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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第4回   蝦夷地の経済
 蝦夷地の経済

 松前藩には藩士が八十余名ほどいて、彼らはその格に応じて家来や武器を備えるよう義務づけられている。では兵力として松前藩はどれだけの員数をもっていたのかとなるのだが、藩は一応、幕府から一万石以上と格付けされているので、戦国時代の記録によれば一万石の経済力では陣触れによる兵の動員数は二百五十名が目安とされているから、これに照らせば松前藩はその程度の兵士しか雇用できないことになる。実際事件が起きて松前藩家老蛎崎広林(かきざきひろしげ)が率いて反乱鎮圧のため東進した兵は三百名だったと記録にあるので、だから松前藩には三百の藩兵しかいないと見るべきだろう。こうした組織の体制は他藩とまったく変わらない。また藩士の体裁も月代を剃り髷も結い大小を腰に差しており裃で登城するのも同じで、ただ違うことは、彼らは他藩の藩士のように藩主から知行地を拝領してそこで生産される米をもって家族と家来を賄うということが出来ないということである。だから藩主は交易各地の経営独占権を藩士に与えこれを知行地とした。彼らはそこから揚がる商いの利益を持って一族を養っていったのである。ただしこれは上士だけだった。下級武士は藩主が交易やその他の運上金(税金)で得た利益で換えた米を直接扶持米として貰っていた。この交易地を商場といって最初は藩士自らが運営していたのであったが、彼らはもともと武士であるからして、商売は得意とはいえない。そうしたことから商場に来る大坂、近江などの商人の助力を乞うようになっていったのが縁で、これがやがて藩主同様運上金だけを取って全面的に彼らに任せるようになってしまった。これを場所請負制というのだがこの時代はまだそこまでいっていない。だが、商人が武士の後ろ盾を得て直接アイヌ民族と交易しその結果を商場にいる管理者に報告し利益の分配はしていたのである。商売の苦手な武士が、商売のプロを管理していたのだから、この時代の力関係の滑稽さが見えて面白い。ただ時代は市場経済に入ろうとしている。だから彼ら関西の商人は交易のレートを大坂の米相場を基準に定めていた。これは全国の商人はみなそうしているからここでも当然のことである。このレート、最初は米一表が四斗として大坂でも蝦夷地でも同じく取引されていた。しかしこれが江戸の大火で変動したのである。それはこの乱が起きる十二年前の明暦三年のこと、いわゆる『振袖大火』と言われるもので、本郷の老中阿部忠秋の下屋敷から出火した炎はおりからの強風にのって南下し火龍がのたうつように暴れまわって江戸城を含めた全府内を焼き尽くしてしまったのである。江戸城も本丸二の丸天守閣まで焼失する大火事となり、痛ましいのはこの大火の犠牲者が十万人という信じられないような数字であった。江戸の町は、その草創期のすべてを焼失したといっていい。このため町の再興は家康の時代に戻って一からやり直さなければならなくなったのである。こうして大都市の、復興のためすべての物資が全国から江戸に集められ、当然物価は高騰したが景気も良くなった。しかしそれから十二年も経つと景気は公式通りに反動する。つまりはバブルの崩壊である。悪夢のごとき不景気が今、伝染病の流行のように全国にじわじわと浸透していった。これがため、ついに大坂の相場は米一俵の中身がニ斗となった。さらに悪いことというものは、誰もが経験して知ってのとおりで、追討ちを掛けるように続くものである。蝦夷の乱の起こる前年、奥州一帯が冷害のため大飢饉となったのである。これが米価をいっそう下落させた。まるで底値を知らぬかのように大坂でも一表がなんとわずか八升という有様である。幕府でさえもこれではとても収益にならず、関八州の税の取立てを米納から銭納に変更してしまった。しかし蝦夷地ではそのまま行われた、というのもまだ辺境の鄙びた地では中央より経済観念は遅れて物流は金銭よりも物々交換という原始的なものだったからである。ただ蛎崎広林は商いで食べている藩の家老だから当然大坂の相場のことはよく知っていたから、商人たちがそうなったと言えばこの浮世の激変を理解できたが、しかし彼はそれを何の説明も無くアイヌの人たちに布告したのである。彼らは松前藩の僕ではない、という当り前のことをなぜかこの人は理解していなかった。また互いに理解しなければ、その先には何が待っているのか、力を持って無理難題を通した者に成功した人はいない、ということもこの人は理解を持とうとしなかった。
 蝦夷地は豊かである。本来、米など穫れなくとも蝦夷地にいる松前藩はその生業をアイヌ民族との交易で充分食べていけた。そんなよそ者を養えるほどアイヌ民族も豊かであった。あるいは松前藩が米にこだわらなければ両者は長く平和に暮らせたかもしれない。しかしこの時代にはアイヌ民族もまた米文化に依存してしまったのである。だから悲劇は冷害に苦しむ津軽と同じように米にまつわるのだが、別の形でこの島に訪れた。
アイヌの民は松前藩が蔑視するような単なる原始的な狩猟民族ではない。彼らは遥か縄文時代から交易民族であった。自ら大船を操って大陸へ渡ることも本州へ直接交易する者も当時はいたのだ。特に余市アイヌと言われた人々はその縄張りが北の日本海全域にあって、まさに海洋民族である。遠く宗谷まで含める海岸伝いにその勢力を大陸へと広めていることがそのことを良く現していた。
 また彼らが使用した蝦夷船は日本海の荒波を切るように舳先が高く作られているものであり、帆は和船と同じように一枚帆(当時の規制で二枚以上は使えない)であったが和船のように不釣合いなほど大きな帆柱はまるっきり無く、これがため和船より重心が低く安定した船体を構成し、この帆を凧のようにして風をとらえ牽かれるようにして海上を走っていく様はまさに風神に導かれているようであり、むろん彼らはそう信じていたであろう。さらに、船には十人ほどが乗り込み横に二人づつ並んで縦三列六丁櫓で無風や逆風のときはこれで漕いで速度を上げる工夫もされていた。まことに早い船である。これがため楽々と本州へまた遠くは大陸へも行ったのである。だから彼らには十分な財力が有り(これが大規模な反乱を可能にした財源でもあった)、同じ商人として和人にひけをとるものではなかった。ゆえに、この両者が均等な交易レートを結んで商売をしているぶんには何も問題は起きなかった。
 では、当時彼らはどのような交易をしていたのか、アイヌ民族と和人たちとの間には、アイヌ側から毛皮、昆布、干鮭、鷹羽などの地元の物産品の他、山丹交易で手に入れた中国官吏の古着(蝦夷錦)などでこれを交換する和人側は米を貨幣のように基本とした。アイヌ側はこの米を持ってさらに醤油、味噌、塩などの生活必需品と変えてもらう。つまりは松前藩が大坂でやっていることと同じことを蝦夷でも行っていた。全国共通の米本位経済を用いたのである。ただし米は元々物であって貨幣ではない。貨幣なら江戸で一両なら大坂でも一両である。ところが米は人手を通せば通すほど値が上がっていく。まして松前藩は米を作っていないため、わざわざ高い米を買ってきてさらにここで取引に使っている。当然、単なる物々交換と違い、高い米の分を上乗せして松前藩は大坂で売る単価の倍の量の海産物を蝦夷に求めた。それはアイヌ側には言わない。この時代の蝦夷地の交易はこの仕組みで成り立っている。その交換レートであるが、たとえば干鮭五束(百匹)に対し米一表であった。ただし米一表の中味はすでに大坂でただの八升という信じられないようなレートになっている。これによって途方もないインフレをアイヌ側は強いられたのである。当然、醤油や味噌も同様に値が変動する。松前藩が米にこだわらなければとはこういう意味である。かつて自給自足の狩猟民族であったがすでに生活様式をこうした交易によって和人に委譲しているアイヌ民族にとって、このような横暴は生きることも成り立たないほどに追い込まれたのである。しかも彼らには松前藩とは独立した一族であるという誇りもあれば、六歳の子供でもわかるような不当な扱いに対し怒りをもたないわけがない。このような高圧的な商いを施行したのがつまり松前藩家老蛎崎蔵人広林となる。武士と百姓の差別もあるが、広林の頑なな役人気質も伴っていることも多々あるのではなかろうか、幕府の役人のように経済的視点から世の中を見据え、対策を柔軟に変えるということを彼はしなかった。大坂でそうなった事実を型通りそのまま自分の現場に持って来て執行しようとした。だからと言ってこうしたことで彼を無能な男だと決め付けるわけにはいかないだろう。広林にすればあくまでも一万石並の台所でなにもかも賄わなければならないという信念があるのだから、これも仕方がないか、それにしても幕府のように民意というものを考えたなら馬鹿なことは起こらなかったかもしれないという懸念はある。ただ藩財政を削ってまで、ということは藩主でない彼にはできないだろうし、反面、彼は結果を常に求められる家老職なのであって、だから小心にならざる負えないのである。もし広林にほんの少しでも彼らを対等の交易者と認め理解する大きな気持ちがあったならあるいはこの事件は起こらなかったかもしれない。幕府が税を銭納に替えたように、米にこだわらず古来の物々交換に戻して総てを賄えば両者は互いに食べていけた。あとは大坂の相場が安定するまで待てばよかったのだ。元々アイヌ民族の交易に対する考え方は商売としての交易ではなく、あくまでも友情の証として物をやり取りするという素朴な考えが基本になっている。古代の中国の朝貢貿易に似ているかもしれない原始的な交易だった。ところが戦国時代も終わって世が定まると経済が活発になり複雑化した。しかし新経済が遠い蝦夷地まで波及するには時間がかかるものであって、ここでは今始まったばかりと言ってもいいだろう。だから相場うんぬんという複雑で流動的な商取引というものを彼らはまだ理解することはできなかった。また藩士と和人商人が濃密な関係にあったことも悪因のひとつである。もう一方の商人でもあるアイヌ民族も同じ物流経済の仲間とみなさず彼らだけを疎外したのである。この大坂の相場の損失を三者で均等に補うことをせず一方だけに押し付けため、これが歯車のひとつを欠くということを生んでしまった。それまでまかりなりにも回っていた蝦夷地の経済が、というより社会がこのため壊れていくのである。この地の経済は返って素人同士でやっているときは上手く行っていたのであったが、そこへプロが入っため、関西商人は目先の利益しか見ない、つまり商売というものは自分だけ利益を上げればいいのであって他人が損しようが苦しもうが知ったことではない。だから邪魔な相手は疎外しようともするのも当然で、加えてこの地の和人たちは古くから他民族を軽蔑し、あれらに何がわかるか、として安易に経済の歯車を壊したのである。これが果たしてプロのすることであったのか、世の中はすべての歯車がかみ合って回ることを奢った者は忘れているのではないか。
 松前藩家老もまたそうで、そんなことにも気付かず広林にすれば蔑みの意味も含めて相場のことを説明しても無駄だろうという意識が働いたのも確かである。こうした差別意識は別に広林だけでなく当時の和人の商人までもが持っていたのは周知のとおりで、だから自分らの好き勝手に物を進めれば、シサムなどろくな連中じゃないと、地面に唾を吐くようにアイヌびとはそういったかもしれない。
 米相場の変動により松前藩自体も大打撃を受けた。藩が財政を交易に頼っている以上当然そうなると、江戸屋敷でも出入の商人に向かって藩士たちは大げさに愚痴をこぼしていた。ところが実際には蝦夷島は松前藩にとって宝の島であって、それはマルコポーロのいう黄金の島だったのである。黄金が裏山の川にあるべさ。そのような気分から砂金が発見された。最初に砂金が採れはじめたのはさほど昔ではない、元和二年というからこの時より五十三年前になり、福山の裏山で山菜でも採る様にとれた。松前藩はそれでも最初は藩の大きな財力になるとは思っていなかったのである。このへんが歴史の流れに疎い鄙の地に棲む人々らしいところだろう。ところが内地の山師たちが密かに噂をし始めたのである。彼らには山師独特の情報伝達機能があって密かに蝦夷は黄金の島だという話は何年もしない内に仲間内では常識になった。これがためぽつぽつ彼ら山師が海峡を渡ってやって来ると、松前の藩都福山を中心に次々と砂金が採れる川が発見されはじめたのである。ついに蝦夷ではすべての川から砂金が採れるという噂にまでなるとこのことによって続々とこの国の山師たちが渡海して来たのであった。すでに松前藩もこのゴールドラッシュに注目している。当然採金事業を直営管理し抜け目なく山師たちに運上金を課した。採金はこの寛文年間が最盛期だったといっていいのではなかろうか、一人で月に三十一匁は採っていたという。課税はこれを目安に月ひとり一匁とした。この時代、蝦夷島の人口はアイヌ、和人を合わせても四万人もいたろうか。ところがこの時期に黄金の魔力に引かれて渡海した金堀人はなんと五万から八万人にもなったというからその埋蔵金の量もおそろしく、なんと松前藩に入る運上金はこのため数千万両という途方もない数字になったのである。故に一万石の大名とは見せ掛けで、松前藩は実質十五万石並の経済力を持っていたと後の歴史家は見ているのであった。
 欲にまみれた黄金伝説は決して夢物語ではない。金はまだまだあるのだ。金掘り人のうち後続の者は縄張り意識の強い前者との揉め事を避けて、何処にでも金はあると信じ遥か東方の未開地を目指して黄金を求めて行ったのである。それが遠くは十勝まで、太平洋側の河川を点々として進出しているのであった。静かで穏やかな大自然に抱かれるように暮らしていた民族のところへ、突然何倍もの数の和人がやって来ればどうなってしまうのか、それは野火が原野を燃やした程度の自然破壊ではすまされない。つまり砂金採りが盛んになると当然アイヌ民族の漁場である河川を次々と汚されていくのである。川が汚れるということは海の魚介類にも影響を与えることでもあり、このことは大勢の和人の侵入でアイヌ民族の生活の場も脅かされるという事にもなっていったと言えるだろう。
 さらに一攫千金を狙う無教養の人格程度の低い山師である和人たちは当然、異文化を受け入れることはせず奇異としか見なかった。いや、見えなかったというべきか、このためシュムウンクルがメナシウンクルを馬鹿にする以上に彼らを屈辱していったこともある意味自然破壊と変わらない。蝦夷地のゴールドラッシュは、辺境の地で穏やかに暮らしていた民族に一方的な商業資本と異文化を持ってまさに突然大勢の和人たちが、ヤクザが商店街の人々を威すように、強引に侵略して来たといっていい。それを考えるだけでも寛文蝦夷の乱の勃発したもう一つの理由がわかるというもので、ひとの庭先に他人がいきなり入って来て穴を掘ったり木を切るなど、こんなことをされて怒らぬ人はいるだろうか。
 大乱は幾つかの原因が複合されて起きるのだが、この他にもこの採金事業を藩は幕府に内密で行ったという事情もあった。確かに最初に砂金は松前藩の領土である和人地内で採れ始めたが、やがて大勢の山師たちは次々と遠方の河川を探検して砂金を探し出したのである。そこはもう福山から遥かに遠く和人地の外であった。領国の外である。いわば法的には幕府の直轄領になるのだ。松前藩は確かに家康からも蝦夷島全地域の交易権の独占を許可されたが、しかしそこに金の採掘権はうたってない。それを松前藩は暗黙の内になんと本来幕府が取るべき運上金を横領しているのだった。松前藩が言い訳すれば、自山の筍を夢中になって採っているうちふと頭を上げて見渡せばはるか隣家の山に入ってしまっていた、というところか。成り行き上とはいえこれは松前藩にとっても後ろめたさがあるだろうし、いまさら幕府に届け出るのも機会を逸した感があり、下手に今頃報告すると藩を潰されかねないことにもなれば、もうどうしようもないというところか。そこで家老蛎崎広林は砂金のことが外に洩れることを恐れて領国を鎖国化したのである。日本国が鎖国の時代である。さらに領国も鎖国する。これは封建の時代だから大小の厳しさはあれど、どの藩でもやっている当時としては当たり前のことだった。如何に幕府に隷属されても藩は一国としての独立を保っている。ただ広林は藩政改革と称してそれを強化したのだった。津軽藩の隠密が漂流者を装って蝦夷島に侵入し、苦労した話が記録に残されているくらいだから他藩よりこの鎖国が尋常ではなかったことは窺えるだろう。この藩の強度な鎖国化はまたアイヌ民族に大打撃を与えたのであった。金堀人たちに対する口封じは松前藩もさほど心配するものではなかった。なぜなら彼らは独自の社会を築いており、一種の秘密結社の如く互いの結束は固くて、秘密を守れといえば頑なに守る。それに一山当てて内地に帰ってもまた蝦夷地に砂金を求める時、松前藩は裏切者を入れないと脅しているから、そういう暗黙の約束が和人は信用出来ると松前藩は思った。しかしアイヌ民族は違う。彼らは元々砂金には興味が無いし、いまさら興味を持ったとしてもすでに採金事業は組織化された和人たちに独占されて割り込む余地は無いのであって、だから彼らは元のままの交易で生きていた。これが松前藩にはこの頃から都合が悪くなってきたのである。彼らは自由民だと自負しているので、昔から今も変わらず福山にも津軽にも大陸さえも自由に往復しているのだった。これが松前藩のささやかな秘密を領国の外へ漏らしてしまうと危惧された。藩はこのためこの民族には神経質に対処したのである。許可無く和人地への通行を禁止すると文字を持たない彼らに口うるさく説明した。また熊石と亀田に関所を設けて異人の出入の取締りを厳しくもした。それでもはじめアイヌびとはこうした封建制度を理解できず、山野を自由に歩くように彼らはいつも通り福山へ交易にやって来た。このため捕縄され刑罰を受ける者が続出したのである。自由の民である我等がなぜ福山で商売できないのか、理解できぬままやがて彼らは罰を恐れて和人地には近付かないようにした。この制度のためアイヌ民族はそれまでのように自由な交易が出来なくなったといっていい。すなわち自ら進んで福山にやって来て和人と交渉する取引が出来なくなったのである。常に和人側が一方的に当地へやってこなければ商売はなりたたない。彼らはそのため不利な立場に立たされたことになる。和人の商人は益々傲慢になりこちらの言い値で売らなければ他で安く買うと値を下げさせられても、商都でもある福山に行けない彼らはもっと高く買ってくれる他の商人を探すことはできない。最初から買値を決められ他に売る事もできず買手も決められていればこれはもう商売とはいえない、ただの搾取である。何度もいうがアイヌびとは交易民族である。今その職を取り上げられようとしているのであった。ヨイチ(余市)のアイヌびとが、
「これでは喰うてはいけぬ。みな飢死にいたしまする」と、そうした不満を直接商人に訴えたところ、
「それなら他所から買うのでいい。おまえより安く売る者はいくらでもいる」と言われたと言う。
 商人は儲けだけ頭にあり、異民族の命などどうでもいいのである。もし彼らがアイヌ民族を対等の取引相手と見なしていたならば、広林にしても商場の商人たちにしてもその思いやりがなかったためにこのあと無残な最期を迎えるのである。和人たちは身勝手に歯車を外せば自らの歯車も壊れることをもっと真剣に考えるべきであった。
 蝦夷をこれで自動的に封じ込めてやった。商売も一方的に指図出来る。ついに蝦夷を掌中の駒にした。なんと見事な藩政改革ではないかと広林は顎をなぜてにんまり笑ったが、しかし強引な遣り方は大きな負の面をもっているということをまもなく彼は知るだろう。
 我等は独立自尊の民と信じる民族と蝦夷など百姓に過ぎないと思っている和人と、そのどちらが正しいのか、決着をつける時がもうそこまで迫っているのだった。


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