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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第20回   最終決戦へ
     最終決戦へ

 突然,シャクシャインが心変わりをしたのはなぜだったのか、どう考えても庄太夫には納得がいかなかった。
 冬に備えての食料不足は鹿がピポクへ移動することで、オニビシと争っていたころのように強引に取りにいくと行く云う訳には確かにいかないだろう。あの江戸の大将のことだ,抜かり無く見張り、そこへ行けば当然敵兵が大勢で待ち構えているのは必須である。今のところ我等がこのシブチャリ砦に籠っているからこそ安全で、敵の十倍の包囲網ではここに籠る意外安全は何処にも保障されない。庄太夫には、この天涯の要地を持って、彼らと永久に対等でいようとしていた。狭いとはいえ、ここに独立した藩を設立し、いつまでも松前藩や幕府の言いなりにだけはなりたくなかった。ところが冬になれば、北側の大森林の木の葉も背高の草もみな枯れ落ちて見通しがよくなり、よって敵が恐れるゲリラ戦が出来なくなると、北側の守りはまったく要塞の意味を無くしてしまうのだ。ここを大軍でせめられれば、シブチャリ砦はその辺のチャシと同じで難なく敵の手に落ちるだろう。かといって冬場だけでも山奥に潜んでもその間に砦が占領されてしまっては、春になって帰る家も無く、どうにもならなくなる。また逃げて蝦夷地全土を探して見てもこれほどの要地は存在しない。となれば,この先残される手はここを脱出して西蝦夷の者らを頼るしか無いだろう。が、族長はこのまえの乱の誘いにはのらず、もともとシャクシャインとの対抗意識も強い傲慢な男で、今も頑なにその巨大勢力を保っていて松前藩とも交流が深く、いまさら落武者をかばって、あえて和人とも争う気はないのはわかりきったことで、あえてあの男の腹の中を考えるほどでもない。これはどう考えてもこの場ですぐにでも何とかするしかないのだ。となれば十倍の敵を相手に木の葉の落ちきる前に決着をつけなければならぬ、それにはどう戦えばいいのだろうか
 昨夜、宴のあと庄太夫はシャクシャインのところを訪れて今日の和議のことについて話し合っていたのだった。
「どうしても行かれるのですか、」庄太夫はまだ諦めきれないのである。
「もはやこの期に及んでは、これしかありますまい。これで最後でござる。吾の意地通させてくだされ」
「まだ、どうしても他に道があるように思えて納得できぬのです」
「婿殿、吾がみなの長である以上、この道しかありませぬ」
「罠に長自らはまることが我が一族の道であるとはとても思えませぬ。戦には決まりはありませぬが、ただ勝てばいいというあれらの、そのためにはウタリのような純朴な人々を欺いても平気で勝ちたいというその腐った根性の侍どもがわれは憎いのです。怨んでも怨んでもはらわたが煮えくりかえる怒りでいっぱいでござる。なぜ大軍を配しているくせに堂々と闘わぬか、さむらいのくせに姑息なあれらは我等を知恵なしでケモノごときほどにしか思わず、なれば罠を仕掛ければ簡単に落ちると踏んでいる、馬鹿にするのもいい加減しろとわれは云いたいのです。あの連中は、さむらいという前に人として道に反しているではありませぬか、あっちが有利なら何をしてもいいというのがわれは憎い。それを知っていて何故に長は屈辱的な罠に飛び込むつもりであろうか」憤怒の庄太夫は青ざめた顔で身体を震わせていた。
「吾が軍の軍師として活躍した婿殿のその怒りはもっともなれど、しかし罠は敵の勝手な仕草。吾はあのような奢った馬鹿者どもの罠にはまるのではなく、この戦にケリをつけたいだけのことでござるよ」
「自ら死することがですか、」
「一族がそれで生き残るならこの命惜しくは無い。もはや吾は十分に生きた。婿殿のお陰で奴らに一泡吹かせることも出来た。これ以上望めばただ生き恥を晒すだけのことなり。吾の怖れることは死してのちその恥じを晒すことである」
「ならば、もはやそのことは言いますまい。ただしこのまま騙し討ちで終わることはなされますな」庄太夫はきっとシャクシャインを睨むようにして云った。
「なんと、」
「どうしても長が行くとしたならば、お志きっと嵩ければ頑として説を曲げぬと思い、だからそれがし考えました。もう一度戦いませぬか、これで最後というならそれがしももう何も言いますまい。ただひとつこれだけは長のためにも我らのためにもやりとうござる、最後の戦をば。我等にみじめな最後は似合いませぬて」
「さても何をでござるか?」
「どんなに堅牢な城でも中から突けば脆いものです」
「うむ?」
「和睦と称し、長が敵の砦に入れるのは逆も真なりと、これも考えようによっては天佑かもしれませぬ。長がそこで頃を見計らい戦ったなら、それに呼応するように夜陰に乗じて我らも砦に潜入し共に戦いまする。これならばたとえ相手が十倍の数でも不意を浸かれた敵は混乱し、あわてれば勝利が我等に叶うかも知れませぬ、たとえそれで負けても奴らに一泡ふかしやれるではありませぬか」
「ほう、面白い。ただもし和議が本当ならどうなされる。また敵がそちらへ鎮圧に向かうとすれな,そのときはどう汝らに報せればいいのだ」
「和議が本物かどうか、早くに知る法はありまする。またそれをこちらに知らせる法も、」と言って庄太夫は次のようなことを話した。「敵は長をピポクで亡き者にしたあと翌日にでもこのシブチャリを襲う。となれば騙し討ちのことすぐにこちらにも発覚してこの砦が守りを堅くするとあれらは危惧するでしょう。そのため同時に両方を騙し討ちにするのが得策と考えているに違いありません。サポがここでも祝いたいと言っていたのは裏に江戸の殿様の思惑があるからです。だから長が実際にピポクへやって来るのを確認したらば敵は直ちにこちらへ軍勢を指し向ける所存でありましょう。そのためきっとあれらは新冠川のほとりに大勢で出迎える振りをして待っているに違いない。そこで注意深く見てもらいたいのです。軍勢がたとえ儀礼のための行軍でも武器を所持して歩くは習いですからこれは仕方ありません。が、それには槍は鞘に収め、弓は弦をはずし戦う意志のないことを示すのが武家の作法でありまする。それが為されているかどうか、お確かめ願いたいのです。奴らに殺意があれば意外とそうしたことを怠っているものです。また我らはそうした作法を知らぬだろうとたかをくくっているやもしれませぬし、」
「なるほどのう、してそれを報せる方とは、」
「それはですね、」庄太夫はそう云うとシャクシャインに詰め寄った。「アムルイを使うのです。あれは誰もがほしがる立派な鷹です。だからアムルイを松前の殿様に献上すると言って連れて行きなされ。そして砦側に殺意があると見抜いたならただちにアムルイを逃がすのです。さすればアムルイはまっすぐここへ飛んでくるでしょう。それで我らは和睦が偽りだったと知りまする。そのあとは街道を避け、山の間道伝いにピポクへ迫り、中の様子を窺いながら長達が戦う音に合わせて我らも突入する。これでどうでしょうか、」
「なかなかよき謀でありまするな」シャクシャインは長い白髪混じりの顎鬚を手でしごきながら感心したように肯いていた。
 そうした前夜の打ち合わせの確認が、いまなされようとしている。知らぬは瀬兵衛ばかりか
 今、新冠川のほとりにあってシャクシャインは庄太夫に教えられたとおり新井田瀬兵衛の率いる軍勢を細やかに観察していた。確かに庄太夫のいうように槍を持つ者は抜き身のままでひとりも鞘に穂先を収めているものはいなかった。鉄砲組もみな火縄を腰に吊るしているが、さすがに縄に火を着けてはいなかったが、何人かは火壷を腰にぶらさげていた。
「やはりのう、」シャクシャインはがっかりして独り言をつぶやいてしまった。
 淡い期待も虚しく悪い結果を知りて、これでついに本気で死を覚悟するということになれば心体的にもかなり疲労するらしい、突然、脳は重く傾き、胃は鉛でも呑んだように重くなり、太股のあたりもだるくなり、何よりも肩と首がひどく凝りだして血流が詰まって憤怒だけが異常に沸き立つと、もう何も考えずにこのまま瀬兵衛と刺違えて死んだらきっと楽だろうかとさえ、一瞬思った。血圧が下がったのか、それはかるいめまいのようであった。
「何がでござる?」瀬兵衛は作戦が気付かれたことなどとんと知らず、怪訝そうにシャクシャインを見た。
「いやいや、独り言でござるよ」思っていたよりも死が目前に迫っていることにうろたえ、うっかり顔に出していたとしてシャクシャインは肝を冷やした。それにしてもこのくっそったれが、このまま首の骨でも折ってやろうかと腹だたしげに思いながらも「さて吾らはこの和睦が成り立ち、祝いにと思い祝儀を持って参りました。お受け取り願いまするかな」と無理に言いつつ相手にあまり顔を見せないようにした。
「ほう、それはご丁寧にいたみいりまするなあ」どうも瀬兵衛は暢気で、このときのシャクシャインの殺気も憤怒も何も感じてはいないのである。
 そういうとシャクシャインらは皆身に着けていた太刀や鎧を取り始めた。
「これらの武具はみな先祖より伝わりし由緒あるものばかりで、吾らの宝でありまする。何卒お納めくだされ」
「おう、何と言う心遣い。重ねてお礼申し上げまする」
 瀬兵衛はしめたと思った。向うが自ら武装解除してくるなんてこんなありがたいことはない。鎧を解いた中にみな着物の上から煌びやかな蝦夷錦の長いゆったりした山丹服を羽織っていた。頭にサパウンペを冠している。これが正装なのか、と瀬兵衛は見とれてしまった。ただ、その右肩の中から鹿の革紐が垂れていたが、瀬兵衛にはその意味はわからないし、気にもしなかった。
「それとこれは松前の殿様に贈りたいと思います。名鷹でござる」そう言ってシャクシャインは腕に結んでいるアムルイの足を縛った紐を解いて、彼女を見詰めるとわずかに合図をしたのである。
 それから恐る恐る出した瀬兵衛の腕に載せた。アムルイはじっと瀬兵衛を睨んでいる。瀬兵衛は仕方なく愛想笑いを鷹向かってしたその時、突然彼女は瀬兵衛の目を狙って嘴を突き出した。吃驚した瀬兵衛は仰け反ってアムルイを載せた腕を払った。アムルイに目など本気で突く気はなく、彼女は羽ばたくと一気に空を目指した。
「ありゃあ、何と逃がしてしもうた」シャクシャインはわざとらしく驚いて見せた。
「なんてこった。もったいないことを、拙者がきちんと紐を掴んでおったなら」瀬兵衛も悔しそうに驚いて空を見上げている。
 シャクシャインは鼻の下を指で擦りながら懸命に笑いを堪えていた。アムルイは空高く上がると大きく旋回しやがてシブチャリを目指しゆっくりと飛んでいった。それを見送るシャクシャインは、これでいいのだと、心の中で秘かにつぶやいた。
 それを一部始終もうひとりの男がピポクの砦の中にいて見張り台から見つめていた。
「やはりのう、罠と気付いたか」そうつぶやくと泰広はそばの小者に何か耳打ちした。「夷どもに気付かれないよう、瀬兵衛に今話したことを伝えよ」
「かしこまりました」小者は急いで裏木戸を目指し駆けて行った。
 それを見届けると泰広は砦の隅にある自分の住居としている粗末な小屋へ入っていった。彼が小屋へ入っていったのを見て別の小者が白湯を持ってやって来た。
「すまぬがのう、ちょっと権左を呼んで来ておくれ」泰広は外が寒いせいもあって白湯を美味しそうに飲みながら言った。
 佐藤権左衛門は中々こなかった。やがて、
「遅うなりました」と裃姿で駆けるようにしてやって来た。「夷どもが丁度今着きましたもので、」と言い訳しながら中に入ると一礼して泰広の前、囲炉裏を挟んで下座にかしこまって座った。
 泰広はいつものようにそばにある文机に向い矢立の小筆でなにやら書き記していたが一段落したのか手を休め権左衛門を見た。
「今は夷のことこそ肝心なので、それがしの用など後でいいのですよ」泰広は相変わらず相手を安心させる微笑みをもって語りかけ「ところで夷はこれが罠と気付いているようですな」と本題をまるで茶話のように言いだした。「それで渋舎利に向う瀬兵衛殿には使いを出しました。こなたも打ち合わせどおりかかりますようお願い致します」
「奴らは気付いていたのですか、」佐藤権左衛門は心底驚いた。「では騙されたとわかってなおここへ来る。いったい何のためなのでしょう」
「もはや夷が我らに勝つとすれば法は一つだけです。肉を切らせて骨を断つ。捨て身の戦いです。この砦の中と外から同時に攻撃すれば砦は混乱して落ちると踏んだのでしょう。中々やりますな敵も。権左衛門殿が思うている以上に夷は賢い。油断めさるな」
「はい、かしこまりました。それでもなお最初の打ち合わせどおりでいいのでしょうか」
「かまいませぬ。気付かれようがなかろうが、やるのはおなじことでしょう」
「はあ?た、し、か、に」そんなものか「ところで御大将はなぜ夷がこちらの罠に気付いたと知ったのでしょうか?」
「鷹が教えてくれました」
「タカって、鳥の鷹でしょうか」
「そうです」
「???」
 囲炉裏の小枝がバシッと撥ねた。
「それでは何事も無き顔にてせいぜい歓待することですね」
「御大将は席に顔を出しまするか、」
「あれらがこれは罠と気付いた以上、それがしは季節の変わり目で風邪を引いて臥しているとでも言っておきなされ」
 泰広はシャクシャインが自分と刺し違えるつもりでいることは最初からわかっているのだ。だから生きている彼とは会わない。彼と対面する時はシャクシャインが首だけで現れるときだろう。
「はっ、かしこまって候。それではこれにて、」
「少し待ちなされ、」そういうと泰広は文机の上の紙をとって、「これを敵の大将へ渡しなされ」とさきほどまで書いていたものを渡した。
「和睦の起請文でござりまするか、」受け取りなが権左衛門はそれを見た。そこには熊野権現の牛頭馬頭の大きな印がある。「これは本物ではありませぬか、」
「そうです」
「よろしいのですか、」
「それでいいのです。真に敵を騙すためなら神をも欺く。そうでしょう?」
「…」神を騙すなど自分には出来ない、と権左衛門は思った。
 この時代、神は圧倒的な存在感をもって人々の上にいる。特に熊野権現の誓詞は絶大な信用を人々に与えていた。古き時を経てなお一層民間信仰は骨の髄まで人の心に染み込んでいたのだった。だから神を怖れる権左衛門の考えこそがこの時代は正しい。それなのに泰広は何の怖れもなくその神々に嘘をつくとは、権左衛門には彼が魔人のように見えた。やはり八左衛門様は非情の人なのだろうか、いつも静かで優しく感じる人だと思っていたのに、それがこれか、人はわからぬものだ。まったく本当の八左衛門様はどちらなのか、それにしてもこの人が敵でなくて本当に良かった。そう思いながら誓詞を丁寧にたたんで彼はそっと大事そうに懐に入れた。
「では、行って参りまする」
「気を付けて、あとは首尾よう行くことを祈っておりまするぞ。また敵が釈舎院らだけでないことを忘れぬように、」
「それではその段取りをしてから酒宴の席に行きまする」
「権左殿は釈舎院を討取ることだけを考えていなされ。そちらはそれがしが指揮を取りますゆえ」
「これは、失礼いたしました。それではこれにて、」
「くどいようだがくれぐれも気を付けて、向うも気付いていること決して忘れてはなりませぬ」
「心得て候」佐藤権左衛門は泰広の前でワザとらしく刀の目釘を確かめると素早く去っていった。
 それにしても向うから武装解除して来た者に何ができるというのだ、と権左衛門は歩きながら思った。どうも御大将は考えすぎなのだ。いい人だが神経質すぎるところもある。だいいち人数にしてもこちらは圧倒的に多い。あやつらが素手で何かしたとしてもたかがしれているではないか、これが権左衛門の思考の限界だった。泰広ならこうは考えずに、自ら武装解除するということ事態何か企んでいるに違いないと疑いを持ってしまうだろう。ただここで蛎崎派の権左衛門を失うのも泰広にすれば計算の内だったのだろうか。
 普通、人は感情で動く、だからそこに愚かさも人間味ある暖かさも感じるのであってこの世は善しとすべきなのだが、しかし利発な者は感情よりも理詰めで物事を考えてしまい、理は整然として冷たく感じるものゆえに、権左が泰広に、言葉優しくとも何処かに非情の人ではないのかと迷う気持ちもあるのだった。
 シャクシャインの企みを思えば、彼は和人側の将である権左を少なくとも道ずれにする気でいるだろう。彼が命を賭して此処へ乗り込んできたのは最低限それなりのものを地獄へ連れて行く気であるはずだ。その決心は泰広には手に取るようにわかる。だから自分は権左衛門に何度も注意するよう言ったのだ。あとは権左の運しだいだろう。と思うところからしてここでも泰広は理詰めの人と言われてもおかしくない。
 ところが神を裏切る誓詞を懐に入れて歩くうちに権左衛門もなにやら嫌な胸騒ぎがした。自分の運は尽きていると不吉なことを考えるようになった。自分とて誓紙の裏切りに加担しているのだから、これを神が見逃すはずはない。きっと見ていなさる。となればこの身にも悪いことが起きるのではないか、まずいぞ、どうしよう。
 さきほどの自信を考えれば考えるほど逆にそれが無くしかけていくのだった。これではいけない、何も悪いことなど起きるものか、相手はたかが蝦夷ではないか、簡単に騙せるさ、そうだとも、少しも案ずることは無し、と云えるか?
「今夜は荒れるかも知れない」外は秋の名月が天を照らす、誰もいなくなった木戸を見て泰広はぽつりと言った。
 瀬兵衛らはシャクシャインが川を渡り見えなくなるとすぐに菰樽や長持から武具を出して身に着付けた。それから同じように川を渡り、泰広から言われたとおりピポク砦北側の森の中に三百名は身を潜めたのである。夜になればシブチャリの奇襲部隊がこの北側の緩やかな山から忍び寄って来るだろう。そこを後ろから襲撃して皆殺しにせよ、と泰広は言う。敵は日暮れと同時に来るだろう、なぜなら早く来なければ人数の少ないシャクシャインたちが中で暴れてもいかほども保たないからだ。
「それにしても御大将はなぜ蝦夷が罠に気付き捨て身の戦法で来るとわかったのだろうか、我らにはさっぱりわからぬ。まったく陰陽師のような人だ」と位置に着いた瀬兵衛はぼやいた。
「それにしても最初の謀のままで行けば我らは誰もいない敵の砦を襲い、いい虚仮にされるところでありましたなあ」といつものように横にいる今井小次郎がいった。
「まったくその通りよ」と瀬兵衛は言いながら西の空を見た。陽は落ちようとしている。東に大きな白い月も出ている。「そろそろ来るぞ。これより先、話合うことを禁ずる。あれらはケモノの耳と目を持っているのだ。それにケモノの足もだ、へたに気付られれば、この後ろからだって襲われるぞ、みな心せよ」
 一度ならず瀬兵衛はひどい目にあっている、それを知っているから緊張がさっとみんなに走った。
 これがため森は黒い布でその身を包み,三百の兵を呑込んでしまった。誰も死ぬのは怖い、やつらと森で戦うにはやつらと同じく身を木々の一部と化さなければならないことはのは周知のことであった。
 ついに陽は傾き、やがて地上の人間どもの思惑を叶えるよう急ぎ暮れた。
 ピポク砦の中央にある大きな屋敷では明かりが煌々と灯された。中は昼間のように明るくなった。
 そして和議は始まった。
 アイヌ軍側は文字を読めなかったので、権左衛門が両方の誓紙を読み上げた。内容はすべてアイヌ民族に有利なことばかり書かれてあったのである。それにシャクシャインが血判を押し、権左衛門が花押を入れた。誓紙は互いに取り交わされてここに和睦は成立した。
 次いで席は祝宴へと移った。
 ご馳走を山のように載った膳が次々と配ばれてきた。
 シャクシャイン側が十四人、幕府連合軍は十五人ほどが向い会うように並んで座った。武士たちも無腰のアイヌびとに合わせて脇差だけの姿だった。両者を隔てる前には暖を取る為の火桶が七個ほど置かれている。和議の最中は全員かしこまって緊張していたが、宴会が始まり出すとみな気楽になり砕けて話すようになった。互いに先ほどまでは敵同士で殺しあってきたが今は共に平和を祝う仲間なのである。誰もが嬉しそうだった。酒が入るにつれこれが本当は偽りの和睦なのかと信じられない気がする。権左衛門は慎重であった。すぐには毒を盛ってアイヌ軍を殺そうとはしない。狙いはシャクシャインひとりである。彼さえ殺せば後はどうにでもなる。泰広は外から敵が攻めてくると言ったが、シャクシャインがこのまま毒で静かに死ねば、外に音は漏れず、奇襲組にしても万が一を考え、砦の中に異変を感じない限り攻めては来ないはずだ。そう権左衛門は考えた。何度もいうように毒を盛って殺すのはシャクシャインひとりでいい。奴ひとり声を出す間もなく黙らせれば外に異変が洩れることはない。残りは爺々ばかりである簡単にいくだろう。あとはこちらの都合のいい時を見計らえばよいのだ。シャクシャインにしてもこれが罠なのか本当の和睦なのかまだ本当は迷っているに違いない。あせるな、ゆっくりと奴を酔わせて確実に仕留めるのだ。オシャマンベ峠で恥じをかかされた恨みを今夜こそ晴らして見せると、権左衛門は密かに思った。それでも彼には逸る気持ちがあったのだろう。シャクシャインはいまや庄太夫や泰広によって広く伝説の男として知れ渡っている。シャクシャインは不死身なのだ。最初、酔いつぶれた時を襲えばいいだろうという考えがあったのだが、しかし相手がシャクシャインとなれば何が起きるかわからない。しかも最初からこの和睦が罠だと感づいているという泰広の考えを信じれば、油断は禁物なのだ。となれば毒を盛って一気に殺してしまうのが一番手堅いだろうとシャクシャイン暗殺計画の謀議の席でこの手に決まった。それでも権左衛門は不安だった。すでに武装解除し身に寸鉄も帯びていないとわかっていても、もしこの不死身の男だけ毒は効かないとなればどのような事になるかわからない。そうあって毒は馬でも一瞬にして倒れる猛毒のものにした。たとえ奇襲組に知られるような騒ぎになってもこの場であいつを殺してしまえば、あとは八左衛門様が何とかしてくれるに違いないのだ。
 酒宴が始まって四半刻もしないうちに権左衛門はそばの者に耳打ちすると毒の入った酒器を持ってこさせた。それを受け取り自らシャクシャインに勧めるためゆっくりと近付いていった。落ち着くのだ、と自らを戒めるのだが、どうにも緊張してしかたないのである。わずかに酒器を持つ手が震えてくるのはどうしようもない。
 シャクシャインの左隣には一行の中で一番老いているエカシがいる。
 十四人はここへ来る前に話し合っていた。敵が予想どおり一行を毒殺するとしても十四人を一度に毒殺することは不可能である。一斉に乾杯する習慣はまだこの国には無い。酒宴は場の雰囲気で主役が箸をつければ自然と始まると言っていい。となれば毒を持って殺せるのはひとりに限られることになる。それは誰か、考えるまでも無いだろう。そこでエカシがシャクシャインの毒味役に名乗り出た。
「わしはみなの中でも一番歳老いておる。この和睦が敵の罠とわかったあと、みなと共に戦うことはとうてい叶わぬであろう。きっと足手まといとなる。ならば自分に出来る役割は何かと言えば毒味しかなかろう」と言うことで話が決まって一行はやって来たのだった。
 長老が長の隣に座ることはおかしくない。
 シャクシャインも権左衛門同様慎重だった。エカシが箸をつけて食べたものを少し間を於いてから同じ物を食べた。それを幕軍側に悟られないように間に話し掛けたりという気遣いをしていた。なにせ今ここで自分が一番先に死んではすべての事が無駄になるのだ。なんのために此処へ来たのか、十四人のなか最後の一人に自分が生き残らなければそれは意味の無いものとなる。
 佐藤権左衛門は毒入りの酒が入った指樽を持ってシャクシャインの前に慇懃に座った。いま気付かれまいとして逆に彼の心臓は早鐘のように打っていて顔は蒼白であった。まったくおれは荊荷にはなれぬなと自覚するばかりであった。
「祝いでござる。とっておきの酒を用意しましたぞ。殿様でなければ飲めない灘の銘酒でありまする」と権左は引きつった顔を無理に笑顔で粧い、声もわずかばかり普段より高かった。
 指樽は祝儀の時に使われる漆塗りのものだった。
 特別な酒とな、これがエカシにとって肯かすものであった。
 もう権左衛門は見え見えで、眼にもわずかな脅えがあり、それを覗き込むように見て演技の下手な奴だとエカシは可笑しかった。権左衛門はそれでころではなく何とか役目を果たそうと、もう喉が異常に渇き声が出なくなるではないかと怖れたのだが、早くシャクシャインに飲ませなければと思いながらもここで焦ればすべては水泡に帰す、筋肉の緊張を解け、失敗は許されないぞ、そう励まし自分に言い聞かせても芝居の山場となれば、緊張で自らの集中力が緩んだ。エカシはじっと権左を見つめそのタイミングを外さなかった。
「おおっ、」エカシは間違いないこれが毒であろうと思ったからヒョイと中腰になると酔った振りをして権左衛門から指樽を取り上げた。
「あっ、」と油断していた権左衛門は我に返り叫んだがもう間に合わない。
「目出度し、目出度し、こういうものはまず年寄りから廻されよ」と言いながらエカシは歯で詮を抜くと一気に酒を口中に入れた。
「不味い酒だ、」入れてすぐ毒だとわかったが吐き出さない。
 最初から死を覚悟で乗り込んで来ているのであって、かれはここで長のためになれば自分の役目は終わりであると思っている。迷わずゴクリと毒を飲み込んだ。それはいきなり胃袋に火を入れたようだった。全身が高熱で燃えたように感じたとたんにしびれが襲いついで寒気が走った。胃袋が一気に溶けて
「ぶわっ、」と叫びながらエカシは血を吐き前の膳部にのめり込むようにして倒れた。
 ガシャーンと傷ましい音が響いた。
 この場の全員に血の下がるような驚きが襲い、倒れたエカシを見た。
 まさに思惑どおりに進まなかったこの場に、緊張がすべての者の身体を貫くように走った。
「謀ったかっ、」と叫ぶより早く立ち上がるとシャクシャインは左手で右肩の紐を引いた。
 その紐は山丹服の内側背中に隠していたタシロの飾環頭に結ばれている。さっと引き出た柄を右手で掴むも早く肩越しに抜き様、驚いて首を伸ばしていた権左衛門へと一気に振り下ろされた。
 彼には、すでにこうなる準備は出来ている。
 一瞬の早業だった。
 ガツンという骨を切る音がした。タシロは鉈のような形をした短いが幅広で肉厚のある山刀である。これなら片手でも十分権左衛門の太い首を落とすことが出来きた。
 ドスンと鈍い音が床板を揺らす。
 権左衛門の首は驚いたままの顔でアイヌ側の席へゴロゴロと音を立てながらゆっくりと転がっていった。首のない権左衛門は己の首を追いかけるように手を差し出したまま前のめりに倒れていく。彼の手は首を取り戻すことが出来ないまま火桶を掴むようにして倒れた。なおも首から噴出す血が燃える炭にそそがれてジュッという音とともに一面灰が舞い上がった。
 ついで火桶を抱いた寂しい胴体をシャクシャインは幕軍席へ向かって蹴り上げた。
「吾をたばかり汚き仕打ちをせり。それでもさむらいかっ、」と同時にシャクシャインは怒鳴った。
 首から血を噴出す胴体はまだ盃を持ったまま唖然としている武士へ飛んでぶつかり、これをもって座は騒然となった。
 これが合図なのか他の、十二名のアイヌの老兵もみな隠し持ったタシロを背中から抜くと対面の敵へ飛び掛っていく。武士たちも脇差を抜いて応戦したが不意を打たれて形勢が悪かった。
 これでは襲うほうが襲われている。逆ではないかと侍たちが思ったとき、そこへ満を持して武装した槍組が、控えていた隣室から襖を蹴飛ばしながら突っ込んで来た。
 宴席の武士たちはそれを機にみな外へ逃げ出した。
 あわてたのか戸板を破りながら庭へ転げ落ちた者もいる。
 シャクシャインたちは打ち合わせどおりすぐに部屋の灯明を消した。周りは闇となった。とはいかない。
 月明かりが破られた戸板のあとから差し込んでいる。
 それでも中がどうなっているのか確認しづらい。
 シャクシャインたちは夜目も利く。
 ふたり掛りで槍組を襲っていた。
 このため槍組も混乱してしまった。
 薄暗い闇から音も無くアイヌ兵が襲ってくる。誰もが槍を持つ手を汗でべっとり濡らしながら、槍を水平に振り手探りで敵を探していた。
 十三人のアイヌ兵はみな奥の壁にへばりついていた。
 そこを通過する槍兵を後ろから羽交い絞めにするようにして襲った。
 ついに槍組は耐え切れずに悲鳴を挙げながら外に撤退した。
 十三人の老兵はそれを追うようにして濡縁まで迫った。庭へ、
「くそっ、」誰かが叫んだ。
 なんと、庭には五十名ほどの鉄砲方が二列横隊二段に整然として並んでいた。
 火縄はすでに火鋏に差し込まれている。
 火蓋も切られていた。
「放てっ、」
 鉄砲方組頭の号令が秋夜の青白い空気の中で白い息と共に発せられた。
 さすが泰広は味方の能力を信じておらず、敵を絶対殺すため三段に備えていたのである。
「あっ、」と叫ぶ暇もなく十三名は死神がそこにいるのを見た。
 夜空に凄まじい射撃音が連なり、硝煙が噴出された。
 十三名のうち半数が弾かれるようにその場で倒れた。
 残りは走るようにして中へ戻ったがそこへ後列の鉄砲が咆哮する。
 その後、不気味な静粛が夜のしじまに戻った。
 泰広は砦の北側にある門の内側に百名ほどの兵を伏せて庄太夫らの奇襲を待ち構えている。そこへ銃声音が聞こえてきた。彼は振り返ることもせず、自分の兵らに告げた。
「いよいよ、来まするぞ」
 山に潜むアイヌ軍の奇襲部隊はこの銃声を合図に砦の土塁を音もなく乗り越えてくるだろうと、泰広はそう踏んでいる。彼らが土塁に迫ればこれを迎え撃ち、森に隠れている瀬兵衛の部隊が後ろから突撃して挟み撃ちにする。これでアイヌの反乱軍はすべて壊滅できるだろう。それにしても、と泰広は考えた。月が明るい。あれらにも鉄砲がある。
「鉄砲は遠くから敵の将を狙えますな」仁兵衛老の言葉が頭を過ぎった。
 握る馬鞭がわずかながら汗ばんだ。緊張か、
 一方、シャクシャインが立て篭もる屋敷のほうも二百名の軍勢が取り囲んでいる。シャクシャインだけは絶対逃すわけにはいかないのであって、誰もが寒い夜空のなか緊張していた。そのなか何度も、銃弾は暗らい奥に潜むシャクシャインに向って文字通り闇雲に発射された。しかしこうした思い込みで撃つ銃はなかなか当たらないものである。
 ついに包囲網二百名の将、松前儀左衛門は雑兵に龕灯を持たせると中の様子を見に行かせた。雑兵は龕灯の一方向へ伸びる明かりを頼りに及び腰で屋敷の中に入っていった。屍がいたるところに転がっている。床も血糊ですべる。何度も転びそうになった。殺された人間とはこんなにも血が出るのだろうか、血糊の無いところを探して歩くのが難しい。血といい,屍といい、それらは凄まじい光景で、一人ではとてもじゃないが地獄絵と化したこの部屋の奥までは進めなかった。雑兵は入り口から数歩入ったところでゆっくりと龕灯を廻して中の様子を窺ったが、誰もここには生きている者がいるようには見えなかった。それでもアイヌ兵は気配を消すことに長けていると仲間から噂話で聞いているので油断は出来ない。
 ついで龕灯の薄暗い火明かりは奥の壁を照らした。すると照明の中に、突然、壁にもたれて座りこちらを睨みつけているシャクシャインの血だらけの顔が浮かびだされた。それは真っ赤に血走った大きな眼がカッと見開き、この世の者とは思えない憤怒の形相である。
「ギエッ、」と叫ぶなり雑兵は泳ぐようにして逃げた。
 彼は慌てて濡縁から庭に転がり落ちると泡を吹くようにして儀左衛門にすがり付きながら言った。
「釈舎院はまだ生きています」
「クソッ、」儀左衛門は蹴飛ばすようにしてすがる雑兵を押しのけると、その胸倉を掴み上げ「どの方角に奴を見た」と囁くような声で問うた。
「アワワワ、」と雑兵は声にならず、指だけで示した。
 儀左衛門は鉄砲方へ向い顎をしゃくるようにして合図した。雑兵が示した方向へ再び鉄砲は発射された。鉄砲が止み、硝煙が消えてから儀左衛門は先ほどの雑兵に、
「もう一度見てこよ」と命じた。
 雑兵は腰を抜かした様で、首を横に何度も振ったまま動こうとしない。あんな凄さまじい恐ろしい鬼の顔など一生に一度見れば十分である。
「性の無いやつじゃ、」と言いながらも自分で入っていく勇気もない。
 また周りの兵士もみな自分に命ぜられないよう祈っていた。
「いっそ屋敷に火を放って焼き殺しましょう」そばに居た武士が命ぜられることを恐れてそう進言した。
「何を戯けた事を言う。比北の砦に火が上がれば絵鞆にいる味方は砦が夷によって落されたと思うだろう。また渋舎利砦の者は釈舎院が勝ったと信じて勢いつくことになる。何よりも釈舎院の首が分からなくなるではないか、そんなこともわからぬか、」と一喝した。
 みなシュンとしてしまった。ならどうすればいいのか、
「こう暗くてはラチもあかぬわ。このまま取り囲んで夜が明けるのを待とう」と言うなり儀左衛門はドカリと床几に腰掛けた。「かがり火をもっと焚け、」と命じながらも、シャクシャインとは伝説通り不死身なのかも知れないと本気で信じた。
 我らは大変な男を相手にしているのかもしれない。殺しても死なぬ者をどうすればいいのか、唸る思いだった。
 シャクシャインが生きて中にいる、という話は屋敷を取り囲む二百名の兵士にすぐ知れ渡った。月明かりの薄暗い中いつ自分のところに鬼のようなシャクシャインが飛び出してくるだろうかと思うと誰もが緊張したままで夜を明かすのだった。たったひとりの男に二百名の兵士が怯えている。ついに夜が明けるまで誰も一睡も出来なかった。
 周りが白みはじめると儀左衛門は急いで屋敷の雨戸を全部外させた。朝の淡い光が部屋に差し込んでいった。床に転がる両軍の遺体が薄い光に照らし出された。それは誰もが眼を覆いたくなる恐ろしい光景だった。やがて奥にも光が当たると、壁にもたれて座っているシャクシャインも確認できた。鉄砲方がそれを撃とうとして前に進んだが、
「少し待て、」と儀左衛門は制した。
 なにか様子がおかしい。彼は槍を持つと供を連れ中に入っていった。
 シャクシャインは眼を見開いたまますでに死んでいたのだ。
 それとわかっていても儀左衛門は念のため彼の腹に向けて槍を入れてみた。が、死後大分経つのか遺体は硬直していて槍が刺さらなかった。それでも儀左衛門は何度も刺した。それが死んでいる何処かの筋を動かしたのだろうか、突然、シャクシャインの真っ赤な口がカラクリ人形のようにカッと開いて威嚇した。儀左衛門と部下は、
「わあっ」と叫びながら仰け反るようにして外まで逃げ出し,縁側から転げ落ちた。
 こうして恐ろしい夜は明けて朝となったのである。
 白み始めた朝の光を浴びて泰広は門の中で空しく床几に座ったまま考えていた。
 長く寒い夜の間、奪われた鉄砲をアイヌ軍が持っている以上泰広はかがり火に近付いて暖をとることもできないでいたのだ。馬鞭で膝を叩きながらここで寒さを我慢するしかなかったのである。
 ただ蝦夷は夜目も利くと言う。かがり火から遠ざかっていても彼らが此処にいる自分を仕留めようと思えば難なくやり遂げるだろう。そうなるのならそれでもいいと泰広は思った。死ぬことなどになんの恐れもない。もの心ついたときから、武士はいかにして死ぬかと言うことのみを教え込まれてきた。学問をするのも武術を磨くのもみな、最期の死に方から振り戻ってそこに至る自分を鍛えるためにある。侍は自らの潔い死を望んでそのために生きる。名こそ惜しむ。それだけが人生なのだ。だからと言ってここで簡単に殺されるわけにもいかない。泰広には彼にしか出来ない仕事がまだ残っているのだ。それゆえ、半々の可能性の中に自分を置いた。かがり火の明かりを避けてなおこの薄暗い中でも見事殺せるならそれも仕方ないと、そのときのためにも泰広は運尽きてここで蝦夷に撃ち殺されるならそれなりの演出もしなければならないと決めて、彼はついに明け方まで床几から立つことはせず微動だもしないで石像のように門を睨んでいた。殺せるものなら殺して見よと、が、それも徒労に終わった。
 自分ぼ読みが外れたに違いない,と思えば、これなら撃ち殺された方がまだましであった。やつらめ恥をかかせおって、
 それにしてもなぜ、奇襲部隊は来なかったのだろうか、不思議でならなかった。自分が庄太夫だとしても同じ作戦を考えただろう。それなのに奴らは来なかった。なぜだ、答えがわからない。もしや森の伏兵を見られたか、
 やっと陽も上り始めてからシャクシャイン一派は殺し終えたと報告を受けた。このままここに居てもどうしようもない。泰広は立ち上がった。が,身体が固まってしまい簡単にはたてなかった。
「門を開け、瀬兵衛殿らを入れよ」
 瀬兵衛らも火を焚けない森に潜んでいて寒さに震えていた。砦の中に駆け込むと皆かがり火に集まって暖をとった。
「来ませなんだ」瀬兵衛は安堵したのか,勝ち誇ったように泰広の前に行くと云わずでもいいことを言ってしまった。
「一休みされたなら渋舎利砦に向い為され」泰広は怒鳴りたい気持ちを抑えて冷たく命じた。
 瀬兵衛は初めて泰広の不機嫌な顔を見た。
 瀬兵衛率いる三百名は儀左衛門らと違って森の中で寄り添うように交代で睡眠をとっていたから元気がいい。暖かい朝食を摂ると後片付けに追われている儀左衛門らを尻目に次の任務に取り掛かった。
「儀左衛門の阿呆めが、誰も恐ろしくて釈舎院の首を落とせないとさ、」
 並んで騎行する今井にそう語って二人は声を上げて笑った。
 内心ふたりは自分らが待伏せ部隊でよかったと思っている。彼らが味合った恐怖からみれば昨夜の寒さを忍ぶことなどどうということはない。しかも儀左衛門は死んでいるシャクシャインに脅されて逃げたと生涯みんなに虚仮にされるだろう。もし林の中で凍え死んだとしても儀左衛門のように生涯の恥をかかされるよりは武士としてはそのほうがいい。あのとき八左衛門様はふたりの配置を深くは考えなかったはずだ。儀左衛門が待伏せ隊長になってもおかしくない。となればわずかながらも自分は運がよかったと瀬兵衛は思うのである。?、果たしてそうだろうか、瀬兵衛のシブチャリ砦を攻める任務はそんなに甘くはないと思うのだが、
「あーあ、」瀬兵衛はまだ眠いのか間の抜けたあくびをした。
 それを見て攻城軍の誰もが緊張を失いだらけてしまった。これからひと戦あるかもしれないのにそれでよいのだろうか、雑兵でさえそう思う。
 瀬兵衛はこのたびの作戦の第一案どおりに酒樽と長持ちを持って偽装しながらシブチャリ砦を目指した。ただし昨日と違ってみな具足を付けたままだった。この行軍の中に以前細作として捕らえたメナシウンクルの者を案内人として連れていた。シブチャリ砦の門に着いたらこの男を囮に開門させ一気に制圧するつもりでいるのだ。
 昼も近いころに船で静内川を渡り北側の葉も黄張んで秋らしくなった長い森を抜けて瀬兵衛らはシブチャリ砦にたどり着いた。門の前にはかがり火が一晩中焚かれていたのか、今は燃え残りだけが白い煙を上げている。
 静かだった。
 周りは小鳥のさえずりと静内川のせせらぎと海の波が南岸の崖を砕く音しか聞こえない。
 門は大きく開かれていた。
 その中もきれいに掃き清められて如何にも客人を歓迎するかのようである。
 しかし中からは何ひとつ物音どころか人のいる気配もしない。
 瀬兵衛は門の前で止まった。
 今度は騙されるものかと思った。夕べ、馬鹿な儀左衛門がやたらめったらピポクで鉄砲を発射させた音がここまで聞こえないはずがない。きっと中の奴らは息を殺し今かと待ち構えているのだろう。門の向うに気配を消して潜んでいるに違いない。そして我らの四半数ほどが中に入ったところで門を閉め、嬲り殺しにするつもりだろう。
「たのもう、たのもう、」門の外で瀬兵衛は小次郎に叫ばせた。
 和語ではダメか。ついで囮のアイヌびとにも呼ば合せた。彼は必死なって、
「イコチャス、イコチャス、」と叫んだ。
 ん?
 ところがいつまで経っても中から返答が無い。
 誰か出て来さえすれば連れて来たこの囮を使い酒樽を見せてごまかすものをと瀬兵衛は思った。夕べの鉄砲も祝いで酔った者らが空鉄砲を撃ったと言い訳するつもりであった。が、そんな子供だましに引っかかる相手ではないか、と内心はやはり自信がない。敵はきっと昨夜森に隠れていた瀬兵衛と門の中で待ち構えている泰広に気付いて奇襲して来なかったのだ。それで引き揚げたに違いない。そうでなければ辻褄が合わない。第一今まであの聡明な八左衛門様の考えが外れたことなど一度もなかったではないか、さすればあとは考えられるとしたら、奴らが森に潜む自分らを運良く見つけたからに違いない。上手く隠れていたつもりでも三百名となれば誰かどじるものだ。それで砦に戻った。きっとそんなところだろう。そしてここでまた、だまし討ちにするため罠を仕組んで待っているのだろうと瀬兵衛は考えた。そこまではわかったとしてもこれから先どうするかが思いつかない。しばらく門の前で瀬兵衛は考えあぐねていた。
「誰かひとり向こうの土塁から越させて中を探らせたらどうです」と今井小次郎がそう進言した。
 そんなことも気付かないのかと言いたげな顔を彼はしているのだった。この前の『雁行の乱れ』のこともある。小次郎の態度に瀬兵衛はむっとした。
「ならば、おぬしが行ってみよ」
「ええっ、それがしが、」小次郎は余計なことを言ってしまったと思ったがもう遅い。
 不服を満面に現したが、普段は同僚でも、今は瀬兵衛が隊長である。上司には逆らえない。
 くそっ、砦側が罠を仕組んで待ち構えていれば、のこのこ入ってくる自分はそこで捕らえられて血祭りにされるに違いない。ここまで生き延びて来て最後の詰めを目前にして自分は死ぬのかと思ったら小次郎はなにやら情けなくなった。そうぼやきながら薮蛇の今井は恐る恐る土手に這いつくばり、見上げると高い木組みの塀は簡単には上れそうもないし、吊るしてある大木が今にも落ちてきそうで怖かった。彼は空しく戻って来て
「素手では昇れぬ」と云った。
「案ずるな、こうなると思って長梯子を持って来てある」
 何ともいまいましと思いながら小次郎は上に上り詰めると中の様子を窺っていたが、やがて塀の向うへ縄を使って降りだし姿を消した。瀬兵衛は偵察の小次郎が中に入ったあと耳を澄ませていた。
 何も聞こえてこなかった。
 あの男が襲われて悲鳴を上げるのを期待していたが、彼は門の向うに無事な姿を見せた。
「猫の子一匹居りませんが、」と大声でそう言いながら大股で嬉しそうにこちらへ向って歩いて来る。
「どうなってんだ?」と瀬兵衛が横にいる従卒の家来に話懸けたとたん、門の方でバリッバリッ凄い音がして埃が舞い上がった。
「あっ、」と誰もが叫んだ。
「また落とし穴か、」
 二度も同じ手口に引っかかるとは情けない。瀬兵衛は腹立たしげに膝を叩くと、やはりすぐさま門の中へ突っ込まなくて良かったと内心喜んだ。俺はやっぱり運がいい。こんなことでも小人は小人なりに人生の機微に愁うのか。
 落とし穴は大きなものだった。小枝で穴を覆い、筵を敷いてさらに土を載せて隠してあった。しかし穴はただの穴でない。深さはさほどでもないが、中にたっぷり下肥が容れられてたのである。まもなく落ちた小次郎は全身真黄色くなって肥溜めから這い上がってきた。そして仲間の方へそのままひどい匂いを撒き散らしながら泣きそうな顔で、黄色い汁を滴らせながら向かって来た。このため瀬兵衛を初め門の近くにいた者は、
「わーっ、」と叫ぶなり蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
 後方に控えている部隊も砦の静けさに皆この前のような待伏せを恐れてびくついている最中である。そこへ先方部隊の騒ぎが聞こえてきた。すわっ来たか、とよく分けも分らぬまま驚いてみな騒ぎ出した。全軍はこのため揉み合うようになり、仲間から踏み潰される者も多く出た。この騒ぎに、砦の門に続く道は狭かったからそのとき多くの者が近くの藪に飛び込んだ。庄太夫はそこにも仕掛けを置いていた。
 アイヌ民族が狩場に仕掛けておくアマッポと呼ばれる弓がある。それはケモノ道に紐を張り獣がうっかり足でその紐を引っ掛けると簡単な弩から矢が自動的に飛んでくるというものだった。それが幾つも道の脇藪の中に仕掛けてあった。もし門の中へ入って行った前衛が穴に落ちたと知ればまたこの前と同じように罠があると思って後続部隊は逃げ出すだろう。そのとき道が狭いから慌てて藪に入る者もいるに違いないと庄太夫は読んだのだ。
 その仕掛け弓が次々と発射された。
 矢には毒が塗ってある。バタバタと数名が倒れた。このとき誰もが藪の中にアイヌ軍が潜んで矢を射ち込んできたと思ったので混乱は余計にひどくなった。中にはあわてて火縄に火をつけ闇雲に藪中へ撃ちこむ者もいた。
「落ち着け、慌てるな、」瀬兵衛はみんなに叫んだ。そして何よりも下肥小次郎に、「砦に戻れっ、兵が混乱するわっ、」と怒鳴りつけた。
 砦には井戸もあるに違いない。あのバカタレを井戸に突き落としてやる。と瀬兵衛は腹の底からそう思った。
 庄太夫にすればシャクシャインが殺された後そのまま逃げるようにして砦を捨てるには忍びなかった。そこで何とかもう一度奴らに一泡吹かせてやろうとしてこのような子供じみた仕掛けを施していったのである。
 混乱が落ち着くと瀬兵衛らは鼻をつまみながら、入り口の穴をかわす様にして砦の中に入った。まだ何処かに何か仕掛けがあるかも知れないので誰も勝手に人家を覗くなと瀬兵衛は命令した。それにしても腹が立つ。瀬兵衛は憤りが収まらない。何処までひとを虚仮にする気だ。と庄太夫を捕まえて八つ裂きにしても飽き足らないくらいだった。
「家には近付かず火をかけて燃やせ、」それが一番安全だ、と瀬兵衛はみんなに言った。
 確かにそうだろう。
 砦の中の葦葺き家屋は次々と兵士によって火を付けられ、真っ赤な炎と黒煙をあげながら山火事のように燃え上がった。それを見て囮に連れてきたメナシウンクルの者が騒いだ。彼は跪くと手を天に翳し声を上げて泣きわめいた。
「やかましっ、」
 瀬兵衛はその男の襟首を掴むと広場に引きずり出して、腹いせのため斬殺した。死んだ男の血がみるみる広場の地面に広がっていった。ところが誰もこれを見つめていながら意味のない虐殺が異常なこととは思わないのである。燃える炎も血の赤もみな同じに見えるのだ。彼らには、
 多くの建物が一斉に燃えあがるとさすがに中に留まることは出来ずみな砦の外に避難した。
 シブチャリの激しい炎は対の岬でもあるピポクでもよく見えた。誰もがついにシブチャリ砦が落ちたことをこれで知ったのである。
 やく半年に渡る長い騒乱はこうして幕を閉じた。
 泰広は感慨深げに東の空に上がる炎と黒煙を見つめていた。
 やがてシブチャリ砦から戻ってきた新井田瀬兵衛の報告を聞いて泰広は愕然とした。瀬兵衛が行ったときには砦はもぬけの空だったという。このとき初めて泰広はシャクシャインの思惑を知った。あの男は初めから砦に残る連中を逃がすためにピポクへやって来たのか、鷹をわざと飛ばせ裏の裏をかいて同時にシブチャリへ向う瀬兵衛の刺客軍をピポクに足止めさせたに違いない。何もかもしてやられた。将棋の名人が十手も二十手も先を読むように、シャクシャインは泰広がこうすればどう動くかすべて読み取っていたのだ。なんと言うことか、今まで順調に築き上げてきたものが最後のひとつで崩れてしまった。泰広はそういう思いだった。あと少しで完璧に終わったのに、
「絵に描いたように見事でした」そういう賛辞と拍手を誰からも受ける寸前まで来たのに、ここまでどれほど慎重に事を進めたか、それなのに何もかも台無しになった。なんということか、何処にも持って行きようのない憤りが全身を貫くようだ。このとき泰広は初めてシャクシャインに対し敗北を認めた。十四歳まで蝦夷地に育った泰広にもアイヌびとを差別する気持ちは血液の中に流れている。それでも少年のとき初めて尊敬したアイヌの少年がやはりシャクシャインだったと今あらためて考えるばかりである。たとえ年齢も合わず現実には有り得ない話でも心だけは明らかにあいつはシャクシャインなのだと思う。そうでなければこうも鮮やかにやられるはずがない。どうしようもない憤りが繰り返すように腹の奥、わけの分からないところから沸いてくる。もう冷静に感情を抑えることはできない。落ち着けか、そんなことはどうでもいいと泰広は思い、着物を握る手がわなわなと震えてやまないままだった。
「くそっ、くそっ、」泰広は何度もその震える拳で自分の太股を叩いた。「何てことだ、あ奴、あ奴めっ、」
 泰広は座る後ろの刀掛けから大刀を掴むといきなり抜いた。
 瀬兵衛は自分が手討ちにされるのかと驚きのけ反った。
 庄太夫らに逃げられた咎で首を刎ねられると考え,彼はぞっとして一瞬血が凍った。
 泰広は腰を抜かした瀬兵衛を無視してそのまま庭へ飛び出した。そこになぜか冬も近いというに紅葉で真っ赤になっている木が一本残っている。他の木はみな枯葉を落としているのにこの木だけが落ちていない。彼は乱心したかのようにその木に近付くといきなり袈裟懸けに斬った。太さ三寸ほどの木は鮮やかに斬られてまっすぐ地面に落ちた。すると鋭い切り口はそのまま地面に突き刺さって倒れなかった。
「何と?なぜだっ、」
 叫ぶようにしてその立ったままの切木をさらに見境なく狂ったように泰広は斬りまくった。斬られた枝の数々もみな地面に突き刺さっており、またしても倒れるものは一本もなかった。瀬兵衛はいつも冷静な泰広なのにはじめてこのように興奮した姿を見てさらに驚いた。
「どうなっているのか、いったいどうなっているのか、」泰広は肩を怒らせ荒い息で叫んだ。
 瀬兵衛は日頃沈着冷静な泰広なのにこうも取り乱している姿に唖然としてしまった。そのため彼には泰広の言うことがわからない。この木がどうなっているのか、シブチャリ砦の連中がどうなっているのか、どちらを泰広は憤っているのだろうか、おそらくはこの木に違いない。シブチャリ砦の逃げた連中などどうせ雑魚なのだ。あんな者に八左衛門様は憤るわけがない。あれらなど来年の春になればたとえ地の果てまで追いかけても自分が捕まえてみせるわ。如何に山の民といえども地中に消える訳もなし、そんな雑魚にこうも八左衛門様は怒るわけがない。一帯なんだというのだろうか、やんなるかな。瀬兵衛はおろおろするだけだった。彼にはどう考えてもシャクシャインの深慮遠謀を察することは出来ない。泰広のみがわかることだった。この木は、シャクシャインを現すのか、なぜ倒れぬ、わしには倒されないとそういうのか、刀を握る拳の浮出る血管は今にも破れそうだ。
「ははは、おぬしの勝かえ?」彼の頭の中で、弓試合と同じことをあの少年が鼻の下を擦りながら言っている。
 やっと泰広はなんだか馬鹿らしくなってきた。
 ただの木にこうも乱れるか、それほどシャクシャインにしてやられたことが悔しいのかと思う、いや確かに悔しいのだ。今まで思い通りに進めたことがこの最後で覆されたこと、これほど腹の立つことはない。畜生め、九分九厘こちらの思惑通りであったのに最後でやられてしまった。なんてこった。自分の胃袋を何度も叩くようにして泰広は考えた。これではシャクシャインを殺しても勝ったような気がしないではないか、しかしこんな考えは子供じみている。自分は能吏ではないか、戯作者ではないのだ。現実の結果がはっきりとこちらの勝ちであればあとはどうでもいいではないか、世の中なんでも自分の思い通りになる訳がない。むしろ思い通りにならないのが浮世というものだ。さすればこの蜂起を鎮めたというだけでも由とすべきではないのか、そう考えるとなにやら不思議に腹はたたなくなってきた。互いに鎬を削り知恵の限りを尽くして戦った以上、そこに恨みなどはないはずだ。そう思えと自分に言い聞かせて無理矢理納得したのである。
 だが、軍事者としての泰広の役目はこれで終わっても施政者としての役目はこれから始まるといっていい。
「ふ、ふ、ふ、」と刀の峰で首筋を叩きながら含み笑い、さらに声を挙げて泰広は笑った。
 突然の泰広のこの一連の所作になにが可笑しいのかそばにる瀬兵衛にはわからなかった。
 八左衛門様は気が触れたのだろうか?怒ったり笑ったりどうなっているのだ。ところが泰広には瀬兵衛の心配など眼中にない。ついにあいつには勝てなかった。あの少年、すなわちシャクシャイン、自分が勝てなかったただひとりの異民族。彼以外、他の者がこの自分を出し抜けるはずがない。だからこそ二度とあのような恐ろしい男を出してはいけないのだ。そう思うことが泰広のこの民族に対する差別でありシャクシャインへの負け惜しみであった。彼は戦後処理について江戸にいたときから深く考えていたのもそういうことにある。泰広はシャクシャインを倒しシブチャリの砦に籠る者も全滅させてこの戦を終わらそうとした。しかし物事はこちらの思い通りには行かないものだ。庄太夫ら六十余名はすでに昨日の内に逃げたのだろう。もう、今からではこれを追いかけても追いつけない。彼らは広大な日高山脈を越えてトカプチを目指したに違いない。あるいはその日高山脈の中に消えたかもしれない。間もなくここにも冬が来る。彼らならどんなに険しい山中にあっても生き延びるだろう。しかし自分らは雪の山中を行軍出来ない。ここより先へは進めない。もはや次は来年の春をまたなければならない。
「瀬兵衛殿、」泰広は瀬兵衛がぞっとするような恐ろしく冷たい眼で見つめながら言った。こんな泰広をいまだかつて一度も見たことはない。泰広が優しい人などという考えを以後彼は二度と持つことはなかった。「渋舎利砦の者は誰も逃げてはおりませぬ。すべて貴殿が殺した。そうですね、」
「…?」
「そうですねっ、」声も出ない瀬兵衛に向って泰広はさらに語気を強くしていった。
 抜身を持って叫ぶ泰広に、瀬兵衛は息を呑むようにして眼を瞠り大きく頷いた。それを確認すると彼はやっといつものように優しく微笑んだ。そしてぎらつく刀をくるりと半円を描くように回しながらそろりと鞘に納めた。こうして泰広は、幕府への報告としては当初の計画通り終わらせることにした。シャクシャインはピポクで捕らえて殺した。庄太夫他アイヌ軍の残党は翌日シブチャリ砦を攻めて全員討ち死にさせた。特に庄太夫は捕らえてピポクで火刑に処したと彼の『渋舎利蝦夷蜂起に付出陣書』に記録した。実際に泰広はシャクシャインらに殺された雑兵の遺体を柱にくくりつけ、
「これが極悪人越後の庄太夫である。今から火あぶりの刑に処す」と見物している者たちに叫びながら高々と積み上げてある薪に火を着けたのである。柱にくくられている処刑人がすでに死んでいることは見物人の誰もがわかった。しかし、こうして死んだ極悪人をさらに刑に処するということは秀吉が山崎合戦の後、野伏せりに殺された光秀の遺体をさらに磔にしたという例もあるように、この時代おかしな事ではなかった。だから人々はみな泰広のこうした行動を信じた。ただ庄太夫にはキリシタンだったという噂もあった。だから最期に火刑にされたという話もある。島原の乱から三十年経った当時でもまだキリシタンの残党が生き残っている。盛んに各地で摘発され逮捕しては火刑に処されている。彼らはキリシタンだから火刑にされたのではない。極悪人は火刑とう慣わしで行われたにすぎない。しかし火刑の大半がキリシタンだったから、キリシタンはすなわち火刑と見られた。そうしたことが後に庄太夫をしてキリシタンだといわせたのかもしれない。ただ泰広はそれを利用して偽庄太夫の証拠を隠すよう都合よく火刑に処したと思われる。こうして庄太夫という名前の男は死んだ。今ここでシャクシャインとその残党を始末したと報告するのはあくまでも泰広側の都合だ。好敵手だった庄太夫をこっそり閻魔帳から外してやるという好意を持ったからではない。泰広にすればこの事件を鮮やかに片付けたという報告書を幕府に提出しなければならない理由がある。そうしなければこのあとどんな落度を突いて幕府が松前藩を取り潰そうとするかわかったものではないのだ。それにシャクシャインも庄太夫もこの騒乱で少しは名の知られた者となった。そうした者がまだ生きているとなれば、不平不満を持ったものたちがこの先その名の元に集結し再び反乱を起こさないとは限らない。不平分子にしてもそういうものが生きているとすれば希望を捨てないだろう。そのことも泰広は恐れ、広く世間にこの通り二人の悪人は退治したのだと触れ回ったのである。だからといって泰広は庄太夫らの追跡を断念したわけではない。翌年から足掛け三年かけて松前藩士を動員しその行方を捜すのである。特に新井田瀬兵衛は翌春の雪解けを待ちかねるかのようにして恨み骨髄に達する庄太夫を追って執拗に日高山脈を越えたのであった。


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