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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第18回   ピポク浜の決闘
 ピポク浜の決闘

 やがて一ヶ月余りが過ぎても、この間両軍はほとんど睨み合ったままだった。小競り合いも瀬兵衛が出城を造るため敵の砦下に探りを入れた最初の時だけで、その後ほとんどない。たまに庄太夫らが退屈しのぎに幕軍の出城へやって来て砦の矢倉に火矢を射込んだが、大河の側に造られただけに水は豊富にある。砦側もクンヌイの例があるので、矢倉には常時満水した桶が置いてあって、火はすぐに消され、勇敢な侍たちの居るわりには早々と狼煙も挙げられたりした。また屋敷のほうも文四郎はどれほど金を持っていたのか、屋根はこの地では珍しい瓦で葺き壁は漆喰だったのでこれも燃えない。
「面白くもない」と言って庄太夫らはすぐ帰って行った。
 頃もなく狼煙を見てピポクから軍勢が駆けつけて来たのだが、そのときには庄太夫たちはもう引き揚げている。ところが面白くないというわりには、庄太夫は毎日現れて、砦を刺激してゆくのであった。彼にすれば敵を苛立たせ疲労させるのが目的なのだろう。誰も怪我をしないうち、安全距離ぎりぎりからふいに攻撃を仕掛けて相手がせっせとその対策に右往左往させ、やがてあれらの援軍が来る頃を見計らってさっと引き上げるである。これにはピポクから駆けつける者らはたまったものではなかった。毎日重い武装をして駆け足でその間一里余とはいえ駆けつけてもそれだけのことで、これぞとばかりに意気込んで来ても敵は逃げて戦にもなぬもならないのだから、ついには嫌気がさしてくるのも当然であった。
「あいつらめ、おちょくってるのか」と到頭瀬兵衛はいいだし、ある日狼煙が上がっても行かなかった。
 まさに庄太夫はこのときを待っていて、街道の小山に潜む味方の合図がいつまでも無いとわかれば、瀬兵衛の腹を読み、笑いながら砦に向かい猛烈な火攻めをした。といっても防弾盾に隠れた兵がしつこくいつもの倍も松明を砦の中に投げ込んだだけなのだが、と言うのもまったくシベチャリの者らは兵器が乏しくて矢を惜しんでめったに打ち込まないのであった。ところが小枝を束ねた松明ならいくらでも山中にあるので、きまって小吏のようにまめまめしく松明を砦内へ投げ込むだけが日課のごとくして、やって来ては勤めをはたしていくのである。それがこの日は援軍が来ないことをいいことにいつもの倍以上も投げ込みが激しくて、守備隊側は水桶を持って駆けずりまわり、慌ててうっかり砦の外の者に身を晒すといきなりそこへ毒矢が飛んで来て痛い目に合うのだから、たまったものではない。こうして狼煙も何度か上げられたものだから、瀬兵衛はしぶしぶ動いた。行けば案の定、やつらはさっさと尻に風を喰らってとんといない。泣きっ面に蜂ほどでもないが瀬兵衛は砦の守備隊長には散々に文句を言われるしで胸くそ悪く、せめてなんとか小山に潜む見張りを捕まえさえすればと思うのだが、あれらは山の精霊みたいなもので、町の者にはその影さえも見ることは出来ない始末であった。
 このころの泰広はピポクに在って瀬兵衛の悩みの小競り合いのことなど気にもせず、かえって兵の鍛錬になって善しとすべしなどと用人などに話して笑っていたが、その実裏ではじっくりと情報を集めていたのである。近辺のシュムウンクルの者たちが次々と密かにピポク砦に呼ばれた。泰広は彼らに向かい、シャクシャインたちはどのように食料を手に入れているのか、人数は増えているのか減っているのか、どんなに相手がつまらぬと思うことでもかまわず尋ねていた。和人がシブチャリに近付けばすぐ捕らえられるのでこうした情報を手に入れるには寝返ったシュムウンクルの者が適しているのであって、彼らは猟をするふりをしてシブチャリの周りとピポクを何度も行ったり来たりしており、中には直にシュムに話しかける者もいて、それは庄太夫も承知のことであったが彼もさほど気にはしていなかった。なぜなら庄太夫も同じくメナシをシュムらしく見せてピポクに潜入させていたのである。
 泰広が言うようにもう大きな戦いも無くて、このまま両軍が拮抗したまま終わるのかと人々も思い初めたのだろうか、商人達もピポク砦の周りに簡易な住居を建て始めると、六百名余り(この地方では途方も無い員数の集団に見えた)の兵士を相手に物売りなどしていた。こうしてまず男どもが集まれば、彼らの持参してきた食料は尽きたとしてもこれで十分補給されるばかりか、また長きに渡れば彼らの鬱積をはらすために出来るのは酒を飲む店であり、当然そこには女も付き物のようにして集まって来た。ついては彼らの衣食住を賄う店も出来て、これでまさにピポクで小さな町が出来あがったと言っていいだろう。この賑わいにはつられるようにかつての金堀たちも帰って来たのだった。ここに居れば安心でありやがて金堀再開の情報もすぐ入ってくるかもしれず、やがてピポクは東のクンヌイになるのかも知れないと泰広は思っていて、できるだけ蝦夷の東に和人の住む大きな町を作って置くのが彼の狙いでもあった。このような一揆を二度と起こさないためにも広大な島の隅に仲間がわずかばかりが寄り添うように小さく生きている時代を終わらせなければならないのだ。こうしてシブチャリ以外は乱の前以上に復活しつつある。さらに砦の中には大きな屋敷も造られた。それが本当は何のためであるか、泰広以外は誰も知らないのである。
 そんな中、ひょっこり亀田から井上外記が左武衛を供に連れてやって来た。
「亀田から此処まではずいぶんと遠うございまする。歩いても歩いても着きませなんだ」外記は泰広の顔を見るなり挨拶もそこそこにそう言った。
「まっすぐ南へ歩けば江戸に着いたでしょうに、」
「まことそうなりましょうか、」
「冗談ですよ」
「ところで拙者の出番はありましょうや、次なる戦には間に合いましたか?」と外記は正座する股の上に添えている拳に力を込めて身体を支えるように前へ乗り出しながら目を輝かせて訊ねた。
「戦は最早起きぬかもしれませぬな」と答える泰広は素っ気ない。
「ええっ?」
「ははは、それがしの拙き知恵で上手く行けばの話です。それよりも怪我はもういいのかな?」腹の内はこれ以上話せないと、泰広はつまらぬ話題に変えた。
「すっかり治りました。亀田の向こうに傷に効く湯があるというので毎日浸かっておりましたのがようござんした」
「湯治かあ、いやあそれはうらやましきかぎり。それがしもこれを早く始末してゆっくりと湯などに浸かりたいものだ。まこと湯は身体はもとより心をもほぐしますな」
「げにもっともなことですう」と答えた外記も話が本筋から途切れたことを嫌い「それよりも戦は、もはや終わりまするのか、」また執拗に問うた。
「そう、今その下拵えの最中というところかな」もうこれ以上この話をしたくないとでも言うように彼は腕を前に組んで下を見ていた。
「これは何とも残念なことで、せっかく山越え野を越えで急ぎ来ましたものを、」
「それがしが江戸に帰るよう進めたのに、言うことも訊かずに勝手に来るからですよ」と泰広は笑いながら言った。
 それにしても外記の元気な姿を見て泰広は可笑しかった。あの戦の後、地獄を覗いた若者はそのあまりの恐ろしさ、現実の戦の惨さに驚き、心まで足の怪我より病んでいたというのに、あのままではどうなるかと思い、つまり若者が戦場でそのままおかしくなる話はよくある事だと長老から聞いたことがあり、なのに外記はどうやらそれを乗り越えたようだ。それにしてもあれほどの戦はもう我々が生きている間には二度と無いだろうと思えば、この経験も運がいいことであって、つまりは、強く叩かれた鉄はよき鋼になるということではないのか、
「しかし、少し会わぬうちに大人になりましたなあ、」と泰広は一段とたくましさを備わった外記を見て感慨深げに話題を変えた。
「そうでしょうか、」
「そうだとも、だいぶ立派になられた」
「でもまだこんな物、腰に差しておりまする」と言って前帯に差し込んである馬上筒をポンと叩いた。
「ははは、ま、それはおぬしの旗指物みたいなものではありませぬか、」
「ちげえねや」外記は敬語も忘れ、頭に手をあてると照れくさそうに笑った。
「ところでせっかく来られたのだから、戦うんぬんはともかく、外記殿はまた組頭に戻りませ」
「いや、それはよろしくありませぬ。今は戦のとき、何度も組頭が入れ替わっては兵も混乱するでしょう。それがしは与騎のままがよろしかろうと思います」
「ふむ、それも一利ありますな」
 泰広とは話が早いので、思わず外記は子供っぽい笑顔で頷いた。
 差し出された白湯を飲み干し昆布をかじりながら外記は泰広から目を外し庭を見た。庭といっても何もない。もともと生えていた木のうち姿のいい物だけが残されているのだろうか、なんとも雑然としてうわべの形を繕っているのだった。その木々が真っ赤に、異常なほど紅く染まっているのは鮮やかとも不気味とも外記には見えた。いま季節は秋を終えるのか。その向うに何の変哲もない太平洋が見えて、この蝦夷地は海までもただ広く、眼前一杯に上下を隔てる線が引かれ北の冬海の鉛色と秋空の灰色に分かれているだけだった。重い景色だ、と外記は素直に感じたまま、やがて来るであろう厳しい冬を思わせて限りなく寂しい気持ちが心の隅からやるせなく湧いてきて、
「蝦夷は住みようござりますなあ、」と外記はこの気持ちを否定するようにまた泰広に目をやるとそう言った。
「ん?」
「江戸と違ごうて湿り気がありませぬ」
「なるほど、ただそれはほんの短い夏場だけのこと。飽きるほど長い冬場の辛さを知れば蝦夷が住みいいとは言わぬでしょうな」
 この地で生まれ幼少を過ごした泰広はそういう意味から言っても此処は嫌いだった。だがまもなく冬が訪れようとしている。その前に何もかも片付けて住みやすい都会である江戸へ帰りたいと泰広は思った。
「辛く住みにくい処ですか、」と言いつつここが人も棲めぬところなら、外記は遠くを見るような目付きでクンヌイのことを思い出していて、そのような処を何をもって命掛けで守ったのでしょうか、とは思ってもさすがに泰広に遠慮して出張ったことは言わない。
「…」
 泰広は外記の気持ちを読んでいたが、しかし本当は此処こそ知られざる宝の大地なのだと、棲む環境におびえて暮らすその何倍もの、命を賭けても惜しくない宝が海にも陸にもあって、それが粗末な武器を持って山野を駆け回っているものたちには何もわからないだろうが、ただここで幕臣の外記にこの事を言うわけにはいかないのだ。でもやがて忠清も幕閣も気付くだろう。泰広はそのためにも戦後処理に色々と思いをはせているのだった。ここまでくればシャクシャインの始末よりもそのことの方に泰広の思考は占められている。幕臣でありながら実家の利益を優先する、泰広の狙いは最初からそこにあった。乱が大きくなれば、当然事情も漏れてしまう時期も早まるだろう。最初の一報が入ったとき、泰広は冷汗をかきながらも、実家の利益より乱を平定しなければ本家そのものが消滅してしまうのではないかと危惧した。もう宝どころかの話ではなく、家を救うことに全能力を注ぎ込んだと云っていい、が、一応決着はまだとしてもこう落ち着いてみれば、如何にも自分らに有利にことが運びだしていることに気付き、また欲もでて、ここは何とか御家始まって以来の秘密を守り通せるのではないかと思うのである。ゆえに今はその知恵を絞り出しているのだった。
 ふたりが腹の中は別として、他愛のない話をしているとき、小者が来て、
「比北の長杷郎が、殿様に目通りたいというておりまする。」と告げた。
「そうですか、ならば庭へ廻してくだされ、」
 泰広は小者にも優しい言葉づかいをするのかと、外記は可笑しかった。
 すぐにハロウが庭に現れた。
「どうでしたか?」やはり彼にも相変わらず優しい言葉使いである。
「ニシパ、あれらはどうしても話合おうと致しませぬ」
「そうですか、」
「釈舎院めらのことでしょうか?」外記が話しに入ってきた。
「そうです。この朱牟の者達に頼んで目梨らに和睦に応じるよう説得させているのですが、中々応じようとはしないのです」
「和睦ですか、」
「まずあの砦は力押しでは落ちぬでしょう。また立ち枯れさせようにも後ろが広く深き森に囲まれ、砦を取り囲むこともままならぬのです。やがて冬になればあの者どもも砦を捨て奥地へ逃げ込むかも知れない。そうなれば何年もかけて追わなければらちもあかないでしょうなあ」
「なるほど、まことにこの大地は広すぎまする。それで和睦を、」
「そうです。取り合えず冬場だけでも休戦したい。冬は共に睨み合うだけでも厳しすぎる」
「まさに冬の狩場はわがシュムウンクルの縄張りにありまする。メナシウンクルも戦の中なれば今までのように勝手にわが狩場へはこれませぬ。そうなればトカプチやクスルを頼って逃れるやもしれませぬなあ、」とハロウも言う。
「そうですね。わが軍も松前の者なれば冬場に耐えれましょうが、この外記殿のように江戸から来た鉄砲方の者たちは果たして耐えれるかどうか、」
「大丈夫ですとも、」
「ははは、外記殿は何もわかっておらぬ。小水をたれればそのまま氷となりまするぞ、細いこんな小さな氷の弓が出来ますな。それほど寒さは厳しいのです」泰広は手真似も入れて大げさに言ったが外記は言葉通りに信じた。
「それほどまでに、」
「そう、冬場には、独り者はみな凍え死に致しまするぞ」ハロウも話をさらに盛り上げた。
「だから冬場のみこの地では独り者だけ衆道が許されるのです」
「嘘でしょう?」と、さすがにそこまでは外記も信じない。
 男同士が震えながら抱き合っているなど想像するだけでも気持ち悪い。
「ははは、」泰広とハロウは顔を見合わせて笑った。
「ところで杷郎殿、良き酒が手に入り申した。これを持ってご足労ながら今一度渋舎利に行ってもらえぬかな」
「はは、ニシパのためならば何度でも行きまする。あの者たちも同じウタリなればこのまま殺されることをわれらも望みませぬ。なんとしても口説き落として、また元のように生きて行きとうござりまする。これかなえばもはやお上には逆らわず、あれらともいがみ合うこと無きよう致しとうござる」
「そうです。みな仲ようすることこそ肝心です。交易のこともそれがしから松前の殿様に願い出て元に戻しましょう。和睦に応じれば誰も罪には問わないとも話しなされ。騒ぎ納まればこの八左衛門他に何も望むもの無し」と泰広は平然としてハロウに嘘をついた。
「かしこまって行って参りまする」ハロウは慇懃に民族独自の礼を示して立ち去った。
 ほどもなく、ハロウは部下に酒樽を担がせ、そろそろ川面をざわつかせる風も冷たくなったシブチャリ川の上流から舟で対岸に渡り、何度も森の中でメナシの見張りに咎められたが、いつもどおりにわけを話して通行させてもらうと、やがて大きなシブチャリ砦を眼前に見ることができた。泥で埋めている深い堀、原木を組み合わせた高い塀、その上には下にたどり着いた者を踏み潰すための巨木が荒縄で縛られていて、見ただけで近づきがたく思わせる視覚効果も十分すぎるくらいで、今にも落ちてきそうなほど不安定に吊るされているのだった。こんな連中を一時敵にまわして戦っていたのかと思うとハロウたちが寒気を感じるのは森中を駆け抜ける風のせいばかりとはいえなかった。
「ピポクのハロウがまた来たそうですね」庄太夫はシャクシャインのところへやって来るとそう尋ねた。
「ああ、いい酒を持って来たので話だけは聞いてやったがのう」
「長は本当に酒好きですね」と云いながら庄太夫は上がり込まずに框のようなところへ座り、手を伸ばして岳父のそばにある彼が酒の肴にしていたトバを一つ取るとむしりかじりながら「それで何を話しにきましたか?」と答えのわかっている問いを話の繋ぎにいれてみた。
「何とも芸のない話でいつもどおりの和睦のことだよ」シャクシャインは木椀に注いだ酒を庄太夫に渡しながらそう云った。
「やはり、それで、」固いトバを庄太夫は難渋しながらかじりとり、すると独特の風味が口中にひろがり、それを惜しむように酒で胃袋へ送ってやった。
「すべてこちらの言うとおりにするから和睦に応じよ、とさ」
「ま、偽りでありましょう」トバを頬張りながら、庄太夫は泰広の策謀などあまりにも簡単すぎて面白くもないと思い、なぜもっとこちらをころりと欺く戦立てをしてこないのか逆に不思議で、彼の凄みを知っているだけに物足りなさを感じていた。
「吾もそう思う。ただ、砦の守りも堅く此処へ来て一度も勝てぬので、もはや万策尽きたと言うのじゃ、向うも。それも一利あるわな」
「確かに我らはここでは負けておりませぬ。砦も見ただけで臆する物だと思いまする。これでは戦をしたくても手が出ないということでしょうな。それでこちらの言い分はみな聞くということでしょうか、」
「そうであろうなあ」
「しかし本音は冬場をこのままで行きたくないのでしょうね」
「それは吾らも同じ、」
「で、どうしまする?」
「こちらが有利なうちにいい条件で和睦するのも商いの習いではなかろうか」
「これは商いではありませぬ。我らを欺く罠でござりまする」
「罠は承知でも、相手の手に乗るのも一計ありとはいえませぬかのう。このままではいつまで経ってもらちがあきまぬ。何か敵に動きの中からこの膠着状態を打破するものがでるのではないだろうか」
「こちらから動いてなりませぬ。ここは我慢比べですよ」
「いや、すでに動いているのは向こうがわですぞ、あたふたと見苦しく動き、形振りかまわず騒いでいるのはあれらですぞ」
「しかり、」確かにむやみに動いてのはやつらなのだ「それでハロウには何と言うたのですか?」
「酒を貰ったてまえ、むげにもできず皆で話し合ってみよう、と一応言ったわさ、」
「それでいいでしょう」
 時はどちらに味方するのか、先に動いたものが負けるのは常道だが、そんな基本も無視してくるとは、それも罠とわかっている手を公然と使ってくるのはどういうことなのか、ままよ、岳父のいうこともまんざらでもないのかもしれない。どちらにせよこのままで終わるわけではないのだ。
「ところで身支度などしているが何処ぞへ行かれなさるか?」
 なるほど庄太夫は和服に手甲脚絆を着け、手に傘を持っていた。
「ええ、ピポクへ、」
「何かありまするのか?」
「細作(密偵)がピポクで息子の仇を見たというのです」
「なんと、」シャクシャインは酒杯の手を止めて、唖然としている。
「腰に短筒を差している侍を見たというのです。間違いなくあ奴です」
「それでどうするのじゃ?」
「行って仇を討ちまする」
「それは、」シャックシャインは大きくため息をついたあと「止めたほうがいい、」と静かに言った。
「なぜです?」
「戦の場でのことは恨んではなりませぬ。これは昔からの規まりなれば堪えなされ。どうしても討ちたければまた戦で殺るしかないでしょう」シャクシャインは目を剥くように庄太夫を見つめ、カムイの決めたことには逆らわうぬほうがいいと、その目は訴えていたのだが、
「…」
「だいいちひとりで敵地に赴くなど正気の沙汰とは思えぬ。あまりにも危険すぎる。それに今婿殿に死なれたら吾らはこれから先、立ち行きなりませぬ。やはりここは堪えてくだされ、ピポクにそやつがいると分かれば、奴はきっといつか戦の場に現れましよう、それまで辛抱なされ」
 庄太夫はシャクシャインの視線を外すとしばらく沈黙していたが、
「わかり申した」とやがて小さな声で言った。
 しかしその日のうちに庄太夫はシブチャリ砦から消えた。
 庄太夫は忽然としてピポクへ現れると顔見知りの商人のところへ行った。その男に金粒を渡すと店の小者として雇ってもらったのだ。そこは地元のアイヌびとから騙すように仕入れてきた干し魚を軒先に並べて売っているしがない店だった。見張るには丁度いい手頃の場所であろうか。
 店先には荷を運ぶ天秤棒がいつも立てかけてある。庄太夫はヒマがあるとその棒を撫ぜまわしていた。
 ここで、頬被りをして顔を隠すように店に目立たぬよう立って外の様子を窺っていると、三日もしないうちに旅装束を着けた短筒侍が通りを歩いて行くのを見た。笠で顔は見えないがあの短筒に見覚えがある。外記が庄太夫に投げつけた銃だ。庄太夫の脳裏に鮮明に記憶がよみがえった。庄太夫は逸る心を抑え、動悸も悟られぬよう気を使いながら、でも突然店の親父に礼を言って金を渡すと笠を急ぎかぶり店先の天秤棒を貰って仕事でも行くようにして外記の後をつけた。
 道を追いかける庄太夫は頭がだんだん真っ白になり胃のあたりからざわつくように恨みの怒りの怨念が重く絶望的に湧いて来てなんともやるせなく、もう先のことどうでもよくて何もかもぶち壊して、あの男をばらばらに打ち砕いてそれでも収まらぬ不安と怒りとが巡りめぐって息をするのも苦しくて吐きだしそうだった。だが自分が鬼に心を取られてもそれでもこの機会にめぐまれたことに感謝せずにはいられず、なのに大いなる不安が身を包んでもう自分を見失っているのだった。
 外記はピポクに来てからさかんにあたりの地形などを知るためあちこち見て歩いていた。この日もそうだった。やがて外記は町の外に出て海岸へ向かった。街道がある。といってもただの砂浜にすぎない。砂のうえには老夫の禿頭を思わすわずかに細長い草が、風砂の動きを留めることも無駄なのに、果敢に挑戦しようと可憐に生えている。こんな悪条件のところにわざわざ生えるしつようが、この草にはあるのだろうかと外記は不思議に思って、これらにすれば、ここが一番生き易いのだろうか、太古からこの地に棲む人々と同じように
 東のほうを見ると遠くから波打ち際の固い砂を選んで人々が歩いて来るのがわかる。どうも五六人の雲水らしい。男たちは列を組んでこちらに向って歩いてくるようだ。陽は高く背にする海光が反射して彼らは陽炎のような陰影としてしか見えずそれはゆらゆらと頼りなげであった。外記は立ち止まるとまるで雲水と待ち合わせでもしているかのようにじっと彼らが近付いてくるのを待っていた。雲水らはこの世のものに何の興味も無い、というかのように外記も庄太夫も目に入らない。ただひたすら饅頭笠の中から遠い西方を見つめ今流行のご詠歌を静かに唱えていた。彼らは破れた手甲の痩せた手に持つ調子を整える小さな鈴(れい)が波の音に消されまいとして健気に響いているばかりであった。リーン、リーン、音色はまことに小さく、この世の果かなさをわずかに刻む時の流れを告げるかのようだ。雲水の列もそれに合わせる様にゆっくりと陽炎の中を歩いて来るのは、まるでそれは存在感を感じさせないのはなぜだろうか、波も雲水らの足元まで寄せるけれども濡らす手前で引き返していくばかり、まるでこの世のすべてが波のように規則正しく静かに動いていて、後のことは、人々のかかわりなどはどうでもいいのだと、その寄せては返す海の鼓動だけが総てを呑込んであとは何一つ残さず広大な海に浄化されてしまうのだと云っているかのように、今は立ちすくむ外記にもこの大自然の中で、自分もあの影よりも薄い存在だと思えてしまうのだった。やがて人々の揺らぐ影が形を成すほどに近付いて来ると彼らが唱える詠吟が聞こえてきた。
「浮かびて 小さき 泡ひとつ、はかなく水に 消え行きぬ、
 面影さえも ありなしの、追うに術(すべ)なき 哀れさよ、
 南無や能化の地蔵尊、南無や能化の地蔵尊、」
 雲水はみな老僧であろうか、枯れてはいても女性のように高く清んだ声で唱えていた。殷々として波の騒がしさを抜けるように唱和はそこだけ別世界のように浮き立つように流れてきた。
「育ちて あれば 微笑みて、母とし呼びて 縋り来ん、
 その名を呼べば 顔あげて、声も明るく 駆け寄らん、
 南無や能化の地蔵尊、南無や能化の地蔵尊、」
 哀調を帯びた音韻にじっと静かに聴き入っていると風が目に沁み、外記のほつれた鬢の髪の毛をわずかに揺らした。
「胸には迫る 嘆きあり、母には 母の 涙あり…」雲水らはそう歌いながら外記のそばを質量を感じさせないまま静かに過ぎった。
 お互いが、わずかに会釈を交わしたが誰も言葉を掛け合うことはなかった。
 なんともなしに、外記は通り過ぎる最後尾の雲水の横顔を目だけで追っていた。その僧は頬がこけ、その歯は歯茎までが剥き出しになり、身体は透けて向うが見え、皮膚は剥がれて破れ墨衣とともに風になびいていた。
「この世の縁は 浅くとも、深く契らん 次の世に…」とゆっくり皆に続けるようにあの死神は歌っていた。
 秋風が外記の頬を再び冷たい手で撫ぜつけた。
 そのまま外記など存在しえいないかのように雲水の列は砂浜から町のほうへ向って歩いて行った。
「南無や能化の地蔵尊、」このくだりになると哀れを強める印象的な口回しで雲水らは唱和する。
 外記の後を付ける庄太夫は前にはだかる雲水の列で彼の姿が良く見えなくてイラついた。
 後尻の蒼白き雲水は庄太夫の前も過ぎった。しかし怒りに満ちた庄太夫には気が外記に集中しているので、雲水はただの雲水にしか見えないのだろう。あるいはこの雲水が只者にあらずと見えたのは外記の錯覚か、
「南無や能化の地蔵尊、」死神はそんな庄太夫を哀れむように再びつぶやくように歌って彼の前を消え入るように去っていった。
 庄太夫の危惧も意味なく、まだ外記はその場に立ったまま虚しく東の海を見ていた。
 波が静かに繰り返し寄せていた。
 もうご詠歌も聞こえない。哀れを誘う鈴の音も遠くあの世から流れてくるかのように静かに悲しみとともにやがて消えていった。細葉の草が風に小さくゆれている。
 町を出る前から外記は背に何者かの殺気を感じていた。
 外記は今その曲者に背を向けたまま彼の刻み込むような足音を波音の中から探っているのだが、水の音は周りの音を飲み込み聞きずらいのだがそのかすかな足音は外記の呼吸を計りながら近付いてくるのがわかった。敵は巧者に違いない。闘えば梃子摺るか、嫌な気分が外記の腹に溜まるばかりなれど、しかし逃げる気は元より無い。ついに彼は短く息を吐くと後ろを振り返えるなり、
「なぜ付けるか?」と大声で言った。 
 そこには六尺ほどの天秤棒を肩に担ぎ着物の尻をはしょっている商人風の男が立っていた。
 笠をかぶっているため外記には顔が見えない。それでも燃え立つような殺意がこの男の全身から沸き上がっていた。
 男は何も言わず担棒をくるりと回し小脇に抱えるようにして、ツツツと摺足で間合いを詰めてきた。
 やる気か、外記は腰に佩いしている伝家の太刀に手をかけた。が、抜くより早く庄太夫の棒が頭を目がけていきなり突風でも吹いたようにブンと唸り声をあげて振り下ろされた。外記は飛びのくことが出来ず左足を引いて避けるのがやっとだった。外記の笠がバシッと音を立てて割れた。しかし左足を引きながらも腰を沈め太刀を抜き放ちながら、庄太夫の胴を狙って切り上げた。庄太夫はそれを棒を立てるようにして受け止めるとガッとばかりに棒と刀がぶつかったが、すぐにもふたりはパッと飛びのいた。外記は邪魔な割れ笠をはずしながら、相手が大波のような殺意と怒りを持って一撃必殺の気合いで飛び込んで来たことに不思議な戸惑いを感じていた。なぜ俺が、どうして人に恨まれるのか、それは地獄から吹き上がる炎のような凄まじい相手の怒りであった。まるでこの一撃をかわせたことが奇跡のようで、
「棒術か、」と恐るべき相手の気迫をそらそうとして、また自らも恐怖を振り払い対処出来るように叫んだ。
 庄太夫は応じない、無言のままでいる。
 外記の太刀は戦場用の胴太貫だった。いかにも人を斬るためにのみ作られたといわぬばかりにギラリと鋭利な刃が陽に映えて光っている。もし神がいて、人が人を殺してもいい武器をひとつ選んだとするならばこの刀を取るであろう。外記は常々そう思っている。青みを帯びた凄味のある氷のように冷たい鉄肌は磨き抜かれた霊界の鏡のように人の死を映して限りない。それに見入ればどんなに善良な者でもこれで人を斬り殺してみたいという誘惑にかられてしまうだろう。これこそがただひたすら刀匠が執念をもって人を斬る武器として夜を惜しんで鍛え上げたものなのだ。そのあまりにも鋭利な刃は触れずとも近づいただけで皮膚を裂き血を吹きだたせるだろう。だからこの武器を鞘からはなった以上、外記は満身に殺意をみなぎらせて理不尽な暴力を行使する前に立つ男を睨みすえた。
 相手の怒りはこちらの怒りに代えなければ、この勝負は負けてしまう。
 刀で人を斬ってみたい。少年の頃から刀を手入れする度に秘かにそのような願望を抱いていた。今それを思い出し、それだけを念じてこの危険を回避するのだ。
 人殺しは刀だ。刀に限る。これに比べれば鉄砲の、何の魂も感じない鉛玉などで人の命を奪うなどあってはならないことだとも思う。人の命などそのように軽々と奪ってはならないのだ。もっと尊厳をもって神が選んだ優れた物でなければならない。そう外記は鉄砲の家に生まれていながらも、武士とは刀で人を斬る者を言うと信じてきた。今その思いを胸中いっぱいに膨らませ、クンヌイではさんざ銃で殺しておきながらよく言えたものなのだが、ただ江戸で生涯そのような機会はないだろうと思いながらも外記はその空想を繰り返してきた。それがどうだろう。今外記は信じられない現実の前に立たされているのだ。これで二度目だ、人を斬ろうとするのは、なんということか、何が起きているというのだ、こいつは、
 しかし彼は今実戦の場に立ち、素のままでこの刀を持ったとき意外なことに気づいた。この刀は肉厚があり重いのだ。共に具足を着けて戦うならこの刀も有効だが、こうした普段着のままで戦う場合は江戸の街中で差していた打刀のほうがずっといい。こんな場合素早く操って相手を仕留めなければ無防備な身体に鈍重な刀では話にならないのである。しかも相手は太い長物といっても木の棒だ。あれなら軽々と自在に振り回してくる。長引けばこちらに勝ち目はないだろう。とてもじゃないが刀がもつ魔力の殺意だけでは人は斬れないと知り、外記は自分の不利も考えていた。
 外記は相手の嫌がる左へ左へと廻った。向うも同じように廻って来る。太刀は重すぎて正眼に構えるのがだんだん辛くなってきた。正眼は攻守に一番適した構えである。こうした長い武器の敵、未知の武術に対して出方を見るためにも適している。なにせ棒術とは未だかつて闘ったこともなく、だが外記は強気にそれでもこちらから攻撃をしかけていった。
 一刀流の実践的な短く太刀を振り上げて面を素早く打つ法で、庄太夫を襲った。これは致命傷を与えることは出来ないが相手の戦闘力を削ぐことが出来る。ところが庄太夫は前で太刀を受け止めると同時に軸を回転させるようにして棒の後ろで攻撃して来た。外記はしたたかに脇を打たれた。棒はすべてが武器である。庄太夫は回転するように身をこなして攻めて来る。外記は本朝の武術と違う柔らかな動きに戸惑った。一合二合と打ち合う内に外記も棒を刀の柄で受け止める法を覚えた。しかしそれまでにいいようにしたたか打たれている。脇はきっと痣だらけに違いない。これが道場で竹刀を取っての試合なら外記は早くも三本とられて負けているだろう。しかし実戦は違う。生き残った者が勝つ。怪我など点数にもならないのだ。相手が棒ならただ頭さえ打たれなければ大丈夫。しかし外記は脇が痛くてもう正眼には構えられなくなった。外記は回り込むのを止めた。左足を前に出すと、刀を右肩に乗せ両手で支えている。この流派に『切落し』という技がある。面を打ってくる相手の刀と交差するようにこちらも同時に振り下ろす。このとき相手の刀を受け返すようにしてそのまま切下げ相手の面を狙うのだ。攻守を同時に行う優れた技だがただ相手よりもスピードと腕力がいる。もはやそれしかない、と外記は思った。重い刀ではたして出来るか、しかも相手の打ち物のほうが長い、この技は同じ間合いでなければ使えない。外記の太刀も普通の刀より長かったがしかし棒には及ばない。それも相手が確実にこちらの面を打ってこなければ技はかけられない。そのためには相手の目を見て先を読むことが必要である。が、庄太夫は目を読まれないように笠で顔を隠していた。外記は刀を担いで頭を晒している。庄太夫は外記の思惑を読んでいた。いかにも面を打てという構えである。小賢しい、と思った。望み通り頭を砕いてやろうか、たとえどんな技があろうと刀が届かなければなんの意味もない。が、と、ここに庄太夫の油断があった。得物の長い方を持つ者がどうしても心理的に有利になったと思ってしまう。実際長い方が有利だ。槍と刀では圧倒的に槍が強い、だから戦場でも槍が主力武器になる。しかし勝負はそれで決まるとはいえない。庄太夫に外記よりも千分の一油断があったとすれば、それは間合いさえ向うに入られなければ長い棒のほうが勝てるという物理的な事実だろう。他に負ける理由がない。なにせ奴の頭を割らなければとどめをさせないのだ。
 どちらも仕掛けようとはせず、相手の出方を待っていた。勝負は我慢出来ずに先に仕掛けた方が負けると、二人には先刻承知のことなり。
 打ち返すさざ波だけが忙しそうに周りを騒がすのみで、この世に聞こえる音はそれだけか、秋の強い日差しは海面を何億の宝石のように煌めかして限りなく、時は刻み込むのをやめたのか、嫌、
 やがてどちらからともなくジリッジリッと二人は柔らかい砂を磨り潰すように間合いを詰めてきた。庄太夫は外記の間合いに入らないぎりぎりのところまで迫った。すると赤とんぼがどこからか風に吹かれて飛んで来てそれが今、庄太夫の翳す棒の先に止まろうとした。その一瞬、気合とともにブンっと彼は棒を真上から外記の脳天を目指して振り下ろした。
「とおっ、」と二人はほぼ同時に気合を発した。
 外記は賭けていた。奴が面を打ってくると、だから庄太夫の足だけを見ていた。その前足がぐっと砂を踏み込んだとき気合とともに肩の刀を弧を描くようにパッと振り下ろした。胴太貫は両手で跳ね上がるように挙がったが途中で右手が離れ柄頭ぎりぎりに握る左手一本で向ってくる棒を目がけていった。しかも左足半身になっていたから刀は棒をガツンッと弾き返しながらも庄太夫の頭を目がけ十分に届く位置で落ちていったのだ。やったか、
 死ねっ、曲者、外記は腹の中で罵った。バサッと音がした。庄太夫の面は真っ赤な血飛沫をあげ真っ二つに割れた。という訳にはいかなかった。片手では十分に棒を弾き返せず、そのため刀が流れた。流れた刃は彼の笠を切っただけにすぎない。片手で振り下ろした刀は虚しく砂に突き刺さった。このため外記は二の太刀がおくれないままで、庄太夫も笠を切られた驚きでこの好機に追って外記の頭に棒を打ち込めずにいる。笠は大きく割れて、庄太夫の顔が現れた。
「何者か、」外記はその顔を覗き込むように云った。
「見忘れたか、」庄太夫は顎紐を解くと笠を投げ捨て顔を全部晒した。「おのれにクンヌイで息子を殺された者だ。今日こそ仇を打つ、恨みを思い知れっ、」と激しく罵った。
「あっ、」
 あの時の夷装の和人か、さすれば馬上筒の前に飛び出したのはこの男の息子だったのか、
 一瞬にして外記の頭の中をクンヌイの長くて暑い午前の出来事が走った。あの辛かった八月四日(旧暦)のことが、
 何ということか、刀を持つ手がなぜかわなわなと振るえだして、外記の身体の力が砂が崩れるように抜けていく。とうとう刀を投げ出しその場に立っている気力も無く座ってしまった。なんとも庄太夫は外記の意外な様に気を抜かれてしまった。外記はぽろぽろと涙をこぼし泣いていたのであった。
「なんとしたか?」怪訝そうに殺気を失った庄太夫が訊いた。
「すまなかった。いたいけな子供を殺してしまい、如何に戦の場とはいえあれ以来ずっと悩んでいたのだ。ここでおぬしにあったのも因縁であろう。さあわが首を刎ねよ。恨みを晴らせ、それがしもこれで苦しみから逃れられるわ」
 外記が怪我したあと泰広に江戸へ帰れと言われても踏ん切りがつかなかったのはこのためもあった。仲間を無くしただけでなく幼い子供を手にかけた自分が許せなかった。だから再び死に場所を求めて東蝦夷に来たといっていい。彼にすれば自分を突詰めるところまでもって行ってそれでもなお生き残るならそれも仏の思し召しと考え江戸に帰ろうと思った。
 庄太夫は戸惑ってしまった。打ち合って殺すなら出来るが、首を晒して打てというものを彼の正義の性分からしてもどうしようもなかった。なんともあきれてしまい、武士とはこのようにいさぎよいものなのか、見れば同じような歳ではないか、家族もいるであろうに平気で今ここで命を捨てようとしている。
 外記にすれば物心ついたときから親や親族に、侍とは何時でも何処でもいさぎよく死ぬことにある、と口喧しく言われて育ってきた。そのためには日々滅私奉公を旨として己を研鑚することを怠ってはいけないのであって、自分の欲を捨てひとの為に生きよと、そう自分を鍛え上げればおのずと死に直面した時いさぎよう死ねるものなのだと教えられてきた。
 またこの時代、アイヌ民族にとっても和人にとっても恨みを晴らすことこそが最高の道徳だった。誰もが父や兄の無念を晴らす行為を美談としそれらは戯曲に取り入られて大いにもてはやされいたのだ。
 浮世は仇を追う健気な若者に同情し、反面仇に対しては畜生同然の悪党とて軽蔑し罵った。その仇役に自分がなってしまったというだけで外記は衝撃を受け、もはや世間はおろか妻子にまで顔向けできないと、生きている意味さえ見い出せなくなっているのである。
「あれから我が子はどうなったのか?」
 さすがにあの混戦の中ではサポも他のアイヌ兵も怪我した庄太夫を担ぎ出すのがやっとで、子の遺体は見捨てられた。
「あの子は、わが友垣とわが僕と共に手厚く葬った。のちに亀田で僧侶に頼み、三人の位牌をつくってもらい今も寝所に於いて弔っておる」そう云うと外記は懐から小さな包みを出した。「亀田から比北へ来るとき持ってき申した。これは貴殿のご子息の遺髪である。あの時は誰の子かは知りませなんだ。それでも貴殿らの死者に対する想いのたけを知り申したゆえ、もしや渋舎利で敵と話すことなどあればこれを渡そうとおもったのでござる。子供の遺髪なればきっと誰かわかるに違いない。頼めば必ず親元に届けてくれるだろうと思うた。それがまさか、貴殿が親だったとは、因果の恐ろしさを感じるばかりじゃ、」
 庄太夫は身体から血が引いていく思いだった。震える手で遺髪を受け取るとそれを額に押し当てた。胸が急に圧迫され吐くように嗚咽が、
「うっ、」と吹き出た。
 涙が止まらず流れてくる。妻に何度も形見のひとつも持ってこなかったことで責められた。そんなことはどうでもいい。それよりも親として置き去りにしたことが何よりも辛くて、このことがやっと、亡くなっていても息子が帰ってきたように嬉しかった。
「これで息子を成仏させてやることができる」
 せめて遺髪があれば息子の葬儀が出来る。死者に対しそれが出来るか出来ないかはこの時代の人にもこの民族に係わった人にも精神的にも大きな意義があった。特にアイヌ民族はそのしきたりが厳しかった。それだけ庄太夫は仲間内で肩身の狭い思いもしていたのである。外記にはそんな庄太夫の気持ちまではわからない。
「わしとて人の子の親ぞ。もし自分の子が殺されたらと思えばどれほど辛いか手に取るようにわかる。世に如何ほどの苦しみがあるとて子に先立たれる親の悲しみに替わるものがあろうか、それを思えばいくら祈っても詫びても気が晴れぬ。もはや殺せ、拙者を楽にさせてくれ、頼む」と茫然としている庄太夫に外記はそう言った。
 庄太夫はゆっくりと顔をあげた。もうそこには殺意のひとかけらもない。いつもの穏やかな庄太夫だった。
「もういいのです。すまない、まこと世話になった」庄太夫は外記の刀を拾うと彼の手に渡した。
 岳父の言うことは正しいと思った。戦の場のことは恨んではいけない。まさに本当だと思った。この男も好んで息子を殺したわけではない。誰あろうと敵を殺さなければ自分が殺される。それが戦だ。それなのに自分と同じように悩んでいる。夷の子など虫けらにしか思わない和人がほとんどなのに何という奴だ。しかも百里の彼方まで誰とも知らぬ者の遺髪を届けようとした。こんな誠実な男を誰が殺せるというのだ。
「また戦の場で会うこともありましょう。そのときはこの決着をつけようではありませぬか、もはや息子のことは気に病みますな。戦へ連れて行ったそれがしにも罪はあるのです。そなたのせいではありませぬ。これでそれがしもなにやら気が晴れ申した。どうすることも出来ない悲しみは時を待つしかありませぬとやっと知り申した。あなた様もそうなさいまし。もういいのです。このことは、」庄太夫は座っている外記の肩に手を添えるとしゃがみながらそう言った。
 外記はうれしかった。
 思えば誰かにそう慰められることをずっと待っていたのかもしれない。それは泰広でも江戸の妻でもなかった。この男だったのだ、と外記は思った。
 やがて町のほうから人の声がして来た。
 庄太夫をかくまっていた商人が、血相を変えて天秤棒を持って行った姿をみると、自分に災いが降りかかることを怖れて密告したのである。
「それでは、」庄太夫は爽やかに微笑むと、棒をぐさりと砂に刺して立ち上がるなりその場から駆けて行った。
 捨てられた天秤棒に再び赤とんぼが止まった。
 外記は茫然としてそのトンボを見ていた。
 翌日、外記は泰広に願い出て江戸へ帰ることにした。もはや二度と人を殺したくない、と外記は思ったがそれを泰広には言えない。
「まだ傷が癒えてないのでしょう」泰広はそれが心の傷であろうとは言わない。「ここのことは何も心配ない。まもなく片が付きまする。何度も言うたように貴殿は十分に働いた。もはやここでする仕事もない、心置きなく帰りなされ」
 泰広は外記より十歳ほど下の息子三郎兵衛を思った。泰広が今回蝦夷で万が一にも死んだ場合を思い、血筋を絶えさせないために家に置いてきた。しかし親とすれば息子を一人前にするにこれほど好機な場所はなかったろう。もし三郎をここへ連れてきたらと泰広は思う。きっと外記のように悩み苦しんだろう。そして世の中の本当の姿をみたに違いない。男は誰もこの道を抜けなければ一人前にはなれないのだ。
「勝手ばかり言うてすみませぬ。江戸で八郎左衛門様が首尾上手く行く事をお祈りしていまする」
「おうおう、また江戸で会いましょう。そのときはゆるりと物語りなどしましょうぞ」
 井上外記はこうしてピポクを去った。庄太夫にまた会えてよかった。もう二度とこの大地に帰って来ることはないだろうが、ここでのことは一生忘れないだろうと彼は思った。
 頃無くしてシブチャリでは
「何処へ行っていたのです」とシャクシャインは庄太夫に訊かない。
 三日ほど庄太夫が砦から消えた理由は知っていたからである。無事に帰って来たし憑き物が落ちたような顔になっていることを見れば三日間の間に何があったのかだいたい想像はついた。
 が、庄太夫は説明した。
 シャクシャインは孫の遺髪を手に取ると震えだし、天を仰いで泣いた。
「すべてこの爺が悪い。お前が死ぬとわかっていたならこの戦どんなことがあっても起こさなんだ。許しておくれ、許しておくれ、」
 シャクシャインの激しい悲しみの泣声は砦中に聞こえていった。砦の誰もがシャクシャインや庄太夫のように身内をこの戦で亡くしていた。だからといって誰も二人を恨む者はいなかった。たとえ二人がやらなくとも誰か他の者が立ち上がったろう。これは飽く迄も仕掛けられた戦なのだ。止むに止まれず民族は立ち上がったと誰もが理解していた。
 シャクシャインの孫の葬儀はしめやかに行われた。砦の皆はこのとき、新たに尚いっそう和人を恨む心を強くしていったのである。
 それから何日もしないうちにシャクシャインが、
「ピポクのハロウがまたやって来たわ」と、酒を持って庄太夫の家を訪ねた。その酒を勧めると、
「もう酒はやめました」と庄太夫が言う。
 シャクシャインは仕方なく差し出した杯を自分の口へもっていった。
「それで、」と言いながら庄太夫は腰から煙草入れを抜いた。
 季節は秋である。
 囲炉裏の火が暖かい。
 シャクシャインは杯を煽ると手を翳し、
「返事をくれというのさ、」と酒に咽るようにして言った。
「なんと返事なされましたか?」庄太夫は煙管入から細いキセルを出した。
「いや、まだ話し合いが決まらぬ、と言って帰したよ」
「そうですか…。それでどうなさいます」木製の煙草入の蓋を開けた。
「わからぬ。婿殿が帰ってきたら知恵を借りようと、みなには話したのだが」と云いながらシャクシャインは庄太夫を見詰め直した。
「まもなく冬になるでしょう。そうすれば鹿はみなハエに移りましょう。となればここでは冬は越せませぬ。今の内にトカプチのウタリを頼って落ち延びたほうがいいと思います」
 庄太夫も敵に優れた大将がおり、敵兵も十分すぎるくらいいることを考えれば、ここはかえって相手を刺激させる無駄を避けて、もう一度何処かで立て直すか、あるいは自分たちだけで生きていける世界を作るしか無いのではないだろうかと思い始めている。これも外記に遭った影響なのかもしれない。しかし、
「それは無理じゃ、奴らはわしの首を挙げなければこの戦終わらぬと思っている。もしトカプチに落ち延びればそこまでも執拗に追ってくるだろう。さらに遠くクスルへ行っても同じ。そのたびにトカプチでもクスルでも大勢のウタリが巻き込まれて死ぬことになる。もはやそれだけは避けたいのじゃ」苦渋の顔でシャクシャインは吐くように言った。
 やはりだめか、まったくその通りだと庄太夫も思う。しかし岳父をここで殺させるわけにはいかない。正義は我らにある。こんな善い人がなぜ殺されなければならないのだ。世は理不尽すぎる。憤りだけが庄太夫に新たな知恵をもたらそうとしているのだが、まだこれというものもなくて、
「そうしなければ他に方はありませぬ」と言いつつ目はキザミを詰める雁首に落としたままだった。
「そなたの知恵も尽きればわしもここで死ぬしかないのう」と酒杯をまた煽る。
「それはなりませぬっ」シャクシャインの娘、庄太夫の妻が奥から叫ぶように言った。
「メノコはだまっとれっ、」シャクシャインは娘に顔を向け叱りつけた。
 庄太夫の妻はワッと泣きながら外へ飛び出して行った。
「またあとで叱られますな」と庄太夫は照れくさそうに哀しそうに笑って見せた。
「あれも不憫な子じゃ、早くに母親を亡くし、…」シャクシャインはそこまで言うと、余計なことを言ってしまったと後悔した。
「長よ、それがしはもう大丈夫でござる」庄太夫も気を遣った。
「うん。それはそれとして、武士どもに意地があるならメナシウンクルの長として吾にも意地がある。ここを捨ててどの恥晒して生きることができようか。頼む婿殿わしを辱めぬよう死なせてくれぬか、」そういうとシャクシャインはもう一度酒を煽り静かに出て行った。
 彼は出口のところで立っていた娘を優しく抱きしめてやるとその細い背を何度も撫ぜていた。娘は父親にしがみつくと声をあげて泣いていた。やがてシャクシャインは闇に消えて行った。その影に向かい、
「申し訳ございませぬ」と深く頭を下げる庄太夫の眉間の皴が傷痕のように深い。
 すると彼の右手に握られている煙管がバキリと鈍い音を発して折れた。
 ピポクのハロウが二度目に来てほどなく今度はハエのチクナシがやって来て同じように和睦を勧めた。シャクシャインはハロウと同じように返事はまだ出来ないと話した。それでも、
「勝っているときに条件のいい和睦をするべきでないか。それが常道というものではないのか、」とハエのチクナシはしつこく迫った。
「そうじゃのう、考えておきましょう」シャクシャインは何を言われてもそう返事するだけだった。
 ハエのチクナシは空しくピポクへ帰って泰広に報告した。
「そうですか、」と泰広は言ったがシャクシャインがやがて和睦に応じるだろうということに自信があるのだった。
 シャクシャインにはすでに伝説がある。彼は男らしい男なのだ。名こそ惜しむ、とは鎌倉武士の心意気だがその元はアイヌ文化にある。同じ武士の末裔として泰広にもシャクシャインの心情を汲み取ることは出来るのだ。泰広はシュムウンクルの者達を使い、シャクシャインの伝説を故意に広めさせた。そうすることによってシャクシャインをシブチャリから逃げられないようにしたのである。逃げたという汚名を着せられるくらいなら、彼はここで死ぬだろう。たとえ和睦が罠だと知っていても奴は出てくるはずだ、和睦の席に、そう泰広は読んでいる。みえみえの罠でも、やり方さえ違えねば使えると彼は初めから思っていた。これは将棋と同じなのさ、それも相手には飛車も角行もすでにないのである。
「沙流の沙歩を呼びなさい」泰広はハエのチクナシにそう命じた。「女に、いつまでうじうじ返事を延ばすのだ。女の腐った奴みたいだと罵らせば、どんな男でも恥じいるものだ。最後はなんと言っても女の力には勝てぬのさ、男はね」そうチクナシに言うと泰広は面白そうに笑ったのである。
 しかし、勝てぬのさ、男はね、と思ったとき泰広の脳裏に妻の顔が一瞬過ぎった。彼にだって勝てぬひとはいるのだろう。
 陽も落ちようとした頃、サポが数人の供を連れ武器を持たずに遠いサルからシブチャリ砦にやって来た。サポは誰が見ても立派なピルカメノコだった。しかもメノコ特有の口の刺青はこの世の者とは思えぬ凄みのある際立った美しさを見る者に驚ろきと共に与える。彼女はすでに中年のはずなのに歳は二十も若く見える妖怪がとり憑いたような女である。気性が激しく、何度も戦場を駆け抜け、多くの男の強敵を倒している。この女を一目みれば仲間はみな素直に従い、また敵が一目みればみな恐れた。その女が来た。
「サルの五月蝿いサポが来た」シャクシャインは報告を受けると庄太夫のところへやって来て入るなりそう言った。「あの女だけはわしも苦手じゃあ、」と頭をかかえている。
「それがしは女などみな苦手でござる」と庄太夫も途方にくれている。
「何をいうやら、そなたにとってサポは命の恩人であろうが、」
「恩人でも仇でもサポだけはご免でござる」
 ふたりはまたまた頭を抱えてしまった。
「いっそこのまま会わずに帰してしまうか」
「そんなことをしたらサポのことです。ここに火を着けて暴れるやもしれませぬ」
「何とおおげさな、ん?しかしあの女ならやりかねないかも」
「くそっ、敵の大将め、なんであの女をよこしたのか、どうしましょうか、まったくまいりましたなあ。うむ難問なり、これをどうあつかったらよいのやら…」庄太夫は腕を組みじっと天井を見詰めたままだった。


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