新しい時代
まもなく冬が来ようとしている。 一番低い山でも千米を越え、最高峰で二千もある山々が連なる日高山脈はすでに雪により白く覆われていた。 庄太夫たちはその雪を避けるようにしてウラカワで食料を調達してのち、低い山並みを 縫ってトカプチのウタリを頼った。当初の目的は何としてもこの日高山脈を越えることだった。大自然の巨大な要害が幕府連合軍の追跡を断念させてくれ、春まで彼らはやって来ないだろう。 トカプチへは海を渡って来る方法もあるのだが、日高山脈はエンルム(襟裳)の海へ入ってもなお終わらず、大きな岩礁が長く沖へ向って続いていて、しかも冬は風も強く海も荒れたから当時の船でのこの辺りの航行は難しかった。冬になれば海も山も追跡は不可能である、ということは蝦夷地に詳しい泰広は最初から頭に入っている。このため秋までに、せめてシャクシャイン一党の首をあげることだけでも成し遂げようと思っていたので、それがほぼ計画通りに終わった。庄太夫らに逃げられたことはいた仕方ないことだが、彼らのことは二次計画に組み込んでも別に支障はない。残党狩りは何処でも長引くものなのだ。しかも帳面上庄太夫はすでに死んでおり、あとは瀬兵衛の言うように雑魚にすぎない。もし奴を捕らえたとしても無名の罪人として処理するだけだろう。ならば焦ることもなし、今年はこれでいい、次の計画は来年の春、それでもピポクでの事後処理はひと月ほどかかってしまった。とりあえず江戸から連れて来た鉄砲方と槍組の生き残り、それに津軽藩士らを船に乗せて帰した。彼らはみな疲れ果てていたが船に乗るときは涙を流し共に戦った松前藩士と手を取り合って別れを惜しんでいた。 やがて十二月に入ろうとする頃、守備隊を残し、ついに泰広は瀬兵衛らを連れてピポクを去り海路、福山に向かった。 松前の湊で船を降りると泰広は久しぶりに出迎えている家老の蛎崎蔵人広林に会ったが二人は互いに会釈するだけでこの後の儀式のため私語は交わさなかった。 船には大勢の藩士も乗っており、彼らは下船すると整然としてこの広林を先頭に隊列を組んだ。泰広は火消装束で馬に乗ると威儀を正してのち馬上からゆっくりと隊列を見下ろした。すべてよし、泰広は深呼吸をすると馬鞭を前へ翳す。 武装した隊列は粛々として松前館へと向いはじめた。 征夷軍が凱旋するという話はすでに数日前から福山に伝わっている。この和人地あるいは西在、上在ともいわれる松前藩領国からこのため噂を聞いて大勢の人が一目見ようとやって来た。遠くから見物に来た者はここで宿泊してその日を待っていたのである。またここや亀田には大勢の避難民がいた。しかしシャクシャインがシブチャリ砦に逃げたという話が伝わった時、大半はもとの東在(下在)へ戻ったのだが、それでも情報の乏しい時代であるから、まだ征夷軍が勝って福山に戻る姿を見るまで平和が来たと信じない人も沢山いたのである。だから、町の人々は船が湊に入るとわあーっと大路に集まった。みな心からこの征夷軍の凱旋を歓迎しようとしている。やっと今日から枕を高くして寝むれるのだ。あのアイヌ反乱軍が福山を目指して攻め上ってくると聞いた時、人々はどれほど恐れおののいたか、今思いだしても身も凍るようで震えが止まらないのだった。異民族の反乱は巨大な風聞となって人々に伝わり、これはけして大げさではなく、まるで地獄から鬼の軍団がやって来るような思いが当時のひとの心をかき乱したのである。 行軍が静々と通過すると、見物人の中には泣いている者もいた。手を合わせて拝んでいる老婆もいた。しかし人々は恐るべき蝦夷を退治したのが松前藩士ではなく江戸から派遣されて来た者らによってなされたということも、馬上の貴人を見上げながら思った。あの人は殿様より身分が高いのだと、誰もが泰広をそう思った。泰広は総大将に任命されたとき、征夷大将軍の権威を借り受けたといっていい。つまり臨時とは言え彼は反乱者への裁判権ばかりか、当地の行政や立法の指導権も与えられたのである。だから泰広はこの松前館に入れば当主よりも上座に座る権利がある。が、そうはしなかった。ここは十四歳まで住んでいた勝手知ったるところである。館の中へ入れば身内だけになる。泰広は矩広に型通りの挨拶をすると権威の裃を脱いだ。あとは気軽に広林を呼び、 「正月までには江戸へ帰れるだろうか、」と冗談を交えながら、今後の蝦夷地の統治について話し合った。 泰広は来年春より松前藩あげてやるべきことを一通り話したあと、広林に他に付け足すことはないかと聞いた。広林はだまって首を横にゆっくり振った。泰広は懐から巻紙と矢立を出すと小筆を小さな墨壷にたっぷりと浸してのち、蝦夷仕置きの事、と最初の一行をしたためた。それから今言ったことを箇条書きにし、最後に征夷軍惣大将 源泰広と自分の名前をしたためて花押を入れ、宛名を松前志摩とのへとした。ついで矢立から小筆と一緒に収納されている細い小柄を親指の爪で引き抜くと巻紙をすうっと切って広林に渡した。受け取った広林は確認するように泰広の癖のある文字を目で追っていた。それが読み終わらぬうち泰広はこのたびの騒乱の、最大の原因である不等価交換について語りはじめ、 「この度の始末、松前側も言い分はあるだろうが、蝦夷が怒るのももっともな事ではある。ニ斗からいきなり八升ではなあ、」とアイヌ民族に同情するかのように言う。 「あれは大坂の米相場が暴落したためで、わが藩の勝手な仕置きではないのです」と広林は巻紙を丁寧に折りたたむと懐に仕舞いながら言い返した。 「それはそれがしにもわかる。しかしのう無知なる蝦夷どもには米相場がうんぬんといっても無理な話じゃろうが、」 「…」と、言われてもなあと広林は心の中で腕組みをしていた。 「よう、」と泰広はめずらしく江戸風に言葉を変え「もそっと、上げてやりなよ、」と黙っている広林に脅すように言った。 「揚げるのでござりまするか、そのういかほどになさればよろしいか、」まさか如何に八左衛門様でも法外なことを言うまい、九升か?これが順当なところだろう。 「一斗二升ってとこでどうだい、」 「ええっ、それはご無体な。とても無理でござる」 「無理でもやんな。米のことばかり考えるからそのようないい草になるんじゃあねえのかえ。金掘どもが仕事場で働けなくなったことを考えてもみなせえ、どれほどの損害か天秤にかけなくともわかることじゃあねえのか」 泰広は騒乱を起こされたことによって松前藩が受けた最大の損害、金堀の運上金が入ってこなかった額を考えろというのである。それは不等価交換どころの話でない、藩にとって大きな損失となった。 「何もかも儲けようなどとはあこぎな商人の業、侍のするこっちゃねえな。民に慈悲を示すことも君子の業と覚えにゃならねんじゃあねえのかい」 泰広は島原の乱もこのたびの蝦夷の乱もなぜ起きたのか反省すべきことをきちんとしておかなければまたこうしたことは起きると執拗に広林を責めた。これが三年後の広林の悲劇に繋がるのだが、今はそこまで責めない。要は不等価交換の不足分を金の運上金から当てても十分採算は取れるだろうと言った。 「わかり申した。そのように致しまする」 情けない。泰広にぼろくそに言われて広林は家老を辞めたくなった。 「一揆を起こさせぬよう配慮することも政(まつりごと)の心得なり、」泰広はそう言ってのち矢立でポンと講談師のように膝を打ちニコリと笑って見せた。 人を威すにはやっぱり江戸弁が一番歯ぎれがよくていいのだと泰広は使ってみてよくわかった。 このようにして乱を起こし鎮められたアイヌ民族にも少しは利益もあった。しかしこれ以後彼らの過酷な歴史を見ればこの利益は塵の一粒もない。 翌寛文十年春、松前藩は幕閣松前八左衛門泰広の命によって対アイヌ政策とシブチャリ砦の残党を追って動き出した。 まず日高山脈の東、トカプチやクスルに庄太夫を追うようにして二百名が派兵された。彼らは各地を隈なく歩き、数百人のアイヌ民族から誓詞を出させた。(実際には文字を持たない民族に対しこちら側で作成した文書に血判させたのである)そのとき、 「我らは極悪人シャクシャインとその一党を皆殺しにした。お上に逆らう者は皆このように仕置きする。汝らはどうか、」と威すように言ったから、あのシャクシャインでさえ勝てなかったのか、という思いが人々にあり誰も恐れて松前軍に従ったという。 ついで彼らは庄太夫らの行方を探っていった。指揮官新井田瀬兵衛にすればそれが遠征の一番の秘めたる目的であった。捕まえたらどうしてくれるか、地中に埋めて首を切る鋸の刑にしてやろうか、じわじわと苦しめながら長い時をかけて殺してやる。そう想うと瀬兵衛は楽しくてしょうがない。待っていろ庄太夫、いまに目にもの見せてくれるわ。 瀬兵衛はクスルへ赴くとさっそく土地の者らを厳しく取り調べた。しかし彼らが去年ここで休息と食料を手にしたまではわかったのだが後は何処へ向ったのか知れず、ついに消息は途絶えてしまった。庄太夫にすれば当然追手がかかることはわかっている。クスルの者に相手の手がかりになる事など話していくわけがない。また話せばクスルのウタリに迷惑もかかる。瀬兵衛も、何度もしてやられた庄太夫を決して侮ってはいないから、奴が簡単に手掛かりを置いていくわけはないかと理解は出来るのだが、だからといってこのまま諦めるわけにはいかない。 それはともかく瀬兵衛には他にも広林から言われてきた本来の目的がある。東蝦夷のアイヌ民族のすべてに誓詞を出させ服従させるという使命だ。これがつつがなく終わると瀬兵衛はまた長老にしつこく訊いた。 「奴らはどちらへ向って村を出て行ったか?」 「北へ、」と言いながらエカシは正確には北西の方角を指差した。 「間違いないな。もし我を謀れば戻ってきてその鬚切るぞ、」 「カムイに誓うて嘘など申しませぬ」エカシは瀬兵衛を睨み付けた。 「フン、北か、」と嘯くなり瀬兵衛は馬鞭でバシッと自分の足を叩いた。 北西には今回乱に参加しなかった大きな勢力がいる。石狩アイヌ族である。都を落ち延びて奥州の藤原氏を頼った義経の例もあれば瀬兵衛は納得した。 松前軍は次いで西蝦夷に向かった。 そこでもまず寛文蝦夷の乱には参加しなかった石狩アイヌ族にも誓詞を出させた。たとえ参加しなかったとはいえ、幕府連合軍がシャクシャイン一派を駆逐して勝利した以上それに逆らうことは出来ない。シャクシャインの死はそれほど全蝦夷を失望させたし、またそうした気持ちを松前軍は利用していったといっていい。徹底して、汝らの時代は終わったのだ、と印象付けを与えなければ苦労して勝利した意味が無い。泰広の考えはこれを機に全蝦夷地を幕府の配下に置くことにある。蜂起に参加しようがしまいが今となってはそんなものは問題ではない。アイヌというだけですべてその対象になるのだ。ひとつの民族が他民族を見た場合、彼らは皆同じに見える。そこにはさらに違う考えの人々が住んでいることなど思いもしない。だから同じ民族であれば一揆に協力したと、落武者を匿っているとやってもいないことに言掛りを付けられ、それを否定してもならば何故彼らの暴挙を諌めなかったかとも因縁を付けられた。彼らがどう言い訳しようと瀬兵衛はこれらが落武者を匿っていると確信している。だからそれを大儀とした。頼朝が義経討伐を理由に藤原氏を攻め本当の目的である奥州鎮圧を成し遂げたと同じである。石狩アイヌの長ハウカセが幾ら弁明したところで瀬兵衛はこの大義を嵩に本来の目的を変えようとはしない。こうしてハウカセは戦ってもいないのに、落武者を匿ってもいないのに賠償品の提出を求められたばかりか、ついで一族の民族としての自立を失い自由を制限される誓詞に捺印させられたのであった。 かつて「松前殿は松前の殿、我等は石狩の大将に候(津軽一統志)」と豪語してはばからなかった英雄も銃で武装した武士団を目の当たりにしては気落ちするしかないだろう。 これでも瀬兵衛は諦めない。再度落武者を匿っていないか厳しく詮索した。しかしハウカセらは本当に知らないのだ。それをどうせいと言われても無理である。ついに瀬兵衛は根負けした。 「ここは広い。大きな山も数え切れぬほどある。そのどこぞへ隠れても我らは預かり知らぬこと、」とハウカセがふて腐ってそう言えば瀬兵衛もこれを納得せざるおえない。 こんなに脅しても好かしても言わぬのは本当に知らないからだろう。 「そうか、」と瀬兵衛は溜息をついた。「もしのちあれらを匿っている事知れれば、その首無きものと思え、」と脅して瀬兵衛は床几を立った。 瀬兵衛は泣きたくなった。 しかし庄太夫らの追跡はここまでである。彼らはクスリのウタリを頼ったあと忽然として姿を消してしまった。瀬兵衛の夢は叶わなかった。その後は松前藩士も歴史も彼らの足跡を見ることは出来ない。 寛文十一年春、再び百七十名の兵を連れて蛎崎広林はシラオイに現れた。 ここでも正式にメナシウンクルとシュムウンクルの者達を出頭させ誓詞を出させている。その起請文が今も残っていて七か条からなり、内容は老若男女を問わず松前の殿様に二度と逆らわない、また松前藩の許可を得た商人、漁師、金堀などの通行及び船舶の運航を妨げたりはしない、彼らの仕事の邪魔をせず全面協力をすることなどの和人にとって都合の良い一方的なものばかりだった。そして起請文の最後には、 「右の旨、私儀はもちろん、孫子一門はもとより男女に限らず、少しも相背くまじき申し候。もしこれに背き候者あれば神々の罰を蒙り、子孫長く絶え果て候。よって起請文件の如し。寛文十一年亥年 四月 日」と書かれていた。 さらに翌寛文十二年六月、残る余市アイヌ内浦アイヌに対しても、蛎崎広林が三百の藩兵を率き連れてクンヌイに赴き彼らを招集して同様の誓詞を出させた。 これをもって泰広の命令によって行われた全蝦夷から松前藩及び幕府に服従する誓詞の提出は完了した。このときから独立自尊の精神を持った民族は滅びたといっていい。 蝦夷地の新しい時代の幕開けである。 彼らはこののち二百年間幕藩体制に組み込まれ、封建制度の中で過酷な使役と圧政に苦しめられるのである。 広林は江戸の泰広に全蝦夷制圧完了の報告をした。受けた泰広は久しぶりに福山へやって来た。蝦夷の平定は広林の報告どおり終わったのだろう。 しかし泰広には最後にもうひとつやらなければならないことがある。この事の方が泰広にとっては蝦夷の反乱よりも危険な重大事だったかもしれない。それはこの事件の責任者に詰腹を切らせることであった。そうしなければ武士として松前藩として幕府に体面が整わないのである。 松前館には八十名の藩士すべてが藩主に拝謁する大広間ある。その広い部屋に広林は藩士すべてを従えて一番前に裃姿で座っており、面前には三方に載せた誓詞の山があった。 やがて一段高い上座に泰広が入ってきて座った。 後ろから矩広がついてきて同じく傍に座った。 全藩士がざあっと衣擦れの音を立てて平伏した。 広林も平伏するとわずかに顔を上げ泰広を見た。彼の顔は青ざめていた。なぜだろう?と広林はいぶかったが深くは考えない。それよりも儀式をつづけなければ、 「御上意の事、これをもって全て終わりましてござりまする」と張切って言った。 「皆の者、大儀であった」全員を見渡すように、矩広は子供らしく甲高い声で労った。 泰広は広林を見つめ、青白き頬のままでゆっくりとうなずいた。 無用に夷など苛めるから自らの墓穴を掘る。 泰広は人殺しの定義を探していた。 恨みもない者を殺すには仕事としての理由がなければ出来るものではない。 やはり殺すしかないか。 目前の広林を見つめていると胃に苦い物が沸いてくるのだった。 殺す。 決めた。 自分に対しても泰広はうなずいた。
|
|