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作品名:under the sky 作者:勝野 森

第4回  
 四

「どちらにしても、“一葉落ちて天下の秋を知る。”でござりまするな」
「そいつあ淮南子、だったかえ。一葉か、まあまあまさに大きな一葉だなあ。さすれば桐の葉じゃ。はや 落ちてしもうたかのう。落ちれば兆しありとな」
「兆しはやがて争乱あり、となりまするや」
「あり、となる。間違いは無し」でなければこちらも困るのだ、と如水は思っている。 「さすれば、」
「いや、もうこの話は止めよう」と如水はいきなり左手を扇子のように広げて宝珠庵の顔の前にかざした。すでに如水は野心の矢を放った。あとは結果を待つだけで、もう宝珠庵にどうのこうのと言っても詮無いことではあったのだ。「たとえわしらが国の果てでこうして話していても噂は天を翔る。つまらぬことで誰ぞにチャチャ入れられても、煩わしくも五月蝿いだけじゃて、」と言うことで話を収めようとした。
「何をお気になさりまするや、もし殿下すでにお隠れなされたのであれば、もはや如水軒様をわずらわせるものなどおりますまい」
「いやいやそうではないのだ。口から出たものほど恐ろしいものはない、と言いたいのだよ。もしおぬしが先のわしの戯言を誰ぞに話し、それが力ある者が用いたとしよう、さればどうなるか、」
「さればどうなりましょうや、」
「“一将功成って万骨枯る”」
「今更それはないでしょう。あと幾つかの動乱がなければ本まに世は鎮まらない、とは如水軒様のお考えではありませぬか」
「確かに太閤一代では百年の乱世を鎮めかねる。しかしわしの言葉が元でもう一度乱を呼びたくは無いのだ」
「乱は殿下の死によって始まるのです。如水軒様のせいではありませぬ」
「ふう、」とここで如水は脇息に大きくもたれて溜息を付いた。「なまじ軍師などになるのではなかった、とこの頃思うのだ。わしが練った策によってこれまでどれだけの人が死んだか、老いて隠居の身になって落着いて考えるようになってつくづく思うのだ。わしは天下に志しもって世に出てから今日此処に至るにおよびどれほどの人を殺してきたのか、とな。と思えばなんと因果な仕事を選んだものか。これが農夫であればただ田を耕して誰も傷つけずに生涯を過ごせたものを、」
 それは何とも弱気なことを、天下に名をなす将たるものがこの期に及んでそのようなことを言い出すようでは、確かに老いたる証拠でしょうな。とは宝珠庵もさすがに言わない。
「それは贅沢な悩みですな」と本音を変えて宝珠庵はにべもない。「まこと才あるものの我儘でござる。誰も望んで人殺しは致さぬもの。だがこのような世の中、殺さなければ殺される、これ当然なれば、生きんとしてすることただはひとつ、先んじて戦って生き残るしかありませぬではないのでしょうか」
「まことそうよなあ。これまで散々人を殺して今更何を云わんや、かな。さてもこれはわしの失言であった」如水は心にも無いことでお茶を濁しても所詮宝珠庵ほどの知恵者なら話にもならないと悟って「さてさて、血生臭い話しは年寄りには向かぬて。さあもう一杯お茶はどうか、それとも笹でも食べるか」と話しを代えようと思った。
 ここで話題を代えることは宝珠庵も賛成であった。この時代大勢の名も無き人々、庶民、雑兵らの命は貴人のそれから見れば話題にもならないのが本当である。だからこのような人たちの生き死になどは、青臭い学僧たちが語ることで、もう生涯の秋にいる自分らにはくすぐったい話題なのだと思う。
 さても酒か、そう云われても田舎饅頭であの味なれば、彼の地の酒はもっと不味かろうと宝珠庵はここで思い、酒はやはり伏見が一番なれば所持してこなかった自分の愚かさを今は呪うばかりだった。
「いやはや、やはりお茶が美味しゅうござれば、もう一杯所望願いとうござります」と宝珠庵は如水の手に行ってしまった茶碗を示して仕方なく催促すれば、
「どうか、この茶碗?」と如水はふと思い出したように意外なことを言い出した。さてもこのような安物をどう鑑定せよというのか、宝珠庵は如水も田舎に引き蘢って惚けたかのと思えて不思議そうに改めて差出す茶碗を受け取ってよく見ていると、追い掛けるように「安物んじゃろう、そのへたったような造り。なあどう見てもそうじゃろう」と、如水とて同じ考えらしくそう言ってきた。
「如水軒様は身を慎み質素にして爽やかに御過ごされておりますれば、これなども中々の鄙びた趣きありなんと見えまする」と、まあ、出来るだけのお世辞を宝珠庵が追従など恥じとも思えずに語ってみたのである。
「雛びた趣とな、強いて良きを探せばそうとしかいえぬわなあ。ははは、やはりおぬしもそう思うか。それはのう実は去る年、利休居士から譲り受けたもので、価は千貫の逸品じゃそうな」とここで種明かしでもするかのように如水は軽々と言って可笑しそうに微笑んだ。
「あっ」と宝珠庵は千両の茶碗を落としそうになりあわてて強くにぎりなおしたのであった。これは如水にしてやられた。「なあるほど、いわゆる井戸茶碗であられますな。これは」というなり、今度は恐ろしげにしげしげと見つめれば「確かに、この巧者の物とは違う意図せぬあるがままの儚き美しさ。ううむ、これは茶の湯を極めたつもりの手前にもわかりませなんだ。何とも一本まいりましたな如水軒様には」と宝珠庵もさすがに井戸茶碗のもつ自然美には気付かず、溜息ばかりとなった次第である。
 それにしても、と思うのである。質素、吝嗇家と見せておいてこのような高価なものをさりげなく出して客をいたぶるとは、やはりこの人は油断のならぬご仁だと宝珠庵は憎々しくも、人をおちょくりおってと、如水のことを己の腹底に感じていた。
「そうかのう、」一応大名の教養として茶の湯は利休の弟子の端くれにいて勉学した如水であったが「これなるものは、幽斎殿の御家来の井戸某と言う者が朝鮮征伐のおり、彼の国の田舎で百姓が使いし物を拾って来て幽斎殿を通して利休居士に与えたらしいというではないか。つまりは十銭の値もせぬものを、侘だ寂だというて、居士からさらにわしに渡れば不思議なことに価は千貫にもなってしまう。これは人騙しにて、殿下も怒りて居士に腹を召せというのもわからずでもない」と言いながらも「しかしのう殿下もたわけよ、茶の湯の真髄の何たるかもわかっておらぬ。わしには居士のいう侘寂の解釈はわかる。利休居士は、人は欲を捨て、本来生きていく最小限の生活さえあれば、そこに真の安らぎがあるという釈尊の教えに従ったまでのことじゃがのう。貧乏の底に身をおけば、泥棒も哀れんで逆に物を置いていくという故事もある。つまり人から欲を取り除けば取られるものもなく、羨ましがられることもない。また欲がなければ人を妬むこともなく、怖れることもない。これをして最高の安息の境地なりと言えり。ゆえに井戸茶碗は本来百姓の道具であったからこそ、意味があるのだ。はからずも分限者となった居士でも、一瞬なりともそのような侘寂の境地にわずかなりとも浸ろうとするならば、粗末な部屋に於いて粗末な道具で茶を喫するしかない。これこそが真の一期の茶湯の醍醐味であろう」
「当にその通りでござりまするなあ。井戸茶碗を知らずに、これは安物と見る目こそ本まの茶人であられましょうや」と宝珠庵は負惜しみの言い訳も何やらおこがましいのだが「しかし太閤殿下は最後までそれが理解できなかった。いやしようとしなかったですなあ。或る時、利休様がその茶の湯の心得を申された時、えらい怒られましてな。おみゃあに貧乏の何たるかをホントに知っておるのかと、そりゃあエライ剣幕でございました。余は幼き時より明日喰う物も無い生活を強いられ、それとはいかばかりか、いま思い出しても恐ろしいとさらにおっしゃり、餓えることは死人の肉を喰らうても生きんがことぞとえらい血相で殿下は利休様を罵りましたなあ。まさに太閤殿下の貧乏もこれは体験したものだけしかわからぬでしょう。それを風雅とは何事ぞ、貧乏を遊びに使うとは何事ぞと殿下は思われたのでしょうな」と言った。
「茶などは元より遊びじゃないか。遊びは真を極めてこそ面白い。それもわからぬほど無粋とはなあ。遊びの達者な殿下らしゅうない。ただしかしそれほどまでに貧乏とは怖いものかのう、わしらにはわからぬて。まあ殿下は天下一の分限者となり天下の財を全て集めてのちさらに派手に散財したのも、その貧乏の恐怖から逃れる意味合いがあったのやも知れぬわなあ。となれば貧乏遊びだけはしたくないわな、ということか」と如水も感慨深げにそう言ってうなずいていた。
「まさに利休様も十銭の井戸に千両の値を付けたのも逆さに見れば同じ意味合いでしょうか」と宝珠庵もまた腕組みなどして同調するのだった。 「その居士を叱った話はおぬしが直に殿下から聞きしかの?」
「ええ、時は忘れ申したが、わて等は連歌の会も茶会も同じくすることもありますれば、まこと皆の前で罵倒された利休様も気の毒でしたな」
「方や黄金の茶室、方や待庵か。ここに居れば人これ誰も位無くあるは主と客なり、が茶の定めなれば黄金の茶室など外法の極みといえるな。まっ太閤殿下も心病を患っていたやもしれぬて」
「黄金を山と積みなお唐天竺までほしがるとは、やはり幼き時の貧乏の恐ろしさがいつまでも祟っているのでしょうか」
「まあ祟り病ではあるわな、確かに」如水は首を傾げ納得するように可笑しそうに笑った。「その太閤殿下や他の大名、分限者を居士は虚仮にしたのじゃから、これでは怒りを買うても仕方なし」と如水は言いながらも己が存知て高い買い物したこと事態が、そのことは別段騙されたとは思えず、これぞ万物は総て無に帰すという儚さの、利休の風流の醍醐味だと思えば、あって無き物の値打ちの真髄なのだと、この時期異常に貨幣経済へと移行していく世の流れを皮肉ったというよりも愚かしさを感じさせた居士の達眼に感服すればこそであった。「さても名物からとんとあらぬ話しになりましたな。というところで、もう一服点てよう」と言いながら如水は井戸茶碗を宝珠庵から取り上げてその中に、茄子のような形の茶入れから竹の細い茶杓で無造作に緑たる粉を放り込むと風炉の釜の湯を鮮やかに柄杓を操って取り込み碗に注いだ。それから外へ向って「誰やあるか、」と怒鳴った。間もわずかに小姓らしき若者がぬうと顔を出したので、すかさず如水は「この風炉を片付けよ」と言ってから宝珠庵の方に目をやり「風雅も我慢では意味もなし」と笑ってみせて、「この暑さ、火が側にあったのではかないませぬな」と言葉を付け足しながらもう下を向き茶筅をせわしなく回していた。
「如何に暑いときに熱ものと言いましても、ただ火だけは叶いませぬな」二人の小姓が茶室にあがって来てそつがなく風炉などを片付けて行くのを横目で見ながら宝珠庵はそう言った。
「残暑に茶もなかったかな。が、せっかく遠路来てもらってお互い気楽に話したければ茶室以外に無し」如水は慣れた手付きで茶筅の茶を切り、それを所定の処へ置くと茶碗をゆっくり宝珠庵に差し出してわずかながら頭を下げた。
 そうなのだ。先ほど彼が呟いたように身分もうるさいこの時代、茶室の中だけはどんな官位を持っていようといまいと関係なく、この狭い空間だけは客とそれをもてなす主人しか存在しないのである。まさに茶室ほど密談に向いている場所はなく、二人は十分にそれを楽しんでいた。
「一興でございますとも」と言いながら一礼して宝珠庵は井戸茶碗を引き寄せ手に取り今度はじっくりと眺めて中々呑もうとはしなかったのである。
 どう見ても先ほどの茶碗とこの碗が同じものに見えないのだ。ただ如水が、これは井戸ぞ、と言っただけでこの碗は天下の名物に変わってしまった。不思議なものだ。言葉ひとつで犬ころの飯碗ほどのものが高価な道具になってしまう。人の見る目などさほどのことか、百姓の小倅が天下人になる時代じゃないかと思えば、今の世では何があっても可笑しく無いと宝珠庵はぼんやりと考えていた。
「こうして文字通り胸襟を開き人を選ばず綺譚なく語れるのも利休居士が式足りを作ってくれた御蔭じゃというのに、殿下も無惨なことをしたものさ」
 そうさ茶の湯で一番の馳走は情報なのだ。だからこのままごとは面白い。さほど茶の湯に気乗りのしない宝珠庵を見詰めながら尚彼から次の話題を求めてこの場を如水は楽しんでいた。
 宝珠庵は茶碗越しに彼を見詰め、少し迷っているようだった。やがて茶碗を置くと先ほど小姓が持って来てくれた茶の子、干天のようなもの、何やらとろりとして瑞々しい趣のあるものだが、それを食してのち彼は碗を取り上げ傾けながら中の茶を喫した。茶の子はよく冷えていて甘かった。茶の苦味がほどよく和して宝珠庵は如水が最初は饅頭でからかったことを改めて知ったのである。知恵も教養も申し分なく持っているのになぜか子供っぽく悲願でいるのが如水という男なのだと宝珠庵は思った。
「まこと無惨でござりまするな」頷くように「あのくらいの事で、」と云う宝珠庵は何処か言葉に力なく、目も一所に収まっていないのを如水は見ていた。
「その言い回し、なにやら意味深長なれば、居士のことで何ぞまだ思うところありしかの、」目も鋭く宝珠庵を見詰めて彼は言った。
 宝珠庵はこれだから如水は油断出来ないと思った。子供っぽいなどと侮っていたらすぐにも足をすくわれるのだ。
「それが茶飲み話とは簡単にいかないほどの話しなもので。ここで当事者とは関係ない御人に話していいものやらどうやら、迷うばかりでございまする」
「ううむ、それでは尚更聞きたくなるではないか。宝珠庵殿、ここは地の果ての国なれば話しの漏れる心配はない。案ずるな。綺譚なく十分語れ、」
 これだものなあ、と宝珠庵は思った。さっき、噂は天を駆けると言ったくせにもうどうなっているのやら。
「詮ずるところ、語ることになりしか、」宝珠庵はため息をついた。
「応さ、」如水は機嫌よく笑った。
「それがでするな、どうも利休様が太閤殿下の怒りを買うたのは、そればかりとは言えぬのでござりまする」とここから宝珠庵は意外なことへ話をもって行くのである。
「ほう、京雀は色々と言うてはいると聞くが、そのたぐいかな」と如水も、利休の娘に太閤が懸想して妾によこせと云ったところ、娘は親同様切支丹で宗旨からいっても妾には出せない、と断ったのを彼が恨みに思って難くせを付けて死に至らしめた、という話しなら莫迦らしくて聞きたくもないのだが、どうもその程度のことなら宝珠庵がこうも深刻そうな顔もしないだろうしとここは考え直してやはり興味ありげに耳を傾けてみた。
「いやいや、これはここだけの話で、未だ誰も知らぬことでござりまする」ほう、やはりなあ、と如水はうなずいた。「まあ殿下もお隠れになったとして、もう話しても誰に咎めだてされる気遣いもこれありますまい」と宝珠庵は妙に真面目な顔になると、身を乗り出すように一歩膝を進めて如水に近付き「まこと天下の秘事を堪えて終を迎えるは苦しけれ」と襟の傍、心の蔵あたりを掻き毟るように言うのだが、これが如水にも係わる話しになるとは、まさかにも今の彼は思っていないのである。
 あの過去のおぞましい出来事は地中に深く埋めて微生物が跡形もなく喰い潰してしまったと思っていたが、悪事は深々と刻印を記して消え去らずやがて思わぬ形で現われてくることを彼はまだ知らなかったのだ。
「まてまて、未だ誰も知らぬこと、とはどういうことか、」というこの頭の良すぎる男の小さな疑問、話しの挙足を取るようなことが、この件に関する宝珠庵の重い口をいっそう滑らかにしたのかもしれない。「その事は今これからわしに言う前に利休居士にも話したのではなかったのか、」と更に言いながらやや眼を鋭くして如水は彼を見つめ、言葉使いの間違いを訊ねた。
「そのとおりでございます」と宝珠庵は答えながら、言葉のあやで云った枕詞など気にもせず「まさか利休様があのような仕儀になるなど思いもつかず、ただ浮世話のつもりでしたが、思えば事は余りにも大きく、そんなことにこのような男が係わったこと事態がまこと不思議でこれなどは鬼神の悪戯やも知れませぬ。それもうちのようなもんが浅慮でありましたゆえ、利休様をあたら罪のないにもかかわらず死なせてしもうたのでござりまする」とただ彼の心は後悔に苛まれて仕切りと嘆くのである。
 確かに彼の云うとおりで、利休ほどの国士の死に、このような小さな男が係わっていることなどまったく如水には信じられぬことで、ならばいったい何事やあるのかと、如何にも複雑怪奇な話しに思えて次第に興味がわいてくるのであった。もしこの話に何事か利あれば勿怪の幸い、その分は高い金で宝珠庵を呼んだおまけの取り分となるかもしれない。口説く云うが、彼は情報ほどこの世で値打ちのあるものはないと常々思っている。
「居士も殿下も、その話に係わりの者みな無くなれば、さしつかえぬゆえ最早わしに話して胸の痞えを取り除くがよかろう」と彼は心を押してなお自らもくつろぐように脇息にもたれて見せながら、この男に油断を与えるためにも寛いで見せるのだった。
「それがとても奇怪な話で果たして信じてもらえるや否や」と宝珠庵も往時を思い出したのか、突然、涙を浮かべ出し目も赤くなって語り始めた。「実は」と彼は声もさらに一段と低くして「総見院様は本能寺では亡くなられておりませぬ」と、いきなり胸を衝き頭を撃つようなことを言い出した。
 相手を驚かせるこの言葉に、如水は息を呑む思いで脇息から腕を外しそうになり、ついては山崎合戦後に乗り込んだ京のはずれの屋敷の庭で起きたあの不可解な事件が脳裏に鮮やかに浮かんで来ると、固く封印して忘却の彼方へ投げやったはずの記憶の手文庫がいきなり目の前に現われて、しかもその錠前がパックリと折れているのを見たのであった。そんな莫迦なことなどあるものか、どう何処を何に考えようとあの出来事と宝珠庵が係わることなどありえない。いや、たぶん、違う、が、もしや、やはりあの時、と思い返せば冷汗がたらりと脇を濡らして落ちて行く様を感じて、どうにも止めようもない敵意が宝珠庵に湧き出し、おぞましく思うばかりであった。恐らく宝珠庵はこの後に違う事を云うのだ。きっと、これは俺の早とちりに違いない。だがもしそうでないとしたら、俺の秘事と同じであったなら、いったい何を根拠にこの男はあのことを知り得たのか、場合によってはこの場で腰の短剣を抜いて殺すしかないかもしれないと如水は密かに思った。が、まずは話しを聞かなければわからない、ままよ、ここは落着くのだ。と逸る自分に言聞かせた。
「ええ、上様が本能寺でお亡くなりになっていないだと。言うに事欠き何を言い出すやら、正にたわ言なり、笑止千万。信じられぬ話。世間を誑るような途方も無いことぞ、これは。いったい何を今更もってそのような戯けたことをいうか」と初めて聞く奇想天外な話しとして驚いたかのようにみせて、ここで如水、内心の動揺を悟られまいと話を誤魔化せば、
「まあ、誰にも話せなかったことのひとつはまさに今の如水軒様のいう言葉を他人も言うに違いないとの思いもありました。有り得ぬことと誰もが思う実に莫迦らしい話ですが、利休様は初めから、さもありなん、と肯きうちの話を真面目に聞いてくれ申し候」と宝珠庵は、利休が初めから話の意味を理解してくれたのだと言うことの意味もわからずにいる如水へ言った。
 はたまた宝珠庵が彼にもそう心せよと望んでいるのはいったい何を意味するのか、
「ほう、誰をも信ぜぬような奇怪な話を居士はなんの疑いもなく信じたか、それにしても総見院様が本能寺で亡くなられていないということをどう考えれば、居士はさもありなんと思えるのか、これまた不思議よのう」と如水はまだ収まらぬ動揺を見抜かれない様にするのに必死だった。
「それは、利休様もうちのところと同じ商ん人だからと思うのです」
「ふむ、まあ話がなんとも聴かぬうちにあれこれ詮索しても意味もなし。まずは語られよ、その奇怪な話を」
 そうなのだ。話を聞かなければ何も始まらない。この男をここで殺すも生かすも、はたまた次の手を考えるのも何もかもだ。焦る自分の愚かさは情けないばかりで、それほど衝撃であったが何においても平常心こそ大事、全ては慌てることによって失敗するものなのだ。
「そもそも発端は愛宕百韻でござりました」と宝珠庵は如水が尚も想像もしていなかったところから話し始めた。
「ほう、それなれば知っておるわ」と言いながらも如水は思わぬ話の出だしに何とか慌てず脳の隅々まで駆けずり回って知識を穿り出して「あの日、ご謀反の数日前に日向守が愛宕山で催したという連歌の会であるな。あれにはおぬしもいたはず」と何とか知恵者の面目を保った。
 宝珠庵はそのため日向の味方側と事件後も織田方に疑われたはずで、まさか、この事件の真相を自らの係わりと関係無くする為に出鱈目な話しを作って今語ろうとしているのだろうか、それは何のために、今更過ぎた事件だ。穿り返して己の名誉を守るためだとしたならば、余りにも時が過ぎ去り遠退いているではないか、またもデータの無い空想が忙しなく如水の頭を巡っていた。
「そうなのです」如水があれこれ想像していることなど露とも知らず宝珠庵は事の真実を語り始めた。「あれは過ぎて遥かな年となりましたが、今も鮮やかに思い出す天正十年のことです。この年はその始まりから賑やかでした。まず元旦には総見院様が自らゼゼをお取りなさって誰彼となくお城見物など許されてもう大変な評判でした。それからあれよという間に次々と色んな出来事が起こり出してまったく世間に大いに知れた年でござりましたな。誰もが振返れば天正十年、何もかも天正十年でござりまする。新しい時代のすべてはこの年に始まった。うちが係わってしもたあの出来事の始まりもその年の皐月のある日でござった。日付は忘れ申した。確か総見院様がご災難に遭う四日か五日か前のころだと思うのです。惟任様から使いの者がやって来ましてな。連歌の会を愛宕山で催すゆえ仕切りを頼むと言われました。頼むといわれてもすでに呼ばれる方々、あるいは愛宕山への連絡などはあの方の御家来衆などが段取りなされ、うちはいつもの歌会のようにその場へ行って主宰するだけでございました。まあ集まった人々は皆心得の高き人たちでしたので、催しは厳かに趣も豊かに一晩山中の静かさに溶け込んで進み実に楽しいものでございましたな」宝珠庵は往時を思い出して愛宕山の木々が緑々として目に鮮やかなに染みる様を脳裏に描いていた。聞く如水もかつては一度参拝に行った頃を思い出して深山の瑞々しい空気を今も思い出すことが出来た。さすが天下一の教養を身に付けた日向守よな、と己にも連歌の心得があるだけに彼はそこに参加できた宝珠庵を羨んでみるのも楽しかった。「あれはさきほど如水軒様もおしゃいましたように本能寺攻めが起きる三日ほど前でしたか、後に驚きました。それほど近き前のことです。さてもでござる。連歌の会が終わりましてのち、うちは京の家に戻り、百韻を整理しておりました。もちろん皆様方の御筆の短冊はそのまま社に収めましたが、我が弟子が傍で書置きし物などは後世の参考にと、わが家に記録しておくことは連歌師としては当り前の、まあこれが仕事なのでござります。という訳で整理し始めて何ともはや惟任様の発句から突として、これは、と疑問が起きたのでござりまする」
「”時は今、”であろう」と興味ありげに聞く如水は話の挙足を取った。
「左様でござりまする。あれは、今となっては当り前の謀反の標しの発句なれど、それは惟任様が総見院様を襲った後であったから皆がやはりそうであったかと納得なさる発句ですが、まだ乱が起こる前、あれに気付いたのはうちだけでござりましょう。まあ当時は目に触れたは惟任様身内がほとんどなればさほど自慢するほどのことではないのですがね。ただうちが疑問に思ったのはなぜなら、惟任様ほどの学者なら今胸に秘めたることを掛詞を使うは当り前のことでありまするからね。はたと膝を打ち、さてもと気が付けば、しかしあのお方ほど真面目な人もいなければ、これは有り得ぬ事と己に言い聞かせても、されど一抹の不安はぬぐり去りませぬ。そこへ総見院様が京に入ったと京雀が騒ぎますれば、私めも落ち着かず、何ともともかくは総見院様のお耳に入れて、それをどう判断するかは総見院様のご思慮の内ではないかと思い、本能寺へうちは出かけたのでござりまする」
「まあ、それこそが御伽衆の本来のお勤めであろうて」
「まことにそのとおりでござりまする。どんなつまらぬことでも耳に入れば判断無用にすぐさま知らせよ、とのことが御通達役の勤めでござりまするゆえ、さっそくうかがわせていただきました」
「ほう、それで会えたのかえ?」
「会うには会えたのですが、何やら公家衆が大勢来たり、近郊の地侍や大百姓どもも訴状などみな手にして門前は大騒ぎでしたなあ。私めは総見院様とはもとより懇意でありますれば、門衛の者に名乗ると直、中には通されたのですがいくら待っても総見院様は現れません。それでやっと蘭丸様をつかまえ、どうしても緊急の話しがあるので、上様に取次いでくれと頼み入りました。蘭丸様はうちのただならぬ顔色を見て、おわかりくだされ“承知致し候。急ぎ取り次ぐ”とは言ってくれたのですが、それでも実際にお目通りできたのは、夜も更けてからでした。奥の御書院に通されると、さすがに総見院様もお疲れで、くつろいだ格好をなさり、何ほどかご機嫌よく私めが長々と挨拶などしようとすると、笑われて、“そこはいい、端折れ、用件のみ話すがいい”といつものようにせっかちであられました。それで愛宕山に於ける連歌会で詠まれた惟任様の発句に謀反の兆しあり、これをいちいち事細かく説明致しました。総見院様はさすがにこれまでの生涯何度も危機を乗越えたお方でありますれば、決していい加減には耳を傾けず、うちの大それたそら言にもとれる話の言うことに時には質問し、それを吟味しては肯き“さもあらぬ”と最後におっしゃり“しかし金柑がなぜこの後におよんで予に逆らうか、まことに合点ゆかぬのう。毛利攻めもまもなく終わる。これ我らが勝つこと誰もが知るところなり。さすれば禿ねずみ同様、予があれにも多大な褒美をくれてやることすでに約し金柑も重々承知しておるはずじゃがのう。今有る得も取らずこれほど先行き無理な計算を金柑ほどの男がするのかえ”と、まだ納得出来ぬところこれあって、それがわかれば上様も此処にいては危険だとわかってもらえるのですが、それでうちは、“なんぞ、小さきことでも思い当たる節はありませぬか?”と執拗に尋ねました。“小さき事とな?いや、無し。しかし予が金柑だとしても、ここで謀反を起こしてもなんの得にもならぬぞ。たとえ予を討ち取ってもその後わが織田家の武将ら全員を敵に回して次に勝てる術は千に一もない。予ならやはり、この時期での謀反はやらぬ。やってもそれは、他の武将へ天下をくれてやるようなものだろう。金柑はただ損をするだけじゃ”と真に利に叶った話です。それでもうちは“では損得ではなく、逆に何か惟任様に大儀というものはありませぬでしょうか?”と、また言えば上様はやや不快な顔つきになられ“金柑が予の家来であれば、大儀は予に尽くすことではないか、”とおっしゃりながらもふと何かお気付きなされたのか“いや待てよ、あの学問好きの屁理屈屋め、思いつくことこれあり、”と言うて何やら考え込みやがて“うむ、そうか帝か”と独り言のようにつぶやきやっと納得なされました」とここまで宝珠庵が語れば、
「帝、と上様がおっしゃったのか」と如水も意外な顔になり、
「ええまさしく。で、如水軒様それはどのような意味なのでござりまするか?」と逆に宝珠庵が彼に問えば、
「日向守は上様のおっしゃるとおり学問に傾き過ぎさあね。己は日頃より常に武士らしく生き様と為された。つまり武士は侍也、侍とは帝に侍る者をいう」と答えてこれ以上は語りたくないのか「で、なぜそこまで理解しながら上様はすぐにも本能寺からもっと安全な処へ逃げなんだ?」と先を訊いてきた。
「惟任様はすでに丹波を出で、山陰道を西へ向かっていると上様は思っておりました。まさか途中から京へ折り返すとは思えず、“予が金柑であれば、襲うなら予が西国へ向かう途中の山崎あたりであろう、とお読みになり”ともかくも、まさかあの日が凶日だとはさすがに上様もうちも想像すらしてませなんだ。ただ上様も警戒はしていたので“念のため明日にでも妙覚寺の勘九郎を伴い護りも堅い二条御所に居を変えるとするか、それにしても今夜はもう遅いゆえ、おのれはここに泊まっていくがいい”とわざわざおっしゃってくださいましたのでうちも甘えさせていただいた次第でございます。今思えば、大軍を何日も山に隠して置くよりは、引き返してもまっすぐ京へ向って来るのが敵にとって必然の策と考えるべきでした」
「いや上様も人の子よ。日向守を信じる気持ちもままあったのだろう、だから迷うた」 「一瞬の迷いが定めを大きく変えまするか」
「応さね。浮世はそれが恐ろしい。まして戦なれば瞬きも終わらぬうちに変化有り」と言いながら彼は往年のあやまちにまだ気付いてなく、と言うよりもこの話との接点を持ちたくないのが本音で「まま、わしも迷うて迷うてやっと此処までたどり着きたればなあ」と感慨深げに過去を振返りながら、でも言うだけだった。
「まさか如水軒様ほどの知恵者がそれはありますまい」と宝珠庵も抜け目なくここでおだてたのだが彼はそれに乗らず、
「世辞はそこまで。先を話されよ。なぜ上様はそれでも本能寺で亡くなりはせなんだ?」と如水は話を元に戻した。
 先が気なるのだ。
「そうですな、これからがまこと不思議な話になりまする。とても信じられないでしょうが、ほんまの話でござりますれば」宝珠庵はここまで言うと溜息ともつかぬか細い声で話しながら如水の丸い眼をじっと見つめて、この御仁に事の真贋を見極めれるのかと疑えば、如水はその丸目でただ微笑みじっと次の話しを待っていた。「まずもって話しまするが、この話奇態也と思うは如水軒様の勝手でござります。努々疑うてうちんとこをお叱りなさらぬようお願い致しまする」
「同じことを何度もくどいのう、宝珠庵、それでは話が進まぬて」と如水が眼だけ笑って叱れば、宝珠庵も謹み、ついに話し出した。
「さればでござる。あれは明けに近き頃か、」そう話し初めると宝珠庵の脳裏にはもう遥かな昔の事だったことが今あざやかにその背中に風が通り過ぎて行くように現れて、何もかも往時のままに描き出せたのである。
 まさに彼は喝っと目を見開き針のごとき神経を逆立て聞耳立てれば、あのさわさわと五感を震わすものはいったい何んだったのか、それは風の騒ぐ音なのか、或いは近くの小川の瀬々らぎなのか、それとも刺客たちの功をあせる足音だったのか、いやどれもがそうであってそうでない。あれは今振返っても間違い無く時代が翔る足音だったのだと彼は確信した。


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