ウトウの死
そのとおりのまさかで、異教の神など居るわけが無いではないか。違うのだ。その武者の立ち姿に目を奪われて全体を影絵のように見てしまうからややこやしくなるのであって、人はわからぬものが現れると、見た目の印象を自分の脳の中にあるデータに照らし合わせて、何か心当たりのものに重ねて勝手に判断してしまう傾向がある。だから近付く者をよくよく見れば、 「あっ、」とシャクシャインは思わず声を出したのである。「あれは、なんと、たまげたわ、ウトウの嬶ではないか、」 その武者は女であった。あのサポだ。まさに阿修羅の如く戦好きなサポ。シャクシャインにすればウトウより、このサポが現れたほうが恐ろしかったに違いない。なぜならつい半年ほど前に彼は彼女の弟、すなわちオニビシを殺しているのである。この同族でありながら東西に分かれて争う者らは前に話したように最初に西の酋長オニビシが東の酋長を殺した。ついでシャクシャインがその跡の東の長になり今度は前酋長の仇のオニビシを殺した。すると、当然彼は逆に西のサポらに仇として付け狙われることになる。これでは限が無いことになるではないか。まったく争いもそのたびに激しく大きくなっていく始末であった。ついに金の採取に支障をきたしてしまい堪りかねた松前藩が中に入って仲裁することになり、両方の長が福山まで呼ばれた。そのときシュムウンクル族は長のオニビシを殺されているから代理に亡き酋長の義兄のウトウを出したのである。だからその帰り、サポがここで待伏せすることはなんの不思議もないことなのであった。サポにはシャクシャインを殺す権利があるのだ。彼女に仇と呼ばれれば、シャクシャインはここで死ぬしかないだろう。なぜなら、あだ討ちを願う可憐な乙女をシャクシャインが返り討ちにしてここで殴り殺した。となれば噂は風よりも早く飛んで、女を殺した卑怯者とよばれるのである。ついに噂は全アイヌ民族に知れ渡り、シャクシャインのこれまでの名声は地に落ちてしまうのだ。そうなれば彼はこの世に身の置き場が無くなるのであって、それだけは避けたいと願うばかりだ。しかもこんな何処から見ても健気な女に見えない奴のために名声を捨てれるかと言うものだろう。ならば潔くここで死ぬか、それも悪い話ではない、名声は保たれ、哀れにも女のためにわざと討たれたとなれば結構なことではないか、さすがはシャクシャインよ、たいした男だ、命を惜しまず名こそ惜しむか、ふむ、まったくいい話だ。と勝手に悦に入ったものの、嫌まてよ、とシャクシャインはここでまた深く考えた。まだ王手となったわけではないのだ。他に方法もあるはずではないのか。思うに誰も女に追いかけられて逃げても卑怯とは言わないだろう。むしろ女に追いかけられることこそ色男の本分ではないか、と考えればこれは使えるかもしれない。彼は腹の中でニンマリとして大きくうなずいた。そうと決まればあとは河に飛び込んで逃げるのみではないか、易きことさ、まだこんな所でこんな事で死んではおられぬのだ。シャクシャインにすれば前酋長の仇を討たなければ今の長の地位を保てないばかりか仲間内に身の置き場さえ無くなるだろう、だから仇を討った。それに引き換えサポは何処の長でもない。ただ身内の仇としてシャクシャインを狙っているにすぎないのであって、それも女の分際で、とシャクシャインは思うのだ。だから義(順番)のためにここで死ぬ理由も彼には無いと言うことになり、これでいいのだと思うばかりで、この先もサポに対してはこの手しかない。間違いない。 シャクシャインの心の変化を知ってか知らずか、サポはなおも彼に怒りの形相で近付いてきた。もはや彼我の安全距離を越えた時、シャクシャインは二股の杖をサポに向って突き出した。もしこのあと彼が一歩前に進んで杖に力を込めればサポの細く白い首は折れてしまうだろう。サポはそこで動きを止めた。そしてシャクシャインに聞き取れないほど小さな声で言った。 「ウトウが殺された」と そのとき、後ろの川面に突然風が吹いて水が流れとは逆に撫で付けられたためしゃばしゃばと騒いだ。シャクシャインにはその言葉がよく聞き取れなかった。葦原も同じく風のためにざわざわと騒いでいるのであった。 「何と言うたか?」シャクシャインは何か重要な事を聞いたような気がして胸が騒ぎ、手を耳に当ててそのように言った。 「夫が松前の殿様に毒殺されたっ」苛立つようにサポはもう少し大きい声でそう言った。 「えっ、」ウトウが殺されたと、シャクシャインはこの有り得ない言葉に驚いた。 まさかウトウが何を持って死なねばならぬか、なんとも想像すら出来ないことが本当に起きたと言うのだろうか、大体突然、にわかにそんな事を信じろというほうが無理というものだ。 「ウトウが殺されっちまったんだよっ、」とサポはまだ不審げな顔のシャクシャインへ腹立たしげに叫びながら目の前にある彼の杖を槍でバシッと強く払いのけた。 「なんとしたことか、」シャクシャインは力抜けしてしまい、そばの適当な石を見つけると座り込んだ。そうして「毒を盛られたとはまことか?」と、あらためてサポに問うた。 「間違い無し、」サポは大きく息を吐くと少し冷静になってそう言った。 有り得ぬことだ。とシャクシャインは尚も腹の中では疑っている。シャクシャインはすぐさま考えを巡らしたがどうもが合点がいかない、なぜ松前の連中がいまさらウトウを殺す必要があるのか、しかも彼は元々親松前派ではないか、むしろ殺すなら常々何かと逆らい騒ぎを起こす吾にするべきであろう。まったくもってウトウを殺す意味がないではないか、しかも奴は代理であって本当のシュムウンクルの長ではない。あえて小者を殺す意味がどこにあるというのか? 「ウトウ殿の死に様はどのようであったか?」シャクシャインは勝手に思いを巡らせても詮無いことだと悟り、真の情報を集めるためさらに深くサポに訪ねた。 「わしは見ておらぬが、」サポは前置きして「供の者が言うには、シコツのあたりまで来たとき突然すさまじく熱を発し、息も出来なくなって苦しみのたうち死んだそうじゃ、これが毒でなくて何とする」 「なるほど、して顔や身体に何かおかしな物は出ていなかったか?」 「知らぬ」 「お主は自分のあるじの亡骸を見ておらぬのか?」 「死に様があまりに惨かったので供の者らは恐れて懇ろに祭るとすぐ埋めてしまったそうじゃ」 この民族には遺体に魔人が取り憑くことを何よりも怖れた。ウトウのような死に方は一番魔人に取り憑かれ易いのだ。だから地中に封じ込めることをさっさとする。また埋めた墓にはよほどなことがなければ近付かない。墓場には魔人がうろついているからわけなのだが、ということは生きている時の身体は自分のものであっても死体は最早自分のものではないという当り前の理屈にかなっているのではないか? 「ふむ、それは正しかったかも知れない。ところでここにその供の者はおらぬかの?」 「おる」 「どいつじゃ?」 サポは仲間のほうを振り返ると、 「あれ、」とひとりを指差した。 その男をシャクシャインは手招きして呼ぶと、男は驚いたように伝説の男への怖れもあってか及び腰でやって来た。まったくさっさとせぬか、という気持ちをシャクシャインは抑えてやっと来た男にもう一度サポに問うたようなウトウの死に様などを詳しく聞くのであった。 「顔や身体にぶつぶつはなかったかえ?」 「ええ、ありました。こんな豆粒ほどの大きさがあちこちいっぱいでさあ、」とその男は人差し指を親指の中で丸めて小さな穴を作って見せた。「あと頭が割れるようだ。腰が痛いと唸っていましたです」 「やはりなあ、」と指で鼻の下を擦り少し間をおいてから、「それは、毒だ。ウトウは毒殺されたることこれ間違いなし」シャクシャインは腰掛けていた石から立ち上がるとまっすぐにサポを見て力強くそう言った。 嘘を言う時は必ずまっすぐ相手の目を見ることが正しい。そうすれば相手は信じるものなのだ。シャクシャインはそう思っている。それにしてもウトウの馬鹿め、何が毒殺なものか、飲んで幾日も経ってから効く毒など聞いたことも無いではないか、これは流行り病に違いない。シャクシャインが福山を出るとき、流行り病で町の女郎屋が一軒閉鎖されたと聞いてた。恐らくウトウは初めて都に出て来てのぼせたのだろう。ここなら五月蝿いサポの目も届かぬと、漁師相手の女郎屋へ勇んで登ったに違いない。天然痘は肌を触れただけでない、唾が飛んで来ても移るということを庄太夫から聞いていた。それなのにウトウは下半身までたっぷり病原菌に浸かって故郷に帰ろうとしたのだろう。思うにこの伝染病は七日ほど潜伏期間があるからちょうど故郷近くまで歩いてきて発熱し倒れたのではなかろうか。それにしても危なかった。これがもう少し延びてコタンに帰りサポに移したならどうなったろうか。サポは口から泡を飛ばして怒鳴る女だ。そうなればあっと言う間に病はシュムウンクルどころかメナシウンクルまで飛んで来たろう。と、ここまで考えたとき、なぜ流行り病が出たとわかったときに松前の殿様は町全体を閉鎖しなかったのだろうかとシャクシャインは気付いた。あのとき出国する吾等に何の咎も説明も無く関所を開門しているのはなんともげせない話だ。思うに、吾等が知らずにコタンへ病を運んでそこで多くの村人が死んでもあれらにすればどうということも無いと言うことかえ、むかつく話ではないか。まったく人を何だと思っているのか、松前藩に対する怒りがまたもシャクシャインの脳天を突いた。サポにはウトウの浮気を知らせたくなくて男同士の仲間意識として毒殺だと嘘をついたのだが、しかしこれは考えようによっては松前藩がわかっていて流行り病対策をしなかったことになるのではないのか、さすればまるで故意に吾等に毒を盛ったと同じ意味ではないか、そうとしか考えられない。違うか、違わないであろう、まさしく。何度も自問自答しながらシャクシャインは納得した。 「ところで、汝らはなぜ武装しているのか?」どうやらサポの様子からしてシャクシャインを仇として狙っていたようではないのだろうことがわかった。 「これから、」と言ってサポは大きく息を吸った。「シラオイの館を襲って連れの仇を討つ」と言って息を吐いた。 「なんと、」シャクシャインは驚いた。なにせ弟をシャクシャインが殺したときもサポは全シュムウンクルを挙げて直ちに報復戦に出てきたのであった。今度も同じだ。そうなるのは当たり前なのだ。この女にすれば、と考えながらシャクシャインはまた石に腰掛けた。「それからどうする気だ」 「それからどうするとは、どういう意味か?」 「シラオイの館を焼くということは松前の殿様と戦をするということであろうが。違うか、」 「違わぬ」と言いながらもサポはそういうことになるのかと改めて納得した。 「では松前と戦をする気なんだな」 「応さ、」 「たったの五十人でか?」何という向こう見ずな女か、とシャクシャインは呆れるしかなかった。 「五十人なものか、我が一族はまだおる、今日は急ぎこれだけしか集まらなんだだけじゃ、」 「それにしても、百もおるのか?」 「加勢も来るわさ、」 「それを入れても二百になろうか?松前の殿様には三百の家来はおろう。おまけに鉄砲もある」 「鉄砲など如何ほどの物か、二百に三百ではいい勝負であろうが、」 「嫌、それでは負ける。三百と言っても烏合の衆ではない。組織され訓練された兵士ぞ、あれらは。それに鉄砲を侮ってはならぬ。あれは恐ろしき武器よ」 「シブチャリの長は鉄砲が怖いのか、」サポは挑むように言った。 シャクシャインはサポの挑発には乗らない。 「戦はのう、喧嘩とは違う。気負いだけではどうにもならぬのじゃ。ここを使わなければのう、」と溜息をつくようにして杖で自分の頭をぽんぽんと叩いた。 「ふん、」とサポはうそぶくと細く高い鼻をさらに天に向けた。 「考えても見よ。これまで互いに争って来て、おぬしら一度でも吾等に勝ったためしはあるか。あるまいが、」 「あれは、庄太夫の腐れ狐がそちらにいるからではないか、あの男、見つけたらどうしてくれるか、」 「性も無し、和睦は成された。恨みは忘れよ」まったくサポには疲れるわい「だから戦には軍師が必要なのだ。わかったろうが、先ほども言うたように松前は武士ぞ。あそこには庄太夫殿のような者がどれほどおるか、それを考えて戦をするのか、と吾は言いたいのじゃよ」 「そんなこと、これっぽちも考えてはおらぬわ、」 「ならばそちらは死ぬぞ、」 「死なぞ、なんぞや。恐れはせぬ」 「何という情けなさ、それが何の意味になろうか、」 「ウトウの恨みを晴らせばあとはどうとも由」 「おぬしの憂さ晴らしに仲間をみな殺す気か、」 「ならばどうせと長は言うのか。このまま何もせずじっと我慢せよと言うのか、」サポは今にも泣きそうだった。 「さに非ず、頭を使えと言うとるのじゃ。戦は必ず勝つと見込んでするものなり。激して先もみずにやるは喧嘩と言うものぞ。敵をよく見てよく調べ勝機を探すのじゃ。ここでな、」とまた杖で頭を指す。 「そんな頭があればとうに使こうておる。だいいちそれならば腐れメナシにだって負けなかったろうが、」 「然り、」シャクシャインは確かにそうだとばかりに可笑しそうに笑った。 「もういい、馬鹿は馬鹿なりにやるしかなし。これより我等はシラオイへ行く。長に情けがあるならば我らの骨を拾うてくれ」 「誰が骨など拾うか、」 「なんというその冷たさ。いかに諍っていたとはいえ、これ元より同族ではないか。骨も拾わず見殺しにするとは、信じられぬ」 「誰が見殺しにすると言うた」 その一言でサポの目が輝いた。 「なんと、我らに加勢してくれるのか、」 「その喧嘩、吾が買うてやろう」と言ったがすでに福山でシャクシャインの腹は決まっていたのだが、ただしここでは都合よくもあって、サポに恩を売っておくべきなのだ。 「ん?」 「松前の殿様相手に戦するとは、おぬしの健気さにほだされた。しかしあれらを相手に一部族ではとても敵うものではない。さればやると決めた以上全ウタリをもって戦わなければ絶対勝てぬであろう。すでにこの吾らが大地はシサムへの不満で溢れている。吾はこの前、福山でヨイチの長に会うた。そのとき長はシサムのあまりの仕打ちに泣いておったわ。もはやヨイチだけではない、ここもそうだ。商ん人は法外な値をつけ、金堀どもも平然と川を荒らす、こうした乱暴さは遠くクスルでも行われているのだよ。このままシサムの言い様にさせれば吾等一族はもう滅びるしかない、そうであろう。しかもあれらは吾らが自枯れするの待つ気もないようだのう。ウトウ殿が今ここで毒殺されたということは、意味深きことなり、次は毒を運んで来てすぐにでも吾らも皆殺す気であろう。あれらにとっては、もはや吾らは邪魔な存在でしかないということか」 「まさに、」 「ならばあとは殺られるまえに殺るしかない。吾らには侍して死を迎える臆病者など誰もおらぬえわ」 「そのとおり、あれらの汚き禿げ頭を斬りおとしハラワタを山犬にくれてやらむ」 「さればシラオイを攻めること、もう少し辛抱せよ」 「戦は備えてから掛かる事わかり申した」サポは嬉々としている。「ただし先陣はわしにさせよ。しかして如何ほど待てばよいのかのう、」 「吾はこれより急ぎシブチャリに帰り、使番を各地の長へ走らす。それによって全ウタリを必ず動かして見せる。だからどう見てもひと月以上はかかるであろうかな」 「ひと月か、待ちどおしいのう、」 「だからのう…」 「わかっておる。その間に下調べをせよ、というのであろう。その点ぬかりはないわ」 「うむ、ならばよし。ともかく出師のとき、いの一番におぬしへ知らせる。そのときにおぬしはシュムウンクルだけでシラオイを襲いたまえ、幸先は圧倒的な勝利で飾りたし、そのためには素早く動ける少人数がいいのだ。シラオイだけならばシュムウンクルだけで充分だろうて、吾らもただちに兵を挙げておぬしらに合流するであろうから、おぬしらもそこで待て、」 「承って候、」サポは嬉しそうに笑って、「長よ、これより先は面白くなるのう、」と言いながら並びの綺麗な白い歯を見せた。 サポがくるりと踵を返すと槍を高く翳しながら意気揚々として歩き去ろうとするその後ろ姿へ、 「サポよ、」シャクシャインは声を掛けた。 「なん?」サポは振り返った。 「なぜ同じ仇なら討ち易い吾のほうを選ばなかった」 「ははは、松前の殿様を殺したら、次は長の首を弟の墓前に供えるわ、」そう云うとさっさとサポは仲間の群れを引き連れて去っていった。 「けっ、冗談だろう?」シャクシャインは美しく張り出ているサポの尻を見ながらそうぼやいた。「オニビシは先のシブチャリの長の仇ではないか、吾は敵討ちをしたまでよ」とサポに言ってやりたかったが、女に愚痴をこぼす訳にはいかないだろう。男としては そのひと月たらずの間、アイヌびとが伝染病も和人がもたらす毒であると信じていたため、やがて、各地に松前藩が交易船に毒を満載してばら撒きに来るという噂が流れ出した。ウトウがその魁に殺されたと流言は付け足していうのである。次は全民族にその災難は降りかかるだろう。間もなく、みな死ぬ、苦しんで、叫びのたうちながら、こうした恐怖は日頃の和人への不満と重なり十分な怒りを油に混ぜて広く人々の心を塗り込めていった。 この噂に乗るようにしてシャクシャインはついにシブチャリから蜂起したのである。 シャクシャインは上背もあり、肩の筋肉などは衣服を突き抜けるほど盛り上がっている姿は見るものすべてに指導者として頼もしく感じさせ、また彼には若い頃から何度戦ってもかすり傷ひとつ負わないという伝説があり広く民族の間に知れ渡っていた。時に母熊をひとりで倒しニ匹の小熊を素手で捕まえて帰ってきたという話も伝わっている。こうした英雄伝説が彼の蜂起にも絶大な信頼を現した。だからシャクシャインが立つなら大丈夫と信じて馳せてきた者も大勢いたのであった。怒りを含んだまま福山から帰る途中、シャクシャインはというよりも全アイヌ民族がこの時期何かのきっかけを待っていた。それがウトウの死であった。広大なアイヌモシリは今、静かに地鳴りを震わせて動き出そうとしている。 「虐げられし者よ、立て、辱められし者よ、立て、この自由の天地は初めから汝らのものぞ」風は叫び、雨は哭く、山は震え、森はざわめく、民族のすべての神々はそう叫んでいた。 「ウトウ殿の恨みを今こそ晴らさねばならぬ。毒を積んだ交易船はすでに亀田を発したという。みなの衆、聞きそうらえ、最早シサムとのウムシャの時は終わった。訣別の時である。あれらが毒を盛って吾等を滅ぼそうというなら、吾等こそあれらをこのアイヌモシリから追い落とすべし。カムイよ、吾等の怒りを吾等の矢に、我らの恨みを我らの弓に換えたまえ。皆の衆、もはや我慢の限度はとうに超えたり。吾らの誇りを傷つけし者達に向こうてその矢を放つべし、これぞカムイの定めし命なるぞっ、違うか?」 シブチャリに戻ったシャクシャインは杖を握った手を高く挙げると仲間に向かって激しく叫んだ。その目は稲妻を帯びたようにランランと輝き、口から出る声は血を吐くようであった。全民族がこの声に呼応して立ち上がれば松前藩など物の数ではない。シャクシャインも庄太夫も十分にこの戦は勝てると踏んでいた。しかしその背後にいる幕府を計算には入れてなかった。幕府がこの日本国の大家主だという感覚は残念ながらふたりにはまだない。もちろん全アイヌ民族の誰一人として気付いた者はいない。敵は目の前にいる松前藩だけだと、誰もがそう信じるのが当り前の情報に疎い時代なのである。 文字を持たぬこの民族はそのため抜群の記憶力を持っていた。シャクシャインのこのとき発した言葉は「激」として山野を各地に散った伝令たちによって正確に伝えられようとしている。伝令は足に自信のある若者が集められた。彼らは弁当と弓具を篭に負い水筒を腰に付けると、国ざかいの峠を目指し飛ぶように駆けて行った。やがて彼らに会ったどの酋長も真近でシャクシャインの言葉を聞いたように感動したのである。恨みと恐怖を持つもの総てが彼らの言葉に頷いた。こうした諸々の理由によって、当時の全蝦夷は可燃性の高い油で覆われていたようなものだったであろう。誰かがほんのひと擦り火打石を動かすだけで火は誰も消せないほどに一気に燃え上がることになるのだ。しかもその火打石を持った者こそ全蝦夷に英雄として知れ渡っていたシャクシャインその人だった。このため彼が飛ばした檄に励まされなかった者は西蝦夷の一部の例外を除けば、ひとりもいなかったといっていい。 寛文九年六月。 頬を伝わる風が気持ちよく草原を渡ってくる。 農夫は気だるそうにのんびり鍬の柄に顎を載せ、西を見ていた。その目先の向こうに、大河沙流川をサポの率いる百五十名ほどのシュムウンクル族がシラウォイを目指して渡ってゆく。 北の大地に棲むふたつの民族が互いに死力を尽くして戦う蝦夷の乱は今こうして始まろうとしていた。
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