千佳ちゃんへ
一 once upon a time in Hokkaido これは、人間達がまだケモノの皮をまとい言葉といえるほどの語彙も無く叫び声の長音と単音の組合せほどのもので互いの意志の疎通をはかり、わずかながらの群れを集いて攻守の仲間とし、また石の簡単な道具しか持っていないという人類草創期の頃の話で、彼らはその粗末な道具を使って獲物を追い、命をかけて闘いながら食べ物を手に入れなければならず、時にはその獲物に逆襲されて怪我を負うどころか死ぬことさえもあって、また植物採取もまだ木の実を採って食べることしかできず、田を耕して栽培する方法も未だ知らず、人々は血縁単位の小さな集落を営み常に自然の脅威と目に見えぬ病原菌に脅えて暮らしていた。 この世はまだ混沌としており穏やかな日々は決して長くは続かず、気象の不安はそのまま人々の心の不安を掻き立てるものであった。 地平線の彼方から早い風に乗って湧き出る黒雲はやがて天を覆いはじめると、その黒い幕を引き裂くように天から地に凄まじい轟音とともに稲妻が走ってついに天が割れ、そこから噴出すように大雨が降り、河はあっという間に周辺の森や野原を飲み込んで氾濫を起こしつつ、激流は周辺のすべてを飲み込んで暴れ狂う大蛇のごとく一気に海へ向かって突き進めば、青い海はみるみるうちに汚れも醜く茶色に変わり近海の魚介類はみな死に絶えるが如くして、無数の流木は広大な帯となってこの大蛇の死体を横たえているように見せて何日も海岸近くに漂い人々は漁に出ることもできないのである。 地も永遠の安定した基盤ではなく、大地は波打つように揺れ動きついには西瓜を両手でがっぷりと割るように切り裂かれて地底の秘密を暴けばなお凄まじく粉塵を吐き出して叫ぶと、森の巨木は根こそぎ倒されて人家に落ちれば、簡易な作りの家はまるで紙で出来ているかのようにつぶされて、森も集落も息を呑む間もなく破壊されてしまった。 山は火炎をもって吹き飛び真っ赤な体液を流して周り一面を焼き焦がしても収まらず、灰は天を覆って昼間の世界を恐ろしい闇夜へ一瞬の内に誘えば、それらは人類のまだ足より手の方が長い肢体の頭部に入っているか細い未発達の脳みそから見ると、大自然が起こすこうした数々の現象のすべては天に住む神々の気まぐれによって起きると思うことも当然で、また生活の糧を得ることも命を永らえるかどうかもみなその神の意思により左右されるのだと、これも深く信じて疑わず、そして大自然の力を恐れてその片隅で何事も無く一生を費やすことを何よりも望めば、神に逆らわず健気に生きることを彼らは理想とした。 この時代、人々は大自然界の中ではまことに小さかった。 その小さな人間たちが信じる天上の大きな国にオキクルミという彼らに深くかかわった神がいた。 彼は幼い時から他の神々に、 「国焼き、里焼き、大飯食い」と馬鹿にされていた。 やがて凛々しい若者に成長したオキクルミはいつまでたってもそう云われることに大いに不満をもっており、なんとしてもこのあだ名を払い去って見せようと、彼はそう思って陰口をたたく男神たちを見つけては喧嘩を挑み、このような争いは毎日のように続き、ついにはすれ違う男神なら誰でも殴るという荒んだ日々を彼は送っていた。 そうしたオキクルミを哀れに思ったのか、両親のいない彼をここまで育ててきた年の離れた姉神はあるときそのあだ名の由来を話してあげた。 「あなたのあだ名はけっして恥じ入るものではないのです」そう言いながら天の国の美しい森の大きな切り株に姉神は腰掛けた。 森は霞がかかり、大きな巨木の天を覆うような葉陰からいく筋もの光が漏れて緑の芝生へ落ちるように映れば、その光のひとつが姉神にそそがれるとそこだけが薄い緑色に変わり彼女を包むオーラとなった。 姉神はか細くしなやかな白い手を差し出してオキクルミにその前の草の上に座るよううながすと、 「心して、聞くのですよ」と彼女の吐く息の白さが流れて行くとそれは言葉に代わり涼やかに彼の耳に伝わるのだった。 乱暴者のオキクルミも、この美しい姉の言うことだけはいつも素直に聞かざる負えない。 彼は、全身すべて贅肉など一つもない筋肉だけで出来上がっている偉丈夫であり、まさに背が高く顔は小さかったが手足は長く、鍛えぬいた若者特有の活力が衣服を突き抜けて吹き出てくるかのようであった。 しかしまだ若く、幼さの残る伸びきっていない顎鬚を逞しい手でごしごしとしごきながら乱暴に座ると姉神を大きな黒い瞳で容赦なくぎょろりと睨みつけた。 後年、彼のこのひと睨みだけでどれだけ大勢の魔神がふるえあがったことか、しかし赤ん坊のときから独り彼を育ててきた姉神には、ただの可愛いい悪童の目にしか見えない。 「話はあなたが生まれる少し前のことです。あなたの父上には兄様がおられました。そしてこの二人の兄弟神は天の一番高いところを治めていたのです」姉神の声はまた春風にゆれる鈴の響きのように聞く者すべてに心地よさを感じさせもするのだった。 「そのころ、国造りの神コタンカラカムイは地上に天の国にそっくりの美しい山野を造りました。美しいところには美しい姫神に治めてもらうのがよろしかろうと、このときコタンカラカムイはチキサニ姫を其処へ降ろしたのです。そして姫は地上に、神と同じ姿をした人間を造り住まわせました。さて姫のことですが、彼女は本当に美しい神でしたからその評判は一番高い天上にまで聞こえてきました。それであなたの父上はその姫神がどれほどのものか拝見しようと地上へ降りたのです」 天の一番高い場所から地上へ降りるには幾重の雲をかいくぐっていかなければならないのだが、弟神はこれを面倒に思ったのか、いきなり彼は稲妻を地上に向けて落とすと同時にそれに飛び乗り、光のかあっと閃光する中で腕組みしながら考えれば、このまま地上に落ちて姫を驚かせてはいけないと知り、一瞬首を捻ってまっすぐ海へ向かい、そして稲妻が海へ落ちる瞬間、そばを通っていった風の使者の背中に間髪を入れずに飛び移った。 「使者よ」と弟神は腕組みしたまま言った。「チキサニ姫は何処におわすか?」 突然背中に乗られ、ぶしつけな質問に振り返った風の使者は驚いたのだが、しかしすぐに相手が顔なじみの雷神だと知ると顔を和ませ、 「おまかせを」とうなずくなり彼がヒューと口笛を吹いてみせれば、しばらくすると何処からともなく同じような口笛が聞こえてきて、風の使者の仲間は地上にも至る所にいるから情報は早い「姫は北の大きな湖のハルニレの林のそばにいるそうな。わたしがご案内いたしましょう」 「すまぬな」 風の使者は弟神を乗せていくつもの山並を沿うようにつばめのように軽々と早く飛び越えて、またいくつもの谷を左右に旋回しながらこれもすり抜けて、遥かに北を目指していけば、やがて前方の山あいに小さな光が見えて来て、光は水に反射していた。 その湖は向う岸が見えないほど大きく、また天の青色もその湖底に届かないほど深かく、それを抱きかかえるように畝なびく山々の緑もまた湖水に溶かすことが出来ないほどに馴染まず、ただ幽玄とした濃い神秘の藍色に湖面を染められていた。 ハルニレの林はすぐに見つかり、その一点に淡い桃色の光がわずかに動いているのが弟神にも見えた。 姫は湖岸に立ち、ゆっくりと両腕を水平に開きてあと前へ閉じれば、多くのハルニレの木の葉がゆっくりとそれぞれの小枝から離れてにぎやかに宙を飛びまわり、やがて落ちて湖水に浮かぶとそれが人間たちの食料になる魚に変わって、ぽちゃりと跳ねるなり泳ぎ始めて深く水底へと去って行くのを見ると彼女は、ついで湖岸の砂をひとつかみ握って、湖にはらはらと振り撒けば、その魚の餌になる小エビにとこれも変えられていくのであった。 弟神は姫に気づかれないように離れたところで降ろしてもらうと風の使者に礼を言って別れたのだが、しかし風の使者は立ち去るふりをして飛び去ったのちこっそり戻ってふたりの様子を木の上からじっと見ていれば、これまでにも何人もの若い男神が姫に振られているのだから、こんどもそうなるに違いないと、他人の不幸ほど楽しい見世物はないもので、風の使者はまた面白い話を仲間に吹聴できることが嬉しくてならなかった。 弟神は姫に気づかれないように自らのオーラを消すとそっと後ろから近づいた。 姫は淡い桃色のオーラの中におり、ほっそりとしなやかな身体は、鋭い刺繍模様の着物に包まれ、長い髪はその着物を覆っているが、後姿のため顔を見ることができず、何とも見たいと弟神は思ったが声をかける勇気もなく、姫は一心不乱に仕事に集中していたから男神の接近にはまるで気が付いていないので、弟神はそばの木切れを拾うと姫の左側の湖水にそっと投げ入れてみせれると、深山に囲まれた湖は幽閑としてすべて調和のとれた静けさだけが漂っているのに、そこへ無粋にも明鏡を割るが如き者がいて、姫ははっとして水もの木を見たのだが、木切れは大きなアメマスに変わると姫の放った魚をイッキに飲み込んだ。 誰が?すぐに怪しんで後ろを振り返ると、姫のオーラが揺れて、そのしなやかになびく黒髪は光に屈折して紫色に輝きだすと、振り向いた顔の色は透明感のある白い真珠のように瑞々しく細面なのに頬にはふくみがあり、細い柳のしだるような眉に、切れ長の水晶のような瞳と、少し上を向いた高い鼻は愛らしさ以外の何ものでもなく、小さなイチイの実のように鮮やかな赤い色の唇はわずかに開いて驚きを現しており、細い首の下の胸は小さくて柔らかであったが姫の意志の強さを表すように薄い着物を張りつめて天に向いて激しく動揺していた。 天の女神はみな美しいが、しかしこの目前の姫神から見ればそれはただの色あせた時期はずれの花の群生にしかすぎないだろう、とこの一瞬に弟神は思った。 突然の男神の無礼に姫の瞳は怒りを現していたのだが、しかしその様子もただ美しさを際立たせただけにすぎず、透明な灰色の瞳はすべての光を吸い込んで、弟神は息をすることも忘れ、金剛の我が身がこなごなに砕けて分子となり、みなその瞳の彼方へ吸い込まれていくのを感じていた。 「そして、」と姉神はここで息を吸いゆっくりとはきだした。 神の吐息は優しい風となって木々の間を通り抜けていくと、姉神はふたたびオキクルミへ彼の両親のロマンスを静かに語り続けた。 「父上はチキサニ姫を一目見ると、評判以上に、その名のハルニレのような美しさに驚き、たちまち恋に落ちてしまいました。だから、その場で自分の無礼を詫びたのちすぐ結婚を申し込んだのです。チキサニ姫も今のあなたにそっくりな凛々しい若者の男神の求婚にはじめは驚いたのですが、心が動かされました。いままで数え切れないほどの男神が姫に求婚してきましたが、どれも皆にやけた神々で、ところが父上は雷神であっただけに稟として爽やかな美男であられましたからね。姫も初めて見る男らしい神と感じたのでしょう、きっと。そして、だからふたりは結婚したのです」 神々の結婚はまことに早く、お互いのオーラが交わり融和してひとつの美しい形を創れば良いのであって、それで成立して姫神は妊娠すると、木陰で見ていた風の使者は二人の意外な展開に驚きながらもこれほどの話題もめったにないと喜び勇んで天空へ飛んでいった。 「ところが、」とここで姉神は目を見開いた。「天上の若い男神たちは皆チキサニ姫に想いをよせていましたから、このことが出し抜かれたようで面白くないのです。やがて姫が子を宿したと聞いてますます誰もがみなあなたの父上を妬んだのです。嫉妬はとても恐ろしいもの、神々ですら理性を失うのです。このとき若い男神はみなあなたの父上を殺ろしたいと思ったのよ。しかし彼らは個々にはとてもあなたの雷神である父上には勝てないと知っていて、ですから、一計を案じたのです。こうしたときの悪知恵はこれが神々のすることかと思うほど情けないもので、彼らはこぞって父上の兄神様のところへ行き、嘘を言ってそそのかしました。彼らは兄神に、コタンカラカムイはチキサニ姫を密かにあなたの許嫁にしようと思っていたのにそれを知った弟神がわざと横取りしたと云ったのです。それも嫌がる姫を強引に妻にしてしまったのだと、それを聞いて怒り狂った兄神はいきなり駆け込むように弟神に闘いを挑みました。他の男神たちもすぐ兄神に加勢したものですから弟神は言い訳もできなかった」 姉神は森の清々しい空気を豊かな美しい胸に吸い込むと、ゆっくりと今度はため息をつくように吐きだして風は再び木々の間を抜けたが、それは冷たい風となって、聞いているオキクルミもわずかに胸の前を合わせた。 「もはや、闘うしかなかったのです。あなたの父も」水晶のように透明な美しい瞳は、憂いのある光をはなってオキクルミを見つめていた。 天界地上界を巻き込んだ大事件はこうして始まった。 彼は胡座をかき、腕を組んで目を閉じ、脳裏に生きて見ることが出来なかった両親の姿を想い描いていた。 「弟神は切先から炎が吹出す稲妻の剣を持っていましたからこれで大暴れ、こうなると山野は火炎に包まれ村々にまで飛び火してあたりは火の海と化してしまったのです」 弟神はたった一人であった。 まず意気盛んな二人の神が彼に挑んできた。 海の神は風の神と協力し、天に届くほどの大波を暴風に乗せて山に立つ弟神を襲い溺れさせようと考え、視界のすべてを覆う大波をつくるため海の神は四股を踏ん張り全力で海水を持ち上げるとそれを風の神は大風を吹いて押出し、それらを海の彼方から不気味な腹に響くほどの唸り声のような音をたてて迫り来させると、あたりは昼なのに夜のように暗くなってしまい、それを見た弟神は急ぎ左足を地上で一番高い山に懸け、右足を地上で二番目に高い山にのせたのだが、しかし大波はそれをはるかにしのぐ高さで攻めてくるので、弟神は剣を抜いて前方に翳してみれば、剣は鏡のように磨かれており、その鏡から突然稲妻の光だけを発光させると、その光は神の全身を覆って余りあるほどであったから、海の神はこの光のまぶしさに一瞬ひるんでしまったのを、弟神はこの機をのがさず、素早く飛び上がると波を持ち上げる海の神の腕を剣で斬りおとして、さらに返す刀で稲妻を放ち風の神の吹き出している喉に穴をあけた。 これによって海は地上のすべてを覆うほどの大波を起こせなくなり、風は今でもヒューヒューとしか声を出せなくなってしまったのである。 次いで火の神と森の神が挑んできた。 火の神は地中深くに腕を入れると火の玉を取り出し、それを森の神が大木を引き抜いて作った矢につければ、森の神は満月のように弓を引き絞り次々と弟神に向けて放つと、矢は火の雨となってそそがれたのだが、弟神はすべての物を切り裂く稲妻の剣とすべての物を突き通さない鎧を着ていたのでこの火箭群を難なくはじき返してしまい、思わぬことに、はじかれた火の玉は遠くへ飛んであるものは山に当たり大爆発を起こして山を半分ほども吹き飛ばせば火の神の棲家はことごとく壊れ果て、そのとき灰は何万里も飛んで緑の野を文字通り灰色に変えてしまうことなってしまい、またあるものは森に飛んで森を焼き払ってしまう次第となれば、このため森の神も大やけどを負って戦線を離脱したのである。 こうしてコタンカラカムイの造った美しい山々も削ぎ落とされ、今でも燻って煙を吐いている荒々しい山に変わりはて、また草も生えない原野が現在もあるという有様だった。 今度は残された神々が全員で弟神に戦いを挑んだ。 みんなは一斉に四股を踏んで地面を揺らしたので、これにはさすがの弟神も立っていられず、地震で出来た地割れに指を突っ込むと這いつくばって耐え忍んだのだが、そこに雨の神である兄神が天の水瓶をひっくり返して大雨を降らせたので、弟神は激流に翻弄されながらついに谷底に落ち、下半身を泥で埋められて身動きできなくなってしまったのであったが、しかし稲妻を飛ばしながら鋭い剣で近づく者と戦ったので誰も彼を仕留めることはできず、こうして近づく者がいなくなると弟神は手を長く伸ばして一度にたくさんの飯を掻き込み食らって飢えをしのぎ、やがて力を蓄えると一気に泥の中から飛び出せば、このときどんな武器でも貫けない鎧が泥に挟まれたまま脱げてしまったのである。 のちにこの残された鎧に雨水が溜まって、今は摩周湖となり、またこの湖に浮かぶ小島は弟神が食べ残した飯粒が島に化したものだといわれている。 しかし大飯を食らって元気の出た弟神はそんなことを気にもせず敵の軍団へ飛び込んでいくと、再び壮絶な神々の戦いは繰り返された。 黒雲は毒を喰らった竜のように天空をのたうち、雨は激しく地上を叩き、稲妻は繰り返し巨木に落ちて凄まじい光と轟音を放つと、風は地上に立つものすべてをなぎ払うかのように吹き荒れて、山は火柱を上げて咆哮し、河は平野のすべてを呑み込むように氾濫して終わらず、高い山の洞窟に避難した人間達は誰も争う神々の姿を見ることはできなかったが、その気配を感じて脅えていた。 「こうして戦いは長く続いたものですから、人間達は大いに困りついにコタンカラカムイに訴えたのです。言葉を持たぬ彼らは沢山のイナウを削って祭り、ひたすら祈るしかなかったのよ」 コタンカラカムイもおちおち寝ていれないほどに天界をも揺らすこの戦いに呆れ果てていた。 いまたったひとりの姫神をめぐって、天界も地上界も破壊つくされようとしておれば、地上の生き物は、人間は及ばずすべてのものが滅んでしまおうとさえしていた。 身にひとつの武器を持たないか細い女神がこれほどの大事件の元凶になろうとは、コタンカラカムイは女の恐ろしさをまざまざと知ったように思えた。 「こうして見かねたコタンカラカムイが仲裁に入り、疲れ果てた兄神一党もこれを機に降参してしまったのです。あなたの父上もやっと勝ったのですが、鎧を捨てたため沢山の傷を負ってしまいましたから、それが元でまもなく亡くなりました。チキサニ姫もあなたを生んだあと、夫を亡くした悲しみと産後の肥立ちも悪く、あとを追うように亡くなったのです。それでコタンカラカムイに、養い姉になってやるようにと頼まれて私があなたを今日まで育ててきました。そのようなことから神々はみなあなたのことを初め、国焼き、里焼き、大飯食いの英雄の子と畏敬の念を込めて呼んでいたのです。それが歳月の経つうちに父上のように立派になったあなたを妬んで、それが悪口に使われるようなってしまったのね。だから、これは決して恥ずかしいあだ名ではありません。わかりましたか」 オキクルミは聞き終わるとはじめて母が恋しいと思い、一度でいいから母の優しい胸に抱かれ甘えてみたかったし、父にも男として生きるための技術を教えてもらいたかったのだが、そう思うと涙が溢れて、ついには声をあげて泣きはじめるばかり、神々はみな感情が豊かなのだ。 神だとていつかは死ぬ、愛する者たちともいつかは別れる、しかし生まれたばかりで一番別れたくない両親を失うとは、いかに神であってもあまりにも悲しすぎるのではないか、しかも父は不本意な戦いを挑まれその結果亡くなり、母も悲しみのあまり命を縮めたとは、この世に多くの未練を残して逝かざるをえなかったふたりの無念を想うとオキクルミは何度も自分の膝を叩いて吼えるように泣いた。 姉神は切り株から立ち上がるとオキクルミの前に行き、そっと泣きじゃくる彼を抱きしめ、 「もはやあなたはつまらぬ意地にこだわっている場合ではないのです。あなたにはやらなければならい使命があるのよ。それは何かわかるでしょう」と言って優しく彼の鋼鉄のように固く締まった背中をなぜてあげた。 オキクルミは姉神の柔らかく豊かな胸に顔を埋めて幼子のようにただ泣きじゃくり、うなずくだけだった。 二 オキクルミは姉神の言葉に深く感じ入り、この話を聞いてから母が治め父が心ならずも焼き尽くしてしまったこの地上の国を守ってあげようと強く心に決め、それからの彼は人間達を苦しめる数々の魔物と闘い、父譲りのすべてを貫く稲妻の剣でこれをみな退けたのだが、この後の魔神とオキクルミの戦いは長い間、人間たちによって語り継がれ、やがてそれは膨大な叙事詩となってゆく、このことからもいかに人間を苦しめる魔神が多かったことか、また逆に云えばいかに多くの魔神がオキクルミのため人間に忠誠を誓わされたものか、それでも人間たちには真の安らぎはなく、彼らはまだ未完であり幼く、ゆえにもう一度オキクルミの知恵と大きな努力を必要としていた。 それはある年のこと、どういうわけか人間達に食料が手に入らなくなってしまうということがおこり、海にも川にも魚はやってこなくなり、山奥を分けへだてて狩に行っても鹿どころか狐さえもいなかった。 オキクルミは魔物ならば剣を振るって退治してやれるものを、人々の飢えにはどうしようも手のほどこし様もなく、彼は飢えて死にかかっている人間達に自分の食料を与えてみたがやがてそれも限りあれば底をついてしまい、困り果てたオキクルミはもはやこの事はコタンカラカムイに相談するしか方法はないと思い、すぐにも彼に会いに行かねば、一人でも多くの人々助けるためにも、彼は立ち上がるも早く飛び立つと、何層にも重なる雲を何度も何度も掻き分けて、そしてやっと天の神の国の門まで登りつめると、門から走るようにして雲の中を進んで行けば、やがて霧が晴れたように天の国は彼の視界に現れでた。 そこは地上の山河と何も変わらず、気候も常に温暖で花は咲き乱れており、ここからは、オキクルミは歩くこともなく立ったまま風に運ばれるようして進んでいくと、やがて深い森を抜ければ地上では見ることの出来ない大きな集落が現れてきた。 それらの建造物は今造られたかのようにみな新しく輝き立派なものばかりで、コタンカラカムイはその中でも一番豪奢で大きな良く磨かれた柱が何本も立つ宮殿のようなチセの中にいた。 彼は黄金の火が燃える大きな囲炉裏の前に座っているが、その日は珍しく取り巻きの神々はひとりもおらず、部屋の中はひっそりとしており、オキクルミは囲炉裏の横まで進み入ると無礼を承知でコタンカラカムイのそば近くまで迫って平伏したのだが、その背中からは人間たちを助けたいという思いが真っ赤なオーラとなって焔たっていて、それはこちらの意志を何が何でも通すという切羽詰った気持ちの現れでもあったから、コタンカラカムイも一瞬この決意は何事かと驚いていると、彼は顔を上げるなりまっすぐにコタンカラカムイを見据え、地上の悲惨な現状を訴えれば、その声は稟として杉の木に斧を入れる音に似ていた。 コタンカラカムイは非常に不機嫌な顔をしてオキクルミの話を最後まで聞いていて、そして、オキクルミが話し終わると大きな目でジロリと彼を見据えながらおもむろに口を開けば、その声は重く千年を生き抜いた神のしゃがれた燻し銀の趣があった。 「オキクルミよ。おまえは人間達の面倒を見すぎたようだなあ」 いきなり何を云うのか、とオキクルミは一瞬ひるんでしまった。 「そんなことはないと思いますが、」と、言いながらもその事で何も思い当たらない。 天に登りつめる間に色々と模索していたこととはまるで違う展開に、彼の頭の中は真っ白になってしまったが、それにしても元々カムイが造った人間に対し面倒見過ぎるとはいったいどういうことか、 「いやいやどうして、鹿の神も、鮭の神もみんな言っているぞ」とこの千年杉のような古老神は言う。 「何をでございますか?」と云いながら彼の頭は素早く回転し始めて、なるほどそういうことか、くそっ、コタンカラカムイこそ喰えぬ親父だと密かにオキクルミは思った。 「オキクルミが地上にあって人間どもの面倒を見すぎるから、この世に神はオキクルミだけだとあれらは思っている。我らが鹿を降ろしても鮭を降ろしても、それが当たり前だと思って人間どもは、近頃は感謝の祭りもせねば日々の祈りさえ忘れているとさ。ずいぶんと驕ったものだなあとな」 「ややっ、」やはりそうか しまったワ、と唸るようにオキクルミは臍をかめば、またも神々の妬みかと自分の迂闊さに気付いた彼はなんとも遣る瀬無く、父が苦しんだ神々の嫉妬に今度は自分も脅かされるとは、しかもコタンカラカムイでさえ嫉妬しているように見えるではないか、こんなにも料簡が狭くてなにが神か、これで人間どもに敬えとは図々しいにもほどがある。 「それは、まことに申し訳ありませぬ。あれらにはよくよく言い聞かせますのでどうか寛大な御慈悲をもって助けてやってくださいませぬか」 オキクルミは必要以上にカムイにへりくだって頭を床に付けたが、ただ彼はまだ若い、内心は鹿の神も鮭の神も勝手なことを云いやがるとハラワタが煮えくりかえる思いでいれば、今度あの野郎どもと出会ったら殴り倒してやろうかと考え、まったく、誰が一番人間たちのために努力していると思っているのか、馬鹿どもが、あれらは何もせずただ獲物を降ろすだけの楽な仕事に対し、こっちは満身創痍で外敵と戦ってきたのだと、そのように腹では思ったが、これは口に出せない、ただあきらかに人間たちがどちらをより敬うかは、彼らとてよく心得ているはずではあるが、ただ亡父の例もありて神々は押し並べて皆まことに嫉妬深いので、強い忍耐も大人になったオキクルミには必要な鎧のひとつだと今こそ知ったと悟り、そして数々の魔神たちとの闘いから彼はすでにそれを身に着けていたからこそ、ここは耐えることができたと自分でもつい先ほどの怒りを押さえられたことには、不思議さえ感じるのである。 「オキクルミよ、人間は度し難い恩知らずの生き物じゃ、たとえ今助けてもまた腹膨れればすぐ忘れて我らを敬いはしなくなる。こんな無駄なことはもうこれきりに仕様ではないか」本当にその気はなくともこう脅してコタンカラカムイはオキクルミの根性を見ようとした。 「それはなりませぬ。もともと彼らをお造りになったのは我母上があなたの命によって行ったものです。彼らが出来そこないというならばカムイ、あなたが責めを負いまするぞ」 カムイまでがあの連中と同じレベルかと思うとオキクルミはますます腹が立って、しかし、ここはひたすら我慢するしかなく、さてもこの屁理屈をカムイはどう取るのか、 なるほどそうきたか、これにはさすがにコタンカラカムイも考えなければならなくなってしまった。 「それも一理ある。ではどうするか」コタンカラカムイは腕を組むと、長く白い顎鬚を繰り返しなでながらしばらく考え込んでいた。 「オキクルミよ。そちに何か名案はないか」 オキクルミはこのときを待っていた。 地上から天上へ昇る間に何を考えていたのか、彼は膝を前に進めると輝く瞳で、 「そもそも、彼らが神を敬わないのは、身体だけわれ等に似せて造っても『言葉』まで与えなかったことにありまする。あれでは神の姿をしたケモノじゃありませぬか、かえって無知がそのような行動をとらせるのです。ここはひとつ彼らにもわれ等と同じ『言葉』をあたえてはどうでしょうか」とコタンカラカムイの長い眉毛の下に隠れている目を覗くようにして彼は云った。 「『言葉』まで与えるというのはどうしたものか、『言葉』を持てば知恵がつく、かえって思い上がるのではないだろうか」とカムイはオキクルミの鋭い視線を怖れて天井に目を移しながらうそぶいた。 「それは大丈夫でございます。それほどに心配なら彼らにわれ等の聖典ユーカラをお与えください。さすれば、その偉大な物語によって彼らは神の力の絶大なるものを知るでしょう。これこそ彼らの到底及ばぬ力ですから、それを知れば二度と神を疎遠にすることはないと思いまする」とオキクルミはさらに一歩膝を進めて詰め寄った。 「なるほど、良案ではあるな」 カムイはオキクルミの気迫ある接近を嫌って、尻を後ろにずらした。 「さらにもう少し、」 オキクルミはカムイが後退した分、息を吸い込むようにして膝を進めた。 「まだあるのか」 カムイは息を吐くようにしてまた尻をうしろにさげた。 「左様、彼らにわれ等の衣服もお与えください。いつまでも獣の皮をまとっている様では、あまりにも可哀相です」 「しかり」 「さらに、」と膝が再び進む。 「まだあるのか?」とまたさがる。 「食物を粉にして保存できる杵と臼もお願いいたします。それに鍋と釜なども、病を寄せ付けぬ刺繍の織り方も、」 「ええ、そりゃあまったく限が無いのう」 ついに後ろへさがりすぎてカムイは壁に背がつかえてしまった。 「神々の道具すべてをお与えになっても、もともと弱い人間です。それに感謝しても増長することは決してありませぬ」 「うむ、真にそうではあろうか?」コタンカラカムイは疑問を持ったまままだ捨てきれない。 神の道具は偉大であるかこそ、それを工夫すれば弱い人間でもいずれ神の領域を侵さないとも限らず、しかしケモノと何も変わらない地上の愚かな人間どもを見ているとそれも取り越し苦労かもしれないと思えるが、ここはまず彼を立てようではないか、これも決して悪いことではないだろうと、地上界と人間を面白半分に造ってしまったことが色々と厄介を生んでしまったことに己の責任は彼が言うようにあるのだろうが、まあしかしやってしまった以上仕方ないというべきか、これも問題として解決せねばならぬわなあと、カムイは大きくうなずいて、オキクルミの申し出をすべて許可した。 これで人間達も救われるだろうと、オキクルミはニコリとしてうなずいた。 今までどんなに手強い魔神たちと闘って相手を倒したときよりもこのことが一番嬉しく思え、外敵を倒すより、カムイから人間が神のように知恵と道具を持って暮らせるようにすることのほうが大事なのだと、オキクルミはやっとそのことに気付き、これで彼らが自立できなければいつまでも神の勝手な災難に苦しめられるに違いなく、これなら彼らは自ら災難を回避する手段を見つけるに違いないと、そう思うとこれをもってやっと肩の荷が下りたような気がすると安心し、荒ぶる父神のツケをこれで人間たちに払い終わったのだとも納得したのだった。 しかしその反面もう二度と自分が彼らの前に姿を見せることはなくなるだろうとも思い、それが一抹の淋しさを伴なって、感謝でカムイを見つめる目に涙を浮かばせた。 これまで母の意志を次、幼い弟を守るかのようにして人間達を助けてきたが、そうした命を懸けて慈しんできた者たちとの別れは辛く、その触れ合いも、もう無いと知れば、喜びの中にあった心は替わって遣る瀬無い気持ちでいっぱいになり、感性の特別強い神々の中でも誠実であったオキクルミには特にそれがあり、これが人間たちをたとえ父の不本意ながら地上界を破壊し国を焼き払い村も焼き、戦力を養うためとはいえ村人の食料を勝手に略奪したことの償いの使命だったが、深く付き合ってきたものと、今彼ら助けるためとはいえ、それが永遠の離別となる代償と変えることは彼とっても覚悟のいる選択であったろう、カムイにもそのことはよくわかっていて、そうまでしても、神の知恵を授ける選択肢をとったオキクルミの強い責任感からみると、己の意志の弱さや安易に地上界を造った自分の気まぐれを恥じた。 もう、人間に知恵がつけばやがて神を疑う者も現れるだろう、そうなれば彼らの前に神は姿を見せることは出来なくなる、神は純粋に信じることの出来る人々の心にしか現れることができないので、最早これ以後いかなる神々も気安く人間たちのまえに現れることはないことが皮肉なものだと思うけれど、彼らが自立することによって神々はこの世の第一線から退かなければならなくもあり、親が成人した子に何もかも譲るように、こうして神々の君臨した人類草創期の時代は終わるのだろう。 カムイは震える手で平伏し無言で、感謝の辞をのべるオキクルミにうなずいて見せ、そして涙に潤むオキクルミの瞳の奥をじっとみつめていると、その瞳の奥にはわずかに青い光が見えて、カムイはその光を追っていくと青白い光はまるで逃げるかのようにオキクルミの瞳の奥へ奥へと流れていく、やがてそれは幾年の時を経ただろうか、百年か、千年か、いや、もっともっと経たのか、光は時空を旅してやがて1669年6月の人間たちの瞳へたどり着いた… この時代、民族は強く天に向って今一度、オキクルミの降臨を望んだのだった。そこでは民族を苦しめる巨大な魔物に対し健気にも粗末な武器しか持たない彼らは終結して戦おうとしていた。世に言うところのアイヌ民族最大の戦い、寛文蝦夷の乱がそれである。
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