20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第9回   江戸城溜間
 
 江戸城溜間

「して、」と落着いた直澄はさりげなく先ほどまで扇子で押し付けていた膝の辺りをなぜながら「何故なるワケにてこの一揆は起きたのか?」と言い出すと
 これは並み居る老中の誰もが一番知りたがっていることでもあったから直澄はまっすぐに鋭く見詰めたままで泰広にそう訊いてみた。
「起こりの因は松前藩が全蝦夷に毒を盛って皆殺しにするという流言にござりまする」と、泰広は人々の好奇の目の中でも落着いて静かに、しかし恐ろしいことを何の感情も込めずに浮世話ほどでもするかのように答えた。
「なんと?」如何に野卑な蝦夷とはいえ全員毒殺するというのか、それにつけてもこの男
 直澄ばかりではない。周りの誰もが泰広の物言いに不快感を受けて、こうも平気でそのような話し方をする男もいるものかと思ったのである。それでも彼は意に介さず、
「話は少し込み入りまする」と泰広は前置きして語り始めた。
「福山より東に百里ほど行った所に波恵と渋舎利という蝦夷どもが勝手に縄張りする地がありまする。このふたつの縄張りでは昔から争いが絶えませなんだ。ついには両方の長が殺されるという始末でござる。このため見かねた松前藩が両者の新たな長を福山に呼び、合議のすえ手を結ばせたのでありますれば、これで長い間の揉め事も一見落着したかのように見えたのでござるが、このあと松前を去って帰国した波恵の長代、鵜島というものが途中で亡くなりました。これを渋舎利の新しい長、釈舎院は何を思ったのか鵜島は松前藩に毒をもられて死んだのだと言い触らしたのでござる。さらにあろうことか、これはこの地の全蝦夷を根絶やしにする松前藩の謀事だなどと言い回したばかりか、まもなく松前藩は交易船に毒を積んで各地にそれをばら撒き広めるだろうと騒いだのでござる。このことは各地の蝦夷に信じられ蛮人どもは真を知らずして、愚かにも釈舎院に騙されて一揆を起こしたというわけでありまする」
「なるほどのう。して釈舎院なる者はなにゆえ松前藩が蝦夷を皆毒殺すると吹いたのか」
「この男、昔から乱暴者にして何人も波恵の蝦夷を殺している極悪人でありまする。身体大にして力強く、性格も荒々しく誰からも嫌われているのでござるが、これに逆らう者ほどの勇者は他におらず、人は恐れて彼の男に従っておるようであります。そのような男ですから、おそらくはこの度の松前藩の裁きに不満であっても逆らえず、なんとかもう一度騒動を起こそうと画策しているうちウトウが死んだと聞き、これを善き事かなと利用したとおもわれます。あるいは帰国する鵜島を釈舎院が途中で待伏せて殺してしまい、仲間内への言い訳として鵜島が松前に毒殺されたと言い放ったとも考えられまする。旅に出ていれば供も少なく殺すならこの機会にと思ったのでしょうな。少し前まで敵対していた相手ですからね。殺す動機は充分にあるのでござる。また蝦夷の間には昔から和人が蝦夷に毒を盛るという噂がありもうした。釈舎院はこれも巧みに利用したものと思われまする」
 遠く藩祖の時代から蝦夷の反乱が起こる度にこの藩は力で勝てないものだからこうして欺き毒殺することが慣例のようになっていたので、これがアイヌ民族の間にも疑心感を与え深い恨みとなって伝えられていたのである。しかしそのことまで泰広は直澄に話さないのはまあ、当然のことか、だから直澄は
「その昔からの噂にも根があるのでなかろうか」と一手誘いの駒を打ってみたが
「蛮人は知恵浅く、風聞に惑わされ易き匹夫にて候なれば成行だけで騒ぎまする」と泰広は簡単にかわして見せた。
「そうかのう、」と直澄は疑いながらもそれ以上追及することはしなかった。「まあいずれこの騒動が落ち着けば松前藩からいきさつを詳しく書面にて報せてもらはねばならぬがのう」詳細はそのときにわかっても遅くはない。どうせ他藩からも報告を受ける。何がどうなっているか、ことによっては松前藩の御取り潰しも考えねばならぬかもしれないのだが、ただし今はこの藩にそうした恐怖を与えてはいけない。騒動が終わるまではこの藩を磨り減るほどこき使わなければならないのであって、処置のことはそのあと十分に時間はある。そう思うと直澄は下心を泰広に悟られないようにした。
当たり前のことであるが、この事件はそのような子供騙し程度の理由でのみ起きたわけではないのはこれまでも執拗に語ってきたことで、すなわち過去にも近代にも騒動が起きる原因はみな経済的な事情がかかわっているのであり、振り返れば島原の乱、先を見れば郡上一揆なども、ともに武士の格式を保つために初めから無理を承知で人心を思いやることを忘れ、過度な増税を強いることによって起こっているのだ。当然この寛文蝦夷の乱もそうだった。だだし、松前藩の場合は他の二件と違って武士の格式を保つためではない。
 原因は、
(一)前年の東北の飢饉によって大坂の米相場が大暴落した。
(二)蝦夷地の商取引を沙金の秘密を守るため領内鎖国を強めることによってアイヌ民族を一方的に不利にした。
(三)二、三年まえからこの年に掛けてそれまでの人口の二倍以上の金堀人が渡海し、各地で大規模な自然破壊をおこなった。
この時代、悪政に甘んじる領民はどの国にもいない。喰えぬほど追い詰められれば誰もが反発するのは至極当り前のことであり、どうせ餓えて死ぬなら恨みの一太刀をあびせてから死ぬほうが人間らしいというもので、物言わぬケモノとはそこが違うのである。
太平の世になり国家が重く領民にのしかかり身動きも出来ないほど管理が徹底される以前の過渡期の時代に今ある。まだまだ戦国の、人の命などに何ほどの重みも無い自由な遺風は残っているのだ。一揆はこうして起きる。まして松前藩の領民でもない彼らは独立民族の意識も強く、しかも剽悍な民族である。
 かつて天正十九年に起きた九戸政実の乱のおり、初代藩主松前慶広が引き連れて南部藩に加勢したアイヌ兵たちの放った矢は敵に当たらなかったものが一本も無いといわれた。しかも本州の熊とは比較にならない巨大で獰猛な羆を槍一本で倒し、山中、野を行くように何里も走る体力を持つ実に闘技に優れた民族である。だからこれまでもアイヌモシリを揺るがすように彼らの怒りが何度も沸き立ったのも何ら不思議ではなかった。
蛎崎広林はこうした民族の煮えたぎる油に不用意にも火をそそいでしまったのである。彼の不幸は有り余る金を自分の裁断で使える身分にありながら逆にそれを使えなかったことにある。当時の役人としても広林は凡庸の人ではなかった。しかし常識を超えるほどの能吏でもない。いま国の経済の疲弊に隠し金を使えば幕府にばれる。それが怖い。それもアイヌ民族のために使うなど露ほども考えなかった。広林も「あれらがひとか、」と当時の和人なら誰でも持っている眼で彼ら見ていた。それが彼の寿命を縮めることにもなる。もう少し詳しく言えば、彼にとっての不幸は藩主が幼い時代に家老になったことであろうか、また米相場大変動の時代に頑なな役人気質が有りすぎたこともある。ただこれは一万石の格式に合わせるため必要以上にその格式にこだわったということでもあるが、他民族を見くびらず後に泰広にたしなめられたようにほかの方法を探すべきだったろう。次いで誤解(この機にかつての蛎崎一族が持っていた主権を松前(武田)一族から奪回しようするのではないかという噂−何処の藩でもある内紛)もあったとはいえ泰広のような才覚のある男を敵にまわさなければならかったこともある。それがすべて摂政家老の重責でもあった。藩の草創からの内情、日本経済の変動、そして他民族の反乱と三つ巴になって一気に広林に襲いかかったのだからたまったものでなく、しかもこれを切り抜ける技量は残念ながら彼には無いのであった。
 だから泰広は乱後三年かけて蝦夷地を平定したあと乱の責任を密かに広林にとらせたのである。密かにというのはこの乱で松前藩はあくまでも被害者だと幕府に印象づけるためで、責任者の処罰を松前藩から出したと知られたくなかったからであった。また泰広には藩政の実権を広林から幼い矩広に戻す使命もあり、これは矩広の大叔父としては当然のことであろう。いましも世間は広林がアイヌを苛めたから乱が起きたと噂している都合もあれば泰広はこれを利用しない手はなく、当然、広林に責任を取るよう執拗に迫った。この乱では大勢の藩士と指揮を取っていた幹部クラスの上士も亡くなっているし、その他、幕府連合軍に協力した多くの民間人も犠牲になったのである。また松前藩がこの乱で使った費用も莫大で、それまで潤っていた金蔵を空にするほどになった。それに加えて交易と金堀の運上金で入ってくるはずの収入がまったくこの時期見込まれなかったことは、交易と金堀運上金だけが藩の財源である以上、この乱の勃発は松前藩にとって存亡の危機であったといっても決して大げさではない。これはすべて国家老広林に責任がある。広林が不等価交換というものでアイヌ民族を刺激させなければ乱は起きなかった、とここを泰広が責めれば武士として広林は逃げようが無いだろう。しかし藩にも広林の味方は大勢いるのであって、かつての蝦夷安東衆がそれである。蛎崎はもとより上国、下国、檜山など旧豪族が今も藩の重臣に鎮座しておればこそ、世が世であればと彼らは言うであろう。新参者の武田(松前)よりわれらのほうが遥かに格は高かったのだと、ゆえに泰広はこれを荒立てないようにするため、ことさらお家のためであるといい広林を説得したにちがいなく、本人の不名誉となる乱の責任をとって切腹したことも伏すし、また家は代々子孫に受け継がせて決して廃絶しないことも約束するとなれば最早、広林は腹を切るしかなかった。彼の遺骸は密かに埋葬され病死とされたが、しかし面白いことに、彼の死因の噂は以外な方向へ流れたのである。彼はアイヌの怨霊に取り憑かれて死んだと当時いわれたものだ。あるいはこれも泰広が故意に流した噂かもしれない。まあこれほどの事件に責任を取ったものが表上誰もいないというのも怨霊よりよほど怖い話ではないだろうか、まるでそのようなことは無かったかのようで事後静まり返ったように見えるが、江戸の町人の間では随分とこの事件に興味が湧いて国姓爺合戦のように芝居にまでなったにもかかわらず、幕府は沈黙し、まあ鄭成功のように異国の事件とでも人々が思えばいいさ、くらいに考えていたのだろうか、江戸城溜間の老中もそう判断したのかもしれないが、それは後の話で今はそのような呑気な気分ではなかった。緊迫した空気が部屋に張詰めて重苦しくもあった。
 そうした緊張感を解き放つことよりも暑さをしのぐため溜間の襖はみな開け放されていた。部屋をゆるやかに風は通りぬけて行くと、茶坊主が控える廊下の向うの、庭の緑は夏日に映えて光輝いていた。明暦の大火から十二年、本丸は十年程前に完成し、もはや新築の匂いはせず、庭も当時は焼け焦げていたのだが、今はそんなこともあったかというように何処にも災害の面影はなく優れた庭師たちの手入れが行届いているのがよくわかる。
「して、何事も悪いほうにて考えようじゃないか」直澄は立ち上がると廊下の手前へ行き、庭の向うの天守閣の方を仰ぎながら老中伝統の物の考え方でそう言った。
もはや庭からはこの国最大の美しく大きな白亜の天守閣は二度と見ることは出来ないけれど、面影を彷彿とさせる天守台だけが向こうに見え、その石垣だけが当時の災害の大きさを印すように石面(いしづら)に焦げた痕だけを残しているのみとなった。
「蝦夷は四千いるとしよう。そこで八左衛門殿、貴殿がこれを鎮めるとしたらいかほどの軍役を必要とするかな」直澄はその石垣を見詰め、伊豆守の実益を取った判断の正しさを思い浮かべてそう言った。
「一万二千もおれば十分かと、」即座に泰広は直澄の背中に向って答えた。
「兵法どおりよのう」と言って直澄は振り返った。「一万二千の軍勢を指図するとなればこの方々か、もしくは若年寄から総大将を選ばなければなりませぬな」と老中のそれぞれをゆっくりと見渡した。
 反乱軍の鎮圧には幕府が自ら兵を起こさなければならないのは大坂の陣を始めとし、島原の乱と慣例であるが、しかし軍役はその事件の近隣の各藩から出されるもこれも規まりであって、当然指揮者は幕閣から選ばれるのである。直澄はまだ老中たちを見渡していた。その視線に耐えかねて久世広之、稲葉正則、土屋数直の三人の老中は互いの顔を見合わせていた。この時期誰も辺境の地へ赴くなど考えてもいなかったのである。明暦の大火ですでに途方も無い出費を各藩は強いられていた。十二年経ったとはいえ財政はまだ立ち直ってはおらず、その上、地の果てほど遠い蝦夷地への軍役などとなればどれほどの経費がかかるのか、しかも今だ見たことも無い人種を相手の戦いなど作戦の立てようもないではないか、もし下手をして蛮族に負けたならいい笑いものになるのは必定であるどころか場合によっては御家の廃絶だってありえるのだ。とんでもないことになったと三人は思った。直澄にしても一万二千となれば東北各藩からかなりの軍役を動員させなければならないのだから、関東以北にどれほどの藩があって、各藩の動員数どれほどかをざっと頭で計算していた。しかも奥州はいま飢饉で悲惨な目に合っていることも考慮すれば、そこへ多くの軍勢を出せと命令すれば各藩は悲鳴をあげるに違いないだろう。軍役はすべての費用をその藩が見なければならないのである。東北各藩にすれば蝦夷地に渡るだけでも大変な費用を労するだろう。だいたい軍勢を乗せる船など誰もが持っているわけではないのだ。こうなると軍船造船の禁止が今はうらめしいことではあった。
 幕府は草創期において、徳川一家のみを守るために大河に橋を架けさせず、鉄砲の製造開発にも厳しく、また大船を多く所持すれば一気に遠国でも江戸湾へと攻め上れるのでこれも同様厳しく規制した。高速で走れる複数の帆を付けることは禁止、巨船ものちに緩和されるが当時は製造出来なかった。だからこの寛文蝦夷の乱の勃発でまず津軽藩からその規制緩和が始まったといっていい。
「まずここは、軍役を出す奥州各藩の意見も聞かなければなりませぬ。また雅楽頭殿のお考えもお聞きせねばならぬと、」と久世広之が額の汗を拭いながら口出しした。
「その通りでありますな」確かにそうかとなんとも直澄はあっさり久世の意見を入れてしまった。
 こうして最初の軍議は何も進展しないままに終わったのである。
松前藩はもとより幕府にとっても緊急事態が起きているというのに、別に今日すぐ結論を出さなければならないこともないとみんなが思っているのが、泰広には歯がゆかった。戦は拙くとも早き事こそ大事なのだ。勝機は一瞬の内にやって来てまた疾風のように去って行く。時を得たシャクシャインがすべての蝦夷地のアイヌ軍を統括してしまえばそれは大変な事になるということがこの方々にはわかってないのだ。それが出来上がらないうちに叩けば一万二千の兵で十分事を納めることが出来るのに、と密かに泰広は臍噛む思いであった。この人たちは所詮、貴人なのだ。釈然としない思いで泰広は一旦、虚しくそこから退席したが、彼の座っていたところには無念という影だけがいつまでも畳に付いたシミのように溜間に残っていた。
 松前藩は天に見放されたのかもしれないと、長い廊下を気落ちしながら泰広は思った。せめて伊豆守様が老中でまだ存命であったなら、明日にでも陣ぶれは発せられていただろう。敵はただの百姓などと考えていればとんでもないことになるのに、格好だけで高価な刀を腰に帯びている連中にはそれがわかっていないのだ。あのとき正直に一千か四千などと答えなければよかった。十万と噂どおりに言えば、彼らの肝も潰れて、少しは本気も出ただろうに、千単位では大関と子供が相撲をとるほどのものと安心して寝むれると思ってしまわれたのは失敗であった。子供とて神童といわれる者も中にはいて大関すら倒すこともあるというのに、まさかこうまで軽く見られるとは情けなく、これは確かに自分の誤算である。悔いても詮無いことではあるが、と泰広は、どうしようもないことをうじうじ考え巡らしてしまっている自分に気付いて、ああ、やはり自分でも生まれ故郷での事件なだけに、やもすればあせって冷静ではないのだろうかと思うのである。
 外に出ると日照りも強く、日々夏らしくなって来てあの何処にも逃げようのない湿気を帯びた暑さにはうんざりし、泰広は篭に乗り込んでも両側の戸を開け広げたままでいた。そうした時はきまって故郷の福山のからっとした涼しい夏を思い出すのだった。兄の参勤交代について江戸にやって来て、家光に拝謁してからそのまま小姓組に入り、はや何年になるのだろう。建物から門まで中々遠く、初めてこの中へ入った頃の自分を今、なぜか懐かしく思い出していた。
 あのとき、期待と不安と入り混じりながらも、このような巨大な城に住めたなら何かよほど面白いことがあるに違いないと、世間知らずの田舎者は都城の持つ圧倒される重圧感を跳ね除けるようにこの道を逆に向ってはずんで歩いていたのだった。が今はもう慣れとは恐ろしいもので、国府に勤めていることに何の感動もなく、ただ無事の生活が、日々の繰り返しが、退屈で辟易していたのである。そこへいきなり大事件が起きたのである。故郷が無くなるかもしれないほどの大事なのに泰広は逆にこの国難を乗り切れば、自分の思うがままの人生に以後道は切り替えれると何とはなしに思い込んだ。誰が見ても内紛が国内で起きれば家は断絶と決まっているのに、その時、ほんの半刻ほど前の泰広にはまったくそんな悲観的な考えはなかった。ただ希望のみが見えて、この男にはめずらしく興奮したのであったが、何のことはない、老中はみな頭が固く、ヤル気も出ないと知れば、今、門へ向って行く足取りも重く、実際このままでは本当に松前藩はお上に潰される前に、異人たちに踏み潰されてしまうに違いない。福山の町人たちもすでに津軽の三厩あたりまで逃げ出している者も多いという。このままでは下手に蝦夷らと戦って損害を大きくしてから逃げ出すよりも、一旦は名目を考えて、一族郎党みな津軽藩を頼って福山を引き払い、作戦を立て直す、そうなれば幕府も本気で動くだろう。蝦夷地から和人がひとりも居なくなれば、そこは自動的に異人の独立国となる。如何に不毛の地とはいえ、幕府は簡単に領土を人手に渡しはしないだろうから、そうなれば当然大掛かりな奪回作戦が組まれるはずだ。あのおっとりした御老人(実年令ではなく役職を言う)どもを動かすにはそれしかないだろう。泰広はこの屈辱的な藩の撤退にはいい気分はしないのだが、どうもそれが今の状況では一番よい方法か、とここまで考えてからふと側を歩く用人に声を掛け篭の足を止めさせた。どうも揺れていては考えがまとまらないのだ。
 しかし、と彼は思い直して、このような考えが最善の良策とは、すっかり官吏として身も心も染まっている自分に気付き、泰広はなぜか泣きたいほど自分自身に対し屈辱を感じ、ついには可笑しくて声を上げて笑ってしまった。笑いながら彼は用人に篭を進めるよう手で合図したが、用人は腑に落ちない顔のまま指令に黙って従って先棒に促した。
 そこはもう桔梗門の前であったから、門を守る六尺棒を持って立つ、二引き染めの麻の羽織も凛々しい姿の二人の同心が振り返って不思議そうに狂った旗本の篭を見詰めていた。
 二人は一旦顔を見合わせたが、篭の中の相手がこの門を日に何度も出入する八左衛門様だとわかると、また彼を見詰めた。ここを出入する泰広を見てほぼ二十年にもなろうか、しかしこのような様の彼など一度も見たことはなかった。その泰広が近付いて来ると、門衛のくせに、不安な言いようもない恐怖にかられて身体が固まってしまいなんとも動けないのであった。
「終わりだべ、松前藩はもう終わりだべ、のう、そうおぬしらも思うべさ」泰広は馴染みの同心に篭の中だから大声で、叫ぶように久々に故郷の言葉を使って声を掛けた。
 門衛はキョトンとして、この人になにが起きたのだろうと不思議そうにかける慰めの言葉も見つからず、たた黙ってみつめ、門を通り抜ける泰広に礼を持って見送ることも忘れてただ呆然としていた。
 桔梗門を出た泰広がなにとはなしに富士見櫓のほうを見ると今まさに屋根に夕日が落ちようとして紅く染まっていた。その色は血色の不気味にどんよりとしており、深く見る者に印象付けるものであった。
 


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 3973