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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第17回   シブチャリの戦い
シブチャリの戦い

 西から吹く風は少し強くなったのだろうか、海も白波がわずかに出始めて、雲は早く流れるようになってきた。雲は黒味を帯びていたからやがて雨になるかもしれない。土地の古老は西風が吹けば海は荒れ、天候は必ず崩れると言うのだが、そのようになるのか時々海から突風が吹きだして街道に砂埃が揚るのだった。
 その土埃を鷹はジッと見詰め、頃を見計るとこずえをけって高く飛びあがった。やがて西風を上手く捉えると上空を大きく旋回してのち西に向ってゆっくりと飛んでいったのでる。この鷹の目を通した高い位置から見下ろすと白く波立つ海岸線とわずかな灰色の砂浜に続く緑の山並みが広がっているのがわかる。その灰色と緑の境目に剥げたように細い茶色の蛇行した街道が長く続いていた。そこを埃を立てるようにして二列縦隊でやってくるものたちが小さく見えた。鷹は首をかしげるようにしてその隊列を確認すると尾翼をひねりながら大きく翼を翻し主人のいる山へ再び戻っていった。
ピポクとシブチャリの間に海岸線がわずかに飛び出て岬のようになっているところがある。街道はそこだけ二百メートルほど続く崖下を通っていた。その崖の上。アムルイの眼下に木々の合間に庄太夫らが潜む姿が点々として見えるのだが、彼女はその頭上でゆっくりと旋回しながら、
「キイッーキッキッ」と鋭く鳴いて下にいる主人に何かを告げた。
 庄太夫は天空のアムルイに竹杖を振って合図すると西の山の方を見た。街道が続くその山の向うがわずかながら埃立っているように見える。彼は、
「来たようですね」と隣のシャクシャインに告げた。
 ピポクに潜ませていた密偵から幕府連合軍に不穏な動きがあるという報告があったのは今朝のことで、それを聞くとシャクシャインは急遽迎え撃つべくこの地まで出払ってきたのである。彼らは途中で二班に分れ、カンリリカ他十九名はそのまま街道を進んだ。シャクシャイン他四十余名は重い編篭を背負い武器を持った姿で山道を登った。同行する庄太夫だけクンヌイで受けた外記の袈裟切りによる骨折が完治しておらず、縄だけ右肩に掛けて歩いて此処まで来たのだ。庄太夫はしゃがみこむと懐から二枚の銅銭を出しわずかな隙間を開けて親指と人差し指で挟み、そこに息を強く二度吹き込んだ。
「ヒイーイッ、ヒイーイッ」
 これはエゾライチョウの雄が雌を呼ぶ声に似せた呼寄せの笛音である。
 この二度の笛音によって幕軍がまもなくやって来るという意味の合図になる。それを下にいるシャクシャインの息子のカンリリカ達に送ったのだ。彼らは徒党を組み雑木で柵を拵えて道を塞いでいる。幕軍の進軍をここで阻止しようとしているのだ。上からの報せに対し下の者たちは幕府連合軍の斥候をおそれてわからぬように返答をしなければならない。カンリリカは懐からムックリを出すと無造作に口へ持っていき糸を引きながら音を出した。
「ビューン、ビューン、」
 物悲しい独特の音が静かな海辺の空気を裂いて小さく響き渡り、それは戦いを前にして勇士を鼓舞する音でもあったのだが、知らぬ者が見ればおどけて踊っているようにも見えたりもするけれど、音色が寂しすぎてまるで絵にはならなかった。
見た目はともかく、これでみな心の中では緊張したのである。あとわずかな時を経ずして戦がはじまり残虐な殺戮が行われると、いましも誰もが狩のときのように、この一戦に懸けて集中力を高めていったのであった。絵にならぬのは他人事で、人々は殺される恐怖を押し殺して人殺しへの興奮を高めているのだ。そう、誰もが自分だけは敵に殺されないと信じて意識を高めるしかないのである。
シャクシャインはこの音にうなずいた。
 しかしムックリの不思議な音色は庄太夫にとって下からというよりもさらにその地下の深いところから聞こえてくるように感じたのである。音色に誘われるように改めて彼は崖下を覗くと、これは高い、と思ったが恐怖はない。ところがどうしたことか下を見たまま顔がそのまま動かなくなり、しかも下にいるカンリリカらの動く姿が二重に見えて頭がくらくらと不安定に回りだして崖の淵へと足がもつれるように動いてくばかりか頭の隅で何かがささやいているが聞こえだし、
「死ねばいい。楽になれ」とその甘味な誘いの声は云っていた。
 そうさそれがいい、と聞こえる声に自分もうなずき返していた。
 自分の人生はすでにクンヌイの攻防で毒矢を受けたときに尽きていたのであって、その後も生きているのは余分な人生だとさえ思っているのみの今、この崖から転げ落ちて死ぬことなどなんの造作もないことで、現にそう望みたいとさえ思っている庄太夫だった。
 あの戦いで彼は十三歳になる自分の息子を失った。それも我が子は自分を守るために鉄砲の前に飛び出してきたのだ。あのときから庄太夫は魂を失ったかのように気落ちしてしまった。胃袋に鉛の塊が入っているような重だるく辛い日々を引き摺ってここまでやって来た。
 あのあとオシャマンベ砦に担ぎ込まれたとき毒のため死界をさ迷っているまま息子の後を追って死ねばよかったのだ。そうなっていれば今も苦しんでいることはなかったろうに、この苦しみのほうが毒による苦しみよりもはるかに辛く、どうして自分は蘇生したのか、トリカブトの毒に効く解毒剤はないのに、受けた毒が少量だったのか、あるいはカムイがこの世の仕事を中途半端にさせたくなかったのか、理由はわからないが不思議にも庄太夫は助かった。目覚めた彼は現状を訊いて驚いた。事態は一変していた。アイヌ軍のほとんどが此処を抜け出しわずかに日高族だけが残っているというではないか、自分が眠っているわずかな間に何があったのか、これが邯鄲の夢なのかとこんな時でも世の中の不思議に庄太夫は感じいった。もはや勝機は去ったのだ。夢のうちにそう悟ると、胃に何度も錐で刺されるような痛みの中で、すぐにオシャマンベ砦を引き上げる案をシャクシャインに告げると、また意識を失いその後三日も眠ったままだったが、眠っているときのほうが幸せだったろう、目覚めれば過酷な現実が待っているのだから。
 オシャマンベからエドモを抜けてシブチャリの砦に帰ったあと彼は妻に息子の死を告げた。妻は狂ったように泣き叫び庄太夫の胸を叩いて彼を責めたので、そのとき庄太夫はなぜ自分達親子の生死が逆でなかったのかと運命を呪うばかりだった。誰が子に命を助けられて喜ぶものか、どんなに涙を流しても後悔までは流してはくれない、逆に想い出は涙とともに次々と現れてくるばかりだった。人の世ほど儚いものはない。少年のころ廓文和尚は、それは水鳥が飛び立つとき足から落ちる雫に映る月影のように儚いと高祖が詠んだと話してくれた。自分の生涯などそれよりも短いのではないか、過ぎてみればみな本当にあった出来事だったのだろうかと思うばかりである。今は自分が生まれてこの世に存在することすら信じられない。あのつらい出来事もみな夢なのだ。あんなことなど本当はなかった。自分はいま飯を炊きながらうたた寝をしているだけにすぎないのだ。まだ眠っている。こんなことは夢を見ているだけにすぎないのさ、きっとそうなのだ、そうに決まっている、そのほうがずっといい、飯はまだだ、炊き上がればきっと、「ハラへったよう、」と子供が走りながら帰ってくる、そうだろう?
 深い暗黒の淵へ自分は落ちて行く、何ということか、差しのべる手を誰も握ってはくれない、恐ろしい孤独がもがく手を凍らせるばかりで、クラクラと目眩がして庄太夫は自分が今何処にいるのかわからなくなった。眼下の街道も見えず、闇を彷徨う自分がいる。誰か、誰か、助けてくれ、まるで自分の命が今尽きてしまうように感じる、こんな孤独な凍りつく寒さの中で死ぬのは嫌だ。そう思ったとき、闇の遠くに光が見えた。暖かそうな小さい線香のような光だ。あの光は、あれは今の光でない。なぜか庄太夫にはわかる。優しい懐かしさきっと十三年前、人生で一番楽しかったとき、幸せだったときのものではないか…
 十三年前の朝早く、妻は梁から下げられた縄にすがり、二人の出産経験のある女性に介護されながらエカシが祈願する火の姥神、お産の神、戸口の神、庭の神、指長姫の見守る中、男の子を産んだ。そのとき、庄太夫は産湯から洗いだされたばかりのわが子を高く掲げると、自分が初めて人として生まれてきた意味を知ったのである。やがてこの子が成長するたびに多くの感動を与えて貰った。初めて物を食べては驚き、立ち上がっては驚き、歩き出したときには声を上げて吃驚した。他人にとっては当たり前にしか見えないこれらが庄太夫にとってはすべてが新鮮だった。この子が成長するに従い言葉を教え和人の文字も教え、本も読んであげた。魚の獲り方も、山に仕掛けるアマッポも、大きくなるにつれ鷹待も教えていった。子は常に父に寄り添い素直に学んでいった。庄太夫はこの子がどんどん大きくなり、何よりも一人前になっていくのが楽しみだった。共に同じ目線で物を考えどんなことも二人で工夫して困難を解決した。アムルイとも兄弟のように親しみ、三人はいつも一緒だった。彼らは血の繋がりが如何に尊いものかを初めて知った。この子のためならいつでも命を捨てられる。いいや逆にこの子を育てるために自分はこの世に生まれて来たのだとさえ思った。ならば男らしい子に育てよう、それをこの子はよく理解した。想いは同じ考えだったのだろう、子は父親を無二とした。父あっての自分だと思い、初めての戦にも付いて来た。そして父が軍団に無くてはならぬ男だと知った時、敢然としてその命を守るため、自ら銃弾の前に飛び出したに違いない。男は常に潔くあれ、と教えたことが仇になった。子は大事だからこそ甘やかさず厳しく育てたのに、それが間違いだったのか、シャクシャインもその時は孫を失った悲しみにくれていたが、娘が余りにも庄太夫を責めるので彼の胸にむしゃぶりつく吾が子を引き離さなければならなかった。
 このようにして吐くように現実の辛さがまた庄太夫を襲った。悲しみが胸の下のほうからじわじわと締め付け上がってくる。眼の横奥が熱くなりやがて涙が溢れ出した。ついに止め処なく流れはじめ、頬を、喉を、着物を濡らした。
 もういい。
 庄太夫は今、崖の淵五寸もないところにいる。
思うに、人の知恵など到底神の知恵に比ぶれば遥かにおよばないと。自分が小ざかしい知恵を振り回したため、事はどんどんあらぬ方へ進み、多くのウタリを不幸にしてしまったばかりか、自らも息子を亡くし最愛の妻を苦しめてしまった。自分は図らずも百度地獄へ落ちても拭えない罪を犯したのだ。その罪を償うとしたらすぐにもこの崖から一気に飛び降りればいい、免罪ばかりか、心もどんなに楽になれるだろうか、いや一歩もいらない、もはや身体を前へ傾けるだけでいいのだ。
「もう逝け、」脳の隅の何者かが言った。
 シャクシャインは先ほどから庄太夫の異変を後ろで見ていたのである。彼は音もなく庄太夫の背後に立った。そっと彼の肩へ優しく手を置いた。庄太夫がクンヌイの戦い以後、竹の水筒に今までのように水を入れず、酒に変えていつでも飲み歩いているのも気が付いていた。しかし彼の悲しみがわかるから何も口出しはしなかった。その後姿が哀れであった。誰もお主を責めるものなどいないのだ。シャクシャインはそう言ってやりたかった。
「婿殿、まだまだ戦はこれからですぞ。このまま終わってしまっては死んで逝った者にあの世で合わせる顔がないではありませぬか、のう」
 庄太夫は黙って肯いた。
 ここまで来た以上、みんなを置いてひとり自分だけ楽になるわけにはいかない。人生で迷った時、二者択一を迫られた時、常に自分に言い含めてきた言葉がある。楽な方を取るな、苦しい道を選べ、そうすれば決して後悔しない、それが今だ。仕事はまだ残されている、しっかりするのだ、と何度も心を反芻させた。まもなく新たな戦いがまた始まるのだ、そうなればこの命など何処ぞなりと吹っ飛んで行くやもしれず、となれば今は滅入って場合ではないではないか、やっと庄太夫は自分を取り戻し、腰に差した袋槍を鞘からそろりと抜くと次いで竹杖の先に装着した。闘って、闘ってそしてあとは運命に従えばいい
 アムルイは心配そうに高い木の枝に止まり主人を見下ろしていた。庄太夫も見上げた。思えば畜生とはいえ、彼女とは長い付き合いであったという、感慨がふとわいてくるのだった。
 鷹待は鷹を取って鷹狩に仕込むこともあり、いわば鷹匠も兼ねていた。アムルイはまだ眼の開かない雛のときに捕らえて仕込んでみた。その従順さと賢さは他の鷹に比べて群を抜いており、こうした鷹は何倍も高く売れるのだが、しかし庄太夫はアムルイの自分に対するひたむきな気持ちを察すると他に渡すことは忍びなかった。たぶんアムルイには刷り込みが有ったのかも知れず、庄太夫を親のように思っているふしがあるのだ。ふたりは長い付き合いとなった。いつか困った時には売ろう、という気持ちが何度もあったことを今はアムルイに対し恥ずかしいと思っている。彼女は一度も自分を裏切らず命さえも助けてくれた。そんなお前に対し自分はなんて情けないのか、今度生まれ変わることが出来るなら、きっと自分も鷹になろうと、そう思いながら彼はアムルイに微笑んだ。
 アムルイは西に首をひねり、また庄太夫を見て、
「キッ、」と短く鳴いた。
「わかっているよ、奴らが来たんだね」庄太夫は優しくアムルイに言った。
 また戦が始まるのだ。しょげているのもここまでにすぎない。下の者たちは敵が目前に迫っていることにまだ気がついていないようだ。いまだふらりとして隊形を組んでいない。庄太夫は懐から再び銅銭を二枚出すと口へ持っていき強く息を吹き、音を出した。
「ヒイーイッ、ヒイーイッ、ヒイーイッ、」雌を呼ぶ切ないエゾライチョウの声が続けて三度ざわつく海の風を切り裂が如く響き渡っていくと、
 下の者たちはその音を聞いて誰もが敵が目前に到来していることに気付いた。が、決して山の上を見ない。誰もに緊張が走ったが、それを顔に出すものはいない。いままでどおりの姿のままでいた。まもなく下の十九人を指揮するカンリリカにも幕府連合軍百名余りが二列縦隊で、街道の埃をあげながらゆっくりとやって来る姿を確認できた。カンリリカが左手を挙げると十九人は歪な隊列を組んだ。
 幕府連合軍も同時に前方の彼らを確認している。
「メナシの者どもが道を塞いでおりまする」本隊より遥かに離れて先を進んでいた物見のシュムウンクルの男が瀬兵衛の馬の下まで駆けて来て報告した。
「おおさ、ここからもよく見えるわ」瀬兵衛は鐙の上で立ちあがり高い位置から素早く数を数えてみた「二十名もおるか?」
「あれで関所のつもりかね」舞い立つ埃の向うに、木柵が道を塞ぐように設置してあるのを見て副官の武士今井小次郎はそれがあまりにも簡素すぎるのでそう言ったのだろう。「一気に蹴散らそうか」
「まあ、待て、」瀬兵衛は出立の際、泰広にくどいくらい注意するように言われている。すでに鉄砲隊には銃弾を装填させているのだが、瀬兵衛は彼らに向かい、「方々、火縄に火を付けよ。いつでも放てるようにして火蓋だけまだ切るでないぞ」そう命令した。
 鉄砲隊は言われるままに手に持ってクルクルと火が消えないように回していた火縄を銃の鋏に押し込んでから、隊列を崩さず銃口を天に向けて次の命令を待っていたのである。
 そのまま幕府連合軍は柵の百間ほど手前で行進を止めて動かず、瀬兵衛はアイヌ軍の上方、崖の上をじっと見詰めていた。あそこに敵が潜んでいないだろうか、あの柵の馬鹿どもと戦闘中に上の崖から矢を射込まれればひとたまりも無いではないか、何か気配はしないだろうか、と目を凝らすのだが、何の気配も読み取れずそれでもしばらく瀬兵衛は動かなかった。
 すると鷹が一羽、木の枝から飛び立つのが見えた。鷹はゆっくりと羽ばたきながら木々すれすれに旋回しながら飛んで獲物でも探しているかのようである。もしあそこに敵がいるなら、鳥はあんなに低くは飛ばないはずだ。なるほどと瀬兵衛は安心した。しかし彼はその鳥が人間に飼いならされたものだとは知る由もない。だが瀬兵衛はなお確認するため、斥候に尋ねた。
「あの崖の上に何か異変は見えなかったか、」
「別に何も見えませなんだ。ただヤマドリ(エゾライチョウ)が二度ほど鳴いたくらいでしょうか」
 エゾライチョウは地上に棲み木々の合間を縫って飛ぶ習性がある。
「それで鷹が狙っておるのか、ようわかった」ついに彼は納得した。
「雁行は乱れておりませぬか?」と今井は不思議なことを言った。
「なんじゃあ?雁など何処にも飛んでおらぬ。あれは鷹じゃ、」
「いやいや、義家公でござるよ。金沢の柵の事、貴殿は知らぬのか?」今井小次郎は飽きれたような顔で瀬兵衛を見つめた。
「八幡太郎くらい知っとるわい」くそっいまいましい、それがどうしたと瀬兵衛は腹の中でうなった。これで返ってあせるように、「前へ、」と彼は運命の命令を下したのである。
 大将が感情的になれば戦は負けることにきまっているのだが、また瀬兵衛には最初から考えがあって、シブチャリの砦を偵察してさほどのものでなければこのまま一気に押してシャクシャインの首を挙げてやろうと思っているのだった。だいたい御大将は慎重すぎるのだ。相手はたかが無知な蛮族の夷ではないか。
まずはこいつらから血祭りに挙げてやり、それから次は、と彼は目前の敵を睨みつけていた。餌でも、絵に描いた餅でも、美味しそうなものはやはり手に取りたいのが人情というものではなかろうか
 しかし、よく考えればわずか二十名ほどで鉄砲を持つ百名余りの敵を相手にするわけがない、誰も命は惜しく追い込まれない限り無謀なことなどしないものなのに、それが感情的になった瀬兵衛には見えず、だから敵の思う壺にはまってしまうのであった。
街道を塞ぐアイヌ軍は盛んに槍を翳して子供のように飛び跳ねながら瀬兵衛たちを挑発していた。そもそもこういうことが可笑しいのではないか瀬兵衛、と泰広は言うだろう、ただし傍に居ればだが
「チエヘ無し、やーい」とカンリリカらは、アイヌ語と和語を混ぜた言葉で罵りながら騒いでいる。
 中には可笑しくもないのにげらげらと大口を開けて笑っている者もいる。その態度が大げさで、どうも罠があるように思える。こんな挑発行為が気になり、瀬兵衛はやはり嫌な感じがしたのだが、それでも軍は五十間ほど近付き、十分お互いに射程距離内に入っていても、互いに牽制しているのか共に撃たず、これで大丈夫なのだろうか、と彼はまた不安が募るばかりで、ついこのまえの話、味方がオシャマンベで奇襲にあっており、たかが夷めに騙されてしまい、それが瀬兵衛ら武士にとって相手を膾のように切り刻んでも納まらないくらい腹立たしく、今こそ見よと勇んで来ても、しかしあの事がここでも繰り返され再び奇襲されたなら瀬兵衛は生き恥曝して帰ることも出来ないだろうと思った。だが、
「鉄砲方前へ、」と、ままよ、瀬兵衛は命令した。
 それでいいのか、どうも数に勝ることがおのずと心を驕らせてしまうのだが、しかしまだ何となく崖の上が気になる心も残っていて、一抹の不安を拭い去ることが出来ない。あまりにもあそこは静かだし、街道のアイヌもわざとらしく挑発しているのはわかりきっている。だが鳥のこともあるし、気配も感じないし、たぶん大丈夫だろう。しかしオシャマンベ峠の例もあるではないかと此の事がいつまでも頭から離れず再び迷う。どうするか、
 幕府連合軍新井田隊は不安な隊長など誰も気にせず言われるままにずるずると動いて敵まで四十間に近付いた。
「横へ、」と瀬兵衛はやっと決断したのか鉄砲隊に指示した。
 鉄砲隊は歩行を止めると横に二列に五人づつ並び前列は地面に片膝を付き後列は立ったままで半身になって銃口をまだ天に向けたままでいた。
 シャクシャインたちは狩で待ち伏せするときのように完全に誰もが気配を消すことができるのだ。いまは全員山にもともと生えている樹木のようになっており、呼吸さえもしていないかのように見えた。
「構えよ、」と瀬兵衛が叫んだ時、街道を塞ぐアイヌ兵は悲鳴を挙げてわーっと逃げ出した。
「火蓋を切れ、」と怒鳴りながら最早、敵が上にいようが勝負するしかないのだと瀬兵衛は思った。
相手がどんな手でこようと、こっちは武士だ、戦の得手はこちらにあって向こうこそは素人の蛮族にすぎないではないか、何をされようと負けるわけがない。実際は逆なのだが、瀬兵衛の考えは間違ってはいない、時の流れを知るものはこの場合、泰広ひとりだけなのだから
 と、まあ、アイヌ兵たちは全員柵のうしろに慌てて逃げ込んだ。その慌てようが可笑しくて鉄砲隊の後ろに控える幕府軍側はみなどっと笑っていた。
 ところが、アイヌ兵のひとりだけ柵から顔を出すと、ひょいと矢を射てきた。矢は高々と飛んで馬に乗っている瀬兵衛めがけてきた。
「わっ、」と叫ぶと瀬兵衛は慌てて首を縮めた。
 それでもカーンと矢は兜に当たって彼をのけぞらしただけで、空しく跳ね返っていった。
「くそう、すべて放てっ、」
 瀬兵衛は撃たれたことで血迷ってしまった。本来前列だけ射撃をし、後列は次に控えて置くべきだったのに
 凄まじい一斉射撃の音が響き、あたりは硝煙で見えなくなった。
この時のために二重三重に編んだ木の柵はバシッバシッと銃弾が当たり木片が勢いよく撥ね飛ぶ様はまことに激しいのだが、損害はそれだけで射撃は無駄に終わった。
「怖いよー、」カンリリカは柵の内側で縮こまって弾を避け、隣の仲間に言ったのだが、その眼は笑っていて互いに面白がっていた。
 するとまたその隣の者も合わせるようにおどけて、
「ケウトゥムハイタ、」と、柵から首だけ出して両手を口に翳すと瀬兵衛に向って大声で叫んだ。
「何だとう?」
「間抜け奴っ、と言うております」側にいるアイヌの斥候が瀬兵衛に訳して言った。
「悪口など訳さんでもええわいっ、」
瀬兵衛は腹を立ててそのアイヌを馬鞭で打とうと振り上げたのだが、斥候のほうが鞭より先に危険を察して逃げていった。くそっ、いまいましいと思ったがそれどころではない。
「槍組前へ、」彼は完全に頭にきてまたも叫ぶ。
 もはや瀬兵衛の頭に崖の上のことは無い。槍組は鉄砲隊を押しのけるようにして前へ出ると、前列だけ槍を水平に構えた。
「いざ、押し出せ。皆殺しだっ、」
 鉄砲隊と瀬兵衛を残し全員が細い街道を鬨の声を挙げながら柵を目がけて駆け出した。これを見て柵からもカンリリカと何人が出てきたが何故か迎え撃とうとはしない。ただ見ているだけだった。
 なぜか?と瀬兵衛が思ったとき、柵の手前で先頭の十人ほどが消えた。あとにはものすごい砂埃が上がって、小枝の折れる音もした。
「あっ、」と瀬兵衛は鞍から伸び上がって前を見た。
 十人は落とし穴に落ちていた。
穴の底には先の鋭い杭が何本も打ってあり、それは、具足を着けているから落ちても死にはしないが怪我をする程度のものであった。この民族は擦文時代の遥か昔から鹿などの大型動物を捕獲するため落し穴を用いており、謂わばこれが彼らの常套の猟法であったのだ。
槍を持った鹿は簡単に落ちてしまった。後続隊もそれに気付き慌てて突進するのを止めて穴の仲間を思わず助けようとしたのだが、その乱れを逃さずカンリリカらは矢を射て来た。
 さても崖の上から敵の全軍がうろたえたと見ると、シャクシャインは、
「今だ、放てっ、」と二股の杖を振り下ろしながら叫んだ。
 崖の上から雨のように矢が下の幕府連合軍に降り注がれた。またも和人軍はこれでやられたか、と思いきや瀬兵衛は矢が放たれると同時に、
「盾だっ、」と叫んだ。
 彼はやはりこの奇襲を予見していた。瀬兵衛らは泰広に言われ、鎌倉武士が着けた大鎧にある大袖のうち射向の袖(いむけのそで。左肩に装備する。ちなみに右肩は馬手の袖)という携帯の小盾を着けていた。今ピポクは普請が盛んである。その木切れを使って急遽大工に作らせたのだ。だから左側しか装備していなかったが、それで用は足りると泰広は読んでおり、これに急ぎ半身を隠せば木や骨の鏃で出来た矢など子どもの遊具のようなものであって、みな頑丈な盾に虚しく弾き返された。
「馬鹿夷め、何度も同じ手を食らうか、」瀬兵衛は部下の小盾に馬を守らせ、自らも射向けの袖の中に避難していてそうほくそえんでいた。
 ところがそのあと間をおかず、瀬兵衛は盾ごしにすごい衝撃を受けたのである。このため馬は突然悲鳴をあげながら前足を高く掲げざまに彼を叩き落した。
 なんと崖上のアイヌ軍は矢雨のあと子どもの頭ほどもある漬物に使うような河原石を次々と投げ込んできたのだ。中にはふたり掛りで編篭ごと投げて来る者らもいた。これには木を組み合わせた盾などなんの防御にもならない。バリッと音を発して破壊され、人も同時に蹴倒されたように飛んだ。人々は最早逃場も無いまま、石は容赦なく飛んで来て彼らを襲った。当たれば骨折どころか死んでしまうことにも成りかねず、悲鳴をあげる者、逃げ惑う者で下は大混乱に落ちいった。
「おのれ、なんてことか、」と瀬兵衛はあわて立ち上がり暴れる馬を摑まえて叫んだがもう遅い。
 柵からもこれを見て弓を捨てると、待ってましたとばかりにアイヌ兵が槍を振り回して飛び出してきた。
 ただ崖の上から石が飛んで来たのもこの一回限りだった。
 ついで矢と石の代わりに縄が音を発てて飛んでくるのが馬にしがみついている瀬兵衛にも見えた。幾本もの縄は勢い良く崖にぶつかると猫の爪あとのように櫛目に垂れ下がった。それへ間髪を入れず、シャクシャインたちが猿のように伝いながらあっという間に降りてきたのである。弓矢の襲撃は予想していても、まさかこの急峻な崖を人が降りてくるとはさすがに瀬兵衛の思慮の外の出来事であった。
 彼らは皆背中に短い槍を背負っており、降りるが早いかその槍を翳して幕府連合軍の横腹を突いて来た。軍隊は横から攻められるのが一番脆い。迎え打つ暇も無いまま皆逃げ出したが、街道は狭く、多くは血迷って海へ飛び込んだ。庄太夫も肩の痛みを忘れて一気に縄を伝わって降りた。手が摩擦ですごい熱を感じたが、それどころか手のひらの皮も剥けていたのだけれど、それと気付いたのは戦も終わってからだった。
 こうなると攻めるほうも逃げるほうも今は夢中である。庄太夫は槍を突き出したまま逃げる雑兵の背中を目がけてぶつかっていった。槍は安物の胴丸を突き抜けてバキッと折れた。庄太夫は前のめりに倒れる雑兵に槍を預けるようにして捨てた。そのまま見向きもしないで次の獲物を求めて脇差を抜くと海へ飛び込んで行った。
 天空ではアムルイが心配そうに主人の活躍を見ていた。海は波打ち際が血で真っ赤に染まり、死んだ兵士を波が何度も洗っている。
 シャクシャインは最初から瀬兵衛を狙っていたが、彼はアイヌ軍の伏兵が崖から飛ぶようにして降りてくるのを見ると、騎乗するが早いか一気に馬首をもと来た道へひるがえし、思いっきり馬腹を蹴った。その先をすでに今井小次郎が馬にしがみついて駆けている。「あいつめ、」と瀬兵衛が思っても互いに五十歩百歩であろう。逃げる瀬兵衛をシャクシャインは駆けながら追ったが、幕府連合軍のほとんどが瀬兵衛のあとを追いかけたのでこれが邪魔で追いつけなかった。それでもシャクシャインは二股の太い杖で邪魔者を殴り倒しながら追いかけた。しかし如何にシャクシャインの足が速くとも馬には勝てない。崖の上に弓さえ置いてこなければ奴を仕留められたものをとついに道端で足を止めぜいぜい喘ぎながら悔しがった。
 この戦いは四半刻も費やさずにシャクシャイン側の一方的な勝利に終わった。アイヌ軍のほうにはひとりの死者も出ず、怪我人もわずかでそれらは崖を降りるときに負傷した者が多い。それにかえて幕府連合軍のほうは十数名が死に二十名ほどが逃げ遅れたり、怪我で動けなかったりして捕らえられた。
「どうしましょうか?」
 武具や武器をすべて剥ぎ取られた捕虜を前にカンリリカは父親に問うた。
「あれらはピポクへ逃げ帰り新たに大勢でまもなくここへ押し出して来るだろう。これらを引き連れて砦に帰るは足手まといになるわな」
「いっそ、みな首を刎ねてしまいまするか、」
 捕虜の中にはシュムウンクルの者がいたので、この親子の会話を聞き取ると、驚いて悲鳴をあげたものだから他の者も自分達の運命を悟ってしまった。彼らはみな一斉に地べたに這いつくばると命乞いをしたのである。誰だって死にたくないのは当り前で、諂うことは恥ではないのだ。
「雑兵などいくら殺しても何の足しにもなりませぬ」庄太夫が手に、その辺に生えている薬草を塗りながらふたりの間に入ってきた。
「この者らはクンヌイで多くの仲間を殺したじゃありませぬか、いわば仇の片われ、」
「仇は敵の御大将です。これらは手子にすぎない」
「手子でも実際はこやつらの手で仲間は殺されたんじゃ。ここで放てばまた槍を取って明日にでも我らを襲って来るだろう。何とも解せぬ、義兄(あに)様は和人じゃからこやつらを助けるつもりか、」
「バカタレッ、」と叫び突然、横からシャクシャインが思いっきり息子の頬桁を殴りつけた。
 カンリリカは張子の人形のように軽々と吹っ飛んでいった。
「あに様に向って何という口をきくか、あに様こそ息子を亡くしこやつらに対する恨みはお前などの比ではない。それも分からんのか、己は」
「もういいのです」庄太夫は転んでいる義弟を起こしてやると埃を払ってやりながら、「すまなかったな」と小さな声で一言いって去っていった。
 庄太夫は思うのだが、これより先、少なくとも自分らが生きている間に全アイヌびとが再び立ち上がることはもう無いだろう。となれば後は、和人らと共存共栄する道をたどるか、という考えも彼にはない。ただ望むことは、このシブチャリだけでも彼らを追い出して、松前藩も幕府も侵せない聖地とすることであった。現実として出来ることはこの他にはあらず、と彼は考え、だからここでいま和人の捕虜を殺す意味はなく、かえって恐れを与えて逃がした方が理に適うというものではないだろうか、とも思っていたのである。
 結局、捕虜は殺されなかった。死んだ者も道の横に並べて埋葬された。死んだらみな同じではないか、という考えはアイヌ軍にはない。ただ死者の恨みを怖れること大であって敵の死者ほどその祟りが恐ろしいから、それが理由で丁寧に埋葬したのである。
 やがて風も収まり雨が降り始めた。濡れることを嫌うかのように彼らは急ぎ帰り支度をはじめた。シャクシャインらは死んだものからも武具を剥ぎ取っていた。それらすべての戦利品を担いで風の如く消えたのである。
 それから半刻もしたろうか、泰広は瀬兵衛を伴ない三百ほどの兵を引き連れて仲間の救助に駆けつけてきた。放置されていた捕虜らはその姿を見るとみんな雨なのか涙なのか顔を濡らして喜んだ。
「まだ遠くへ行っておりませぬ。追尾しましょう」瀬兵衛はさきほどのことなど忘れて勢いだっている。
「我らに追いつかれるほど間抜けな連中ではないでしょう」泰広は冷静に言った。「それにしても、」泰広は馬を降りた。「見事にやられましたな。山に伏して敵を不意に襲う、蝦夷の常套手段です。まるで狩りでもするように、長万部峠でもそうでしたな、」泰広はたっぷりと皮肉を込めて瀬兵衛に言った。
「わっ」と叫ぶと瀬兵衛は急いで馬を降りるなり泰広の前へ飛び出し這いつくばった。「申し訳ありませぬ」今にも腹を切りそうな形相だった。
「いやいや、これでいいのです」泰広はにっこり笑うと瀬兵衛を優しく見つめた。
 瀬兵衛にはその意味がわからない。きょとんと鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。泰広にとっては、こうなることは最初から知っていてあまり頭の走らない瀬兵衛に偵察させたのだった。だから瀬兵衛が慌てふためいて駆けつけたとき、すでに彼には救援の仕度が出来ていたのである。
 泰広は陣笠を持ち上げると崖の方をしばらく見ていた。縄がそのまま垂れ下がっているのが見えて、あそこを降りてくるとは、やはり奴らは人に非ず。さらに山の上を見た。アムルイが雨の中、気にもせずに上空を舞っている。
「いい鷹だ」誰に言うでもなく泰広はぽつりと言った。
 鷹が野生のものでないことは一目でわかる。あのとき、瀬兵衛ではなく泰広がこの鷹を見ていたなら庄太夫の謀を見抜いていたろう。それにしても、と泰広は思う。奇襲などというものは、ひとつの戦に一回限りしか持ちうるべきではない。それが常識だ。奇襲は相手に見破られると逆にやられてしまう恐れがあって、一か八かの賭けのようなものである。それなのにアイヌ軍は二度も同じ手で来た。少数となった今、彼らにはもはやこの作戦しかないのだろうとなれば三度もありうることか、泰広はそう解釈した。ただし三度目の成功はない。
「さあ、引き揚げましょうか、」泰広は雨の中いつまでも居るのは馬鹿らしいと言わんばかりにまた馬に乗るとさっさとピポクへ向かって帰っていった。
 翌朝雨も上がり、泰広自らが威力偵察に出た。ピポク砦に百名だけ残し、五百名弱の軍勢を引き連れてシブチャリへ向った。出来れば全員にシブチャリ砦を見せ、今後の戦場がどのようなものであるか、知識を泰広ともども知っておいて貰いたかったのである。実は昨日も最初からこうしたことを泰広自ら行うべきであったのだが、瀬兵衛を派遣させたのはそこに彼の別な思惑があったのだ。つまり昨日泰広なら敵の奇襲を見抜き、別働隊をさらにシャクシャインの裏に回して攻め落とすことも出来たろう。それでは崖を背にした敵の死力をまともに受けて、こちらの損害も大となるだろう。彼はこの戦いでの自軍の損害を最小限に抑えようとしているのだが、それは人道的なことからではなく、幕閣に対しての牽制であったのだ。
 途中昨日の戦場で休み、連れて来た僧侶に死者の供養をさせながらゆっくりとシブチャリ川西岸に着いた。川は誰もが思っていたより大きくて水量もたっぷりとして幅がある。百間か、流れは大河らしくゆったりとしていた。それよりも驚いたのは東岸川面からいきなり巨大な崖がそそり立っていることだった。それは天を衝くような壁で、ここを人がへばりついて登るなんてことはハナっから否定される思いがするばかりで、その崖下の川の水が特に濃緑色に見えて流れも渦巻いて特に早いのである。あそこは格段に深くなっているに違いない。ピポクの砦と同じく河口が海に迫出て短い岬になっていた。古代に川は山塊を削って崖を造ったのだろう。南側の断崖も万年前から海が請負ったに違いない。敵味方どちらもこうした自然の要塞だが、こちらは規模が違う。おそらく三倍は何もかもピポクより大きいだろう。誰もが圧倒された。
「ありゃあ、無理ですわ」瀬兵衛はもう諦めている。
 ざっと見渡して、唯一攻め込めるとすれば北側のゆるい山並みである。おそらくあそこからシャクシャイン達も出入りをしているに違いない。
「北の山から攻め込むしかありませんな」瀬兵衛もそう読んだ。
「あそこも無理でしょう」と泰広はまるでやる気のない声で言うのだった。「あの森に踏み込めばたとえ一万の軍勢でも展開出来ず、木陰からみな毒矢で殺されてしまうでしょうな」
 確かに森は鬱蒼としていた。これでは深い下草を掻き分けて大軍など進めるわけがない。
「難攻不落の砦というところでしょうか、」
 泰広は胸に溜まっている息をふうっと吐いて、
「人に落とせぬ城砦などありませぬ」と静かに言った。
「えっ、」という顔で瀬兵衛は泰広を見た。
「力押しに攻めるばかりが城落としの法ではありませぬな」
「はあ?」何か秘策が泰広にはあるのだろうか、と瀬兵衛は思った。「それにしてもここからでは鉄砲もとどきませぬなあ、」と言っているやさきに対岸のそそり立つ崖の上のほうで白い煙が幾筋か揚がった。遅れてどーんという鉄砲の発射音がして西岸の手前で水しぶきが上がった。
「われらから奪った鉄砲を使ってくさる」瀬兵衛は腹立たしげに言った。「やはり届きませぬなあ、」とついで可笑しそうに笑った。
 少し間をおいて再び崖の上に煙がまた揚がった。同じように遅れて音がする。今度は泰広らが立つ川岸の砂がビシッビシッと撥ねた。
「わっ」と瀬兵衛は叫びながら飛びのいた。
「なかなかやりますな」泰広は笑っている。敵の眼が恐ろしく良いのだ。あそこから水しぶきが見えるとは、「さあ、皆のもの慌てて逃げるのじゃ、」自軍の兵に指図するなり真っ先に泰広は馬に鞭を入れて駆け出した。
 全軍は崩れるように大将に従って逃げた。三十間ほど走って泰広は止まった。瀬兵衛らもやっと追いついてくる。
「どうなされたのです、御大将、いきなり逃げるとは」と瀬兵衛はあえぎながら言う。
「角度を変えれば飛んで来るものですなあ、」と瀬兵衛の問いには答えず、敵の鉄砲の撃ち方に感心していた。
「当たれば死にましょうか?」
「まさか、あの距離です。当たっても痛いだけでしょうな」
「ならばなぜ逃げたのです」
「ははは、」泰広は楽しそうに笑っていたが砦を見る目は厳しかった。それでも「これでいいのです」とまた昨日と同じことを言う。「さあ今日はここまでにして戻りましょうかのう、」
 彼は馬手の手綱をぐいっと引くと馬首を廻らせゆっくりと元来た道へ駒を進めながらこの辺りの地形を目踏みしていた。
瀬兵衛らは銃の一発も撃たずに引き上げる泰広の心が読めず、なにやらもの足らずな気分で引き上げたのだが、せめて小競り合いでも敵と一戦交えて昨日の雪辱を晴らしたかったであろうに
 が翌日、その思いは達せられると言うべきか、新たな命令が泰広から下り、また街道での襲撃を恐れてか今度は三百ほどの兵をそれぞれ舟に乗せて瀬兵衛は海からシブチャリ川に入ってきた。小舟の船団は広い川を覆い尽くすほどである。
船団の長、瀬兵衛は泰広から崖下には近付くな、と言われていたにもかかわらず、この前の恨みを晴らすためか、その近くまで船団を寄せると盛んに砦へ向け鉄砲を放った。下から撃つ鉄砲は威力がない。それを馬鹿にするように砦側からも大きな石や丸太が船に向けて投げ下ろされ矢も無数に飛んで来た。
 彼らを迎え撃つ庄太夫は砦の中で大きな投石機を作って待っていたのである。長い丸太は高い支柱に縛られて回転するように出来ており、その片方には籠を付けそこに大きな石を載せてある。これをもう片方の競り上がっている方に、重石代わりに高い台から乗った体格のいい男二人がしがみついている姿はなんとも奇妙であったが人間を重石にしたのは速射するためであった。これなら石付丸太を引き上げるより確かに早いのだが、重石の人間は気の毒であった。なぜならもう一人の男が力任せに掛けやで台の留め金を叩き外すと丸太は男たちを下へ降ろすように勢いよく回転し、地面に付く辺りで止め木にガツンとぶつかって身体中にしびれる衝撃を受けるからである。
そうすると天に向けて上がっていた篭の石は弾かれるように大きく放物線を描きながら宙を飛んで船のそばにドボーンと落ちて行く。この時も水しぶきが高く上がり、船に乗っている者たちをびしょ濡れにさせただけだったが当たれば舟は真っ二つに折れるだろう。
 庄太夫は矢倉の上から落ちる石の方向を指示していたが、それでも中々船には当たらない。それならばと、今度は三人でやっと引ける大きな弩に鯨打ちに使う丸太のような銛の矢を添えると船を狙ってブンと放ったのである。
「よくまあ次々とこんなものを思いつきまするなあ、」シャクシャインは感心するばかり「これも孫子のなんとやらに載っているのですかの?」
「これは三国志演義です。唐土では昔これの大掛かりな物で城を攻めたようですね」
「この戦終わればその話聞かせて貰えまするかな」
「いいですとも、」
 大弩から放たれた銛は上から下へ落ちる速度も加えドッと勢いよく瀬兵衛の乗ってる舟底に当たって突き抜けるように刺さった。船は反動でグラッと揺れた。
「おお、」と瀬兵衛は指差しながら隣の侍に叫んだ。
 底板が割れて、水が噴出してきたのである。乗っていた雑兵が慌てて垢だしで水をかき出すのだが、入って来る水量のほうが断然多いのだ。
「沈むぞ、」と瀬兵衛は言うと、沈まないうちに急いで対岸に向けて避難したのである。他の舟もみな付いて来た。
 岸に着く頃には舟の中は半分ほど浸水していた。
 もとより瀬兵衛の思惑は憂さ晴らしよりも砦の防御がどのようになっているか知るための攻撃であった。瀬兵衛はあれ以来慎重になっていて無理はしないのであるが、意外な仕掛けに驚き、運よく誰も怪我をしなかったのが幸いした。やはり御大将の云うことは確かであった。崖下には近付くな、か、彼には、もう失態は許されないと知り、全軍を対岸に引き揚げるよう命じた。
 そして泰広に命じられている本来の目的に取り掛かったのである。三百名は対岸に上がると一斉に鋤や鍬を持ち出した。ついで川岸の見晴らしのいい高台、文四郎の屋敷跡にもともとあった土塁をさらに高く築き始めたのである。三日ほどかけてこの屋敷跡を要塞化し空き家も人の住めるように修繕した。クンヌイと同じように周りの木々も切られた。かつて住んでいた和人小屋も壊してそれを柵や矢倉とした。この小砦に五十名ほどが立て篭もることになった。あとの二百五十名はまた舟に乗ると冷やかすように崖下に寄せ、鉄砲を放った。上からも同じように鉄砲を撃ってきた。どちらも当たらない。船団はこのあと石が落ちてこない内にさっさと海へ逃れピポクへ帰っていったのだった。
 瀬兵衛はシブチャリを発つときこの砦の守備隊長に、
「よいか、蝦夷が攻めて来たらすぐに狼煙を挙げよ、われらはすぐ駆けつけるであろう。奴らをおびき出しここで挟み撃ちにして殲滅するのがこの砦の狙いぞ。そのときはなんとしてもわれらが来るまでここを死守するのじゃ。誰も死にとうなかろう、よいな、あとはよく見張ること肝心なり。どんなつまらぬことでもよいから敵に動きがあったらすぐピポクまで知らせよ。何か噂を聞いただけでもよし、なにごとも報せること、これ怠ること無かれ」としつこく言って去った。
 ここに砦が造られたことでピポクとシブチャリ間の街道も幕府連合軍に抑えられたことになる。
「敵ながらいい布石ですね」と庄太夫は矢倉の上から対岸の砦を眺めそばのシャクシャインに、感心しながら言った。
「なるほど、あそこに敵が居ればこの前のように奇襲をかけても逆に挟み撃ちにされるわけか、あれらもやるわのう」と言いながらシャクシャインは鼻の下を指で擦っていた。
「この一石で街道は敵の手に落ちました。もう街道は諦めましよう」
「これでは雪隠詰めかえ、いっそあの砦を襲うか」
「無駄でしょう。落としてもすぐ兵を増やしてもっと堅固にされるだけです。また我らがあそこを取っても常駐するわけにはいきませぬ」
「わしらは兵が少なすぎるわ」
「そうです。それでも負けるわけにはいかない」
「何か新たな知恵がありまするかな?」
「何もありませぬ」
「…」


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