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作品名:under the sky 作者:勝野 森

第2回  
 二  

 光陰は矢よりも速やかにして、とは古人の名言であると太閤は自分のめまぐるしい一生を振り返ってつくづくそう思うのであった。確かに、そのとおり。時は風よりも早く走り抜けるばかりか無慈悲で待つことも知らない。哀れみは微塵もなく与えられるは残酷な事ばかり、苦しみ悩みもがきながらやっと生き抜いて、はたと気付けばすべてが往きてなお帰らぬ彼方へと去っていき、もはや己の寿命さえも尽きようとしている。人の一生はあまりにも短い。若いときは時の長さなど感じもせずただひたすら夢中になって戦の野を懸けまわったが老いて安楽の寝間に伏しているとき心臓の鼓動のように時の刻まれる音が聞こえて消えていく。虚しく儚く闇から闇へ。こつこつと死神の歩く杖の音に似てそれは不気味だった。太閤は朝目覚め夜眠るまでの繰り返す日々の早さに己も長くはこの地で生きられないことを悟っていた。いや悟りなどではない。諦めなのだ。臥所を出てひとり厠へいくこともままならぬ身体となった今、諦める他に何があろうか。ただ望むものは残された者たちへの心配だけ。この世がまだ混沌として定まらず戦乱の遺風は己が朝鮮に色濃く残している以上、我国だけが治まり平和になっているとしてもそれで人心が落着いたとは誰が言えよう。孔子も釈迦もまだこの地にゆるりと遊んではいないのだ。それもこれも身から出た錆か。因果は恐ろし、己が率先して神仏を尊ばなかった故に報いが今来たのだろう。だから己が死ねばこれを待ちかねたように国取りの掟破りはまたこの国に崩れた堤のように溢れ出すに違いない。それを心配してあれこれと小細工をしてきたが今思えばどれほどの意味があるのか、こうして心配してみればきりのない話ではあった。種の尽きない繰り言にとらわれて、彼は何処にでもいるありきたりの老人になってしまっていた。死を迎える者とはそのようなものなのか。自問自答してみても、皺だらけの皮に包まれたこの哀れ過ぎる竹のような身体をまた皺と骨と血管のむき出た手で触ればおのずと自分の寿命も知れるというものであった。
 もう少し生きたい。
 それも叶わぬならせめて今一度立って歩いてみたい。今見渡せば、天下に従わぬものなど一人もいなくなった自分ならせめてこのくらいの望みは叶っても可笑しくないはずだ。が、かつて秦の始皇帝でも出来なかった不死の妙薬は今日まで誰も手にしたものはいないのだ。 確かに肉体は衰えて見るも無残だが、しかし気力はどうだ。野心は朝鮮を貫いて明に迫り、天竺さえも治めようとしているのではないか。 だからこそこの小さな願望くらいは実現出来ても可笑しくないと思えばまったく悔しいのである。 その早すぎる生涯に太閤はまだ未練があった。 なんのために此処まで生きてきたのか。栄華繁栄を極めた最期でも並ぶなき権力を手に入れてもなおくたばってしまえば名も無き匹夫と同等に土くれとなってしまう。これでは不条理極まりないではないか。人の百倍も努力し、命を落としそこなうことも度々であった自分なのに最期は野に耕して昼寝の間に生涯を過ごしただ天道様の恵みだけで生きた者と同じく穴の中で蛆虫の餌となるのみとは情けない。このように呼吸すらも思うように出来なくなった今の哀れな姿をみれば、何のためにあくせくと人を押しのけ多くを殺して成り上がったのか、まさに今となってはその事にどれほどの意味があったのだろうかと思うばかりである。ただ夢中であった。一生を夢の中で駆けずり回った。言い訳すればそれしか出てこない。 熱を帯びた頭の中がとりとめもなく同じ事を繰り返し走馬灯のように巡っている。まさに雪洞だ。ぼんやりと形も定まらない同じもの、同じことが頭の中で往っては復り、往っては復りとしているばかり。それがなんとも心地よく熱がもたらす痛みも苦しみももうそこにはなかった。たしかに時は戻らないだろう。しかし人の能力は思い出すことによって過去へ戻ることは出来るのだ。太閤はほぼ夢の中にいると自覚しながらもそこから抜け出す気はなかった。ふあふあと雲の中にいるように、過去はすべての苦しみ哀しみを取り除いて懐かしさに溢れているのだから。 思えば天正十年。この天正十年こそわが人生の頂点であったかもしれない。伏して思い出せば太閤の皺だらけの目を薄っらと濡らすものがあった。  
 潤んだ瞳が乾いた大地に水を与えるように太閤の干なびた記憶にも活き活きとした昔がよみ返って来たのである。
 いま太閤には聞こえる。  
 爽やかな夏の風の音が囁くように病室を通り抜けていくだけなのに、不思議にも彼の耳には甲冑の擦り合う音や馬蹄の土を蹴る音、足軽どものわめき散らす声、大将の怒鳴り声と鞭の音、それらが怒涛の響きとなって遠くからやって来た。やがて脳裏には街道をもうもうと砂埃を挙げて竜巻きのように進んで来る軍団も写し出された。男どもは皆吹き出る汗をものともせず、埃にまみれた顔は小汚い縞模様になり目だけが誰も野望に満ちて活き活きとしていた。街道に住む人々もこの恐ろしい軍団が何やら妙に明るくて、まるでお祭りの神輿が通り抜けて行くようで、皆道へ飛び出して囃すのだった。そして軍団の最後尾には、時代を孕んだ袋を担いだ風神さまがギョロリと大きな目を開けて不気味に笑いながらこちらを見ている姿を人々は唖然として見送ったのである。
 忘れもしない。
 溢れる希望とわずかばかりの不安を抱いて走っていたあの頃。天正十年、あれは六月三日であったか。前日未明に京都で起きた異変の急報が備中高松にいる羽柴軍に届いた。このとき、筑前は官兵衛と共に敵方毛利の軍師安国寺恵瓊とはすでに和睦の協議中だったが、すぐさま彼に会うと異変を秘して交渉を成立させた。この安国寺恵瓊という人物は面白い男で、すでに今日ちの右大臣家の遭難を九年前に予言していたのである。が、その日その異変を彼は知らない。  官兵衛発案の高松城水攻めは功を奏し水没は時間の問題だけだったので敵方は筑前側の要求に難なく応じ、城主清水長左衛門は翌四日には自決して高松城は落ちた。  そして六日には今、太閤の耳を響かせている中国大返しが始まったのである。当時筑前は四十七歳。肉体的にも精神的にも油ののり切った時であった。羽柴軍は一旦官兵衛の本拠地である播州姫路城で体制を整えると一気に東に駆けて突然京都の南に現れたのである。これが六月十二日であった。翌十三日に南下してきた明智軍と山崎で激突した。日向はこの日のうちに討死、十四日にはその首を筑前は本能寺にさらしている。 が、太閤の心の走馬灯はこの時期に来るとそのゆらゆらと揺れる思い出をぼかしてやがて動かなくなってしまった。「やはりあの粟田口の、」  当時筑前は、まだ近江坂本城に篭る明智の残党を始末するため京の東へ本陣を移していた。その頃の思い出が今脳裏に現れようとしていたのだが、この事について彼は何としても思い出したくはなかったのだろうか。「粟田口の、」と云い掛けて戸惑い何とか思い出すまいと努力したとき、ひどい頭痛がまた襲ってきて太閤は叩かれたように驚いて目を開けた。  目の前には、石田冶部少輔の、端整だが感情の薄い賢そうな顔が、木鶏のようにこちらをただ見詰めているだけであった。ああ夢か、治部少輔の顔がすべてを悟らせ、そう言えばこの手の顔はあの時代にはいなかったなあと余計な考えを太閤はしてみた。これからはこのような顔が幅を利かせ時代を担っていくのだろう。またそうした時代に早くすることが自分の役目であることも十分承知しているのだが、はたしてその構築も出来たものやらどうやら、今この顔を見ているだけでは太閤にもわからなかった。  だるい手を動かして太閤が額の冷汗を拭おうとしたとき、慶長三年七月下旬の生暖かい風が彼の部屋をゆっくりと抜けてわずかばかりの涼を与えて去っていった。
 いま太閤は伏見城にいる。治部の顔が迫るように自分の上から覗いているということはそう言うことなのだと自覚せざるおえない。現実は辛いものだ。もう老いた自分に戻りたくない。誰もそうだろう。天下一の位を捨てても夢の中にいたほうがいい。彼は己のいる部屋をゆっくりと何の意味もなく眺めていた。
 この部屋は城の奥まった処にあり、静寂とした隅々まで手入れの行き届いた庭を持つ一室であった。
 建物の造りはたっぷりとした漆に塗りこねられた柱に支えられていた。算木はみな金箔で縁取られておりまるで金の金具がそこに嵌められているかのように見える様は重厚な趣があり、まことに黒漆の深く闇に融ける色と金の重みのある輝きが上品で数学的な紋様と調和のとれた組み合わせをかもしてほどの良い造りとなっている。
 中には金箔を張り込めた壁があり、等伯が描いた巨大な楓の木が恐ろしい大蛇の如く絵の中央に蠢き、その向こう金の野地にはこれも黒い川が大きく右へ曲がって描かれていた。手前には野菊が数本、離れてまた数本と淡い紅とも紫とも言えぬ色彩を花ってわずかな風に揺れているように見える。  この正面の他、三面の壁や襖にも春夏秋冬の絵で彩られているのだが、太閤は特にこの楓の絵が好きであった。時として彼は、
「庭の楓がこのように色づくまで余は生きておれることやら、」と嘯くのである。
全体に与える重厚で品のある豪華さを黒い漆で見事に押さえた佇まいは、この部屋の主の期待以上に応えた当代一流の優れた大工や絵師たちの芸術性の極めによるものであることが、ここに坐れば誰もが知るところであったろう。 このさほど大きくも無い薄暗い部屋の、半ば開けて風通しをよくした上質の和紙の障子から柔らかな光が差し込んで来る当たりに太閤は臥せていた。畳の上に深々とした南蛮絨毯を敷き、そこにマホガニー製の簀の子の夏用ベッドが置いてある。ベットには豪奢な敷布団がのせてあって、その上で絹の小袖一枚だけでさほど暑さも感じなくなったのか、あるいは病の症状なのかぴくりともせず乾物のように横たわっていた。彼は骨にへばりついた皺だらけの皮に覆われた顔の目だけがまだそれでも精彩を放ち、毅として足元の脇に置いてあるやはり豪奢な南蛮椅子に侍り、だるい太閤の足を摩ってくれている治部少輔を見つめて言った。
「予もこれまでよのう」と、もはや日課となった口癖も、今日はいつもより力なく呟くようで、呼吸も整わずはだけた胸元の古枯れた肋骨の細波打つ様で何とも哀れであった。 「殿下におかれましては、なんと弱気なお言葉でござりまするか。まもなく唐天竺までをも治めなさろうと言う時にござれば」と太閤の後ろにそびえるように描かれた楓の巨木をちらりと見ながらそれでも背を乗り出して、ここまで治部が追従するのだが、その言葉には説得力がなく、どうも時候の挨拶のように聞こえてくるので太閤は腹立たしくもあった。 「痴れ者かよ己は、」ろくに自由のきかない身体を半ば起き上げるようにして彼は「おみゃあ、そんなことをふんきで言うとるでにゃあのう」と治部少輔の下らぬ言葉を遮るように言った。  ただ後から出た尾張弁は本音を言う時の太閤の癖なのかもしれない。こうしたことはままあることで、若い頃に使っていた言葉がふと口から出できてしまうということは相手が気の置けない人物のときだけである。
 治部は太閤が尾張弁を己に使う時は事が大事な話になることは知っていたので、わずかに心持ち張りつめると耳を側立てるようにして近寄っていった。
「ただ、あの、そのようなお気の弱いことを天下人様がおっしゃれば、世に暗雲が立ち込めぬともかぎりませぬゆえ、韓の国で戦うておる者どもにも悪しきことなりと、まことに恐れ多いとは申し候えど、病に弱気になることだけはなされぬが良きことかなと存じ候らえ」と静かに気遣いながらそれでも追従は絶やさないのである。 「おみゃあ、講釈ばっか言うな。なんだゃあも、さっぱりわかりゃあせぬ」太閤は夢から途中で醒めた苛立ちもあってか、腹いせに治部に当たりたかった。
治部は夏の盛りも過ぎた暑さのせいとばかりいえない汗で額も濡れてしまい、
「いやはや、天下人の御ん言葉は天の声でござりまする。その声が弱ければ民も愁いると拙者は心配するのでありまする」とさらに声を落として尚も言う。 「たあけが、今はこの部屋にゃあおみやあと予のみしきゃあおらんで、予があかんと世間に知れりゃあ、それはおみやあがしゃべったからだがや」 「まさか殿下の一大事を拙者が漏らすなどありえぬことです」 「ほんとけ、なら利休のこと恨むどりゃせんの」
頭の中がまだ落着いていないのか、太閤は突然古い話を始めた。 「何をおしゃりまするか、利休居士自刃の件、あのことは拙者が先んじて働きましてござりまする」
 もう歳を取るとこれだからなあ、と治部は思うのである。間違えているしいつまでも昔のことをねちねち言うからかなわない。 「たあけが、おみゃあにとっても利休は師であろうが、おみゃあのような学問好きは利休みていにゃもんを敬うで。どうでええ、予が利休に切腹申し付けたら、まあおみゃあみてえな学問好きが皆して命乞いしにきちょったと。ん?違ごうたかの。おみゃあは来なんだ。そうけ、勘違いけ。もうろくしたかなも。じゃあけどよ、利休のたあけは天下人の予とは違うことばかり言うて逆らうた、ええ、なんが侘び寂ぞな、おんつに貧しさの何がわかるか。もともと利休は堺のごっつうあきゅうどの倅やで。そん奴がや貧を持ってひねくりまわすなどだゃあもにゃあ」と太閤は突然怒りを込めて興奮して言うものだから喉もひゅうひゅうと木枯らしのように鳴り出して治部には危うくみえた。
「当に当にその通りにござれば、居士は腹切って当然なり」治部は慌てて言った。「拙者は誰より殿下より受けたるご恩は決して忘れず、天地神明に誓って師は殿下のみにて候」となお心配な彼は続けてこうなだめて言うしかない。
「ほう、なかなか言うでねえの、そん忠義ほんとけ」と太閤も答えて落ち着きを取り戻した。
「まったくもって嘘偽りなどござりませぬ」本当に我儘な爺だと腹の中では思ってもやはり今逝かれては途方に呉れてしまうとも彼は思うのである。
「おみゃあののうそん赤心を信じちょるで。が、いまさかふにゃあおちんでなも」太閤はなお一層不機嫌な顔で治部少輔を見た。「確かに利休は余が始末したがや。おみゃあなあ、小一郎がのうなっちまって、こんりゃあええさかいに、おみゃあも利休がまあまあきゃら鼻持ちならんでそんでこれみょうがしとばっかに始末しとうと思ったがや。まさか小一郎をば間違ってもおみゃははばにできゃあせんもな。まあちょうらかすなって余は知っとるで、小一郎と利休をおみゃあはけぶとうしてたろがや。上役でも師でも好かぬもんは好かぬやも」
「恐れ多くも大和大納言様に於かれましては拙者が敵意を持つなど一分もあって許されることではございませぬ」
「こきゃあれ」と言って太閤はまた足で治部少輔の手を蹴った。「余をたあけにすにゃ。おみゃあは小一郎にも利休にもすこあがらんでけなるがってやなも。そんで、日頃から利休の悪口雑言を余にそれとのう言うとっとたろうが、しらばっくれちょうで。なやあよ、余が利休に腹切れ言うたとき、おにゃあのつらが見えにゃあくらいで笑うとうたのを余が見のがすと思うてきゃあも」
「まことに殿下の達見、恐れ入りまする」治部は平服しながらも、この爺はさすがによく人を観察していると感心しこれではとても勝てないと思った。
「ま、小一郎もこん兄んさより先にのうなったさかいあかんで、なりゃあこんさきはわきゃあもんがやってくしきゃないもんなあ」太閤はそう云いながらもやはり小一郎がまだ健在であれば、とその早い死を惜しむのである。
 小一郎は太閤の母、仲、大政所が尾張中村で竹阿弥と再婚したあとに生まれた子である。太閤、藤吉廊とは異父兄弟になるのだが、兄とは三つしか歳が離れていないためか同父という説もある。ただ彼は幼名を小竹と云ったが長じて藤吉廊の傘下で働くようになってからは小一郎と名乗った。普通に考えて一郎とは長男のことである。だから彼が藤吉廊と同父なら単純に二郎と名乗ったはずで、わざわざ小を付けて、小には子の意味の他に準じての意味もあるので、一郎、すなわち長男を強調して名乗るとしたら、ここはやはり自分が竹阿弥の第一子であるけれども木下家に於いては次男という意味を記したかったのかも知れない。また同父とすれば、長男の藤吉廊が早いうちから家を出て諸国に遊んだため、残された家族を次男の小一郎がみなければならなかった。藤吉廊は家を捨てた面目もあって、小竹を自分の部下として一人前の武士にした時、お前こそが本当に木下家の総領であるゆえ、小一郎と名乗れと云ったのかもしれない。
 小一郎は何かと派手な兄に比べ実直で地味な性格であった。この性分が補佐役として適任し彼は存分に持って生まれた能力を発揮したと言っていい。それゆえに周りの信任も篤かった。領地を持つようになってからも治政に優れ、民にも慕われて長く死後現在に至るまでかつての領国では代が変わろうとも彼を供養する祭りは絶えない。
 小一郎は兄と共に出世していった。美濃守、参議、中納言、権大納言と武士としての朝廷の権威は甥の関白を除けば兄に継ぐものである。領地も最終的には紀伊、大和、河内の一部も入れて百十万石を治めた。地位の大納言もこの時期においては徳川氏と共に下賜されている。これゆえ当時は通称あるいは官位を呼名としていたため、同時に与えられた二人の大納言を区別するため世間から小一郎のほうがその領国の名をとって大和大納言と謂れたのである。この二人、領土も官名も同格であったばかりでなく器量に於いても甲乙付け難い。ゆえに小一郎は太閤の生涯の脅威であった徳川氏への牽制と力量のバランスを取り得る要の存在として遜色なく、兄に多くを頼られたのである。また巨大化した豊臣政権の内部抗争でも旧派閥である武断派の実力者として文治派を圧倒的に押さえ込んでいたのでもあった。彼のこうした存在は、官兵衛や利休という総見院以来の仲間と加藤福島らの総見院以後の連中を従えて、漁夫の利を狙う徳川氏にもその隙を与えなかった。が、この程よい均衡も、大和大納言がわずか五十二歳で、大和郡山城で亡くなったがために崩れようとしていた。つまりその数カ月後に利休が切腹した。これで官兵衛を除けば総見院以来の武断派の実力者はもういない。これで太閤に臆せず讒言出来る者は居無くなったということになる。いや加賀中納言がいるではないか、と思うだろうが彼はもともと中庸の穏健派であった。
 豊臣家に於いて、いま文治派の台頭が始まろうとしている。蛤と鴫はついに争いを始めた。鑑みれば豊臣家の崩壊は小一郎の死によって、ここから始まったといっていいだろう。
「拙者小身なれど御家のために粉骨砕身勤めとうござりまする」文治派の頭領石田治部少輔は本心からそう言った。
 確かに大和大納言の死を好機として利休を自刃に追込んだと言われても仕方ないことは認める。だがそれもみな保身のためではなく豊臣家の忠義のためなのだと治部少輔は本音で信じて疑わないのである。
「よしゃ」と太閤は機嫌を直した。「じゃあから今は心置きのうおみやあに予の腹の内を語ったるだがや」
「はあ」治部はそう信頼されると嬉しくもあり、主人のこの病状では今さら遅くて、悲しくもあった。
 権力者の威を借りる自分にはこう言われることが何よりも有難い。しかしその権力が我身へ委譲されるとまで考えている訳ではなかったから、主人の衰えを本気で心配もし前途を考えればさい先心配なのである。治部少輔にほしいのは磐石の豊臣家であって天下人の座ではない。オノがままに動く豊臣家の執権になりたい。ただそれだけが望みであった。
「予はまあひゃあのうなるでよ」太閤は天井に描かれた小鳥たちの一羽を、目白だろうか、見詰めてそうつぶやけば、 「それは」と治部がまたも云いかけたのだが、太閤は皺首をひねって彼を睨み付け、 「時はにゃあで、おみゃあのとろくっさゃあ追従などだだくさに聞く時惜し、だましか予の話を聞いてちょう」とわずかばかり声も荒げて語った。
 治部少輔は慌てるかのように黙して平伏し腰を椅子から半身ほど乗り出して如何にもかしこまって聞く振りをしてみせた。腹の中ではくそ爺が偉そうにとまた思っても何しろ相手は腐っても鯛の天下人である。いやいや一歩さがって、己が今日あるのもこの爺さんに認められたお陰ではあると思えば少しばかりの悪態も言わせて損どころかお釣が来るくらいなのだ。これまで如何に学問して己を磨いても所詮誰も認めてくれる者がいなければただ野に朽ちるしかない。と思えばここまでの自分は仕合せものだったといえるだろう。そう考えるあたりが戦乱の風雲に身を晒さしてこなかったこの男の限界であった。官吏は所詮官吏の域を出ない。
「それでええがや」と太閤は満足そうであった。大体に於いて能吏は小賢しい。最初から素直になればいいものを、すぐあれやこれと理屈を付けたがる。「さても予がのうなってのちじゃあ、おひろいがのう、しんぴゃあじゃあて」と太閤も今は夢見の悪さの苛立ちも抜けて落ち着けばその後は静かに語り始めたのである。 「殿下、それなれば先の日に五大老、五奉行みな誓紙を差し出し、忠誠を述べておりますれば、なんの御心配ありますまい」
 ここ数日の間、体力も気力も目立って落ちて来た太閤は豊臣家の重臣を枕元に呼寄せては後日を託したり、そのことを誓紙に書かしたりと慌ただしかった。これもこの男が気弱になった証拠であり、また一層世間に彼の終焉が近いことを反って知らしめたといえるだろう。 「あまたらしいのう、おみゃあは。五大老も五奉行もみなこれまでそんしょうがえを天下取りに野心を燃やした者どもだがや。ちょこっと予はましに皆より運に恵まれただけだがや、そん予がのうなりゃあみんなまっちょたぞとばかりに乱がおきるわな」
 体力は一人で歩けないほど衰えても頭はまだまだしっかりしている。考えたくもないが、己がくたばればその後どうなるかということはあえて見なくても分ることだ。
「まことあさましきは人の情。みなどれほども殿下の恩を忘れるとは恥じ知らずも匹夫の如し」
 どうも自分はこうした言い回ししか出来ないなあと治部は腹の中で思い、これでは太閤も機嫌悪いかしらと感じるとやはり、
「たあけ、予の恩などと考えるのは精々五奉行ほどの者だけだがや。しっかとよ、ええか、予がのうなってのちは、おひろいを護れる者はおみゃあひとりと思え、そげな気構えなやあではとてもじゃなゃあが、おんつらとは戦とうても勝てやしぇん」と叱りつけて来た。
「おんつらとは、五大老さま皆でござりまするか?」
「いんにゃあ、ちごうとるで」太閤はゆっくりと身体を横に向けて治部少輔の方を見るように動かした。これで背中が風通しもよくなりすっきりした。ついで手を耳の当たりに当てて顔を乗せると何とも気分がよくて「五大老はもとより、予がおめる者はこの世に二人おるがや。治部よ、誰か当ててちょう」とふざけるように言いながらわずかに足をあげてそこを揉むように催促したのである。
「さても殿下が恐れるとなれば、」治部はまた老人の足に触れたが、もう血も通っていないのか相変わらず氷のように冷たかった。「まずは内府さま、あとは加賀大納言様でござりまするか?でもどちらも律儀な御仁なればいかさま殿下を裏切るとは、どうも信じ難し」
 確かに後の時代を知らない者はこれまでの内府は総見院から今日まで律義者の代名詞となるほど堅い男として知られていたのだ。だが太閤は彼の者の本質を見抜いている。 「ふむ内府はあうとるげな。が、内府が律儀やのうてええこらかげんだでよ。あゃあ人とは総見院様からの付き合いなれば、でえりゃあすこがええであかんわ。なんでかいっちょってもだあれも見抜けんじゃとて予の目はごまかせん。内府はこっすいで」太閤は少し可笑しそうに笑って、往時の朝倉攻めなどを思い出していた。あれは内府もおのれも一生を賭けた勝負であればこそ、あの男の凄みを初めて知ったのもその時であったといえる。振返っても人は内府が律儀者ゆえに一番貧乏籤の誰もやらない殿を請負ったと思われているが、あそこはあの時本当は勝負の場だった。よくよく考えれば朝倉は織田徳川連合軍に攻立てられて降伏するも寸前でもはや全体の意気も落ちていた。また、端から約束していたとは言え、本当に浅井が織田家を裏切って朝倉へ寝返るかどうかはわからなかったはず。情報が織田勢より遅れたのもあった。事実、実際に寝返ったと知った時、織田上総介はもう単騎朽木谷を抜けて京へ逃げていたのである。だから殿軍に対する追撃も激しくはなかった。これを見抜いていてここで死ぬ等と言うことは有り得ないと、その確信があったからこそ、己はそう思って賭けに出たのに、同じ考えを持つ者がもう一人いたとは、喰えぬ奴だよあいつは。振り返って思うに、ここまでの内府とおのれをたとえればまさに狐狸のお宮参りであったろうか「しかし又左は、はえつきのつれやさかい、あれはふんともんの律義者だがや」
「となれば、曲者のあと一人はどなたなのでしょうや」
 周りは確かにどれを見ても曲者ばかり、しかし今天下泰平の世になろうとするとき、時代に逆らって新たに大きな戦乱を望むほどのものが、内府以外にいるなどとどうにも治部少輔にはとんと思い付かないのである。
「わからぬかのう?ほうれおみゃあが一番嫌ろうちょるおんつじゃがや。小一郎も利休ももうのうなって残るは、えん、ほれ」と太閤はまた面白そうな顔に戻ると楽しそうに言った。
「ええ、まさか」と治部少輔は驚いて、思わず太閤の揉んでる足に力を入れてしまった。 「いでがや、まっとあんばようやらんとう」と云うてなおも太閤は治部にだるい足をあげて、もう揉まなくてもいいという合図にその手を蹴って「応さ、そんまさかの瘡頭だがや」載せている手から鎌首をやっとあげて彼は治部の痛そうな顔を見てはにやりと笑ってこれも楽しんだ。
 治部は蹴られた手をさすりながら、死に損ないの老人にしては、随分脚力があると腹立たしく思い、しかし口には出さずもちろん顔にも出さず、
「これは、いかに殿下とはいえなんと大胆なお考えでありましょうや。如水軒様が謀反など、それも十七万石ほどで大豊臣家に何が出来ましょうや」と云って太閤の頭もついに病に犯されてしまったのかと、内心それ見たことかと呆れて思うばかりだった。
 が、太閤には相手がどう思ってようと知ったことじゃない。所詮これらには人を見る目がないのだ。だから己のように天下を取れない。用人であまんじて由としている小心者にすぎないのだ。
「おみゃあはなあにもわかっとらん、予は天下を取るみやあからこの二人はいずれ敵になるじゃろうと思ったがや。すでに内府とは一度戦い、だゃあもにゃあ関白のだちかんで散々な目におうたが。くわんひょうえはそうしゃあせぬよう豊前に封じたがや、それも予の家来ならとしみったれて端は十二万石しかやらなんだ。こんだけであやつの不満をぎりぎりに押さえれる額じゃろう思うてこぎったがや。本来なら五十万石をくれてもおしゅうない働きをしたおんつじゃが、あれもちょうすいとるで、すこのええとこを見せつけくさるさけ、余分に警戒され損もした。もし瘡頭に五十万石やってたとしたら、とてもじゃにゃあが楽々とのうなりきれぬがや。だがよう、予もたあけじゃ無いさかい、このふたりおそがいやと素直に認めれば、念には念を入れて内府は関東へ、瘡頭は豊前へとあんばよう二人とも遠くに封じ込めた。が、やはりまだ予が元気な内にせめて瘡頭だけでも始末をしておりゃよう、と言うても最早せんにゃのう。まあ小一郎が生きとりゃあ、瘡頭を殺すことは反対したろうし、のうなりゃあのうなったで瘡頭が内府に対しなんぞの役にも立とうかのと思ったがや。にゃあでよ治部、あとはおみゃだがや、予がのうなれば、必ずこの二人は動く、しかしあれらの領国は遠い、その間におみゃあの才覚でおひろいを護る策を考えるのじゃ。ええの、必ずやこれありゃあからそん目んたをば離すでにゃあ。敵さえ知れていればすこのええおみゃあの知恵ならなんとでもなる。いやなんとかせえ。こんこと予の真の遺言なれば、必ずや心得てちょう。とくにあの瘡頭は必ず目んたに見えにゃあ策謀を巡らすで。おんつとは予がくたばっても語れなやあ、地獄の冥王に舌を抜かれてもしゃべれなあ腐縁があるげな。それゆえおんつを予は酷に扱かってもなお瘡頭は従わざるおえりゃあせんだった。が、予ものうなりゃおんつも咎を外された虎じゃあ。おそがいは内府より瘡頭と思え。心して予の言うてる事を信じよ。治部は己の才に自惚れねば、瘡頭とすこを競うなどあまったらしいことせんとおめるのじゃあ。さすればおひろいもおみゃあも予の歳より遥かにあんばよう生きなむ」言葉も最後となれば、これでも天下人の身体かと思えぬしゃがれた胸を波打たせて太閤は哀れな声色でやっとそう云いのべた。
「その秘密をこの治部少輔めにお明かしくだされ、されば拙者はそれを持って黒田様を押さえまする」
「たあけっが、話せぬゆえ気いつけんとしゃべちょるで、それは瘡頭と予が地獄までもっちょらねばならんげな。もんだで治部少輔よおんどれを小そうこころしてみやりを見んばおそげんとよ、なあ。あとはただ大坂城に篭り、決していのくな。もんでかたきの策にういたかひょうたん乗らんば、あん城は絶対落ちんげな。予がこしりゃたあ天下一の城じゃげに、ふんとに絶対落ちんげな。落ちるは中にいるもんの迷いだげな。決して出て戦う事勿れ。出れば必ず負ける。おんつをあなどるな。あとはあんばようなかんこうするにゃあ冶部よ」
「ははあ」と治部少輔はなおも平伏した。
 思うに、このような二十万石程度の己にしか頼れぬ豊臣政権の危うさを太閤が自ら知って末期の言葉になるとすれば、この人にしても大きな不安と興奮が心をよぎってただ止まりぬばかりだった。
 すると庭の池を渡る風は涼やかに太閤の臥す部屋に流れ込み、治部少輔の首筋を拭うように通りすぎて、彼は束の間の安息を得たように思えたが、これより十数日してこの国の主は史上稀に見る波瀾の生涯を終わらせるのである。


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