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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第21回   サポの最期
    サポの最期

 シャクシャインと庄太夫は和睦前夜に会って、ピポク砦を中と外から奇襲し混乱させて勝利を得ようという作戦を話し合ったはずなのにそれを見抜いた泰広の前にとうとう実際に奇襲部隊は現れなかった。それは、瀬兵衛が思うように、庄太夫が中で泰広が待ち構えていることに気付いたからだろうか、
 真実を知るために、もう一度あの夜に戻ってみたい。
 シャクシャインは庄太夫からこの手の話しを聞くのは大好きで、膝を前に出すようにして
「なるほどのう、してそれを報せる方とは、」と興味を示し目を輝かせた。
「それはですね、」庄太夫はそう云うとシャクシャインに詰め寄った。「アムルイを使うのです。アムルイを松前の殿様に献上すると言って連れて行きなされ。そして砦側に殺意があると見抜いたならただちにアムルイを逃がすのです。さすればアムルイはまっすぐここへ飛んでくるでしょう。それで我らは和睦が偽りだったと知りまする。そのあとは街道を避け、山の間道伝いにピポクへ迫り、中の様子を窺いながら長達が戦う音に合わせて我らも突入する。これでどうでしょうか、」
「なかなかよき謀でありまするな」シャクシャインは長い白髪混じりの顎鬚を手でしごきながら感心したように肯いていた。それから、
「ところで今度は吾の話も聞いてもらえますかな、」と言った。
「…?」
「アムルイを連絡に使うというのは吾も賛成する。が、その後じゃ、吾は婿殿とこの砦に残る者たちに
ピポクへは来て貰いたくないのじゃ」
「えっ、」
「明日、そのアムルイの報せを知ったなら、吾はただちに皆にここから立ち去って何処ぞへなりと落ち延びてもらいたいと願うのみ」
「しかしそれは、」
「まあ聞きなされ。吾らがこの戦いを起こすにあたって一番の名目は何であったか、それはシサムどもが毒をばら撒き全ウタリを根絶やしにすると知ったからそれに抵抗しようとしたことにある。そうでありましょう。吾はそのこと今も信じておりまする。少なくともシサムは今このメナシウンクルだけでも根絶やしにしようとしておることは間違いない」
「確かに、」
「だから今ここで全員がピポクに攻め入れば、下手をするとみな滅びてしまうことになる。江戸のニシパは中々の知恵者なれば侮れませぬ、」
「そうかもしれませぬ。しかし、」
「まま、もう少し聞きなされ。吾は思う。ここでは少しでも一族が滅びることになる、という道はこのさい選ぶべきではないと。たとえピポクで上手く勝利を得たとしても和人どもはまたいつの日か勢いを盛り返し新手をもって次々と吾らが滅びるまで攻めてくるでしょう。あれらは大勢海の向こうに棲んでいて、もはや切りの無い話になりまするなあ。それを止めさせるためには吾の首を差し出し他は遠く日高の山中に逃げ込み地に潜るしかないと思いませぬか。となれば、あれらはきっと吾の首ひとつで諦めるに違いない。そう思うまで辛抱強くみなは隠れなされ。このカムイのお創りなされた大地はあまりにも広い、だからきっと諦める。が、吾がともに逃げればあれらも決して諦めないでしょう。ただあれらが再び吾らを苛めればまた地から怒りの芽が出るように吾ら一族は再び立ち上がるに違いない。そう信じる。だから山に潜み野の草となるのです。それこそ、あれらが吾らウタリに再び過酷な仕打ちをしようとするなら、再び芽を出す草と成って貰いたいと、吾が望むのはそのことばかりにすぎぬ。その草の根を決して絶やさぬためにも、そなたらは落ち延びて貰いたいのです。シサムがこの地に留まる限り、必ずまたこのような争いが起こるでしょう。それが百年先か二百年先か、あれらの横暴に耐えかねて再びウタリは立ち上がるであろう。婿殿はこれから先、そのためにも我が一族の血筋を絶やすこと無く、
多くの子を産ませその子らがさらに多くの孫を産ませるまで生き長らえて欲しいのじゃ。そのために吾は今ここで死ぬことなど何の未練もありませぬて」
 庄太夫は驚きながらも、冷静に考えればシャクシャインのいうとおりで、泰広をあなどれないこと、また将来をも考えることは大事なことで、となれば安全な、確かな方向を目指すのが本当だろう。
「ただ、この戦でこのようなことになりましたのはみなそれがしの性でありまする。どうかその責を受けたいと思います。このたびのこと何としても長と供にあって任を全うしたいのです。許されよ、お願いでござる、連れて行ってくだされ」
「婿殿、それは違いまする。この戦を起こしたのは吾じゃ。しかし全ウタリにその気がなければこれほどの戦にはならなかった。もはやこれはカムイの思し召しとしか思えぬ戦であった。しかも結果がこうなったからと言って誰もおぬしを恨む者などおりませぬ。むしろここまでシサムどもを翻弄したこと、婿殿がおらずば成りえぬものであろうと思う。みな感謝しているのじゃ。のう、」
「長の言うこともっともなれど、それがしの気持ちが収まらぬのです。何としても自らこの手で戦の幕を下ろしたい」
「吾はのう、この度、一族のエカシらと話おうたのじゃ。吾は和睦に行くと決めたが、おそらくはこれはシサムの罠であろうと思う。しかし長としてこれ以上一族を苦しめるわけにはいかぬ。もうこの戦を収めねばこの先も一族は苦しむだけしかない。長として一族に災いばかり与えるなど決してしてはならぬと思う。そこで罠とわかっていてもその席に行けば戦は必ず終わる。いまシサムが戦の代償として欲しいのはこの首なのだから。この皺首ひとつで事が収まるならこれに勝るものはないであろう。そこでじゃがエカシであるそちらに頼みたいのは和睦へは吾ひとりで行くわけにはいかぬ。メナシウンクルの長がひとりで来たといってもシサムどもは納得しないだろう。といっても、この明らかに死ぬとわかっている和睦へ吾は誰それを供に連れて行くとは言えぬ。そこでエカシらが話し合って決めるなり、籤にて決めるなり出来ないだろうか、≠ニ窺った」
「それでどうなりましたか?」
「エカシの皆が水臭いと謂うてくれた。特に最も長老のチメンバ殿は言うた。吾らはすでに老いた。この先このままでいても一族の足手まといになっても助けにはならぬ。まして長が言うたように、この先逃げ延びて一族の血筋を絶やさぬことこそ肝心なればもはや吾らに子を作ること叶わず。なればこそここで逃げ延びる者たちに役に立つことできるなど願ってもないことなり、≠ニな。だからエカシの皆が喜んで供をしてくれると言うた。最期にこのような晴れがましい死に場所を与えてくれたことにむしろ礼を言いたい。≠ニまで言われたのじゃ」
「その供の端くれにそれがしも加えてほしいのです。このように一族の運命も人々の人生も変えてしまった責任を何としてもとりたい」
「婿殿、これは年寄りの仕事じゃ。若いそなたは一族の今後を考えねばならぬ。そなたがいなければ一族はどうなるか。それにのう、親は子のためならどんな事でも出来るのじゃ、この命捨てることなど如何ほどのことでもなし。子のためならむしろ喜んで捧げるだろう。人はみな人の人生の犠牲の上に自分の人生を築いていくしかないのじゃ。堪えてくだされ、その生き方しかないと悟ってくだされ。吾もそうしてここまで生きてきた。そなたも吾ら老いたる者を踏み越えて生きなければならぬ。この世を生きていくことは苦しみ悲しみばかりの繰り返しじゃ、それでも人は生き抜くためにのみできている。若者はその定めに従うしかないのじゃ。頼みまする。この通りじゃ、」シャクシャインは太い腕を床に付けると深々と頭を下げたのである。
 それでもまだ庄太夫には納得できなかった。無言でいると、
「重い魂を持ったまま吾を死に逝かせないでくれぬかのう。心を軽くして逝かせてほしい。頼みまする」
 アイヌ民族は何よりも魂の清らかさを尊ぶ。憂いを持ったまま死ねばその魂は浮かばれないと信じていた。
「もったいのうござる。わかり申した。どうかお手を上げてくだされ。お許しください。我儘を言いました」庄太夫はがっくと両腕を床につけ涙ながらにシャクシャインに詫びた。
 もうどうしようもないのだ。彼は心の底から新たな決意をし、また大きく溜息をついた。
 こうして十三名のエカシとシャクシャインは死地へ向うことに決まった。逝く者、生き残る者たちは静内川を境に別れることになった。
「吾らはシサムどもに殺されても吾らの魂まであれらは殺せぬ。吾らは魂となってカムイの元へ行くが、必ず皆の無事を見守るであろう。我が一族には別れの言葉は無し。みな達者であれ。やがていつか皆ともカムイの国で再会することになろうが、それは遥かに先のことである。決して今ではない」エカシのチメンバは残る家族を前に力強くそう言った。
「死に逝く我らを哀れと思うなかれ。老いて尚汝らの命を永らえることに役立つ。今まで生きてきてこれほど嬉しきことは他に無し。また逝く者、残る者、どちらもこの先は厳しく険しい道しかない。どちらも楽とは思うなかれ。ただ残る者に言う、一族の血を絶やすことなく、この地を再び吾ら一族の者で溢れるほどに増やすのじゃ。さすればいつかきっとこの故郷に戻ることもあろう。このたびの無念はただ数で負けたとしかいえぬ。そして逝く者の生き様を語り継ぐことも忘れることなかれ、この恨みこそ百年千年と語り継ぎ、シサムの仕打ちがまた厳しければ何度でも立ち上がりあれらに思い知らせてやるのじゃ。この先、生き抜くことがどんなに辛くとも誇りだけは決して捨ててはならぬ。誇りこそが一族の真の魂ぞ。このことだけは汝らの肉に印せ、骨に刻め、血に染めよ」
 そう、誰もが肯き信じた。彼らの残した言葉を誰もが決して忘れないと心に誓った。
 やがて船で川を渡って行くシャクシャインらを見送った人々は静内川の東岸にしばらく留まっていた。そして誰もがシャクシャインの供をしていったアムルイが戻って来ないことを祈っていた。ところが幾時かして西の空、山並みの緑と空の青さの境目あたりに小さな黒い点が動いているのを誰の目にも確認できた。アムルイは生まれて初めて仲間に失望を運んで来てしまったのである。やがて鷹の姿ははっきり見えるようになった。アムルイは足に紐を下げたまま、そうした人々の悲しみも知らず、ゆっくりと羽ばたきながら帰ってきた。そして庄太夫の差し出す腕にいつもどおり止まると羽を休めた。
「皆の衆、もはや是非もない。このまま奥山を目指し行こうではないか」庄太夫は崩れそうになる心を励ますようにそう言った。
 もう二度とシブチャリ砦に戻ることも無いだろう。そのことだけが悔しかったが今は厳しい現実に従うしかないのだ。負けることの悔しさは魂が衰えさせていくのか、胸から太ももへ何かが動きだるくなって、庄太夫は励ますように自分が倒れないように努めた。
”吾らは少しでも生き長らえて戦い、あれらを足止めする。しかし多勢に無勢なればどこまで持ち堪えれるかわからぬ。追手は必ずかかると思い、罠と知れたら少しでも早く遠くへ逃げなされ。何度も言うが皆のこときっと頼みまする”とシャクシャインは最後まで庄太夫にそのことを言っていたのだった。
”それがしも長の望み通り孫ひ孫の顔を見るまできっと生き抜いて見せまする”庄太夫もそう答えてシャクシャインの憂いを無くしてあげた。
 メナシウンクルの者は必要最小限の荷物を背負うと一族の新たな地を求めて出発した。
 彼らが目指す奥山はすでに葉が散りすべてが眠りに入ろうとしている。味気ない木肌を剥き出しにした山並みは時々吹く冷たい風に黄金色の枯葉を舞い上がらせては去っていった。
 何もかもが今終わろうとしている。
 進む者たちに新たな希望はない。
「義兄(あに)さま」
 まだいくらも歩いていないうちに重い足取りの庄太夫のところへ遠慮がちにカンリリカは近付きながら声をかけてきた。
「どうなされた?」
「それがしは、」
 庄太夫はカンリリカの青ざめた顔を見ると何事やあるかと思った。ふたりは山道の端によった。庄太夫は後続の一行を通らせながら彼の話を聞くことにした。
「わしはサポのところへ行きまする」と小さな声でカンリリカは言った。
「ん?」
「ここで皆と別れて我ひとりサポのところへ行きまする。我儘を許してくだされ」
「なんと、」庄太夫はしばらく言葉が出なかった。
「我儘を許してくだされ」即すようにもう一度カンリリカは強く言った。
「サルは、今は松前の家来なれば危のうござるぞ」
 この期に及んでもまだ一族より女を取るのか、庄太夫は失望しながらもカンリリカの気持ちも考えた。若いということはそういうことか、人は理性で物事を決められない。いつも感情の赴くままだ。若いときは特にそうなのだ。恋は心眼を失わせるばかりなのに
「わかっておりまする。それでも行きたいのです。サポに会って本当に我らを裏切ったのか、真贋を確かめたいのです」
「あなたは何を考えているのですか、」
 庄太夫に連れ添っていたカンリリカの姉が横からいらだつように口を入れた。
「そうだとも、」
「お願いです。わかってくだされ。サポが裏切ったとは私にはどうしても思えない。だから会ってじかにサポの口から聞きたい。そして真実裏切ったと知れたら私はサポを殺してくる」カンリリカは肩を怒るようにして吊り上げ真剣な目で二人を交互に見つめた。
「サポは恐ろしきメノコ。あなたの敵う相手ではありませぬ。あなたは命を粗末にするつもりか、父上の最後の言いつけを無にするつもりか、」姉はその肩を小突くようにして弟を責めた。
「そうではありませぬ。姉さま、決して死ぬことなどせぬ。サポとて油断するときもある」
「もし逆にサポが裏切っていなかったと知れたらどうなさる?」
 庄太夫にはサポの立場が手に取るようにわかる。彼女は裏切っていない。シサムはもともとアイヌを人と思っていない。だからみんなを騙すことなどに何の咎も感じていないのだ。サポも我等と同じように騙されたにすぎないのだ。
「私のせいで父上もエカシたちも命を落とそうとしている。私の愚かさが、」カンリリカは青い顔で泣きそうだった。「みんなを苦しめた。この責は負わねばなりませぬ。だからこのままみなと落ち延びるわけにはいかないのです。もしそうすれば私は一生みなの中で肩身の狭い思いをして生きていかなければならない。それにたとえサポが裏切ってなかったとしてもみんなを欺いたのは江戸のニシパです。だから奴を我一人でも必ず殺す」
「馬鹿なことを、」姉は目を見張った。「江戸のニシパはサポどころではありませぬ。大勢の家来に囲まれ容易に殺せるわけがない。それにそんなことをして捕まれば八つ裂きにされますよ」
「捕まりませぬ。私には考えがあるのです。サポの家に潜み、江戸の殿様が福山へ戻る日を待ちまする。そして街道の外れ遠くから隠れたところより鉄砲で狙えば殺したあと十分に逃げられる」と袋に入れた鉄砲を指し示した。
 カンリリカの決心は固かった。
 サポのところに潜むか、庄太夫には彼の本音がわかった。名目も今の彼にとっては確かに本音の一部であろうが、一番はやはりサポか。彼は恋に狂うた燃えるような目で姉を睨みつけている。こうした者は反対すればするほど逆らうもので、果と言ってこのまま彼を死地へ向わせるわけにはいかない。どうするか、このわずかな時に結論など出せるわけがない。あとは…
「そんなことを言うても、」姉は夫である庄太夫に目線を移すと助けを求めた。
「まあよい、」庄太夫は妻の怒りを制した。「カンリリカ殿の気持ちも察せよ。みなの仇を討つことも男として大きな使命なれば、」
 男は名こそ惜しむ。辛い生き方しかできないのだ。彼にすればみんなの中で蔑まされるくらいなら死んだほうがマシなのだ。あとは、カンリリカの運を信じるしかない。サポは悪女ではない。サポもカンリリカを悪くは想ってないことはこの前シブチャリに来たときに気付いた。あのサポならカンリリカに協力してあるいは江戸の殿様を倒すかもしれない。また危難を乗り切る知恵も力ももっている。しかしすべては運か、どう転ぶのか。
「すみませぬ」
「わかり申した。行きなされ、しかし岳父(ちち)上さまの言葉忘れてはなりませぬ。生きること、どんなことがあっても生き抜くことです」
「肝に命じまする」カンリリカはやっと明るい顔になった。
「姉さま、必ずまた会いに行きまするゆえ、お達者で、」
「そなたも気を付けるのですよ。だんな様が良いといったから仕方ないが、わたくしは反対ですからね。いつかきっと、いえ、危ないと思ったらすぐにでも帰ってくるのです。そなたならきっとわれらの居場所もわかるでしょう」
「ええ、無理はしませぬ。それでは行きまする。義兄(あに)さまも姉さまもお達者で、」
「そこもとも、」姉は泣いていた。
 見送る庄太夫らに振り向きもせずカンリリカは西を目指した。
 そのとき庄太夫は透ける身体を揺らせながら彼を追うあの外記がピポクの浜で逢った死神を見た。死神は振り返り様に庄太夫へ向い気味の悪い薄笑いを浮かべていた。庄太夫は驚きながらも、これは幻覚なのだと何度も自分に言い聞かせた。
 カンリリカはそんな庄太夫の心配を背に受けながらやがて藪の中に消え、姉弟はその後二度と会うことはなかった。
 彼が去ってまた虚しい風がみなの周りを吹き出した。
 物事はその流れがはずれると、次々と心とは別にあらぬ方向へ動き出す、それが浮世だと庄太夫は諦め、こんなときは流れに逆らってもかえって悪化するだけで無駄なことはしないようにしようと、これ以上悪くしてはいけないと決心するのだった。
 カンリリカは山を越えけもの道を走ってピポクを大きく迂回しながら二日もかかってサルのサポの家にたどり着いた。
 その頃サポは遣り何処のない怒りに満ちていた。すでにシャクシャインは討ち死にし、庄太夫も捕らえられて火刑にされた。しかもシブチャリの砦は放火されそこに籠る六十余名のメナシウンクルは皆殺しにされたと聞く。きっと愛しいカンリリカも死んだに違いない。騙されたとはいえサポはその片棒を担がされたことが悔しかった。和人などの言うことはもう二度と信じないと思った。あ奴らは人の心を持たぬ鬼じゃ、サポは床も抜けよとばかりに地団太を踏んで怒りを露わにした。
 そのやさきに、着物はボロボロ、身体は泥だらけの痩せこけた男が家の前で倒れるようにして尋ねてきた。サポがいぶかしげにその男の蓬髪を掻き分けて顔を覗いたところ、この者は、サポは心臓が壊れるほど驚いた。 その手の向う、垢顔の中にわずかながら凛々しかったカンリリカの面影がある。
 サポの手は震えた。
 涙が込み上げてこの世を優しく霞ませてゆくのみだった。
 なんということか、何もかもが陽炎の彼方に夢のような世界が見えるようで、溢れる感情は信じられないほどサポを動揺させた。
 こんなことは本当にあるのだろうか。 死んだと思っていた男が山をいくつも越えて会いに来るなんて、これは子どものときから聞いている神々の恋と同じではないか、まるでカムイの伝説の中に自分も入っていったように、サポはこの奇跡に浸っていた。彼女は涙がまたも止まらず流れて、埃だらけのカンリリカの顔にそれは落ちていった。砂に注ぐ水のように。ところが、
「クッ、」と突然サポは吐き出すように息をついた。すると今度は狂ったかのように声を出して笑い出した。それは誰はばかることも無い大声で笑っていた。他人が見ていたらいったい何があったのかといぶかるだろう。サポは気がふれたのか「カムイもやるわっ、」サポは大声で天に向かって叫んだ。
 これまでカムイの過酷な仕打ちを恨んでいたサポである。だがいま彼女はすべてのカムイの名をあげて感謝した。やがてサポは現実に戻ると辺りを見渡した。誰にも見られていないとわかると急いで担ぐようにしてカンリリカを家に入れた。まだうつろなカンリリカの身体を洗い、着物も調えて着せた。苦しそうに喉を掻きむしるカンリリカにサポは口移しで水を与えた。
 彼はそのまま一日眠りとおした。
 翌日、カンリリカを看病したまま彼の胸でサポは眠っていた。その長い髪をなぜる気配で彼女は目を覚ました。サポは嬉しそうに髪をなぜられながらカンリリカを見た。
「イ、ペ、ル、ス、イ」乾いた喉からやっとカンリリカはかすれた声を出した。
 サポは楽しそうにうなずくと立ち上がり食事を作りに行った。やっと重湯を飲んだころカンリリカも元気を取り戻した。
「会いたかった」カンリリカは照れくさそうにそう云った。
「おぬしはわしの男ぞ。もはや誰にも渡さぬ」と言うなりサポは恋人の襟をつかみ一気に引き寄せた。
 ガツンと互いの歯が折れたのではないかいうほどに唇が重なりふたりは抱き合った。ワッとカンリリカが叫ぶように泣いた。サポも泣いた。
 亡夫ウトウとは親同士が決めた結婚にすぎない。が、カンリリカは違う。サポが初めて自分の意志で愛した男である。その男が溢れる想いをもって自分に会うため命がけでやって来のだ。この世のすべての幸せが今の自分にそそがれているとサポは想うばかりであった。ふたりはその日、夜がやがて白むまで眠ることなく何度も何度も愛し合った。
 だがこうしたサポの幸せも十日ともたない。
 ここはあまりにも松前藩の管理下に近く、また泰広は決して落武者に対し手を抜いていなかったのだ。すでにアツマでも何人かのアイヌびとが捕まり磔にされたり松前へ護送されたりしている。この者らは以前シャクシャインと共にクンヌイを目指した。その後幕府連合軍がやって来て松前に協力する者は罪を不問に付すといわれたのである。彼らはシブチャリ砦の落城前後では松前藩の話が違うと不平を言っただけなのである。それで首が飛んだ。このことでもシュムウンクルの者達はシャクシャインの死後時代が大きく和人たちのほうへ傾いていることを誰もが身に染みて知ったのであった。もはや誰もメナシウンクルに同情する者はいない。また同情しただけでも厳しい罰が与えられるのである。アツマでの捕縛はそうした見せしめであった。さらに泰広は厳しい。シャクシャインの死後、彼の名を話すだけでも罰を与えるとう制札を掲げ、今度はシャクシャインの英雄伝説を抹殺することに力を入れた。何よりも死してなお彼に憧れる民族を恐れたのである。二度と彼のような男が現れないようこの名を封殺したのであった。
 シュムウンクルはもともとメナシウンクルとは敵対していた仲であったから、こうした幕府の方針にはすぐ馴染んだ。それがサポとカンリリカの悲劇へ繋がっていくのである。カンリリカの姉とその夫庄太夫が心配したように、サポがメナシの誰かを匿っているという噂はやがて松前藩士の耳にも入るようになった。シュムウンクルの者が呼ばれて厳しく詰問されると、噂は真実だとわかった。「あんなメナシなど匿うサポがどうかしている」密告者はそう自分に言い聞かせた。
 ついに捕り方二十名ほどが音も無くサポの家を取り囲み、
「落武者を渡せ、」と叫んできた。
 それに対しサポはトリカブトの毒をたっぷり込めた鋭い鏃をもって返事をした。
 矢は矢継ぎ早に三本、家の小さな窓から放たれて、あっと云う間に三人の捕り方が倒れた。
「己、百姓の分際で逆らうか、」と番頭(ばんがしら)の武士は叫んだが、再び毒矢の返事が武士の革の胴丸に突き刺さった。
 痛くもないが肝が冷えた。男は怒りを露わにすると、
「ともども焼き殺せ、」と部下に命じた。
 そのときドーンと家から鉄砲が鳴った。カンリリカが撃ったのだ。
 彼は鉄砲に熟れていないので、弓のようにはいかなかった。発射された弾は誰にも当たらなかったが、しかし捕り方らは十分驚いた。アイヌが銃を持っているなど誰も想像さえしていなかったのである。わっと散った。
「ひるむなっ、」
 これではまずいと思った番頭はそう叫びながら松明を持つ者に合図した。遠くから投げられた松明は家まで届かず地面に落ちたものもあるのだが、しかし何本かは届いた。やがて煙が充満し炎もあがった。
 このまま焼け死ぬつもりは二人に無い。
 火の付いた桶を遠巻きにしている捕り方の群れに投げ込んできた。わっとまたも群れが乱れたのを機に二人は勢い良く刀を持って飛び出してきた。ふたりで斬りまくれば必ず生き残る道が見えるに違いない。
「くされシサムが、」
 サポは当たるを幸いいきなりひとりを斬り殺したが、なんとその向うに鉄砲方五人が待っていた。
「ハッ、」サポの切れ長の鋭い瞳が大きく見開いた。
 人の一生など長ければいいというものでもない。
 如何によく生きたか。
 この十日間の幸せを思えば百年の命を貰ったも同じではないか、サポは歯を喰いしばりそう信じた。ついで急ぎカンリリカへ振り返ると目が合った。
 彼の目は濡れていた。
「ルホク アオカ シクヌ、」撃たれる寸前、サポはカンリリカを守って抱きついた。
 しかし鉄砲はふたりを重ねて射抜くに十分な距離にいた。激しい連射音と硝煙の中でふたりは重なるようにして倒れ、息絶えた。
「手間どらせおって、」番頭は胸の矢を抜くと死んだサポに投げつけた。
 矢は、サポが以前カンリリカから贈られた腰紐の鈴に当たって涼やかな音色を立てた。それだけなのに番頭は驚いて一歩飛びのいた。しかし後ろに控えていた家来の誰一人としてその無様な動作を笑わなかった。彼らもヒヤリとしたのである。番頭の武士はそうした自分を恥じて勇気を示すためサポの遺体に近付くとかがんでその鈴を戦利品として取ろうとした。
 ゆっくりとためらうように武士の手が朱の鈴紐にかかろうとしたそのときだった。いきなりサポの白い左手がそれを阻止するように武士の右手を握った。なんと、カンリリカを守るように抱きついたまま死んでいるはずのサポが、いつの間にか仰向けになって武士を睨みながら笑っていた。その口は刺青ではなく本当に耳まで裂けていた。これは、ゲッと驚く武士の喉をめがけ次いでサポの右手が目にも止まらぬ速さで襲った。彼女の右手は血塗られていたが、武士の喉に恐るべき強さで滑ることなく食い込んでいくばかり。女とは思えぬ凄い力だ。首の骨が折れるか、武士は呼吸が出来なくなり目を白黒させていた。脂汗が吹き出てびっしょりと顔を濡らす。ここで死ぬか、武士は左手が空いているにもかかわらず腰の脇差を抜いてサポに抵抗することも出来ない。不思議な力が身体の自由を奪っているのだ。彼は死が迫っている恐怖に叫ぶこともならず、片手を掲げ虚しく震わせているだけだった。汗が目にしみて痛い。彼の眼は真っ赤だった。
「番がしら、どうされたのです?」副官がしゃがんだまま固まったようにいつまでも動かない番頭の肩に手をかけながら不信に思って声をかけたのである。
 番頭は何度か副官に肩をゆすられてゆっくり彼の方へ振り返った。副官は番頭の振り返った顔を見て驚くように一歩引き下がった。番頭の顔は青白く額にびっしょりと脂汗をかき、赤い目は焦点が合っていなかった。彼はしばらく副官を見るとはなしに眺めていたが、やがて我に返ると自分の喉をなぜながらサポの方をまた見るた。サポはカンリリカに抱きついたまま死んでいた。そのままだった。
 生前の彼女に対する伝説の恐怖が幻覚を生んだのか、サポとは死して尚そういう女である。他の武士らも番頭の異変に気が付き不気味に思いしばらくサポの遺体から目が離せなかった。しかしその横に倒れている男がシャクシャインの息子カンリリカだと注目する者は誰もおらず、わかったのは後のことである。
 サルのシュムウンクルもみなサポを裏切ったことを恐れた。
 何よりも死してのちの、サポの荒ぶる魂の復讐を恐れたのである。襲った武士の頭が不思議な目に合ったこともすぐ噂で聞こえてきた。彼女は必ず復讐してくる。間違いない。どうしよう、人々は震えた。何とかしなければ。とりあえずそれを鎮めようとしてサポとカンリリカを並べるようにして手厚く葬った。しかしカンリリカだけは首を打たれてしまい、実見されるために塩漬けされた首はピポクへ運ばれたのである。
 このあと冬も近いというのについに不思議なことが人々のうえに起きた。
 サポの墓標に巻きつけた腰紐の銀の鈴が、風もないのに鳴っているという噂が流れた。それから幾日もしないうち、この地方に大雨が降りだした。雨はあまりにも激しくて、その強さだけでも屋根がつぶれてしまうのではないかと人々は恐れたものだ。そして一日中稲妻が落ち、地も山も家々も振るわせ続けていった。 天を張り裂くかと思われるこの雷鳴に誰もが肝を冷やし、みんなはあらゆるカムイに祈りをささげて雷神の怒りが一刻も早く収まることを願った。そのとき人々は遠のく雷鳴の合間にサポの激しい笑い声を聞いたのである。
 天の水瓶をサポが壊した。
 今でいえば寒冷前線と低気圧が重なったのだろうか。確かにこの時期こうした異常気象が起きることがある。激雨は三日三晩続き、さしもの巨大な沙流川も耐え切れず大氾濫を起こした。現代のように頑丈な堤防で囲まれていないこの大河は一旦決壊するとどこまでも続く平野に激しい大水軍を攻め込ませていき、このため多くのシュムウンクルの家は壊され人が流された。
 これをもって誰もがこの災害はサポの祟りだと信じたのは当然である。人々はこの現状をピポクの侍に訴え何としてもカンリリカの首を返してくれと哀訴した。泰広は別に祟りなど信じなかったがこうした者達を哀れに思い、すでにカンリリカと確認した首を返してやった。ただ証拠の一部を残すため耳だけはそいだ。この耳はシャクシャインらも同様にそがれて一緒に福山へ運ばれ、のち埋められたのである。それは今も耳塚として福山の松前城大手門裏近くに残っている。
 ただ泰広はカンリリカがサルに現れたことに驚いた。彼らは東を目指したように見せかけて西へ逃げたのだろうか、庄太夫ならやりそうなことでもあるか、しかしこの地方は元々松前藩に協力する者が多く、庄太夫らの顔も知れている。長く潜むにはどう考えても無理がある。すでにこの地方でもアイヌ民族に対する引き締めを強化しており、アツマのこともそうだ。ゆえにこのたびの結果も生んだ。やはり庄太夫が西へ向ったということはないだろうと思う。またサポがカンリリカをかばって死んだことにも疑いをもった。サポとカンリリカが男女の仲であるとは泰広も想像がつかない。ふたりは十、あるいは二十も歳が離れているであろう。しかしサポは二十歳といえば二十歳にも見える女だ。所詮恋などというものは見てくれが一番か、泰広は色々頭を巡らして見たが結論がでないままでいる。まさかシュムウンクルがいまさら裏切ったとも思えない。いったいどうなっているのか、何か想像もつかない仲間割れでもあったのだろうか、まあどちらにせよ来年にはわかるだろうと泰広は思った。




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