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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第3回   松前藩
松前藩

「しょっぱい河を渡って内地さ行くべさ、」と今より少し前、祖父の世代の北海道人なら東京へ出張でもあって行こうとしたならそう知人に話していたのではなかろうか。
 たとえば津軽半島の竜飛岬に立つとさほど晴れた日でなくとも海峡の向こうに松前半島の山々を望むことができて、北海道と青森はそれほど近い。もし勇気と体力とが有り余るほどありながらさらに慎重さに欠けた人間がいるとしたなら、この四十数キロの海を泳ぎきって向こうから青森の山々を見ることも可能である。だから人が泳いででも行けるものなら小舟ではもっと楽に行けるのではないかと古代人は思ったに違いない。しかし丸木舟など細くて丸い、自然木をくり貫いただけでしかないものはどう見ても頼りなく、これは誰が見ても穏やかな平水面しか乗れない舟ではないかと思うかもしれない。ところがこの棒状の細身には利点があって、これにアウトリガーを付けたなら二十万トン級のタンカーに匹敵するほどの安定感がでるのだ。つまり正方形の四本組の棒ならいくら波をかぶろうともひっくり返ることはないのであって、実際ミクロネシアの古代人はこの舟で広大な太平洋を自由に大航海していたのである。
 だから海峡の古代人も此の程度の海など「塩辛い河」としか思っていなかったに違いない。近年青森県や北海道南部各地で続々と発見される古代の集落跡を見ても、そこから出土する様々な物には遠く海を隔てていても類似点が多々ある。またその地で採取できない宝石その他が出土することも稀ではないということは、古代でも海峡を挟んで現代と変わらない交易が盛んに行われていたことを意味するのではないかと、このような事は今は子供でも知っているというものだ。
 ウタリはなぜ海を渡ったのか、それは北の大地は豊かであったから、このことはブラキストン博士が指摘する遥かな昔から此の地を行き来していた人も知っていた。しかしそうではない人々、主に本州以南に棲む人々は、厳しく寒い地方など米も麦も取れず何が豊穣の大地か、とこの時代より以前から大半はそう思っていたに違いなく、だがそれはあくまでも農耕民族の一方的な考えというものである。
北の大地は狩猟民族の国なのだ。そこに棲む人々もまさに豊穣の大地に適した人々であったのである。
ここに棲む熊も鹿もその体躯は本州のそれらに比べるべきもないほど大きくて、河を遡上する群れなす魚は一匹だけでも両手でなければつかめないほどもあり、海行く海獣はまるで島が動いているのではないかと錯覚することも不思議ではなく、さらに岩礁で休む別種の海獣でも馬よりもあって、また海底には座布団か畳ほどの大きさの鰈が潜み、水中の岩の洞には小舟を巻き取るほどの蛸が隠れている。そして海草は滄海の中で長く巨大な茶色のからだを海底の岩礁にしがみついて揺れている様は大風にもてあそばれている孟宗竹の大竹林のようだ。何と小魚でさえも途方もない数で海を盛り上げる大波の如くして騒々しく泡立ち群来している。その祭りを盛り上げるように天空では陽を覆うほどの海鳥の群れがけたたましく狂った供宴に礼儀も無く泣き叫ぶのだった。すなわち海峡より北はすべての生き物が大きく多量に棲息しているのであって、当然、これらをとって暮らしていた人々もまた体躯の優れた剽悍な民族であった。
まさにこの時代、取っても取り尽くせぬ豊穣の海と大地が南の誰にも知られずにひっそりと北にあったが、やがて時も経てば海峡の彼岸にへ張り付く人々、つまりそれに惹かれるように溢れるほど生息していた大きな獲物の余剰分を求めて少なき農耕民族もこの海峡を越えてやって来たのである。彼らは長い年月を経て行くうちにそこへ住み着く者も出てきた。彼らは擦文時代に棲んでいた民族とは違う民族で、和人と呼ばれ、こうした人々が歴史の中に現れるのが古くも平安時代である。彼らは先史時代以前から居た人々とはわずかな摩擦はあってもかろうじて距離を置きながら共存していた。此の島の有史時代に和人が登場したとき、蝦夷島は本州の豪族の支配下にあるとされていた。彼らは面白いことに古来より此の島に棲む民族を無視して勝手に領土宣言をした。こうしたことは、同じ文化を持たぬ者を人と見なさいという慣習が人間にはあるかもしれない。それは洋の東西を問わず、アメリカ大陸やアフリカ大陸を勝手に自国の領土とした中世の欧州人も同じであった。何が新発見か、と古くから棲む人々は思ったに違いないが、歴史は強者によって編まれ、弱者は風の歌にしか託せない。これが長い間両者に軋轢を生んで行くことになってしまうことも考えずに彼らは文明人と称し、先住民を類人猿程度のものと見ていた。
このような文明人の仲間で、古代の東北地方に安倍氏という強大な豪族がいて、しかし彼らがいくら自らを文明人と名乗っても、京の朝廷から見れば彼らが近隣の異民族を見下したように同等の蛮族としか思われていないのは滑稽かもしいれない。こうした朝廷と地方豪族の見解の違いが摩擦を生んでやがて両者は対決していった。
もともと安倍氏は律令国家から派遣されて此の地を治めていたわけではなくて、自らを頼んで成り上がった豪族である。中央政府も余りにも離れた地にいたそうした勢力を知っていながら見過ごしていたということもあり、遠征には莫大な費用が掛かるということもあった。が、やがて安倍氏が京の勢力に匹敵するまで巨大になるとやっと彼らも恐怖を感じた。また途方もない利益を生む地方を傘下に収める欲望もあって、ついに強力な征討軍が派遣され安倍氏は滅んでしまった。史上名高い『前九年の役』である。この時、東北山脈を縫って遥か東に逃げた安倍氏の一族がいて、彼らは北の果てに安住の地を見つけた。(あるいはもともとそれ以前住んでいた安倍の分家という説もある)彼らは東の安倍氏、という意味の安東と名乗り、彼らが棲み付いた北の日本海側の果てには十三湊という規模の大きな天然の良港があって、安東氏はここに根拠地を置き日本海を舞台に日本の各地はもとより大陸へも交易して莫大な財と大きな勢力を持つに至った。
時は惜しみなく流れて鎌倉時代、安東氏はなお栄えて健在であり、幕府の御内人となり蝦夷沙汰代官(主に流刑人を蝦夷島へ送ることとその監視が使命。のち蝦夷管領ともいわれる)という官職も得ている。当然蝦夷島も支配下に納めてその拠点を何箇所か置いており、小樽や余市、函館などがそれであったろう。さらに時代は下った折、安東氏は鎌倉幕府崩壊の一因ともなった大乱に見舞われたのである。津軽の蝦夷が、中央からの収奪(代官である安東氏の圧政)や仏教布教の拡大に嫌気が差してついに蜂起すると、彼らは代官の安東氏を取囲みついに殺してしまった。世に言う『蝦夷大乱』である。事件は当主が殺されたため安東家の家督争いという腐った組織の内乱をも引き起こして複雑化し、さらにこの時期、元が樺太へ征討軍を派遣して来るという思わぬ事態も引き起きて、当地のアイヌびとが多数殺されているという情報は海行く安東衆によって直ちに幕府へ報告されたのである。こうした騒動は日蓮などを代表とする民衆でさえも国難の時であると騒ぎだした。しかもこれらの最果ての地の事件ですら鎌倉の得宗家は解決出来なかった。すでに幕府は衰退の道を歩みだしていたのである。
安東氏も宗家が頼りにならずこの事件が長く続いたため、自らの勢力も衰えていった。こうしたことでやがて安東氏は室町時代に津軽と出羽に分家するのである。つまり本家はそのまま下国(津軽十三湊)にあったが別家は上国(出羽湊)に拠点が置かれ、出羽が独立の形となったのである。さらに戦国時代に入ると下国安東氏は力を失い隣国南部氏の侵略を受けるようになって、ついに十五世紀の中頃この新興の南部氏の圧力に攻せず、当主政季は海に逃れ蝦夷島に非難した。このとき南部氏の追撃、蝦夷島侵攻を恐れて政季は海峡の対岸へ弟の家政を筆頭に多くの被官を派遣させたのである。彼らは以前からあった館と館の隙間を繋ぐように新たに函館から上の国へかけて、並べるようにして館を築いた。こうして渡島の南岸に海峡を睨むように防衛線は布かれた。彼らは小勢力を持って連携しながら各個に統治して(上国、下国、檜山などいう安東氏所縁の地名や人名など今も此の地に残っている)これを道南十二館と後の人はいう。
しかし海峡を挟んで予想された対南部戦は起こらず、やがて政季は上国安東氏の惟季の招きによって出羽へ去った。残された十二人の被官はこのような本家の衰えとともに彼らも個々に自然独立しなければ喰うてはいけず、これをもってそれぞれが小勢力を誇りだしたのである。彼ら蝦夷島安東衆は小豪族化した。ついに本州の戦国縮図がここでも出来た。彼らが本来の目的から外れても本家が衰えてもこの狭い範囲にそれぞれが力を持てたということは、蝦夷島の此の端のここだけでも想像以上に豊かであったといえるのではなかろうか。
蝦夷地が広大な島でありながら農業に適さなかった。だから此の島に渡った和人も最初から土地を目当てにはしていない。ほぼ大半の人はアイヌ民族との交易で生計をたてていたのであって、またその才能の無い者はただ漁をして暮らしていた。だから一般の和人たちも上の国から函館にかけて海岸沿いに何かを恐れるようにこれらの館の周りに手を繋ぐように点在して暮らしていた。当然、この安東氏の代官たちはそれらの和人を守るという名目で彼らから運上金を巻き上げたり或いは直接異民族と交易などしていたのであろう。こうした者への後ろ盾として直の本家は滅んでもまだ出羽にいる安東氏は健在であったからこの地への睨みを利かしていたから、此の頃は彼らも名目上は忠実な安東家の侍人であって、まだ宗家をまるで頼らないで生きていくほどの力は彼らも持っていないと、いうことが間もなく明らかにされるのだ。
この地の本格的な戦国時代の到来は以外なところから起きた。つまり十二人がそれぞれ椅子取りゲームを開始するのではなく、個々にその技量を試されたのである。それも異民族に於いて、コシャマインという名の酋長によって。
こうした和人らの此の地の体制が出来上がって間もない頃、三年も経っていない時、政季が出羽に旅立って一年も経ったろうか、志濃里(函館)で大きな事件が起きた。
「志濃里はいい」という噂は渡海する者らに早くからあった。それはこのあたりに太平洋と津軽海峡に面している湊があるからなのだ。しかもここは敵に襲われても籠もれる海に囲まれた山があって、山は太古に島であったがこれが陸に近かったため長年を経て洲ができ、やがて繋がった。さらにその先には広大な平野が連なっていたから守るも交易するにも住むにも最良の適した場所がこの志濃里である。だから噂を聞いてここに多くの和人がやって来て暮らし出したが、そうした良い土地はアイヌ民族にとっても同じである。彼らのほうが早くからここに居たであろうことは周辺から今も多数の遺跡が発掘されることでもわかる。異民族同士が隣り合わせに暮らしているということは、そうしたところに平和が保たれているなどということは世界のどの歴史にも無くて、当然此処も例外ではない。
異民族異文化同士が隣合って暮らすかろうじて平和であったこの蝦夷地でもついに傲慢な亀田の和人が起こした事件に端を発したコシャマインの乱が起きたのである。元々此処の和人は流刑人の子孫も多かったから気が荒いのかもしれず、この事件はこの物語の一方の主人公でもある蠣崎氏にとっても存亡の危機に立たされた。まだこの島の十二の代官の一人でしかなかった彼らはアイヌ軍によってあっという間に津軽の海に蹴落とされるまで追い込まれるのである。まさに家始まって以来の大事件に巻き込まれたといっていい。
道南十二館はすでに各被官が小豪族と成り果てている。だから本来あるはずの本家からの使命、茂別館(上磯町)の安東家政を頭として各館が連携して敵に当たるという構成が当の昔に(一年も経っていないのに)消えて無い。(この仕組み本来海峡の敵に対するものであったということもあろうか)このためコシャマインの乱に対し一丸となって当たるということを怠った。だからアイヌ軍は志濃里からひとつづつ援軍の無い館を焼きながら北上して行くことが出来て、なんなく攻め上がったのである。また当時のアイヌ民族と和人の人口比率を見てもアイヌ軍に有利であった。だから各地に築いた安東氏の各館はたとえ協力し合っても怒り狂う多勢のアイヌ軍の敵ではなかったともいえるかもしれない。アイヌ軍の進行は早く、ついに十館が滅ぼされた。あとは亀田から一番離れている蠣崎氏の当主季繁の住む花沢館(上ノ国)と、茂別館だけである。さすがに家政は十二館の元締めとして館も堅牢で家来も多かったことから簡単には陥なくてよく耐えていた。しかし、この二館はかろうじて持ち堪えている状態となっていたに過ぎない。ただし花沢館の方は事件の発端場所の志濃里から遠かったというだけのことで陥落するのは時間の問題だけだったのである。と攻めるコシャマインは思ったろう。ところがここにひとりの知恵者が登場する。名を武田信広という。彼は政季に伴って蝦夷島へ渡ってきたのだが、彼が帰還するとき渡党の後見役三人のうちのひとりとして残された。その住まいが花沢館の近くにあって、このため蠣崎氏と一緒になって花沢館に籠もり恐るべき蝦夷を相手に戦っていた。もしいまここで茂別館の安東家政が打って出ればコシャマインの背後を襲い、あるいは渡党は勝てたかもしれないのだが、しかし家政にはそんな親切心はなく度胸もないのだ。彼は花沢館が陥落すれば次にアイヌ軍は取って返し全軍で茂別館へ火を打つように攻めるだろうという恐怖に囚われており、その前にさっさと津軽へ逃げる算段をしているのだった。後見役の信広にすればこの無様を見て何のための十二館かと思ったに違いないが、肝心の季繁もいま他館の連中と同じように館を捨てて逃げようとしているのを見るとまったく情けなかった。
「ケッ、」と信広は、流浪の名門武家を名乗っているだけに、田舎の侍はこの程度かと侮蔑する思いだった。
こうなれば力ではなく頭を使うのです。と季繁の耳をひっぱるようにして彼は一計を囁いた。信広は圧倒的な数のアイヌ軍に対し到底武力で勝つことはできないとなればあとは騙すしかない。いくら強くともあれらは匹夫ではないか、と信広は嘯き岳父(皮肉にも政季は家政の娘を季繁の養女にして信広に娶わせ、蝦夷の護りを強固にするつもりだったが、思惑は逆に信広に利用されたともいえる)を安心させた。こうして彼らは和睦を偽装すると首長たちを花沢館に招き入れて宴を張り、たっぷりと酒を飲ませて酔わせると、頃を見て無残にも彼らを謀殺してしまったのである。首長を失ったアイヌ軍はもろく、翌日館から打ち出た蠣崎軍になんなく滅ぼされてしまった。蠣崎氏はこの勝利でアイヌばかりでなく家政をはじめとする他の渡党にも一目置かれる存在となったのは言うまでもなく、信広は秘かにほくそ笑んだに違いない、もはや蝦夷島は安東家のものではないと。(前記の如く蠣崎氏の娘婿となっていた武田信広はこの功績により季繁から絶大な信用を得て、終には家督も譲られた。彼はこうして着々とこの島の新たな盟主となっていくのであった)皮肉なことにコシャマインはそれまで十二の勢力で治められていた蝦夷地を一本化して新参者の武田氏に献上してやったということになる。鑑みれば、乱の発火点である志濃里から一番遠くに領地があった。さらに隣家に武田信広というこの戦国時代の申し子みたいな男がいた。このため時の利、地の利、人の利を得て蠣崎氏は名を変えながらもついに明治まで生き残るのである。
このコシャマインの乱以後暗黙の内に蠣崎信広は蝦夷地の第一人者であるという了解が渡党にも内浦アイヌ族にもあった。しかしそれは彼ら仲間内だけの話。海の向こうに鎮座する日本の大家主がまだ認めたわけではない。まして直の宗主である安東氏にとってはこれは認める気もないであろう。が、政季はそれどころではなかった。津軽奪還の夢は果されなかったが出羽北部の切取りに忙しかったのである。
家政も命と茂別館を信広に助けられた形になっているため以前のような主人面はもう出来なかった。からといってその後この小豪族たちはおとなしく信広の傘下に入ったわけではない。主家の衰えとアイヌびとの蜂起はこの地の政情が不安定になっていることを誰もに知らしめた。彼らは互いに隙を見ては抗争を繰り返し、合間をアイヌ軍が再度立ち上がるなど混乱はなお続くのである。やがて信広の子、光広の代になると大館(福山)へ勢力を拡大した。これで蠣崎氏は和人地をほぼ掌握したといっていい。ついで此処を新たな拠点とした。さらに宗家へ執拗く願い、蝦夷島の差配を蠣崎に任せるという墨付きを手に入れたのである。こうして蠣崎というよりも武田氏は蝦夷地を事実上我が物にしていったのであった。あとは日本国の宗主に認めさせるだけとなった。その機会は信広が蠣崎氏を引継いでのち五代目の慶広の時に来た。慶広は始祖に似て賢いから決して、他人には見過ごすような機会でも逃すことはなく、下北半島出身の蠣崎氏は安東氏の被官となって蝦夷地に渡り、やがて武田という異質の血を交えながらも大名になりたいという夢を持ったそれがこの才人慶広によって今実現されようとしている。
時は秀吉によって天下が統一され戦国も終わろうとしている頃。奥州の伊達はこの時代の末期に小田原へ駆けつけてからくも領国の安堵を秀吉に願い出てその諾を得た。まさにすべり込みセーフという危うい状態でのことである。この成功には正宗の人間的魅力も功を奏したといっていい。この時期もう一人正宗のような男がいた。本州北辺の梟雄津軽為信である。彼は戦国末期主家の南部氏のために苦労して津軽の北畠氏と戦いこれを滅ぼした。南北朝の英雄北畠顕家を祖とする然しもの名門もこの頃にはさほど優れた当主に恵まれなかったのだろう。すでに下国安東氏は出羽に下がりこれで津軽は南部氏の支配下に入ってしまった。ところが侵略の将大浦(津軽)為信はこの切り取った津軽地方を主家に渡さなかった。このまま此の地に居座り主家を無視して弘前に拠点も構えた。ついで関西へ駆け込むなりまんまと外交手腕を発揮して秀吉の津軽は為信のもの≠ニいう承認を得てしまったのである。為信にすれば自分が北畠氏と戦って手に入れた土地である。独立して何が悪い。南部氏の当主を謀殺して領土の一部を手に入れたというなら非道と非難を受けるかもしれないが、話はそうではない。しかし南部氏は自分らを出抜いて秀吉に取り入ったことが姑息だとして何百年も津軽氏を恨んだ。
それはともかく、出羽の安東氏もこの頃がさも隆盛を極めていたというべきか、当主愛季は領土の拡張に精を出していた。慶広もよく愛季を助けて功があった。彼はこうして宗家にも発言権を強めていくのである。もともと遠祖信広が婿となった蠣崎季繁の娘とは、前に言った安東家政の娘を季繁が養女に迎えていたひとである。つまりは蠣崎(武田)慶広は愛季と親戚筋にあたるということでもある。あれもこれもで今慶広は宗家の中で大きな存在となっていた。この時こそ彼は宗家からの独立を本気で考えたに違いなく、もはや本家など恐れるに足らないと悟れば。しかし時代は秀吉の小田原征伐も終わり安定期に入った。最早改めて領国の支配権を願い出ても遅きに帰したかに見えた。そんなことをすれば何と時代遅れの間抜けだろうと笑われるだけにちがいない。天下はすでに固まっている。ここで内紛などを起こして新たな国を造ろうなどと野心を持てば宗家の訴えが正しいとして一気に中央軍がやって来て慶広など小さ過ぎてあっという間につぶされてしまうだろう。もう私闘は許されない秩序の時代に入ったので、どこにも這入る隙は無く、せめて信広の時代に天下を見ることが出来たなら、と思って見てもあの頃では天下はまだ混沌としていた。大きく動いてはいない。戦国大名の走りと言われた早雲でさえまだ伊勢新九郎という怪しげ人物であった。この頃では誰に付けば良いのか、誰を頼れば蝦夷島の国主と認めてくれるのか、信広でも読めはしなかったろう。しかも彼はまだ蝦夷島の渡党の党首ですらなかったのだ。だからといって今なら良いのか、といえばこれもまた機会は大きく去っている。時代は天才たちによって瞬時に動いてしまったことが、まことに蝦夷地は中央に遠くにあれば情報伝達も遅くて、素早くその機会を逃さぬことは不可能であった。とここで諦めるしかないが、なんと時代はもう一度目先の利く者にだけに機会がくれたのである。それが天下を取った秀吉がその実態を知るために行った検地であった。これによって以後すべては形として統一されて国々は奥山の鄙びた棚田までも抜かりなく記録されればそれまで曖昧な領土だったものはこのあと存在しなくなる。さすれば曖昧な僻地に居る慶広にとってもこれが最後の機会となるであろうことは彼にもわかる。この文禄の検地で奥州を担当したのが秀吉の盟友加賀の前田利家だった。利家が奥州へ調査に来るということを慶広は宗主の安東愛季から聞いた。出羽ではこのため粗相のないよう迎えるため騒然としていた。当然慶広も蝦夷を代表して参じた。ところが安東氏の家老は、
「貴殿らのところは米が取れぬ。ゆえに検地の対象にはならぬであろう。よって此のたびはおかまいなし」と無碍も無く言った。
検地はあくまでも米の取れ高を調査するためのものである。だから米の取れない地を土地とは当時誰も思わなかった。慶広にしてもそんなものか、と思ったが、彼の思考はそれで終わらない。「土地に非ず。と言うのならそれは誰のものでもないということでもあろう」と彼は思った。
前田利家が出羽に乗り込むと、彼は安東家の家老の言葉など無視して勝手に蝦夷の珍品を持って挨拶に現れた。それはあたかも一国の領主のような振舞いであったから利家はそのような国が本当にあるのかと興味を示したのである。この慶広の熱意は利家を動かす。こうして中央への道は切り開かれた。秀吉は好奇心の強い男であるから利家を通して運ばれた蝦夷の珍品にやはり彼同様に興味を示した。と同時にそこに暮らす人間にも惹かれたのだろう。慰みにこの世の果てに暮らす北辺の人間でも見てみるか、ということを側近にもらしたのである。こうして色々な人々を介しながらも慶広はついに聚楽第で天下人に拝謁がかなった。北の果てから京へ。長い船旅である。この間充分に秀吉の性格を研究した。彼は奇を喜ぶ。慶広は先の正宗に見習って蝦夷錦などの派手な衣装で拝謁し秀吉を喜ばせたという。こうして秀吉も遠国から駆けつけたこの利発な男を気に入りすぐさま蝦夷地の交易権を独占する朱印状を蠣崎氏に与えたのである。この件に関しては愛季も、何も言えなかった。慶広は当然安東氏がすでに蝦夷の差配を蠣崎家に任せているという話を秀吉にしたであろう。どうせ蝦夷など土地でない地。秀吉にすればさほど深刻に考えるほどのものか、と安東愛季に気遣うほどのものでもないだろうと思ったに違いない。もし彼が異議を唱えたとしても慶広の言うように蝦夷島の権利をすでに安東家は放棄したという話を突きつければいい。しかも与えたのは紙切れである。土地ではない。慶広の情熱にほだされ半分遊び心で菓子でもくれてやる様に朱印状を渡した。太閤殿下は気前がいいのだ。秀吉は此の時点ではもう天下人として君臨している。誰もその言に異を唱える者などいるわけが無いであろう。また慶広の愛季に対する貢献度からしてもそれだけの報酬は当然渡さなければならなかったろう。それに彼の実力を見れば敵にまわさないほうがいいと愛季は思った。ついにこの時をもって蝦夷地は安東氏から独立した蠣崎氏のものに実質上なった。悲願を達成した慶広は苗字もこのとき本来の武田姓に戻している。蝦夷島の新島主武田氏の誕生である。
慶広の代に、さらに天下は動いた。日本国の盟主は豊臣家に替わり徳川家になったのである。世も幕藩体制に変わるという変動から安定の時代に入った。慶広はまたも前田利常を介し家康に取り入ったが、この体制には組み込まれることはなかった。理由はただひとつ、米が採れないからである。ただ家康も秀吉同様に蝦夷の交易独占権ともいうべき黒印状を慶広に渡して、ついで武田家は同じく『蝦夷島主』としての名目もされたのである。しかしこれだけでは只の人でしかなく、慶広はさらに家康にねだって朝廷から『従五位下・伊豆守』の冠位を下賜してもらった。このときをもって武田慶広は松前姓を名乗り初代松前藩主となったのである。ただ藩主と言っても米の取れない蝦夷地は本来格付けの仕様が無く大名といえども従五位下の格式だけであった。この幕藩体制の中にあって客分扱いというところか。しかしこの頃になると禄高一万石以下であっても(武田家のように米が一粒もなくとも)大名並の扱いを受ける『交代寄合』という別格の身分になっていた。米が取れない以上空中の楼閣のような日本列島の何処にも例のない無禄高の藩がここに出来た。だが見た目は大名である。当然参勤交代もある。もちろん領土もある。コシャマインを倒し渡党十一人を抑えて手に入れた領地だ。北は熊石から南は戸井に至るほぼ現在の松前半島内になる。これを上在、あるいは西在と人々は言う。曖昧な中にあっても松前藩は格式どおりに福山に陣屋を構え体制も他藩と同じように整えた。江戸に屋敷も構えたが正式の大名ではなかったので江戸城の柳の間に詰めることは出来なかった。幕閣に登用されることもなければ幕政に対する発言権もない。が、これに甘んじていた訳ではない。藩祖松前慶広以来積極的に中央に工作活動しつつ、ついに二代藩主松前公広の三男泰広を将軍の小姓組に参入させることに成功した。泰広は祖父に似て賢くやがて頭角を現し実家の財力を行使して旗本になると次々と出世し最後は西の丸留守居役に抜擢された。泰広はこの権力を持って松前藩のために働きかけ彼の死後、寛文蝦夷の乱のとき少年だった五代藩主矩広(彼は六歳の時に四代藩主である父の高広が二十二歳の若さで亡くなったあと家督を継いだ)が正式の大名になる道筋をつけている。ついに矩広は五代将軍綱吉の時代になって柳の間に詰めることが許された。このときから松前藩は仮想禄高も一万石以上と認知され正式の大名になったといえる。つまりは、世の経済が米本位の時代に米の穫れない土地を治めるということはそういうことであった。
 いま世は戦国時代も終わって五十四年が経ち安定期に入っている。しかしこの藩だけはまだ戦国期にあるという気分だったろう。なぜなら異民族の反乱は今に始まったことではないのであって度々起きているのだ。それはコシャマイン以前も後も今も続いている。だから他の城持ち大名のように権威のための城ではなく、実践上の護る城が松前藩はほしかった。この無理しても城がほしい、という希望は後年実現されるのだが、その頃ロシアの南下による地元民との争いなどもろもろのことが蝦夷地で起こっていた。この対処に幕府はとても一万石程度の小大名に広大な彼の地の管理は任せられないと思ったろう。しかも寛文蝦夷の乱同様にロシアは西在の遥か東の彼方に出没している。当然この時も松前藩は幕府に泣き付いた。このため一時期この島を完全な幕府直轄領として召し上げ、松前藩を東北などに移封させた。が十年もしない内に再び蝦夷地に戻した。幕府も財政が厳しい。ロシアの南下が活発になれば幕府も動き、沈下すればもとに戻すということがこの藩の間に何度も行われた。その度に松前藩は関東や東北各地に転地させられた。しかし異国のような蝦夷地はやはり松前藩を使って管理したほうが経費の面から見てもいいと老中は気付いたのだろう。そのためには松前藩を強化しなければならない。このとき幕府は松前藩に城を持たせるため格式を三万石に加増している。これで松前藩も福山に念願の城を築く許可が下りたのである。しかしそれはこの時より百年以上も経ってからの話。ただしこれは対ロシア軍艦に於ける築城を幕府から命じられたもので、海岸線に向けて強化された城だった。そのため対アイヌ軍には適していなかった。山側は掘りも無く敵の侵入を容易にした。実際、箱館戦争では土方軍にこの山側から攻められて簡単に落とされている。アイヌ軍がもしこの城を攻める機会があったとしたなら同じ結果だったろう。ただ最早この頃にはアイヌ民族にはその力は無く、蝦夷地の脅威はロシアの南下政策に代わっていた。
 先の話はともかく今は陣屋しかない。それも津軽から一番近いところ福山にある。この藩の領土といえる西在は蝦夷島をタイヤキに見立てればその尾びれの片方ほどしかない。蝦夷島への和人の進出が始まって以来彼らは最初からその藩が滅亡する明治までしっぽのさらに餡がはみ出た様なこの地からほとんど動いていないのである。その消極性は、アイヌ民族の抵抗を恐れたものであった。この小藩にとって最初から全アイヌ民族を力で抑える武力は持っていないがために、その消極性はしかたないものであった。いざとなれば逃げる、という根性は自分たちの故郷は海峡の向こうだという和人の心理が見え隠れして、函館戦争のときも、さっさと藩主一行は津軽に落延びたのである。彼らは長い間、他人の家に勝手に上がりこんでいた非をついに認めてしまった。
 福山といい西在といい、コシャマインの乱のトラウマはこの藩に取り憑いたままで、だからこのときから霧のたなびく東の広大な山野にはどれほどのアイヌ民族が居るのか見当もつかず、その未知の膨大な数を恐れながらも数頭のライオンを鞭一本で扱うサーカスのライオン使いのような危うさで蝦夷の武士達はここまでやってきたといっていいかも。最初から武力で治めるこの出来ない地に彼らはいるのであってほぼ虚勢をもって治めていたに過ぎない。その虚勢こそがかつての安東氏、今の幕府の後ろ盾というものであったろう。
 それにしても初期の蠣崎氏の時代からこの松前半島ほどの領土さえ余しているのはどういうことか。やっと武田信広がコシャマインらを平定してのち子の光広が渡党を抑えるようになって初めてこのあたりは和人の領土であるとアイヌ民族に対し国境を定めることができたことは、それまで点のような領土だったがここでやっと面になったのであるということで、それでも全蝦夷地からみればまるで小さいとしかいえない。内浦アイヌ族、日高アイヌ族、余市アイヌ族、石狩アイヌ族が個々に持つ彼らの勢力範囲である縄張りの、どのひとつよりもそれは小さかった。ただ全日本の宗主である幕府にしてみればこの世にアイヌ民族の領土などあるわけが無いと思っているのだから松前藩が主張する土地以外の残りの広大な土地は慣習上幕府の直轄領とみなされていた。からといってこの当時はまだその管理する機関が置かれていたわけではない。このためアイヌ民族も、いつのまにか幕府が自分達の土地を勝手に簒奪していることなど露ほども知らず、ここは我らの自由の天地であるという認識と強い誇りも十二分に持っていた。このことが寛文蝦夷の乱の勃発と幕府の対応に深く影響を与えたといえる。なぜならシャクシャインたちが蜂起したのはその広大な地であり、また彼らが目指した最終決戦場はこの小さな福山だったからである。


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