三
「オレは雀よ」と如水は豊前中津に十二万石で封じられた頃からよく親しい家来にぼやくようになった。 「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。の雀でござりまするや」と聞いた家来が問えば 「当たりて妙」と如水は答えた。 「しかし、」とまた家来は言う。「わが殿は雀に非ず。元より鴻鵠に候。ひと皆そう言いて我も同じ」 すると如水は照れ臭そうに笑って、 「いや人にあらず。只の竹林の雀さ」と言い返した。 雀は他人の田圃の害虫を食べては褒められ、ところが、稲が稔ればまたこれを食べて嫌われる。農民から見れば、雀も武士も似たようなもので、時に土地を護り、時に収穫期の田畑を戦の場にかえて荒らしてしまう。こういうものはこの世に存在しなくてもしてもどうでもいい。善くもあり悪しきもありでまったく厄介な存在であり、頬に付いた飯粒みたいなものだ。痒いからといって取って食べても腹の足しにもならない。というわけで自分も同じだと皮肉屋の如水は家来にも云うのである。また雀はいつまでも鳳になれず小鳥で生涯を終えてしまう。これも今の自分と同じだ。しかも雀は小鳥と云っても翡翠のように美しい羽を持ち、一羽毅然として魚を狙う風格もなく、まことに地色の羽にしてその言葉どおり地味な目立たぬ鳥である。また地べたにはいつくばって小虫を食し同類戯れて小五月蝿く暮らしているとは情けない。これも自分に同じ、と如水は雀色の洗い擦れた小袖をいつも着ていてそう云うのである。 愚痴をこぼし自戒してもんもんと暮らす。あたら才能に恵まれすぎて、其れがために現在の境遇に不満やるかたない。というイメージがこの頃の如水にあって、周りも皆そう見ているのだが、これは彼の演出も半分あった。腹の底の気分は野に伏す虎、深淵に潜む竜のつもりなのだ。ふと天を仰ぎ、真夏の湧き上がるような光り輝く巨大な雲を見つめていると、誰がこのまま終わるか、という気概が腹の下、丹田あたりから常に燃立つのである。 「わが主は奇蹟を与える神である」とかつてフロイスは誇らしげに如水に語ったことがある。生まれて死ぬ、振り返ればそれだけのことだ。とそれまで思っていた彼はフロイスの言葉に、その一呼吸の人生で奇蹟を見るのも面白いのではないかと考えたのである。もとよりわが先祖は流転の中に小さな奇跡を積み重ねて今日の自分に至ったのかもしれない。まったくそうだ。遥か東の尾張の国に気違いじみた男が現れて世の中をかき乱して風雲を呼寄せた。それが西の田舎にいた自分とどう係わってしまったのか、そこに先祖の奇蹟がなければ己の奇蹟にも繋がらなかっただろうと思うばかり。 如水が生まれた黒田家は代々播州の小寺氏傘下にあり親の代からその家老を勤めていた。この頃主家の信も篤く、姓も小寺を貰って名乗り、家紋も同じく「巴藤」を用いていた。が、後に織田氏の傘下に入ってからは本来の黒田姓に戻った。こうして、代々の転生によって奇蹟が生まれるなら、奇蹟は神との約束を果たす義務を己の努力によって生むものなのだとフロイスは屁理屈をこねていたが、その意味合いもわからぬでもないと今になって如水は思うのである。 黒田氏は近江伊香郡黒田村を出自としている。祖もこの地を治めていた宇多源氏佐々木氏を名乗り、末裔が播州へ流れたとした。ということだがこのことに関しての信憑性はない。当時の急激に出世した武士は皆このようなもので太閤も内府も似たような出自でさして変わらないのが現状である。信憑性が無いという証拠にたとえば家紋だが、黒田家も本来家紋は佐々木氏の出であれば目結を用いるはずなのだが、そのまま小寺氏の家紋「巴藤」を使用していた。ただ如水は中津に移ってから「巴藤紋」に似た「三羽追い雀紋」をまったく私用の物にのみだけ描いて楽しんでいる。これも件の「オレは雀さ」を皮肉って遊んだのだと考えられる。まあ紋などどうでもいいのである。家格ほどこだわりは無い。たから息子の吉兵衛も小寺の「巴藤紋」を嫌ったのか、少年時代の命の恩人である半兵衛の「黒餅紋」を用いていて、これが関ヶ原以後竹中家のものより有名になってしまった。 「三羽追い雀紋」は三羽の雀が互いの尾羽を追いかけて終わりなき輪になりながら飛んでいる。永遠に回る様が如水は気に入っているのだろうか、あるいは三羽の追いかけっこが何かを暗示しているのか 。 「妙な鎧通しですなあ」と宝珠庵は如水の腰に差してある「三羽追い雀紋」が柄に刻まれた脇差を見てわざとらしく小首を傾げて言った。 「ふむ」と頷きながら如水は無造作に鞘ごと脇差を抜いて宝珠庵に渡した。「それは南蛮で造られた短剣さ。ただ追い雀は堺の彫金師に彫らせたがね」 なるほどと宝珠庵は西洋の短剣を手にとってしみじみとながめて見た。剣とはもともと直ぐな刃のものを云うのだが、それもやはり細身のまっすぐな三十センチほどの長さの銀製の拵えに収められている剣であった。洋剣には細長いトーン記号のような形の鍔がはめられてあり、また真ん中に膨らみのある柄も日本のものと違って異様な感じがした。柄頭にチューリップの花型が付いているのも宝珠庵は興味を持った。 「なるほどこれはわが国には見られぬ花でござりまするなあ」と言いながらそろりと剣を抜いてみた。「諸刃の剣でござりまするか、よう輝いておりまするなあ。匂いがまるでわが国のものと違いまする」 「そうだろう。ま、鎧通しよりよう刺さるわ」 「でも切腹には向きませぬな」 「耶蘇の神はのう自殺を許さぬて、だからわしにはこれでいい。それになあ、南蛮の剣術は刺すをもっとうとしているらしいぞ」 「南蛮の剣術ですか」と言いながら宝珠庵は恐れるように短剣を鞘に収めた。「珍しいものを、」と拝むようにして如水に返した。 珍しいわけはないだろう、と如水は腹の中で思ったが口には出さない。いまどき京の商人が南蛮の短剣を見たことが無いなどということはないのである。宝珠庵は歌人にして太閤のお伽衆の一人だから追従が旨いのは合点の内なのだと思ってそれが嫌味だとも彼は思わなかった。媚びてなお人に不快を与えないのも彼らの技のひとつでもあろう。 洋剣を如水が帯に手挟んでいるのは不思議なことではなかった。またかつてフロイスと話をしたのも単に好奇心からばかりでもないのだ。 今彼は夏の暑さを凌ぐため大きく襟を開いているのだが、その胸にはロザリオが汗た肌にへばりついているのが宝珠庵にも見える。この時代耶蘇を信じることは文化人としてのステータスでもあったのだ。如水はもとより利休も有楽斎、蒲生少将など大名武将だけでも八十に近い数のキリシタンがいる。概ね知識人は皆そうで、あの総見院も信者とまでは云わなくてもその保護者ではあったのである。覇王は、安土ではセミナリオを訪れたり、宗門の争いでも耶蘇に味方しているということもあった。世界が冒険に満ちて西の海も東の海も狭くなった時代、もたらされた南蛮文明はこの国の人にとって晴天の太陽のように輝きその眩しさに目を開けることが出来ないほどであった。そうなのだ。大海を乗り切る沈まない船に乗って彼らは何千里の彼方から宝物を持ってやって来る。科学、航海術、天文学、暦、武器武具どれをとっても和国には及ぶべきもないもので、それを学ぶ、手に入れるためには彼らの宗教を学ぶことも善しとした。如水も最初はそう云う魂胆で南蛮人と交流し始め、より多くの情報を手に入れるため彼らの勧誘にのって改宗も辞さなかったのだが、ついにはこの絶対神を信じる教えに帰依し己の弱い心を励ますために神との約束のもとに圧倒的力を手に入れて、恐れるものがいない心境に達したとして孤独な人生、無常の浮世に毅然として生きることが出来たと信じているのだった。その想いを形に現したものが胸のロザリオであり、細い鍔と直ぐな刀身が十字を意味する短剣であった。 この人には怖いものがない。それらの品々が教えてくれると、宝珠庵は頑な信者の多い耶蘇教の人々をこれまで見ているから如水もきっとそうだと思うのである。この確信こそ、はるばると足に多くの肉刺を作っては潰しながらここまでやって来た甲斐があったというものだ。如水から中津へ遊びに来ないかという誘いの手紙が来た時これは好機だと思った。なにせ今、頼れるのはこの人しかいないのだと改めて宝珠庵は如水を信じるのである。 太閤が伏見城で石田冶部の手を蹴って喜んでいた日から十四日も過ぎた頃だろうか、豊前の中津城に如水に招かれた連歌師の宝珠庵が京都からはるばるやって来て、今ここにいるのだった。 二人は庭の中ほどにある水溜りほどの池が作られたそばの離れの野趣な茶室に篭もり、といっても夏の終わりともなれば残暑も厳しく室は、障子はもとより壁すらも外してある。まあ茶室というよりもこの建物は鴨長明の日野山草庵を想像すればよいのではなかろうか。こうしたことは部屋に涼風を入れると言う意味合いの他に諜者に密談を聞かれないようにする目的もあった。“壁に耳あり障子に目あり”と西欧ならば音の漏れない厚い壁の部屋で密議するのに対し東洋では逆に考え、開け放った部屋で見通しがよければ怪しき者も近付き難い環境をわざと作るのである。 「さすがに夏も終わると云うのに豊前はまだなんともはや、暑うござりまするな」と妙な剣を如水に返したあとふと周りに気付いたかのように宝珠庵は気候のことなどについて言った。 「わしもここに住んで長いが、やはりこの季節の暑さには中々慣れぬて。そうそう暑いときは熱いものがいいというではないか。どうだえ一服いかがかな」と言うと如水は病んだ左足を引きずるようにして後ろへ返すとすぐにも水屋から道具を出して茶の湯の仕度をはじめた。 まもなく庵の亭主は、ちゃちゃちゃと音を立てながら茶筅を忙しなく回して作法通り茶室なのだから茶を点てて客にもてなしたのだった。 宝珠庵はそのとき一礼すると如水が点ててくれた茶の入った天目風の腕を結界より引き寄せこれも作法通り手にのせて眺めてみた。どこが?と宝珠庵は碗の正面を探って形を見れども何ともわからない。仕方なく適当に右へ回して呑み終え、この物はさほどの作陶ではないのだろうと彼は思った。何処ぞの田舎のものかも知れないと鑑定すればあえて褒めるところもなく、それでも如水には頬笑んでみせりて、 「結構なお姿ですな」としょうもなくそう言うしかない。 「それにしても、」碗のことなどどうでもよく「よくもまあ遠くよりこられましたな」と如水は茶湯の作法に頓着もない。「こうした田舎に住する者は、都よりの客がなによりの楽しみだね。まったく菅公の気持ちもわかるというものですな」と当たり障りのないことを言いだした。 さすがに彼は暑さにたまりかねていつもの瘡頭を隠す頭巾はしておらず、ただ相変わらず粗末な麻の町人でも着ているような格子縞の例の雀色、茶染めの単衣を着流している。左足の関節が伊丹で悪くして以来茶室の中といえども正座は出来ぬまま、その足を投げ出して如何にも屈託のない姿で茶を点て終えるとそばの脇息を引き寄せ、そこに身体を傾けて上機嫌に、この気のおけない客に如才なくそう云うことも楽しそうに茶碗の似非褒めの事などいっこうに気にもしなかった。 その田舎の好々爺然とした姿を見て、また茶道具の粗末さを見ても宝珠庵はやはり如水は噂通りの吝嗇な人なのだと改めて思うのだった。如何に隠居の身とはいえ、大名が農民のような身形でいるとは奇態すぎる。まだ己が身分を姿形で現す時代に、あまりにもこの粗末で質素ななりにそこまでする必要がこの高名な大名にあるのだろうかと考えると、あるいは往代の功名よりも低い仕打ちに対し殿下への当てこすりのためにこんなことをしているのかもしれない。きっとそうだと彼はあれこれ頭を巡らしてそれ以外にないとみた。 確かに当時も如水は吝嗇家と云われていて、後にそれが彼の深慮遠謀なのだったともまた云われているが、それも間違いではないのだが、もともと性格が実直で質素なのである。彼はその生涯の初めが苦労人であったため、このような性格に創られたといえるかもしれない。もっと酷い境遇から人生が始まった太閤のほうは、天下人になると贅の限りを尽くしたのだから、こうしたふたりの違いは性格の違いばかりとはいえずその産まれ落ちた処で決まったといえなくもない。方や一国の家老、まま田舎とはいえ上流階級の家に生まれてきちんと教育も受けている。方や人とも当時は見られなかった貧農に生まれて教育どころか、物心付いた時から働きだして、まさにそのまま実世間が教育の場であっただろう。貧富の差は教養の差でもあってこの時代はおおいに差別の対称でもあったのだ。これを見ても二人は、若いときは共に手を取り合って大義を成したのも、互いの利益のためであってそこに友情のようなものはなかった。あの時期如水にとって友情はむしろ半兵衛にあったろう。息子の命を救ってくれたことはむろんのことだけれど、壮年期を機略縦横にめぐらし、翔けるように逝った半兵衛は如水にとって学友でもあったろうから、朝に戦の場を駆け巡り夕べに杯を交わすとき、共にそれまで学んできたことを語り合う楽しさはまさに論語にあるところの世界であり、これは勉学に励んだもの同志でなければわからないものがある。それなのに病弱で律儀な半兵衛の命を縮めたのは太閤なのだと、まったくもって病んだ体できつい戦の場に立たすなど、誰が見ても半兵衛の命を削ってまでして出世に貪欲だったあいつが彼を殺したも同然だと如水は盟友を亡くした悔しさを当時は遠慮なく太閤にも言った。 羽柴の二人兵衛と云われながら如水は半兵衛のように透明な心象を持っておらず、才を矛に変える鋭さがあって、太閤にすれば同じ考えを思いついても脳波のスピードが彼より遅く、それがためいつも如水が先に口走ってしまうため、どうも憎くも感じるのである。彼らは最後までそうだった。 だから服装も太閤の時代は誰も派手好みであったのに、如水はいじけるように反対の質素を旨とした。せめて半兵衛のように同じ質素でも儒家のようにきちんと汚れも染み無い清潔な格好であればいいのだが、如水まるで頓着がなかった。瘡頭に歪な足、おまけにだらしない着こなしでは、そこに宝珠庵がみるような太閤への宛て付けであったといわれても可笑しくないのだが、これはわからない。 こうした太閤と如水の確執は御伽衆を真の生業としている宝珠庵のよく知るところで、他の人に売る話の種としては第一級のものではある。彼は如才ない。だから太閤の前では如水を貶し、如水の前でさすがに天下人の悪口は言えないが、それとなくわかるように太閤の失敗談を語るのである。 この時期、再び世の中は騒然とし出した。だからこんな如水の太閤に対するいじけた話など茶菓子にもならない。 今、如水に限らずどの大名も情報に渇していた。 伏見にいる太閤が危篤状態にあるという噂はもう皆が知っていたが、確たるものは治部少輔を中心とする文治派が秘しているため、如水ら武断派はさっぱり蚊屋の外で、内府すら太閤の病状を詳しくは知らないのだった。だから高い金を払っても宝珠庵を如水は豊前中津まで呼んだのである。もちろん彼は自分の家来の多くを中津藩伏見屋敷において情報収集と九州までの通信手段の段取りに抜かりはなかったのだが、治部少輔たちの守りは堅く中々確かな情報は入ってこない。だから宝珠庵のような連歌師や他の茶人らは今や何処からもひっぱりだこで、なにやらあちこちの大名屋敷で盛んにこの時期茶会や連歌の会が秘かに頻繁に催されていたのだった。だから如水が、 「わざわざ遠路はるばるとおぬしを呼んだのは他でも無い」と訊き問えば、 「わかっておりますとも、殿下の容態のことでしょう」と宝珠庵は軽々と答えた。 如水は何度も云うように才気走った男であり、こういうテンポの早い話し方が好きであったから、 「で?」と宝珠庵の顔を見詰めて、真贋を見抜くように目付きも鋭く扇で、開いてある懐へ風を送りながらなおも彼の言葉を待っていた。 「はっきりいって良くありませぬ。此処二三日かと」宝珠庵も屈託無く答えた。 「出処は?」とさらに如水が問い足せば、 「坊主(典医)でござります」と、これもいとも簡単に答えた。 「ほう、よく聞けたな」とまだ疑えば、 「彼の者は我の連歌の弟子にて候」と答えてさらに手の内を見せて相手を信用させた。 「然り」と云いながら如水は扇を閉じたり開いたりと忙しなく考えに耽っており「いよいよ来たかのう」と独り言のように、漏れるようにつぶやいた。 「如水軒様、さてもこのような次第となれば、乱が起きるのでしょうや?」なるほどこの話は面白いことになると宝珠庵は自分の軽々しい心を恥ながらもそのことに気付いて語れば、 「さあ」如水はまた扇をぱちぱちと閉じては開きと、遊びながら「まあともかく、おぬしが京を発ち、浪花の沖から船で瀬戸内をとおり、三日もかからずここまでこられた。となれば、坊主のいう三日も過ぎて、はや殿下はこの世の人にあらずかも」と自ら時代の変化を読んでみるのだった。 「そうやも知れませぬ」と宝珠庵も腕など組んで目を、ややふしめて肯き答えた。 「となれば、もはやここで何を云うても誰も咎める者も無し、ということではなかろうかのう」と如水も片膝に乗せた右手の扇をまわして定めることもなく動かしていた。 「はあ、であればまさにその通りでございまする」 「ではおぬしも、わしに語りたき事多々あるのではなかろうかのおう」と如水は念を押すように宝珠庵を見つめた。 「殿下がお隠れになったとしても、当分は秘されるのでしょうや」と彼も組んでいる腕など解いて己の膝においてこころもち一歩引いて訊ねてきた。 宝珠庵はもとより商人である。もう心の中では、太閤の死でどれだけ稼げるのか胸算用をしているのだ。だからこの先はそう簡単には如水の問いに答えたくないと思っている。情報を売ってばかりでは商売にならないではないか。また得ることもここではしたいのだ。もっと稼がねばと商人の本能が勝手に動いている。このままでは何のために遠く中津までやって来たかわかりやしない。だいたい太閤が隠れたという肝心な時に京都にいないことは情報屋としては拙いかもしれないが、ただ宝珠庵には含むところもあって、十分ここに来たことは元を取れると考えているのだった。 「そうなるわさ、韓の国にいる肥後守や摂津守が無事に引き揚げるまでは何としても殿下がくたばったことは秘さねばならぬ。そうでなければあれらは大変な苦戦に陥るだろうて。もしこの話がおぬしの口から漏れたと冶部あたりが知れば、これじゃなあ」と如水は扇で己の首を軽く叩いて見せた。 やはり如水は戦術家というよりも戦略家であった。 奇略をもって敵を欺き勝利することよりも、むしろそういうことは半兵衛のほうが得意であり、自分は敵地に乗り込み、世の大勢を相手に教え、戦うことの無意味さを説得し我が方に付けば如何に得するかを根気よく相手が理解出来るまで執拗に話してついには味方にしていくのが彼の常套手段なのである。ゆえに、ここで宝珠庵が如水から情報を引き出し、自分の持っているものを惜しんでも所詮格が違うので無理な話ではあった。いま如水は宝珠庵を威し、もし俺が大坂に話せばあんたの首についている目玉はもう美しいオナゴも見れぬだろう、とその扇子は語っているのである。ここで面白いのは脅すほうも脅されるほうもどちらもにやけた顔で、如何にも世間話に興じている様に装っていることであった。二人にとってかけ引きこそ人生の醍醐味なのであろう。 「ご冗談を」と引きつるような笑顔で言いながら宝珠庵は冷汗をかいて「わたくしめを高いぜぜを出してお招き下されたのは如水軒様ではありませぬか」とすがるようにもの言い返せば、 「ははは」如水は宝珠庵のあわてる様を見て、なんとも都の小心者の哀れも可笑しければ「わしがそのような戯けたことをするものか」と言って彼を安堵させてやった。 「上段はお内裏様だけにござ候」と、まあ宝珠庵もつまらぬ冗談などほざいて胸をなでおろしている始末ではあった。 「さても治部なれば、抜かりなく太閤殿下を密かに葬ったろうて。まあ生前は殿下もあんなお人ゆえ、冶部には指図もいろいろあったろうが」 「まことに左様で」宝珠庵はホッとして目の前の織部皿を引き寄せ上にある田舎饅頭を黒文字で上品に刻んで口にはこびながら、その不味さに作法通りゆったりとも待てずあわてる様にお茶で喉へ流してごまかし、上目に如水を見て「殿下なれば唐の孔明のように木像を造らせ、それらしゅう見せておるやも知れませぬな」と語った。 「ありえるのう。敵は必ずしも外ばかりとは言えぬはなあ」と如水も感慨深く頷いた。 「まあ五大老五奉行様たちがまことにしっかりしておりますれば安心ではございますな」とここで負けずに宝珠庵も誘い水を入れてみた。 「ほう、そうかえ、さきほどおぬしは乱が起きるのでしょうやと問うたではないか」と如水も乗った振りをして目を光らせると、 「いやはや、下司の勘繰りと申しましょうか、つい言わずでものことでした」と宝珠庵もそれとはなく受け流してしまった。 「おぬしも御伽衆なれば、張儀のように舌先三寸が命、めったなことは言わぬが花」と如水はまた威しながらも「とは言っても、まあわしは隠居の身なれば、ここでは何を言うても何処にも漏れはせぬて。きっと安心せよ」とまた彼をなだめもしたのである。 「ではあくまでもということで、御伽噺でござりますれば、先ほど御隠居様が申された敵は外ばかりにあらず、とはどういう意味でとなりましょうや」と宝珠庵も問い返してみた。 「ふうむ」と如水も考えている振りなどして、やっと相手が乗ってきたかと思った。つまり如水がわざわざ京より宝珠庵を呼びよせたのは、太閤の生死を誰よりもいち早く知ることではなかった。殿下安否の情報は他の手の者が伏見界隈で探りを入れているのでおおよそのことはすでに知っていたのである。もちろん宝珠庵の確たる報せがそれも大事のひとつだけれども、この情報はすぐに争っていち早く知らなければなどというものではない。今はさほどの意味もなく、むしろ太閤亡き後の布石を置くがために実は彼を呼寄せ「お捨い様も」と言い出し「生涯を無事にお過ごしおかれますやら、どうかのう」などと言いながら妖しげに笑ったのである。 「さても」と宝珠庵は膝を打ち「なれど五大老様は皆この戦国の世を生き抜き、どなたもつわものなれば、決して誰も謀反など起こせませぬではありませぬか」と納得いかぬところもあり 、 「おぬしはなにを呆けたことをいうか」と如水に言われてもわからず「その五大老こそ皆たらちねの母の胎内よりこの世に落ちてはや天下取り目指して駆け抜けて来た者なれば、太閤殿下に天下を先んじられてみな悔しと嘆いている者ばかりではないか」とここまで言われて、やっと彼もはたとわかったようであった。 「されば如水軒様は五大老様の誰かが御謀反を考えていると思うのでござりまするか、となればそれは誰なのでござりまするか、その者は」と宝珠庵が訊ねれば、 「誰かとは可笑し」と如水は笑いながら「五大老みなじゃよ」とあっさり答えた。 「ええっ」と宝珠庵は仰け反るように驚いて「まさかのまさかでござりまするなあ」と嘆くようにつぶやいた。 「考えても見よ、誰が己の領地をこれまで築いてきたか、みなそれぞれが自分の力で成し遂げればこそであろう。たまたま今は大勢力の太閤殿下に一同味方して見返りに領地が安堵されているだけにすぎぬわ。じゃによって誰も殿下を恐れてはいても恩を感じているものはおえりゃせん。そうであろう」 「まことにもってその通りでござりまするなあ」 「そう、だからお捨い様を押し立てて天下を護ろうなどと考えるのは、太閤殿下子飼の祐筆くずればかりにすぎぬわのう」 太閤はこの国の、古代より伝わる四姓にかわり、新たに豊臣という姓を起こし大坂を中心とした新貴族集団を造ろうとした。このため雑種で卑賎な武断派を退け、教養と身分の高い者らを周りに集めて、特に才走る治部少輔や理財に明るい小西摂津守などを中心に学問に秀でた若手官僚を侍らせてこの形を創ろうとしたのである。世は泰平に向かい、この先はしっかりとした官僚に国政を運営させながら、武断派がその組織の下にあって秩序を護らせるというのが太閤の新時代の体制構想であった。総見院が南蛮の政治機構を取入れて絶対君主国家を築こうとしたのに対し、その強行が時代に突出しすぎてこれがはみ出し、彼は太古から存在するこの国独特の傀儡政権に攻め滅ぼされたと太閤は信じていた。古き因習にはどんな魔物が潜んでいるのか分らない。触らぬ神に祟り無し、であるならばもっとこの国に適した古い政治体制を新たに築くほうが時勢を味方に出来ると彼は思った。そのために太閤は新姓を編み出したのである。そして官僚を主体とするなど往事の平氏政権、つまり平安時代を真似て貴族化した身内の武士団とそれ以外を一段下げた武士団で構成してみようと試みたのである。が、これは時代を逆行し過ぎた。当然これでは反発が起きる。武士が貴族になってどうするか。平安末期の平氏とそっくりでは当然あの時代と同じく地方のかく大名から不満が起きるのは当然となり結果は平氏の末路を見れば明らかなこと。であったから次期政権を担った徳川氏は武家政権の元である鎌倉政権に擬した幕府政治を行ったのである。戦乱の世が終わりつつにあってもそれを太平に移行するには何度かの試行錯誤が必要だったのだ。思うに太閤の失政は次の二つにあったと思う。彼が成上りもののため身内が少なかったこと。同時に世界は大航海時代に入り豊かな富がもたらされて一気に豊臣政権が華やいだこと。この二つのバランスが取れず、成行きまかせにやがて執務室や閨房で権力が代行するようになって行ったのではないか。これを見ても最初から画たる政権構想を太閤は持っていなかったと見るべきで、そこに一代で築き上げた無理もあったし自分の力を過信したということもあったろう。また取巻きの甘言にのみとらわれて大勢を見ることが出来なくなれば国は滅びる。大陸では、この国が石槍を持って毛皮をまとっていた時代から繰替えされて来たことなのだが老いた権力者には最早そういうことすらも見えなかたのかもしれない。 「ふう」と宝珠庵は溜息をひとつついて「またも世は乱れに乱れまするか、やっと穏やかになり、これでひと安心と民も喜び、稲も稔りて万万歳でしたにのう」とぼやいて嘆くばかりであった。 如水は宝珠庵の残した田舎饅頭を摘むと口に入れやはり不味そうに食べ始めながら、 「否」と彼は答えて「さほど乱れもせぬであろう」と述べながら身体をよじってこれも宝珠庵の飲み終えた碗に唐銅風炉の釜から柄杓で無造作に白湯を汲んでそそぎ、それを取ってゆっくり飲んだ。 「ほう」と宝珠庵は前のめりに、心も動かし「如何ばかりかしてそのようなことを言いなさるのでござりまするか」と舌のもつれるように問い質すと、 「なあに唐の国を思えば良し、というものさ。春秋の時は百の国が有り互いに覇を競うた。やがて戦国に入ると七つの国となってついに秦の政王がこれをひとつにした。いまわが国では同じく百年を経て乱世は豊臣家によって統制され、ただ本家を除けばここに至って三つの大きな勢力となっている。つまり、関東の内府、加州の権大納言それに中国の中納言だ。もし、この三者が三巴になって争えば、さほどの時を経ずとも天下は治まる」と如水は簡単に述べて薄ら笑いも浮かべ白湯を一口飲みながら凄んで見せた。 「それではお捨丸様はどうなるのです?」宝珠庵には納得できぬ話となり「これでは余りに殿下が可哀相、どうか昔のよしみでお助けを、如水軒様はかつて羽柴の知恵両兵衛と誉れも高く知謀湧き出るがごときと言われた貴方様ではありませぬか。ここは何かひとつ妙案はないのでしょうか」と如水に彼の頼む姿こそ哀しくもあった。 そう云われても何をして他人の宝珠庵が豊臣家の行末を心配するのか、とここで如水が考えなかった。ただ考えても考えなくとも今の彼にはそのようなことなどどうでもいいことではあったのである。 「妙案かえ」と言いながら如水は扇で額を軽く叩きて如何にもそこから知恵を出そうとするかのように見せながらも「無し」と無情に答えた。 「そこを押して何ともなりませぬか」宝珠庵は下心あればこそ中々諦めきれず、まして如水に知恵のひとつも無きなどとは疑わしく感じるばかりでそんな言い草など誰が信用するものかと思うのである。 「わしもよる年並かのう。どうもこの頃ボケもひどくなりて、考えるのが億劫じゃ。じゃによって知恵は出ぬどころか、もはやこの泉水が腐っておるの」と扇で己の頭を指して笑っていた。 「御冗談を。あなた様は隠居などとは偽りで、太閤殿下の目を晦ますためとか浮世の雀どもの間ではもっぱらの評判でありまする。如水軒様はまだ十分お若こうござりますれば、まことそうではありませぬか」 流石に、と如水は感心した。追従の巧さは群を抜くわい、と。 「ああ、まさにそれよ。殿下はわしを落し免と治部を使ってなにやら企みてそれが何とも気が置けず、これはそのうち殿下も仕掛けて来るなと思っていたら、人の心は恐ろしきものさ。あの伏見の大地震でわしがすぐ見舞いに駆け付けたにもかかわらず、殿下はつい腹の内を見せる失敗をしでかしたわ。まあ殿下も、地震で気もそぞろで本音が出たんかのう。まったくこのわしにいきなり何とも嫌味を申しそうらへば、あれであの男の腹が読めたさかいな。それで縁きりはこっちからしてやろうと思ったまでよ。そうは簡単に向こうの手に乗らぬて」 その地震と一五九六年七月十二日に畿内と九州北部に起きた。マグニチュード七の大規模な地震であった。京都だけでも死者は四万人を超えたのである。これを見てもその大きさがわかるであろう。倒壊家屋も激しく、伏見城の天守閣や内裏も崩れた。また太閤が威信を持って建てたばかりの大寺院方広寺も、中にあった大仏も倒れたのである。九州では大津波によって湾内の島が一つ消えてしまった。凄まじい自然大災害である。 豊臣政権全盛期にあって未曽有の惨事にいち早く太閤を見舞ったのがこの年の一月に小西摂津守の上訴によって太閤に蟄居を命じられていた加藤肥後守であった。彼はこの功績によって処分を解かれている。 太閤が伏見に居ることでそこが首都となり、各大名も屋敷を構えて寓しているのだから、当然彼らも大地震の被害にあったはず。よほど加藤のような事情がないかぎり、身内も忘れて駆け付ける訳にはいかないのだ。如水もそうで、さほど遅れて駆け付けた訳ではないのに、小西と加藤の経緯でも分るように何かと日頃から文治派の中傷によって武断派は疎んじられていたのである。如水の場合は元々の因縁があって余計嫌われていたから、彼はこの事で危険を感じ、さっさと引退して伏見を離れ九州中津へ引き蘢ってしまったのである。 「ほうらやはり、如水軒さまの知恵は枯れておりませぬではありませぬか。ただ一言、豊家に恨みを云っておきたかっただけでしょうが」 「ははは、これは宝珠庵殿に一本とられましたなあ」 「されば何としてもお知恵を拝借したきもので」宝珠庵は揉み手などするようにて如水を見つめれば、 「何を持って、このわしの苦労も水の昔の恩も忘れ、猫の額ほどの封地しかくれぬばかりか、最後まで何が気に喰わぬのやら疎んじるあのお人の子供を助けねばならぬか」と如水は悪態をつくばかりだった。 「まま、お怒りはもっともなれど、昔は帰らずと申します。ここはひとつお捨丸様にご恩を売っておけば、黒田家の行末にもよかれと思いませぬか」 「ふうん、知恵なれば、どうやら宝珠庵殿のほうがよく出るではないか」 「滅相もありませぬ。これは豊家に対する宝珠庵の赤心が言わせるのでござりまする」ほんまかいな、と如水は腹の内で笑っていた。 「こりゃあ、上手いのう」と如水はふざけさまにたぶらかされぬぞ、という目付きで彼を見れば、彼も手を横に降りて何とも困り顔にして見せていた。 ただここで、如水は出し惜しみをしているだけに過ぎない。 罠を仕掛ける者は慎重に相手の動きを見定め、のちに決して自分が仕掛けたという痕跡を残さないためにも、ここはじらして仕方なく戯れにこちらが話したように見せ掛けたいのだ。釣糸は細ければ細いほど相手の目に見えず、そして丈夫なものがいい。宝珠庵は如水から見れば、まさに良く出来た釣糸であろうか、 「妙案などというものは何度も言うように無い。強いて言うならこれはどうか、」と言って如水はまた腰の短剣を鞘ごと抜いて宝珠庵に見せた。「この三羽の雀を横に並べたらどうなるか」 「横に、でござるか?ええ、真ん中が相手の尻尾を狙っていますが己も喰われそうですな。それがどうだというのです」 「そうじゃよ。前の雀は喰われそう。でも後ろは喰うだけだ。どうかな」 「前が喰われそう。後ろは喰うだけ。真ん中は喰いつけそうで喰われそう、はあなるほど」 「そうらわかったろう」 「いや、とんとわかりませぬ。しかしこの話、短剣の拵えを頼んだ時にはもう考えていたのでござるか。やはり如水軒様は隅におけぬお方ですな。してその意味は?」 「そうかたとえに三羽追い雀は難しゅうござったか。尚、ただ戯れに話せば、唐の国の故事に“漁夫の利”というものもあるが、これではどうかな」 「あれは貝と鴫が喰い付きあって互いに死ぬまで離さない、という話でござりましたか」 「趙まさに燕を伐たんとすれば、蘇代、燕に為りて惠王に謂いて曰く、とまあ戦国策の中の話で、燕の蘇代が趙へ行って、あんたらが今わが国を攻めようとするなら両国の戦い疲れたところを秦が狙ってくるぞ。だから戦などはしないで仲良くしたほうがいいということをたとえ話にしたのさ。まあ鴎と蛸でも何でもよいが、つまりは二者が争うて、疲れたところへ漁師がやって来て難無く獲物を手に入れるという話を蘇代が惠王にした。という本筋の意味は坊主にまかせて、お捨丸様にはこれを用いればお家の安泰も難しからず」 「さてもありがたきかな。ただしこの宝珠庵、頭にぶければ、」と彼はウソを言いながら「ひとつ、もそっと詳しう教えてくだされ」と如水の陣立ての本意を訊こうとした。 本音の宝珠庵はこれで一儲けしようと思うのだが、実はこのことこそが如水の大いなる企みであった。宝珠庵はそうとも知らず、目の前のくもの巣が見えない空飛ぶ虫のように、まさに今、網に掛かろうとしていた。如水の思惑でいえば、見えない釣糸の先きにぶら下がる餌へ宝珠庵が近付いたというところであろうか、 「ではまず、わしが問う。宝珠庵殿、この三強の中で誰が一番野心有りと思うかのう」 「はあ?」と宝珠庵はわずかばかりの時を考える振りもほどほどにして皺枯れた細首を前へ突き出して「内府様でしょうや?」と自信もない様で確信を持って答えた。 「ご明察なり」と如水は膝を打ちワザとらしくも誉めそやし「かつて内府は殿下と一度戦い、勝っておるさかいのう。あれ以来、戦に勝って天下を譲るは内府の本意ではなかったろう。沸々と煮えたぎる気持ちを押し殺し我慢を重ねて辛抱にも辛抱と、だからあのお人は殿下のくたばるまでじっと堪えておったろうさ」と詳しく語ってしまえば、 「まさにそのとおりでござりまするな」と宝珠庵も肯いた。 「ついで、加州様じゃが、あのお人は殿下と若い時から総見院様に付いて共に戦うて来たゆえ、幼馴染みも同然で肝胆相照らす仲ともなれば殿下の信も一番篤いであろう。つまり義の人也。まあ目の前にでも向こうから天下が転がってこなければ手は出さぬな。しかしじゃ、それがそうなった。お捨丸様の後見人になっておくれと殿下があのお人の人情にすがれば、加州様の気持ちも動くってものだろう。つまり太閤殿下が清洲で三法師様を担いで皆の前に現れたのと同じことが再現されるかも知れない。じゃからして加州様の懐に向うから天下が飛び込んできたってなものさ。これを利用せぬは男子にあらず」と如水は解くように読み語ってみせた。 「加州様もやはり野心あり」なるほど凄いことになってきたなあと宝珠庵は思った。「さても残りのひとり中納言様はどうなるのでしょうや?」 「あのお人の最後の敵は太閤殿下であった。ゆえに恨みこそあれ恩は無し、となれば天下の情勢をうかがって出番に備えるってとこかな。あのお人の父君なればすでに何ほどかの動きもあろうが、中納言だけはまだ若き故、この戦国の浮世の辛酸をさほど嘗めてはおらぬ。だいたい御曹子などと云うものはそんなもんさ。ま、三者の中で一番時勢に疎いやも知れぬわ。其れ故、他者に利用されても己が他者を利用することは叶わぬて」 「と言うことは」 「他のふたりに一番利用され易きお方ということさ」 「なるほど、さればでござる。お捨丸様はどうすれば、こうした虎狼から天下を護れるのでござりまするか?」 「まず」と言い出した如水は目を鋭く光らせ、声も小さくして「内府を殺すことじゃ、」と恐ろしいことを言いだした。「と言うても小賢しい奸計にはまるような御仁にあらず。そこでじゃ、ここで治部少輔の出番となる。治部は内府に会うて、加州が殿下の清洲のような真似をしていると伝えるのじゃ。当然内府も殿下からお捨丸様の後見を任されているから怒るだろう。まあ彼の人なれば、治部の腹など見透かしておるじゃろうが、でもこの話には乗ってくるはず。なぜならば、天下取りの騒乱を大義名分も無しに行えば、天もこれを見放し野望もそれまでとなること、あのお人はよくよく知っておる。だから罠であろうとじっときっかけを待っておるのじゃ今はね。ならそのきっかけを作ってやればよいことなり」とここまで語って如水は碗の中の白湯をずずっとすすり、喉を癒してぎょろりと宝珠庵を見詰めて笑った。 「罠はやはり罠でござりますれば、どうあろうとも危のうござる。と知りて尚それでも乗って来まするか」と彼も不安げに問うてきた。 「応さね。小者の罠など巨象の力をすれば、踏んで痛みも感じぬとな、内府の腹はそうだ。用はきっかけが今こそほしい。あのお人が殿下より養生に性を出して長生きしているのは当にそのためで、時を大事に第一と考えるなら、殿下が先に逝ったと知ればこれまで我慢に捨てた時を惜しむように一刻も先は無駄にしたくないと必ず動くなあ」と如水はつくづく嘆くようにため息を漏らしながら碗の中を覗くばかりで、わずかに残る白湯は鎮まり、そこにはにたりと笑う鬼の顔が映されていた。 %0
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