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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第8回   風立ちぬ
風立ちぬ

 シラオイ館の外の大きなハルニレの木の上に猫のように音も無く這い蹲るように潜むサポの紅い弓は具足からはみ出た白く長いしなやかな腕によっていま満月に絞られている。その矢先は館の中にいて事務仕事をしている武士を狙ってピタリと定められていた。彼女は残虐な殺戮者の眼で的を睨んでいる。やがて息を止めると右手の指が疲れたかのように筈巻を離した。何の躊躇いももたず、ついに、音も無く、矢は運命の幕を切り裂いて飛んでいった。
 こうして蜂起は開始された。
 この一報を待ちかねたように各地でアイヌ軍は沸くように立ち上がりそれぞれの棲む地にある館を襲ったのだ。彼らは常に連戦連勝だった。その後、彼らは強烈な磁場に引き寄せられるように、己が地での和人の殺戮を終えるとひと月後にはエドモまで進軍してきたのである。このとき遠くは釧路帯広を含めた太平洋側の各地からはせ参じたアイヌ軍はぞくぞくと集まってその数一千に膨れ上がっていた。同じようにシャクシャインの檄で蜂起した蝦夷地の日本海側に長大な勢力を持つ余市族も各地の和人を殺しながらウタスツ(歌棄)に集結していた。勢力もシャクシャインらと同じく一千になっていた。のちこの二大勢力はクルマッナイで合流して二千となる。これは当時の全島のアイヌ人口が二万人(これより後に幕府によってつくられた人別帳の集計による)であったからその一割、すなわちアイヌの成人男子のほぼ全員がこの蜂起に参加したことになる。これを見てもこの当時の松前藩のアイヌに対する仕打ちがいかに過酷なものであったかが想像できるだろう。彼らは万感の恨みを抱いてシャクシャインの蜂起に合わせるようにして、各地でそれぞれ和人たちを襲い皆殺しにしながらエトモにいるシャクシャインやウタスツに兵を進めたチクラケに合流してきたのだ。その数わずか二千と思われるかもしれないが、これを迎え撃つ福山の松前藩は一万石の小大名に過ぎない。つまりは二千対三百の戦いになる。戦は数でないとしても当時の和人地に住んでいた人々の恐怖と驚きがこの数字からも窺えるのではなかろうか。しかも実質十五万石の財力があっても幕府への手前上、身分不相応な軍備は持てない。持てば謀反あり、と疑われる。疑われるだけで有無も言わせず家は取り潰される。そういう時代である。だからたとえ殺されても幕府には実財力を知られるわけにはいかないという事情のほうが強いのであった。まさに飛車を惜しんで玉を捨てるというところか、故にあくまでも二千に対し三百で戦うしかないのである。これでは誰が見ても話しにならないのだが、しかし松前藩はシラオイから反乱の第一報が入ったあとそれほど危機感を持っていなかった。馬鹿な百姓どもが何を狂うたか、役人を殺せば一族皆磔の刑か火炙りになるというに、と憤っただけだった。その後、間をおく暇もなく次々と各地でアイヌ民族が蜂起したという報告が福山に届いた。館に駆け込む早馬は各地からの被害報告を告げるごとに、その頻度の多さに松前館の人々はやがて現実に北辺で何が起き始めたのかを悟り始めた。
事はただごとではない。
全アイヌが蜂起したのではないか、家老蛎崎広林の背中に冷たいものが走った。そうなればとても松前一藩で処理出来るものではない。広林はすぐ江戸屋敷へ向けて早馬を走らせた。それからというものは新たに別の地域から被害の早馬が来るとまた同じ数の早馬が館を飛び出し海峡を渡ってひたすら南下し江戸に向かって走っていった。こうしたことに町人は聡い。館の侍たちの砂埃が舞い上がるほどの慌しさを目の当たりにして、これはただならぬ異変が起きたことを悟った。うわさは一気に町内はもとより西在全域に広まっていった。アイヌが各地の商場を襲撃し、役人はもとよりそこに住むすべての和人を皆殺しにして村を焼き払っている。しかも彼らは全蝦夷地の和人館を次々と落としながら皆この福山に向かっているらしい。その数は十万を超えるという。これを聞いて驚かぬ者はいない、血が頭のてっぺんから足の裏へ一気に下がるほどの恐怖が人々に広まっていった。中には早くも家財をまとめて船で津軽へ逃げ出す者も続出した。混乱は松前藩にもあって、家老蛎崎蔵人広林は最初のころの報告書に状況が把握できず噂をそのまま信じて書き送った。すなわちアイヌ軍十万余り明日にでも福山に迫ると、
この報告書を見て幕府は騒然となった。
十万余の反乱軍、蝦夷地に興る。
「これは三十年前に起きた島原の乱を遥かに越える騒ぎではないのか」と大老、井伊掃部頭直澄は唖然としてつぶやいた。
蝦夷からの報告書はすべて松前藩江戸屋敷の家老檜山主殿から幕府大目付宛へ届けられている。つまり檜山主殿は陪臣であるため江戸城の内部には入れないので、そのような手順になるのだ。このため直澄は大目付を通してからの報告だけではらちがあかないと思い、直接詳細を聞きたくて松前藩江戸家老を自分の屋敷に呼んだのである。
「夷の一揆まことか、」彼は檜山の顔を見るなりせっつくように云った。
「まことにござりまする」主殿は慇懃に答えた。
「十万もか、」
「おそらくは、」と檜山は自信なさそうに言った。
「おそらくだと?おそらくではなく、本当のことを知りたいのじゃ。おぬしは松前藩士ではないか、それも江戸家老のくせにこんな事もわからぬのかっ」
「なにせ、江戸と蝦夷は遠くござりますれば、蝦夷からの報せをそのまま告げるほか何もわかりませぬ」檜山は将軍よりも恐ろしい実力者の言葉に身も縮み、冷汗だけが止めどもなく流れて切なかった。
 蝦夷地はともかく、陸奥から関東にかけてでさえも後の街道のような整備された道はまだ出来ていないのである。村や町の間はそれなりに歩ける広さの道は何百年も自然と踏み固められて出来てはいたが、国境の峠などは、ほぼ獣道といっていい、山道を整備しないのは防衛上の都合もあっただろうし、また自由に国を越えること自体が禁止された封建時代で、当然海路も同じで一機に福山から江戸湾までかけ走る船も技術もなく、近海の湊から湊へと数珠玉を糸に繋ぐようにしなければたどり着くことが出来ないのである。だから情報が遅いとか明確でないのはそういう封建国家を作った、あるいは船の操船や性能技術を家康以降は、遠国から一機に江戸へ攻められることを怖れて発展禁止させた幕府にあって檜山主殿にはないのだ。それなのに幕府は蝦夷地など関東の少し先くらいの感覚でしかみることが出来ない幼稚さであった。当時の幕閣の知識などその程度のもので、不正確な地図ですらも見て知識を得ようなどという気もなかったろう。
「けっ、」と直澄はいらだった。「他に誰ぞこの事に詳しい者は居らぬのか、」
 そう言われても、と檜山は困ってしまった。江戸で蝦夷のことが一番詳しいのは一応この家老の自分であろうと言う事になるのだが、
ん?いや、待てよ、そうかと主殿は閃いた。何のことはない藩政を常に相談している者が身近にいるではないか、まったくなんと知恵の回らぬことよ、と自分を恥じた。
「あのう、」と檜山は上目遣いに直澄を見た。「八左衛門様ならば詳しいかと、」
「誰だあ、八左衛門とは?」
「御直参、松前八左衛門様でござります」
 大老までなった直澄であるから、けして頭は悪くない、大勢の旗本からその名を脳みその記憶箪笥から引き出すのにさほど時間は掛からなかった。
「なに、旗本の?、おお」と言いながら直澄は扇子でポンと膝を打ち「それならよく知っておるわ。嗚呼なるほどの、松前殿は松前か、なあんと最初からあの者に訊けばよかったのにのう。物の順序を間違えたか、こそりと陪臣のそちなどにわざわざ呼んで訊くよりよほどましだったわ、これは迂闊であった、よしそれなら話は早い。そこもとはもういい。後はこちらでやるわ」そう言って直澄は主殿を帰すと直参、旗本松前八左衛門泰広の屋敷に使いを出した。内容は急ぎ登城せよ。とのことであった。そして自分も仕度をすると江戸城へ向った。
 時をわずかに置いて裃姿の直澄は
「夷が十万も狂うたか、」と目前に端然として座っている中年の侍に向って目を剥き興奮気味にそう言った。
いま江戸城溜間で、直澄は正座している膝に立てた扇を錐のようにして強く揉んで己の質問の答えを遠島からの便りでも待つ思いで聞こうとしていた。
痛かろうにと、そこへ目を落としていた泰広は思った。しかしアドレナリンが脳から吹き出ている直澄には何も感じないのではないだろうか、ただしそこに出来た痣はしばらく消えなかったのである。
 当時、島原の乱における原城に立て篭もった一揆勢は三万七千だった。それを幕府軍は十二万で磨り潰すように攻め立てたにもかかわらず敵軍の気は盛んにして落ちなかった。結局八十日間城を厳重に取囲み兵糧攻めにしてやっと一揆勢を沈黙させたのである。それを思えば十万に対してどれほどの軍役がいるのか、これには日本中の各藩を動員させなければ間に合わないではないか、まして蝦夷は未開の獣人と聞く、性分の荒々しさは肥前の百姓などの比ではないだろう、その兵がどれほど強いのかわからないだけに被害は島原を軽く越えることは間違いない、となれば夏の暑さばかりとはいえない汗が直澄の首筋を流れてやまないのも当然であった。溜間には他の老中達も召集され詰めているのだが皆、固唾を飲んで二人の話に注目していた。
 誰もが突然降って湧いたこの大事件に、まさに関東のすぐ北から迫り来る大竜巻を想像して恐怖と興奮に心を乱していないものはいなかった。が、ひとり
「それはちと大げさすぎるかと、」泰広だけは冷静だった。
すでに蝦夷か届いた報告書は松前藩江戸屋敷からまず藩主の大叔父である泰広に届けられていた。それから江戸家老檜山が大目付へ提出していたのだ。ところが事件が大掛かりなものであったため大目付では処理できず、話は大老の直澄へともたらされたのである。だから泰広は直澄よりも先に蝦夷地の事情を把握していた。
大体において古来よりこうした報告書には大げさに書かれることは、ままあることではあった。時代を遡るほど情報収集能力は小さく、そのため話はどうしても大きくなるのである。それをまともに受けるか、思考して理に叶わぬものを削って真実のみを抉り出せるのかはその人の能力であろう。
「ならば実際はいかほどか?」
「一千か多くても四千でなかろうかと、」
「ん?その根拠は、」
「それがしは十四の年まで彼の地にて寝起きしておりましたゆえ、その頃ついぞ十万も蝦夷が住んでいるなど聞いたためしがありませぬ」
「ほう、それもそうか、まずはまことよのう」直澄は自信たっぷりに語る泰広の言葉でやっとひと安心した。
 よくよく考えれば蝦夷が十万もいたなら松前藩などとっくの昔に津軽の海に蹴落とされていただろうさ、と彼は自分の浅慮を恥じた。無知なる者は識者の言葉を鵜呑みにしてしまうもので、十万といわれれば十万、一千といわれれば一千、それだけ蝦夷地は幕府にとっては興味の無い辺境の地だっただけのことである。ただこれよりあとの時代、ロシアの南下政策によって北辺の国境が脅かされ始めると幕府は危機感を抱き調査のため何人もの優れた学者を送り込んでいる。これによってこの広大な地の実形が明らかにされていくのであるが、今は何の知識も無い。まあ関東の北は庶民感覚程度で大げさにしても、少し物知りでさえ津軽の海の向こうに寒い島があるくらいのもので、松前藩は?こんな米も取れない地でどうして武士が暮らせるのだ?その程度の知識だろう。
「ただ蝦夷地は途方もなく広ろうござります。まだ誰も足を踏み入れたことのなき奥地もござりますればいかほどの蛮人が実際には居るのか量り知らぬところでありまする。しかし一揆はお上の御威光に逆恨みして起きるもの。そこから思えば奥地の未開の者までが加わるとはとうてい思えませぬ。ゆえにそれがしの知る国々の者共めらによって起こされたに違いなきかと考えますれば、その程度の数が本当ではなかろうかと、」
「うむ。確かに八左衛門殿の言うとおりであろう」
 直澄がほぼ同じ年の泰広を通り名で呼んだのはこの時代、人を通称で呼ぶ慣わしがあって、直澄さん泰広さんなどは諱名であるから実名を言う時はその者が死んだ後のことであった。
 この男を小姓時代から直澄はよく知っていた。
 出自が辺境の交代寄合の小藩であったから決して出しゃばることはせず、万事控えめに立ち回っていたのが奥ゆかしい印象を人に与えていたのである。それが、あの者は出来た子よ、と茶坊主雀の口にも上り、直澄は好印象をそのような情報ルートからなにとは無しに耳に入っていた。それで将来の逸材を探すのも代々老中を務める家系のものの勤めであったから、直澄は彼を観察すると、確かに奥ゆかしくもあり、だからといって仕事に不覚を取る事は一度もなく、おそらく彼には昔から才を隠して人と話すという苦労人らしいところがあるのではないかと見抜いたが、それだけのことでしばらく忘れていたのだった。
 松前泰広が凡庸の人でないという事実をしらしめることが他にもある。彼が小姓時代の組頭は後に常陸笠間藩の藩主となる牧野成儀であった。牧野は自分の長女をこの泰広に娶わせている。泰広は当時すでに旗本であったが寛文蝦夷の乱後、町奉行、大目付、西の丸留守居役と出世し続けて行く。だが、このときはまだ平の旗本で未知数であった。しかも正式の藩でもない一万石格の家の三男にすぎない。嫁は下るという慣わしがあるが、それにしても大名の成儀が一生ただの旗本のままで終わるかもしれない男に大事な娘、しかも長女をわたすだろうか。娘は家門を強固にしたり格式付けるため(より優れた親戚をつくるため)の大切な道具である。大名が将軍直参である旗本と親戚関係を結ぶことは謀反の心無しの証明ともなり、けっして珍しいことではないのであるが、だからと言って安易に嫁がせないのが当り前で、ここはどう見ても小姓組頭の牧野がこの聡明な部下に惚れたとしか思えない。この男ならいずれ出世すると、(のち、この泰広と牧野氏の血筋から正式に藩となった六代目松前藩主が出る)ともあれ松前藩の秘めた財力を借りながらも今、井伊直澄の前にいる泰広はれっきとした二千石の直参旗本である。
 それにしても抜かりのない男よのう。同じ蝦夷侍でも檜山主殿とは雲泥の差があると直澄は腹の中で思った。
 蝦夷地は米ができない。その地をどう定義づけるか、米本位の組み立ての世間では例外の地である。何せ領民から年貢を取れないのだ。これではどうにも格付けもならない。一遍して不毛の地と決め付けてもそこで生業っている者が居る以上一概にそうともいえない。その生業も交易によるものといういわば藩全体が商売で成り立っているという実体のないものだった。当時儒教的な身分制度は確立し、その中で商人は最低に位置づけられている。商人は生産者の努力を横から掠め取ることで利益をものにすると誤解されていた。やつらは、自分では汗をかかず手を汚して何も作らず人をだまして安く仕入れては高く売る。しかも生産者より豊かな生活をおくっているではないか、とまことに厳しい。そういう時代背景から見ても蝦夷地は非生産的で侮蔑されるような処だったのかも知れない。もしこの地に米が出来れば当の昔から此処は群雄に切り取りされて多くの各藩が治めていただろう。日本国中、米がすべての中心である以上ここは土地とさえいえない処なのだ。ゆえにこの藩を含めて蝦夷地は曖昧のままになっていた。しかしものは考えようである。隣藩の津軽は米が取れたがためのち何度も大きな悲劇にみまわれている。米がすべてを決めた時代。侍にとってなによりも大事な格式である石高も実質上藩経営に必要な貨幣の価値も、そうした米本位の世に合わせるように津軽藩は新田開発までして領国を水田一辺倒で経営したのである。初代為信のとき三万石だった石高はのちに十万石までになり、これならば余裕であろうと思うかもしれないが、此の地方にはヤマセという寒風がほぼ五年ごと大陸から吹き込んでくるという恐ろしい大自然の地球規模の気候の変動があって、だからもともと南方系の稲はこの風にやられるとひとたまりも無く枯れてしまうのだ。凶作はひとつの穀物に頼っていた農民を何十万にも餓死させるというおぞましいことが五年を境に何度も続くのである。しかも藩は十万石の格式を保たなければならない定めにあり、この格式こそが武士の真の姿で、これをために生きこれを崩せば死ぬしかない侍のすべての原点となりこれのために命も惜しまず守り通すことを本分とした。だから津軽藩は無理に無理を重ね首の皮一枚で生きているという藩運営を行っていたといえるだろう。もし蝦夷に米が取れたなら、松前藩が米本位にのみ眼を向けたなら、恐ろしいことが想像されるに違いない。米が取れない、お前は本当に武士なのか、こう言われることは当時としては正式の場に裃を着けないで行くような恥ずかしさだったと思う。武士のようで武士で無い、藩のようで藩でない、ところがものには表裏がある。こうしたことはすべて悪いとはいえないのではないか、つまりこのことがこの大乱において松前藩に責任を取らすことが出来ない事情となっているのであった。商業の独占権だけを与え、藩として正式に格付けされていない以上、幕府は家を貸している大家にすぎないことになる。盗賊がこの家に火を着けたなら大家はまた家を建て直さなければならいし、そうされないように警備もしなければならないのであって、直澄は、暗に泰広が「一揆はお上の御威光に逆恨みして起きるもの」とさりげなく言ったことにそうした思惑があってのこととわかっていた。松前藩は幕府の大家さんから小部屋ひとつ間借りしているだけに過ぎないのである。事件は長屋全体で起きた。だから幕府は責任を持って事件の解決に当たってほしいのです、とその言葉は云っている。松前藩国家老、蛎崎広林は他藩ならこうした揉め事が国内に起きると何よりもひた隠さなければならないはずなのに、いの一番に報告したのはなぜか。
 この頃、幕府は各藩に対し些細なことでさえも因縁つけてお取り潰しにするのが常套手段だった。世が太平となり武力をもって領土を掠め取ることが出来なくなった以上、諸大名を取り潰すしか新たな領土の確保はない。幕府は三代将軍家光からそれまで同盟関係にあった諸藩を臣下と見なし、各藩の領国経営を大目付に監視させながらその能力の如何によっては改易か格下げ移封するという方法をこれまで厳しくとってきた。だからこうした一揆などの反乱は明らかに領主の能力不足とみなされる落度である。だから諸大名はこれを恐れ、事件が表ざたになる前にその目を潰し極刑をもって当事者を処罰して再墳せぬよう抑えようとした。近くは島原の乱がそうであったし、遠くは寛文蝦夷の乱の八十二年後に起きる郡上百姓一揆などもそうである。島原の乱の、当事者の松倉藩は、乱後領主は切腹を命ぜられ藩は改易された。郡上一揆の場合も金森藩は改易、領主は盛岡藩にお預けの身となった。寛文蝦夷の乱は島原の乱とともに徳川政権下で起きた二大騒乱のひとつであったにもかかわらずそうした厳しいお咎めは松前藩にはなかった。ここに、乱後の報告と後始末に関して泰広がこれはあくまでも幕府直轄領内での事件であるということを強調した結果がある。実際には松前藩が管理する交易地で事件は起きたし原因も松前藩が作ったものであった。これを厳密に問詰めれば十分この藩を罰することは出来たのである。しかし幕府はそうしなかった。そこに泰広の祖父慶広ゆずりの政治家としての技量の確かさと、米の穫れない蝦夷地に関心を示さなかった幕府の思惑もあったに違いない。また米本位の時世から見ればこの寒冷の僻地を治める事の出来るのは長くこの地に根ざした松前藩以外にはなかったろう。と当時誰もが思っていた。米作のノウハウはどの土地に行っても変わらない。しかし交易となれば年月を掛けた情報と信用がいる。素人がポッと来て出来るものではない。まして武士なら余計である。こうした地に長い間棲んでいる松前藩でも商売は難しく今ではほとんどプロである近江大坂あたりの大商人に任せきりでただその上前をはねているだけにすぎない。
 どちらにせよ二千のアイヌ軍ではとうてい松前一藩では処理できない。蛎崎の早めの判断は正しかったといっていい、彼は事件が何処で起きたかと言うことをよくわきまえていたのだろうか、あるいは泰広の知恵がそれほど早く動いたのだろうか、詳細は今もわからず事件の資料がすくなすぎて憶測だけが専行するばかりなのだ。
この時代も後の世の人々もおよその人は松前藩が蝦夷全土を領地にしていたと誤解しているが、藩士にとってもそういう気分の者がほとんどだった。たとえばこの事件の発端だった日高アイヌ部族同士の争いでウトウがシラオイへ行き松前藩の応援を依頼すると藩の役人は知ってのとおり、
「百姓同士の争いに藩が手助けできるか」と一喝した。本来なら他国の争いには介入出来ないと言うべきはずなのに、この役人はアイヌびとを自国の百姓としか思っていない。この程度が世間だから、松前八左衛門泰広は乱の当時もその後もことさら事件は藩外で起きたと言いたかったのである。そのことは蛎崎もよく知っていたかもしれない。だから幕府旗本であるいわば藩にとって監視側にいる泰広に綿密に報告し何も隠すことはしなかった。彼は親戚筋にあたる泰広が松前藩にとって悪いようには決してしないと信じていたのである。あるは泰広に日頃より信じさせられていたのかもしれない。なぜなら彼は正直すぎた面があり、後にこのため蛎崎広林は命を縮めてしまったのかもしれない。
 泰広はやがてにこの乱の全容を知り唖然としてしまった。が、彼はそれを起こりつつあった松前藩の内紛に利用し火種が燃えさからない内に消してしまった。当時松前藩は内と外に災いを抱え込んでいるという事情があり、それを泰広がやってきて優れた外科医の如く患部を取り除くのである。
 風が起きた。それが実際よりも遥かに大きな風であると幕府に誤報されたことが、かえって大事になり、勝利を信じて立ち上がったシャクシャインを頂点としたアイヌ民族にとっては途方もない試練の道へと向うことになっていった。


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