かう。関谷崇のバックパックは、登山用の、黒に明るいグリーンのパイピングが入ったグレゴリーのリュックだった。ファスナーとファスナーが南京錠で留められていて、暗証番号が分からないと開けられないようになっている。腰周りの留め具を調整する所のバンドがところどころ擦り切れているが、それ以外大きな汚れもキズもなかったので、今回の旅用に購入したのだろうか。荷物もコンパクトにまとまっているように見えた。後ろから見ると靴の踵が少し磨り減っていた。そのプーマの黒いスニーカーは、サッカーのスパイクみたいになっているデザインで歩きやすそうだ。こうしてみると、普通に裏原にいてもおかしくない格好だったので、ぼくが思い描くバックパッカーよりも小奇麗だった。でも日本人というのはこういうものなのかもしれない。 部屋に着くと、窓からモン・サン・ミッシェルは見えなかった。でもホステルではありえないバスタブはあったし、備え付けのアメニティもあった。トイレはバスルームの中にあり、扉に鍵はついていないが、どちらかがバスルームを使っているときは入らなければいいだけの話なのだから、それも気にはならない。 しかし、一人部屋なのでベッドはひとつだった。細身の彼となら十分眠れる広さだったが、やはり気まずい。関谷崇もそれに気づいた。 「そっか、ベッドひとつだから安いんだな。大丈夫、おれシェルフ持ってるからお前使えよ。元はといえばおれが無理言っちゃったんだし。」 「でも・・・。」 「いいって。それより、早く見に行こうぜ。教会閉まっちゃうぞ。」 関谷崇はバックパックからマンハッタンポーテージの迷彩柄のメッセンジャーバッグを取り出し立ち上がった。 「おれ、下で待ってるから、支度できたら来いよ。」 後ろ手で手をひらひらさせ、のそのそと部屋を出て行く。ぼくはヘッドポーターのショルダーバッグを肩にかけ、カメラが入っているかチェックして後を追った。 フロントにはさっきの女性がいて「楽しんできてね」と声をかけてくれた。関谷崇はすでに外へ出てこの宿の写真を撮っていた。 「凄いの持ってるな。」 彼はニコンの一眼レフカメラをカメラマンみたいに首からぶら下げていた。レンズもかなり分厚く、ぼくみたいな素人から見たらずいぶん本格的に見えたので思わず感嘆してしまった。 「お前はちゃんとカメラ持ってきたのか?」 ぼくがバッグからソニーのデジカメを出すと、彼は「おしゃれデジカメかよ」と笑った。 モン・サン・ミッシェルは以外に遠かった。両隣を干潟に囲まれた車道と歩道があり、歩道には馬の糞がたくさん落ちていた。干潟の手前には草原があり、馬に乗って移動する人もいた。風が強く、轍を辿るのもやっとだ。それに加えて糞をよけて進むと結構疲れてくる。 「さっき地球の歩き方に書いてあったんだけどさ、ここでたくさん溺死したらしいよ。潮がどんどん満ちてってそれに気づかなかったんだって。そんな馬鹿なことあるかよ。知らない間に命の危機に晒されてるなんて、気づかないほうが信じられないよな。外国人て鈍感なとこあるもん。」 関谷崇は遠くの海に目をやる。 「修道院には幽霊でもいるんじゃないか?あーそれにしても腹減ったな。奏太は何食う?おれは名物のシードルとムール貝が食いたい。そういえばふんわりしたオムレツも名物らしいよ。」 ぼくはあまりお腹は空いていなかったが、彼が目をくるくるさせながら美味しそうに宙を見て語るので、ふわふわとしたフランスの雲がそんなオムレツのように見えてきた。 「おれもそのオムレツ食ってみたい。」 「よし、じゃそれにしよう。奏太、さっきの本持ってきた?おれ、あれ見て知ったんだよ。場所も書いてあるし。」 「ごめん。重いから置いてきちゃった。でもすぐわかるだろ。島は小さいんだし。」 「お前は意外とアバウトだな。あ、カメラの電池切れそう。」 彼のカメラはチカチカと赤く点滅していた。夕暮れのモン・サン・ミッシェルや広い空がきれいだったので、彼はそれらを休むことなく撮り続けていたが、ついに電源が点かなくなったようだ。 「やばい。教会に入る前にバッテリー無くなっちゃった。めちゃめちゃショック。」 彼は点かなくなったカメラを揺さぶったり、レンズを除いたりしている。気の毒としか言いようがない。 「あっちで電池、売ってるんじゃないかな。」 「うん。きっと売ってるよな。店が閉まってなければいいんだけど。ああ、でも、この道程に様々なシャッターチャンスがあるのになぁ。悔しい。」 「よかったらおれのカメラ使ってよ。ただのデジカメだけど。」 「本当か?やった。じゃあ、そうしようかな。後でメアド教えるから、絶対送ってくれよ。もう少し近くなったら、ほら、あそこ、みんな写真撮ってるとこで写真撮りたいんだ。」 そこはモン・サン・ミッシェルの入り口につながる桟橋だった。観光客はみんな写真を撮っている。僕等が辿り着くと関谷崇は外国人になにやら話しかけた。そしてぼくのカメラをその人に渡した。 「ほい、奏太。一緒に撮るぞ。」 いきなり腕をつかまれ、位置を決められる。外国人が手でジェスチャーをしている。 「もう少しこっち寄ってって。」 彼の大きな声がぼくの耳横でよく響き、またどこからかメロンの香りが流れてきた。写真を撮ってくれた人にお礼を言い画像をチェックすると、少しぶれていたがぼくははにかみ、それでも穏やかな表情をしていた。彼は満面の笑みで人差し指と小指を突き出すロックのポーズをしており、もう片方はぼくの肩に添えられていた。彼は長い間日の下にいただけあってよく日に焼けており、マンガの登場人物みたいに口角が上がっていた。ぼくは久々に自分以外の人間の顔をじっくり見た気がした。同じ人間なのに、同じ人種なのにこんなにも違うものかと思った。そして、風景ばかりが収められているぼくのカメラに初めて人物が収められた。 「かっこよく撮れてるじゃん。これ絶対送ってくれよな。何か、お前モデルみたいだな。ポーズとか、笑い方とか完璧じゃん。」 「何言ってんだよ。そっちこそ、よく撮れてる。」 「二人ともかっこよく撮れててよかったな。こんないい場所で目とかつぶってたら本当最悪。イギリスでは何枚かあってさ、ストーンヘンジの前で風が強かったせいもあって、めちゃめちゃ目つぶってるのとか、ロンドン塔の前で下向いてるのとか、いまだに撮り直したい。電池買ったら見せるからな。本当ショックだぞ。」 ぼくはその姿を想像して思わず声に出して笑ってしまった。 「ははは。そういえば写真撮るとき、クラスでいつも目つぶっちゃう奴いたよ。」 「そうそう。集合写真とかだろ。でもああいう時はおれ、完璧だったのになぁ。そもそも外国人に頼むとタイミングがわかんないんだよな。はいチーズって言ってくれないし。というか、嫌がらせとしか思えん。何で下向いてるときに撮るかな。おれのつむじ撮ったってしょうがないんだよ。」 「取り直してもらえば良かったのに。」 「それがさ、おれも案外細かいこと気にしないたちでさ、そのバッドショットに気づいたの、フランスに着いてからだったんだよな。ユーロスターの中でイギリスに別れを惜しみつつ、今までの旅の軌跡を辿っていたら、出てくる出てくる。ぶれてたり、フラッシュたけてなかったり。何のための一眼レフだよ。イギリスの楽しかった思い出の半分は残せていないんじゃないか?」 「ははは。じゃあおれも写真撮った後はしっかりチェックしないと。」 「そうそう。でもおれはいつかお前のブサイク写真撮ってやる。半目とかな。」 「絶対やだ。おれが撮ってやる。半目なのに満面の笑みのブサイク写真。」 関谷崇は笑い、こんな顔か?と半目の顔をしてみせた。顔が整っているぶん、それほど酷くはなかった。それでもぼくはすごく楽しかった。久しぶりに楽しかった。 島に入ると、観光案内所で地図をもらった。しかし、もう教会はクローズしていた。仕方がないので、教会の直前まで登り、景色を楽しんだ。道が入り組んでいて、下る人も上がる人も決まったルートはない。 僕等は度々行方不明になった。関谷崇が意外なところで足を止めたりするから、ぼくは気づかずに先へ行ってしまうのだった。今行ける一番高い所まで来ると、ぼくは写真を撮った。波の音が夜の闇の中に聞こえる。もしかしたら、すごく近いところまで潮が寄せてきているのだろうか。しかし、空の色と海の色が混じりあい、それの境界線を見つけることはできなかった。 「すごい暗くなってきたな。それに少し寒くないか?」 彼はTシャツの上にザ・ノースフェイスのカラフルなナイロンブルゾンを羽織っているだけだった。僕は秋用のモッズコートなのでお尻まですっぽり隠れる防寒用だ。それにディーゼルのデニムは生地がしっかりしているし、ドクターマーチンのブーツも足首まであるので暖かだった。彼もぼくの服装を見て、自分の軽装を反省していた。 「おれは恵比寿仕様には勝てないや。何ブーツ履いてんの。足痛くなんないの?」 「何その恵比寿仕様って。あいにく、おれはバックパッカーではないんで普通の格好で来たんだよ。皮靴はなじむと歩きやすいし、暖かいんだ。それより風邪ひくぞ。ご飯食べよう。オムレツの店どこにあるんだっけ?」 「入り口付近にあるって書いてあったような・・・。」 「入り口まで大丈夫か?大体行く準備が早すぎるんだよ。もっとちゃんと後のことも考えて行動しとけばいいのに。帰り道結構距離あるぞ。なんか羽織るもん買っていった方が良いんじゃないか?店ほとんど閉まってるけど。」 「金勿体無いからいらない。大丈夫。おれほとんど風邪ひいたこと無いから。」 「本当かよ。おれ寒くないから、これ着てろよ。」 ぼくは自分のコートを脱いで彼に手渡した。 「いいよ。大丈夫だって。」 「いいから。その代わり、そのブルゾン借りるぞ。」 僕等は上着を交換して頂上から入り口付近まで下った。どの道から来たのかわからなかったので、とりあえず遠回りでも下へ下ることだけを考えた。 「なあ、このコートすげえ暖かいな。いくら位するもんなの?パリで見つけたら絶対買おう。」 「いくらしたか忘れちゃったよ。渋谷で買ったんだ。パリでも似たようなの見たぞ。オペラ通りだったかな。でもこのブルゾンも見た目よりかは暖かいな。風通さないし。」 「気に入った?交換してもいいぞ。」 「しないよ。」
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