サポの恋
アイヌ文化、などという言葉はこの時代には当然ながら無い。しかし泰広はこの地に生まれ、よくよくそのことは知っていた。彼の実家が草創期から異民族と交わり、時に抗争し、それを利用してついにはこの地の一部切り取り、また全土を管理する権利も得た。先祖に言わせればそれは並々ならぬ努力であったと云うだろう。泰広はそうした先祖の歴史を踏まえて今も彼らと同じ道を歩もうとしている。かつて何度も反乱し、松前藩をして蝦夷地の最南端の不便な山間に閉じ込めて動かせなかったこの強敵をどうして鎮められるのか、その方法がひとつしかないことも、彼らの文化を熟知し、また和人とのこれまでの歴史も周知している泰広だからこそ出来ることだと彼は自負していた。 女を使う。かつて家康が豊臣家を滅ぼすときに用いた手だ。今その女が泰広の思惑などつゆほども感じず、ただ民族の平和を願ってシブチャリにいるのだった。 「遅いのう、」サポはそうぼやくと小部屋にひとり待たされ、囲炉裏の火をじっと見ていた。と、やがて戸を開けて人が入ってくる気配がするのをこの人の戦闘的本能の五感で感じていた。 「お待たせ申し、あいすみませぬ」 そう言いながらすらりと背の高い若い男がやって来て囲炉裏の向うに座った。よき若武者なるや、とサポはわずかに思った。が、このような小僧が何のために、いままでわが族の長たちの誰が来ても皆、直接ここの長と話しているというに、この男は露払いか、まさかよ、サポの疑念は 「遠路遥々ご苦労さまでした。あいにく父は風邪気味で臥せており、義兄は出払っておりませぬ。それがしでよろしければお話窺いましょうや」という言葉がこの美青年の口から出たことによって当たった。 カンリリカは穏やかにそう云うと囲炉裏の向うのサポを見つめた。 部屋は囲炉裏の小枝が燃え盛る炎だけが明かりとなって端は薄暗い。サポの顔は炎に浮かび鮮やかなに美しく映えていたが、それだけ不気味にも見えた。カンリリカはつい、その妖しい美しさに見とれてしまったのが失敗であった。何度か昼間見たことのあるサポとは違う初めてみる大人の女の芳香がそこには漂っていた。そんなぼうっとしているカンリリカにいきなり冷水をぶっかけるように、 「長は病気で臥せておると、」そう言いながら鼻をフンとならし「子供では話にならぬ、」とサポはいつものように美しい声に似合わぬ悪態をついた。それを聞くとカンリリカは先ほどまでの惚けた自分から本来のおとこに戻りカッとなった。 「裏切り者が何を抜かすかっ、」と感情にまかせて言ったからたまらない。 「倅がっ、」とサポは叫ぶなり囲炉裏を飛び越へカンリリカにぶつかり押し倒すと馬乗りになった。ついで彼が腰に差しているマキリを抜き取るが早いか首に刃を押し付けた。「見よ、死にたいか」と彼女は薄気味悪く笑うと勝ち誇ったように言ったのだ。 カンリリカはサポのあまりの素早さに唖然としていた。これだからこそ父も義兄も会たがらなかったのか、と悟ったが今となっては遅すぎる。まあ、これが庄太夫とシャクシャインが思いついた泰広の策の苦肉の封手ではあったのだが。 ところがサポは飛びついたとき、着物の前が乱れたことに気付かなかった。 普段、アイヌの女性は小袖とスカートを縫い合わせたようなワンピースを着ている。これは下着とも普段着とも言われているが、外出や来客の場合にはこの上に独特の刺繍をした筒袖の着物を羽織るのである。しかしサポは機能性を重視してこの服のようなモウルと呼ばれる着物を愛用した。スカートの丈も走り易いように短くし、冬でもなければ上に着物まで羽織ることは彼女の場合まずなかった。その小袖部の胸元の大きく開いた部分は紐で閉じて胸が見えないようにしているのだが、争いで解けてしまったらしい。いま押さえ込まれているカンリリカの眼いっぱいにサポの美しく豊かな乳房が露わになっている。呆けたように見とれるカンリリカは命のやり取りをしているというのに若い男らしく正常に下半身のその部分が反応してしまった。サポもカンリリカの異変に気付いた。跨いでいる逞しい尻にカンリリカの想いを感じたのだ。 「あっ、」と小さな悲鳴をあげるとサポは慌ててモウルの前をふさいだ。 うろたえるその隙を見逃さずカンリリカはサポのマキリを持つ手を弾いた。マキリはポーンと飛んで回転すると炉辺に突き刺さった。ついで間髪を入れず起き上がるなり彼は彼女に飛びついて行った。サポも我に戻ると反撃するように組み付いた。ふたりは組み合ったままごろごろと転がっていく。サポのスカートの裾は乱れ、長い白い足が太股から剥き出しになったがそんなことなどかまっていられない。ついにふたりは壁にドンとぶつかった。そのときカンリリカは不覚にもサポの中に入ってしまった。 「あっ」とふたりは同時に叫んだが、こうなってはどうしようもない。 男女の身体とはそういう仕組みになっている。あとには戻れない。サポには戻る気もない。彼女はカンリリカを押し敷いていた。乱れた長い髪が垂れ下がりカンリリカの顔にかかっている。息も荒く美しい胸は波打っていた。カンリリカはサポの身体を押し退けようとするかのように下半身だけ力が入っていた。それを逃さぬようにゆっくりとサポの腰は動いていた。そのまま崩れるように倒れるとカンリリカの首に細い腕を回し耳元へ、 「ウチャロヌンヌン、」と潤んだ声で囁いた。 カンリリカはもはや観念して眼をつぶった。 囲炉裏の火は静かに燃え、炉辺にはマキリが突き刺さっている。その磨かれたマキリの刃には部屋の片隅でうごめく二人がわずかに映しだされていた。 それから半刻が過ぎて二人は砦の門のところにいた。 「なにとぞ、父上に良しなにお話くだされ」サポはいつものように男言葉で話してはいるが声に鋭さは無い。 「必ず父上を説いて見ましょう」すっきりした顔でうれしそうに力強くカンリリカは男らしく断言した。 「我ら皆が生き残る道は他に無き事と思し召せ」 「心得ておりまする」 「それでは、良き報せお待ちしております」と言ってサポは深々と頭を下げた。 いつにない女らしさにサポの供の者は一応に驚いて、彼女をジッッと見ていた。 サポは月明かりの中、供に松明を持たせて露払いをさせながら静かに去っていった。やがて森の闇に入ろうとする頃、振り返ってまた一礼したが、のち消え入るように闇の中へ一行は飲み込まれて行った。あとは松明の明かりだけが狐火のように漂っているだけだった。それもやがて見えなくなった。カンリリカはそれでも消えたあとを名残り惜しそうにいつまでもそこに立っていた。 カンリリカはやがて誰もいない闇の中にひとり自分がいること気付くとクッ、クッ、クッと忍び笑った。強く握り締めた両手をぐっと自分に引き付けると押し殺すように気合をいれた。あの誰もが恐れるサポと俺はやったのだ。カンリリカは心の中でそう叫ぶと嬉しくてたまらなかった。飛び跳ねたいような気分で身体が浮き立つような想いがする。様こそ見ろ男ども、俺はサポとやったぞ。これはもう誰彼になくそう自慢したくてたまらない気分である。しかしこれを人に言えばサポはどうなるか、そう思うと艶かしい秘密めいた感情が心に溢れてきた。まだサポの甘い体臭が鼻孔の奥にあるようで、カンリリカはいつまでも彼女の消えた闇をみつめていた。このとき誰かがこの顔を覗いたなら鼻の下がだらしなく緩み、目は空に定まらずこの男は呆けていると思ったろう。 しばらく夜風に吹かれて頭も冷えたのか、カンリリカは我に返ると父のチセへまっすぐ向った。 「和睦をいたしましょう。父上、」カンリリカは親の顔を見るなり弾んだ声でシャクシャインに言った。 「ん?」何かいいことでもあったのか、高揚とする息子をいぶかしげにシャクシャインは見ていた。 「シサムがこちらの言い分を呑むというならこれほどいい話は他にありませぬ」 なんともシャクシャインは男女のことに疎い、サポがどうやって息子を味方にしたのかわからない。どちらにせよ、カンリリカはサポの和睦の話をすっかり信じているのは間違いなかった。サポとて騙しに来たわけではないことはわかっているので、あの女は単純明快なだけで、このふたりはただ素直すぎるのだ。いや我が民族はみなそうだ、と彼は思った。我が一族がこれまで何度和人どもに騙されてきたか、わかっていてもまた騙されている。みな人を疑うことを知らないのだ。あるいは知っていても疑うことを嫌う心が強いのかもしれない。潔く生きることを善しとするならば、騙されたとわかっていても我慢しなければならない。騙す側に廻るくらいなら騙される方がまだましなのだ。カムイの前に出て問いただされれば、騙された方に救いの手は差し伸べられるだろう。みなはそうあれと願っている。シャクシィンにはすでに覚悟が出来ていて、あきらかに罠とわかっているこの和睦に応じようと思った。もしそれが本当に真の和睦ならそれにこしたことはない。だが偽りであっても、自分が死ぬことでこの戦いに終わりを告げ、これで何もかも収まればもう誰も殺されることは無いだろう。クンヌイで和人の真の力を知った今、これ以上戦ってもいずれ負ける事は日を見るより明らかだ。もはやケリを着ける時が来のだ。自分以外この先ひとりでも多くの仲間が生き残ればこれに悔いはない。己がシブチャリの長である以上、それはなんとしても遣らなければならない最後の仕事だと思った。これまでわずかながらも迷ってはいたのだが、また庄太夫の知恵にも期待していたが、今息子の無邪気な意見を聞いていると、他人を当てにする自分の愚かさを知ったような気がしてならない。ついに覚悟の時が来たのかもしれない。男は男として死なねばならない。長は長としてその義務を果たさなければならない。まずもってここまで我らは多勢を相手によくやったと思う。もう皆疲れ果てているのだ。この先どう考えてもわが一族がよい方向へは向かう要素はないのだ。敵の大将にしても吾の首なくしては江戸には帰れないとしれば執拗に追いかけてくればよりいっそう皆をこれ以上に苦しめるだけに過ぎなくなるだろう。とここまで考えれば後はどうするかおのずと答えが出るものなのだ。今はりきる息子に華を持たし、それがどういう結果になるか、大人になる道を教えてやるのも親の勤めかもしれない。 「それを良き話と思うか、」シャクシャインは心の整理を終えるとカンリリカに向かって睨むように言った。 「我らはこの砦に籠ってからまだ負けてはおりませぬ。あれらは鉄砲だけが頼りの兵なれば、鉄砲も届かぬこの砦に歯がたたぬのです。だからもはや和睦しかないと諦めたに違いありませぬ。もうこれは我らの勝ちとしか思えぬではありませぬか」 「お前のように生きられたら、人の道もよほどに楽であろうかのう」シャクシィンは本音で嘆いた。 「それはなんのことでしょうか?」 「絵に描いた餅はどんなに美味そうに見えても食えぬということよ」 「ん?」 「わからぬでいい、お前は。息子よ、明日にでもサルまで走れ。サポに会って承知したと伝えよ。そしてご足労ながら両者の間を取り持ち和睦の段取りを勧めてほしいと言え」 「はい、かしこまって伝えまする」カンリリカは弾んだ声で言った。 またサポに会える。それも善き返事をもって、それが何よりも嬉しかった。カンリリカのサポへ伝える言葉の意味が父の死に繋がっていることも、このときは疑いもしなかった。 翌朝早くにカンリリカが旅支度をしてひとりサルへ向うと、まもなく庄太夫がシャクシャインのところへやって来た。 「和睦を承知したとのこと本当ですか、」駆けて来たのか息が弾んでいる。「何でそれがしに相談なされてくれなかったのです。くそっ、あの女狐め何を企んだのか、」 「サポは何も悪くはありませぬ。あのメノコが来る前から和睦のことは決めていたのでござるよ」いつにも増してシャクシャインの声には元気がなかった。 「なんと、」庄太夫は目を見張った。 「それを婿殿に相談すればただあなたを苦しめるだけに過ぎぬと思えば、悪いとは思うたが勝手に決めてしもうた。許してくだされ」 「許すなどと、」庄太夫の頭の回転が止まっている。 庄太夫は途方にくれた。どうすればいいのだ。もっと早くに違う手段を思いついていればこんなことにはならないはずなのに、と後悔したがもう手遅れである。 泰広は冬になる前にケリをつけたいと思っていたから話を早め早めに勧めていた。サポは泰広に急かされるようにして、カンリリカがやって来てから三日もしないうちに再びシブチャリ砦を訪れてシャクシャインに会った。サポは慇懃に礼を述べると、 「江戸のニシパは明後日にでもピポクへお出でくだされとのことです。ささやかなれど酒宴など催し、和睦を祝いたいと言うておられた」 「ほう、」 「また兵にシブチャリまで酒肴など届けまするから、こちらでも同時に祝おうではないかとのことです」彼女の声ははずんでいる。 「なるほどのう、なかなかのお気遣いいたみいりまする」その手でくるのか。 両方を一度に攻めるつもりなのだ。どうもあれらは吾の命だけでは不足のようだ。 サポは嬉しそうだった。何の疑いも抱いていないのだろう。自分達がクンヌイで負けたあとシャクシャインとともに行動を同じくしなかったことで後ろめたさをずっと感じていたがこれですべて丸く収まると思っていた。 「それで承知なさりますか?」 「拒む何ものも無し。江戸のニシパには総て承知したと、良しなにお伝えくだされ」シャクシャインは快く承諾したのだが、この皮肉ニシパに通じるか?ふん、と心で笑っていた。 「わかりました。我らはこれからピポクへ行って報告し、そのままサルへ帰ります」 「このたびはまことにお骨折りかたじけのうござる。このご恩近々お返しいたせればと思うのじゃが、」 「お返しなどトンでもない。これで我らも胸のつかえが取れました」 「ははは、お礼に、」シャクシャインは屈託のない笑いを見せた。「この首進呈したかったのじゃがのう。どうも無理かも知れぬ」 「ん?どのような意味か。わしは長とシサムの和睦がなれば、ずっと昔のように皆共に狩をして平和に暮らせばと願っておる。ハエの狩場がどうのこうのなどと小さなことに係わっている時代でもないしのう。何もかもクンヌイが終わってすべて世の中代わってしまったのでしょう」 「オニビシの仇討ちはどうした?」 「弟の恨みはあのシラオイへ向う途中沙流川に捨てたわ。もう思い出すこともなし」 「それでよいのか?仲間に侮られないのか?」 「わしはこの戦で失うものも大きかったが学ぶものも多々あった。あのクンヌイでわしは生まれてこのかた一度も見たこともない大勢のウタリに会うた。その数はとても数え切れるものではない。まるで冬のハエに集まる鹿の大群のようじゃった。それらが一斉にシサムの砦に向って攻撃をかけたとき、わしは神々の戦とはこのようなものかと驚いたぞ。あのとき骨の髄から身体が震えた。わしらは凄い、捨てたもんじゃない。今までシサムにへつらうウタリを軽蔑していたがあのときばかりはみなを誇りに感じた。日ごろ他愛もないいざこざで争うてばかりいた我らでもいざとなればこれほどの数が集まる。ああ、今思い出しても涙がでるわ。まったくさ、あのときシサムなどどれほどのものか、心からそう思うた。それを指揮した長も凄いと思うた。この男はわしらが勝てる相手でないとその時真に思うた。何がこうだと上手く言えぬが、あの戦い以後ただ仲間は大事だ。仲ようせねばとそれだけは強く感じる。わしらが仲ようせねばいつかきっとシサムに本当に滅ぼされるだろう。わしはあの時ワクワクする心の中で何度もそう思うた」 クンヌイから撤退して故郷に戻った時、追いかけるように大勢の和人軍がコタンに来た。その鉄砲の数、もはや闘っても滅ぼされるだけだと相手に説得されてサポらは素直に降伏した。また降伏しか方法はなかったのである。誰も殺さぬという条件を信じ確かに和人軍はなんの咎もサポらに科さなかった。だからシャクシャインらにもそうあってほしいとサポは願ったのだ。 「長よ。長らは強い。この砦に籠ってからメナシウンクルは一度もシサムに負けていない。これには江戸のニシパも感服しているのじゃ。もはや討ち攻める手もないとのことじゃ。ならばこれ以上お互いに無駄な睨み合いをすべきではない。厳しき冬も近ければ互いに矛を収め誤解を話し合えばまた元のように仲良う暮らせる道もあるはずだと言うておる。わしもそう思う。これからも長が元気で睨みを利かせていればシサムもあのような馬鹿なことはもう二度と言うまい。シサムを苦しめるこれほどの長をわしらも失いとうないのじゃ、」サポの瞳は濡れていた。 彼女も息子と同じことを言っているとシャクシャインは思った。シブチャリに籠ってから、というよりクンヌイ以後和人軍は大きな攻撃を一度も仕掛けてこなかった。おそらく江戸の殿様が直接指揮するようになってから力攻めをやらないという方針に変わったのだろう。このシブチャリでも最初から諜略でやると決めたに違いない。わざと小競り合いで負けたように見せているのは、敵に有利になっているように思わせて和睦の席に出易くさせるためで、出てきたところを絡め取って殺すという手か。サポら他のコタンの者にいま手出ししないのも吾らを滅ぼした後本格的に行うまでの方便にすぎない。うーん、とシャクシャインは心の中で唸った。江戸の殿様とはよほど小知恵の回る男なのだろう。油断はならぬなあ、とサポに気付かれないように腹の底でそっと溜息をついた。 「ところで、」サポは落ち着き無く辺りを見回し、「カンリリカ殿はおられぬのでしょうか?」と細い声で訊いてきた。 「あれは狩にでも行っているのでしょう」とシャクシャインはサポの想いなども知らず、にべもなく返事をした。 一言も発せず二人の会話を聞いていた庄太夫にはわかった。カンリリカとサポは情が通じ合っているのだと、そういうことか、と彼はカンリリカの意気込みを悟った。 サポは結局カンリリカには会えずに虚しく帰っていった。 そのあと、シャクシャインは十人ほどの老人を伴なってエカシのチメンバのチセを覗いた。 「エカシ、話がある」そう言いながら入り込むと囲炉裏の上座に座るチメンバの右横に座った。老人達もそれに並ぶように座った。シャクシャインはチメンバを見つめず視線をその向こうにある宝物の棚に移して見慣れた古い器物をぼんやり眺めながら「前に相談していた和睦のことだが、」と続けて話した。 「決めなされたか、」 「ええ、」と言いながらチメンバを見つめた。 「罠と疑っておりますな?」チメンバの瞳は潤んでいた。 「ええ。それで明日はこれら年寄りどもらで行きとうござるがよろしいか?」 「言わずとも和睦は年寄りの仕事」 「実は、」と、今度は囲炉裏の火に目を落としてシャクシャインは言いずらそうだった。 「ああ、何も言わずとも分り申した。長の気持ち年寄りなら誰でも知るところなり。まして死こそ年寄りにふさわしい仕事ではないか、」 和睦が真実か罠かと考えれば次に何が起こるか、また何を覚悟しなければならないか、それは自ずとわかることであった。 「エカシはさすがにエカシ。敵いませぬ」シャクシャインは心から感謝した。 「もはや老いて鹿を追えぬ身なれば考えることだけがわしの仕事でござる」チメンバは悲しそうに俯いていたがしばらくすると何か思ったのか明るい顔になると「ならば今夜、みなで宴をしませう」と優しく言った。 「吾の今の気持ちがわかるのでござるか?」シャクシャインも話が着けばこれで最後になるかもしれない皆との別れの宴がしたいと言うつもりだった。 「長い付合いではないか、なんで知らぬでおれようか」 「かないませぬなあ、」シャクシャインは大きな手で髯をしごくとニコリと笑って他の老人たちの顔を見た。 「宴と言うてもこのような有り様でありまするからさほどのことはできませぬ」 「いいではありませぬか、宴がしたい、となればただ踊るだけでももはや宴が成り立ちまする」 「まことに、我等年寄りどもは酒があれば宴でござるなあ、」 「さすれば毎晩宴でござりました」 「はっ、はっ、はっ、」とチメンバは間を置くようにして気持ち良さそうに笑った。それから真顔になると、「やはり罠なのであろうか?」と寂しそうに囁くように言った。 「願わくばそうでなければいいのですが、」返すシャクシャインも声が小さかった。 「それにしてもカムイはどうお考えなのかのう。このまま我らに元の平和な暮らしを戻してくれるのか、」誰もがそう望んでいた。「それとももっと試練の道を歩めと言うのか、これも聞かずばなりませぬ」 「…」 「まあどちらでもいいではないか、今宵は和議を祝う前祝の宴としよう。我らはこれまでも多くをシサムに奪われてきた。ここでもう一つ望みを奪われてもどうということはあるまい。そうは思いませぬか、」と言いながらチメンバは立ち上がると表へ出た。 「まことであられますなあ、」と、シャクシャインもあとに従うように外へ出た。 チメンバはしばらく森の彼方を見つめていた。 シャクシャインと他の老人もそのうしろでじっと彼を見ている。 彼はやがて一呼吸大きく息を吸い込むと両手を口に翳し、嘆きとも叫びともつかないような音を天に向かって発した。音は風を呼んで、それまでさわともうごかなかった梢が揺れ始めた。ついでざわざわとまるで誰かが揺すっているかのように周りの梢が騒ぎ始め、風は木々の間をうなるように駆け回っていく、するとまだ小枝に絡み付いている枯葉がはらはらと落ちだし、それが地に着く間もなく風に巻かれてくるくると天上を目指して舞い上がってゆくと、やがて何処ぞへと消えていったのである。この現象に何を馬鹿な、と思うだろうか、しかしこれは本当のことなのだ。普通、音は空気という媒質を通して波状に震えながら遠くまで伝わって行くが、しかし音は同時に空気の抵抗をも受けなければならない。このためさほど遠くまでは伝わらないということになる。これではチメンバが今望んでいる遥か彼方に棲むウタリには思いが届かない。だからここで彼が行ったことは音を伝える媒質が空気ではなかった。もっと光のようになんの抵抗も受けない媒質がこの人らにはある。それは何か、つまりこれだ、と簡単に答えれるものではないのだが、早い話彼らは狩猟民族であるということに由来するかもしれない。すなわち長く自然の中で暮らしてきたことに意味がある。そのためもともとどの人間にも備わっていた野性の本能を多く失われることなく彼らは持っていた。何里も離れた山の稜線を歩く鹿を見つけたりまたかすかな物音も聞き分けるという生活上必要な感性を磨いた結果、それとは別に何十里も離れたところから伝わってくる人の願いを聞くことも出来るようになったのではなかろうか、それは第六感のようなものだといえば味気ないが、不思議な媒質が心の音を遥か遠くまで伝えることは此の民族の間にのみ確かにかつてあったのである。それは修行を積んだ絵師にしか見えない淡いかすかな違いの色があり、鍛え抜かれた楽師にしか聞こえない微妙な音があるのに似ているかもしれない。すなわちそれらは研ぎ澄まされた鋭い感性を持つものだけが感じるものなのであろう。もちろん大和文明に取り込まれた今の人たちにはもうそのようなものはない。ただそれがいつでも自由に伝達できたかというとそうはいかない。人々が本当に嘆き悲しんだとき、心が激しく震えたときにしかそれは空を無抵抗に何処までも飛んで遥かな彼方の人々へと伝わらなかった。 日も落ちようとした頃、茜色に染まった空のもとエカシの不思議な掛け声に遠くのコタンからも大勢の人々が砦の広場に集まってきた。やがて徐々にではあるがそれは砦内にいる百人足らずの村人の何倍にもなっていくのである。こうしての集まってきた人々の顔も皆茜色に輝いていた。 まだ明るかったがかがり火が広場の周りに焚かれた。中央には薪が井桁に高く積まれている。男達はそれを取り囲む大きく輪になり、それぞれが楽器を持っていた。太鼓は木の蔓を輪にしてそこに鹿の皮が一枚張ってある。これを裏側十文字に結んである紐で押さえ木の撥で叩いて音を出す、そうした者が五六人輪の中にいて音頭をとるように叩き始めた。ドンドンドンと神々を誘う音色は森に響いていった。それを追うようにムックリが風の神を誘っていた。ついで一本の木をくり抜いて作った細い五弦の竪琴がかき鳴らされ、胡桃の皮を巻いて作ったコサ笛と三尺ほどもある草の茎で出来ている笛が吹かれていく。 祭りはこうして始まった。 やがて頭にブドウの蔓や木の皮を削って作った冠をつけたチメンバが中央に出てきた。刺繍模様の手甲脚絆で四肢を固め陣羽織を着け、その上から帯で太刀を右肩から袈裟懸けに吊るしている。彼は左手に弓を、右手に矢を持っていた。矢先には火が灯されていた。チメンバはゆっくりと矢をつがえ息を吸い込みながら弓をキリキリと絞った。そのまま息を止めながら緊張した魂を解くように指を離した。ブンっといって矢はまっすぐに積み上げた薪を目指して飛んだ。バシッと薪の一つに炎の鏃は食い込んだ。と同時に薪にかけられていた鯨油に火が着きゴーっという音をあげて炎は一気に燃えると歪に曲がりくねりながら天を目指すように立ち上って行った。 「あっ、」炎の形を見ていた誰もがそのとき声を挙げた。 青白い顔をしたチメンバは潤んだ眼を向こうで見守っているシャクシャインの方に向けた。それから彼はゆっくりと気落ちしたように歩いてシャクシャインの前までやって来た。 「凶と出ました」わずかに濡れた黒い目はしっかりと彼を見てしばらくは何も言わなかった。やがて、「カムイは我らに試練の道を選ばせた」と寂しくつぶやいた。 「見ていました」 誰もが見ていた。 シャクシャインはみんなの方へ顔を向けた。 「皆の衆、お告げはお告げである。カムイはだからといって吾らを見捨てたわけではない。さあ、気を取り直して歌おうではないか、踊ろうではないか、」シャクシャインは女性が集まっているほうに顔を向けると目配せをした。 すると頭に鋭い刺繍模様の布を巻いた女たちが楽団の前に出て炎柱を囲むように大きく輪を作った。やがて誰からともなく手拍子をとり始め身体を左右に揺らしながら音頭をとっていった。踊り子たちの耳輪が大きくゆれ、首の玉飾りは豊かな胸で撥ねてカチャカチャと心地いい音を立てている。 「ヘッサホー、ヘッサホー、」彼女たちは高音の美しい声を発すると、最初合わなかったリズムが、掛け声が高まるうちにどんどん合って来た。 「ヘッサホー、ヘッサホー、」周りを取り囲んでいた男衆も野太い声で合わせる。掛け声は楽器の音色よりも高まった。楽団はそれに負けじとさらに音色を高く挙げた。総ての音は周りの空気を震わせ始めた。炎はさらにその空気を大きく波打たせて陽炎を現す。燃えよ、燃えよ、男達の誰もが思った。恨みも燃えよ、怒りも燃えよ、悲しみも燃えよ、世の不条理に、神々の冷酷差に、男たちは互いの目に映る炎を見つめ合い、静かに動き出した。チメンバと同じサパウンペという冠を着けた男たちが女たちの輪の内側に入って来た。彼らは肩から懸けている太刀を抜いた。それを右手で高く掲げると上下に振って踊り始めた。脚絆を着けた足は大きく大地を踏み鳴らす。その数は三百人にもなるだろうか、何処からどのようにして彼らは来たのか、大勢のアイヌびとの踏み出す地響きは対岸の幕府連合軍の見張り小屋まで響いて来た。何事か!伝令はピポクへ飛んだ。 庄太夫もその輪の中にいて激しく踊っていた。戦いの踊りはこうしてしばらく続いた。 やがて楽器が止んだ。すると人々はみな踊りの輪を崩して外へ歩き出しそれらは大きく見物人の輪となっていった。人々はしばらく休憩しているかのようであった。しかし、誰かが手拍子を打ち始めるとそれは次々と横に並ぶ人々に伝わり遂に大きな激しいリズムが生まれ出した。何が、始まるのか、彼らの風習を知らぬ者が此処にいたならばそういぶかしく思ったろう。しかし皆は知っている。これから何がはじまるのかを、それは一族の間に深く秘されている。よほどの時でなければ取り出さないものであった。その最初の手拍子が始まったとき誰もが今そのときが来たのだと悟った。決して行ってはいけない禁断の儀式が始まると、あの恐ろしい魔物を呼び出し、彼に未来永劫の復讐を委託する。その代償は一族の運命を魔物に渡す。誰もが歪に燃え上がった炎を見たときこの儀式を密かに望んでいた。そうなのさ、もうこれしかないのだと、 手拍子が激しくなるとやがて背のすらりとした三人の若い女が輪の中央に出てきた。彼女達は炎の祭壇を囲むようにして立った。背筋がこれ以上伸びないほど仰け反り全身の筋肉にすべての力をそそいで緊張させて立っている。まるで三人の女神が立っているかのようにその姿は近寄りがたく、また神々しく誰もに見えた。長い手足、くびれた細い腰、それに繋がる意志の塊のような臀部、豊かな乳房さえも鋼鉄の筋肉のように波打っているではないか。 ついで彼女らは手拍子に合わせて動き出した。それは今までの踊りとはまるで異なるものであった。彼女らが強く踏み出す足は地面に何かを彫り刻むように忙しなく次々と白い埃を舞い上げて叩きつける。何度も狂ったように突き上げる手はまさに天の幕を切り裂くように力強い。それらに合わせる様にくるくる激しく細身の身体は艶やかに回っている。その際立つほど美しい横顔はこの世の終わりを告げるかのように悲しみと怒りと苦渋に満ちていた。それは炎の照り返しの中いっそう妖しく見えた。 「この恨みを、」女達は巫女にしかわからぬ呪いの言葉を使って囁くように激しく踊りながら呪文を唱えていた。 周りを取り囲む大勢の者達も反復するかのように同じく呪文を唱えていた。それは天に届くほど重低音の響きとなって祭壇の闇に浮かぶ白煙に乗って今、天に昇ろうとしていた。このときの呪いの言葉がどのようなものであったか、それは今に伝わっていない。もとより文字を持たない民族である。こうした敵を倒す重要な言葉は爆発物を扱うように危険視され特に秘中の秘として口伝されていたらしい。しかもシャーマンのみに伝えられた。現在、そのシャーマンすらも絶えた。惜しむべきか、この魅力的な魔物と契約する言葉は永久に地中へ埋葬されてしまったのである。ただわずかな言い伝えとして聞いたものからこのようなものでなかろうかと想像しながら次に記す。 「この呪いを汝らにかけてやろう。百年、千年、決して解けぬ呪いを汝らの上にかけてやろう。汝らが骨となり土となっても解けぬ呪いをかけてやろう。我らの呪いは大地に沈み恨みは天に昇る。それはいつでもどこでも雨となって汝らにそそぎ風となって汝らにまとわり憑くのだ。大風で家が飛び大雨で畑が流れればそれは総て我らの呪いと知れ、訳も分らず子供が死ねばそれも我らの呪いと知れ。我らが地獄の業火でこの身が焼かれようとも決して呪いは解かぬ。決して解かぬ…」 呪いの踊りは中央の炎柱が高く大きく燃え上がるに合わせるごとく激しく大きく輪を揺らしながら高まっていった。この時だけは、もはや誰一人シサムの和睦など本当だと信じている者はいないのだ。 チメンバは炎に映える紅潮した顔でシャクシャインの側に座って踊りを見つめていた。 「若きメノコの踊りは美しきかな」チメンバは女たちの踊る後姿、着物をパンと張り詰めた大きな揺れるお尻を眺めながら楽しそうに言った。 「まことに、股間がうずき候」シャクシャインも同じように目線をそこに向けて子供のように輝く目で見ていた。 「ははは、巫女に下心を持てば魔物に身を切り刻まれまするぞ。まあそれもいいか、しかし今の老いた我にはそこまでは如何に。うずきますれば和睦組に入りませぬな」 「しかり、と言えどもこうして天女の如きメノコの踊りに魅入られれば未練も無きにしも非ず」シャクシャインは髯をなでつけニヤケながらも本当にまだ未練はあるのだ、と思った。 「メノコかあ、」チメンバは天上の月を仰いだ。 「昔はようございましたなあ。ひとつに我ら子供の頃はシサムなど見たこともありませなんだ」 「左様、この世に吾等一族と違う生き物などおるとはつゆ知らずどころか思いもしなんだ。初めて見たのは幾つの頃か、大人に成りかけの頃であろうか、どうにも恐れて近寄らず大人どもの陰に隠れて見ておりましたところあれらの話す言葉がわからなんだ。異国の言葉とは何なのか、如何にも不思議なり、驚き申した。それで何じゃこ奴らは、話に聞いていた魔界の者たちかと怖れましたなあ」 「下にもっともなり、我も同じくそう思い申した。それから幾度も年を重ねるごとに度々シサムに会いましたが不思議なことに気付きました」 「さて?」 「どのシサムもみな頭が禿げているのでござるのよ。誰と会ってもそうなり。これも驚き申した。シサムとは禿頭の国の住人か?」 「あはは、吾も初めそう思い申した。あれは剃ったものとはずうっと大人になってから知り申した。まさに奇習でありますな」 「まこと奇習と言えばシサムの妻女を初めて見た時もそうであった」 「ふむ?」 「眉毛がありませなんだ。しかも歯も無く、口中真っ黒でござる」 「アレは歯を黒く染めたものにて候」 「まことそのとおりなれど、一目には気が付きませなんだ」 「なるほど言われてみれば奇妙なり」 「あれは幽霊にござるな」 「幽霊でござるか、」 「左様。シサムの男どもは禿げた頭で夜な夜な幽霊を抱いているのでござるよ。まこと可笑しな者達にて候。このふたりの耽る姿を思えば、」 そこまで聞くなり「ぶっ」と、シャクシャインは噴出した。チメンバも自分の言ったことに可笑しかったのか肩をゆすって笑っていた。仇の悪口ほど愉快なものはないのである。 「昔を思い出せば楽しいことばかりでござる。本当は辛くて悲しいことが多かったはずなのに、今思い出せばみな楽しいことばかり、あれらも今夜のことを何年か後に思い出せば楽しかったと思うのでしょうかのう、」チメンバは炎が白い煙となって黒い夜空に吸い込まれて行くのを見つめながら寂しそうに言った。 「想い出は辛いこともみな懐かしく楽しいものに変えて残り申し候か、あれらもきっとそうしてくれるでしょう。そうなりまするとも、こんな不条理なことが何時までも続くわけも無し、」とシャクシャインも白煙を見つめていた。 呪詛の儀式が終わると再び人々は楽器の演奏のなか踊り始めた。踊りの人数はまだまだ集まり数百人を超えている。それは激しくうねる様に巨大なひとつの生き物ように荒々しく精力的にリズミカルに撥ねている。チメンバが若い頃踊りの輪はいつもこのようにおおきかったという。近隣からいや遠方からも祭りとなれば夜を徹して駆けつける人々も大勢いたのだ。神への祭りはそれほど神聖だったしまた人々の数少ない楽しみでもあった。それが再び彼の目のまでなぜかいま実現しているのだ。よき時代のように、しかし不思議なことだと、彼は思わない。 この民族の文化には心眼で景色をみるという、人類が始めて群れをなした古代から伝わっていた文化が今も残っている。わかりやすく言えば祈祷師がトランス情態になって神を見るに等しい。和人たちは理論的に物象を見ることに成りすぎてこの文化が薄れてしまった。もし和人が此処にいて、彼らの祭りを見たとしたら、現実には数十名のアイヌ人が輪になって踊っているだけにしかすぎないと思うだろう。だが彼らは何度目を凝らして見ても数百名の仲間がうねるように巨大な輪となって激しく太古には誰もが神と踊れたように今もそうしているのであった。 踊りの輪は疲れを知らぬかのように激しさを増し、誰もが憑かれたように踊っていた。ただシャクシャインもチメンバと同じように往時の盛んだった頃を見ているのだろうか、ふたりはその輪を見つめて静かに泣いていた。 やがて踊りの輪から気の合う男女、若い夫婦などが一組二組と静かに抜けてゆく。明日からは誰にもわからない未来が待っている。抜け出す男女に咎める者は誰もいない。信じあえる人生も今宵だけかもしれないと言う想いは誰にもあった。ただひたすら情念だけが暗がりの草叢を大きく揺らしていた。月は天空高くに上りつめ、冴え冴えとした光を地上にいる総ての生き物に注いでいる。 いま時は帯刀を抜いて大きな傷をこの民族の歴史に刻もうとしている。 その日、寛文九年十月二十三日、西暦で言えば一六六九年十一月十六日。東蝦夷の山は紅葉が終わり枯葉は地に落ちて木々の冬の褥となっている。朝ならば吐く息も白く、冬は其処にいる。北国の秋は陽が落ちるのも早い。ピポクでの夜の祝宴に合わせるようにシャクシャインと供の白髯の老兵十三名は昼下がりにシベチャリの砦を出発した。砦に残った庄太夫ら六十名余りは静内川の岸辺まで彼らを送った。 川を渡れば向うは死地である。 夕べ、想いのたけをはじき出したかのようにみえた一族ではあったがこうして本当の別れがくると誰もが現実の恐怖を抱き悲嘆にくれていた。シャクシャインは娘、庄太夫の妻を抱きしめた。 「婿殿とはいつまでも仲よう暮らすのだよ」 彼は優しく背をなぜてやった。娘は崩れそうになるのを堪えながら泣いていた。それからゆっくりとしゃがみ、母の腰に抱きついている七歳の孫娘を引き寄せた。 今何が起きているのか知ることはこの小さな娘には無理であろう。しかし彼女はこの時のことを鮮明に覚えており、大きくなってから何度も夢にみることがあった。 「ねえ爺じ、かか様はなぜ泣いているの?」少女はシャクシャインの大きな足に絡みつき見上げながらそう言った。 「それはね、爺じがこれから遠いところへ行くからだよ」彼はしゃがみこむと少女と同じ目線に自分を置く。 「遠いところって?」孫娘は目前の大きな顔の大きな瞳を見つめたままにきょとんとしていた。 「爺じはのう、これよりカムイのところへ行くのじゃ、」 「ええ、いいなあ。でもどうして?」 「お前とな、とと様とな、かか様とな、みんなが幸せになれるよう頼んでくるのさ、」シャクシャインはいつも孫娘が彼の強髯を嫌がる頬摺りをした。 「すぐに帰ってくる?」孫娘はシャクシャインの固い頬髯に我慢しながらもいつもと違って今日だけはなぜかじっとしなければいけないと思った。 「すぐには無理じゃのう、カムイは空のずっと遠くの上に居わさる。そこへ行くためにはこの身体を煙のように軽くせねば駄目なのじゃ、身体は一度棄てると二度とそこへは戻れぬしなあ、」 「それじゃ、もう爺じは帰ってこないの?そんなの嫌、」 「いやいやそうではないのじゃ、お前がの、爺じに逢いたいと願えばカムイはすぐにお前の心の中に爺じを帰してくれる。だからね、何も案ずることはなし。わかるよのう?」 孫娘は信じられないという顔をしながらもこくりと頷いた。 「それじゃいつも。寝てない時はいつも、お日様が昇ってお日様沈んでも爺じを思う」 「うん、よき子かな。うれしいのう、お前が思っている限り爺じは死なぬぞう」そう言ってシャクシャインは立ち上がると孫を娘の腕に託した。 ついで息子のカンリリカを抱きしめた。 「仲間を思いやること。これを第一の心得として立派な男となれ、」 カンリリカはいまでも和睦が本当だと信じている。サポが裏切るはずはないのだ。いかにいままで敵対し、その弟が殺されたとしてもこの前までは供に戦ってきた仲だ。そして何よりもサポの眼は自分を騙しているようには見えない。 「きっと和議は成りまする」 「そうあればいいものだのう」この世間知らずの息子でも、シャクシャインにとっては可愛い子供であった。彼はカンリリカの両肩を強く握ると、「しかし万が一にもこれ成らずば義兄様の言うとおりにするのだ。いいか、もしサポとも戦うことになれば、お前がサポを殺せ」そう厳しく言った。 「それがしがですか、」カンリリカは血がすうっと下がっていくのを感じた。 「サポとて自分で何もかも決めるわけではない。江戸のニシパがメナシウンクルを攻めろ、と言えばそれに従うだろう。そのときはお前が先駆けとなって戦うのじゃ。さすればサポも本気には攻めてこれず、お前に生き残る道が開けるやもしれぬ」 「それがしはサポを殺せませぬ」 バカタレが、とシャクシャインは腹の中で舌打ちをした。 「たとえばの話じゃ、そのときがもし来たら、今の父の言葉を思いだせ、」 「…」 シャクシャインは次に庄太夫を抱きしめた。 「婿殿には言葉に言い尽くせないほど世話になり申した。ありがとうござった」 「何をおっしゃりまするか、それがしの知恵が足らずこのような事態に相成ってしまいました。願わくばお供致し自らもケリをつけとうござる」 「そのことは昨夜お話しして納得いただいた。あとは年寄りどもにまかせなされ。あなた様はまだまだやらなければならぬことありますること肝に命じなされ」 「わかり申した」小さな声でそう云うと庄太夫はうなだれた。 「若い者らはこれからこそが正念場。吾ら年寄りどもはこの戦に決着をつけて先に行きまする。何もかも大変な事ばかり残していくが、後はよろしゅうお頼み申す」 庄太夫は何も言わず、深々と頭を下げた。 ピポクへ向う他の十三人もみな同じようにして家族と抱き合い別れを惜しんだ。その家族の誰もが和睦が本当のことであれと祈っていた。すべては泰広の胸の中にあったが、彼は江戸を発つ前にすでに心は決まっていたのである。 遠く古代に於いて日本武尊の東征に始まり坂上田村麻呂とアテルイの戦い、近くは二百年ほど前のコシャマインと武田信広との戦いでもみなそうだった。大和民族はこの強すぎる異民族に対し、ついに戦いあぐねて最後は必ずだまし討ちにして勝利を収めていた。それしか手がなかった。それに対しなぜ何度も彼らはだまし討ちに甘んじたのだろうか、たとえ相手が騙すとわかっていても、敵が折れて和睦を申し込んで来た以上これに答えるということが男であるとしたこの民族の悲しくも潔しを第一とした心根がそこにある。 シャクシャインは、いつもは早足で歩くのだがこの日だけはゆっくりと落葉を踏みしめその砕けちる音を楽しむかのように、尽きる命を惜しむように、仲間と色々物語などしながら歩いていた。腕にはアムルイを乗せ、時々は彼女にも話し掛けている。 十四名は皆具足を着け煌びやかに武装していた。 夕方、新冠川の東岸まで来ると、幕府連合軍三百名余りが出迎えるようにして川岸に整列していた。その隊長である新井田瀬兵衛が微笑みながらシャクシャインの前までやって来て一礼すると、 「やあやあ、よくぞ来られましたな。ご苦労に存じる」と言った。 「そなたこそお出迎えご苦労に存じる」かつて馬で必死に逃げるこの男を追いかけたことを今思い出して、なんとも可笑しかった。 「いやいや、我らはこれから渋舎利に向かい、あちらの方々と共にお祝いしとう存じる」 「それはまた大変なお気遣いいたみいりまする」 「なんの、なんの、まずは目出度いことでござる。皆で多いに祝うこと当然なり」 瀬兵衛は本当に嬉しそうだった。シャクシャインは瀬兵衛と話しながらその軍勢を眺めていた。菰樽やご馳走が入っているのか長持ちが数個並べて置いてあった。シャクシャインは兵士も見た。皆、槍を持ち鉄砲も担いでいる者も大勢いる。軍勢だからたとえ祝儀に向う場合でもそうした装備は当然のことである。現に和睦に来たシャクシャイン一行もみな武装していた。しかし瀬兵衛らは平和を強調するためか彼を初め誰も具足を着けていない。素のままである。が、シャクシャインには気になるところがあった。 ん?これは、
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