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作品名:天に逆らう人々 作者:勝野 森

第14回   軍師倒れる

 軍師倒れる

「糞っ」
 蛎崎蔵人は、大手門が破られた合図の敵の鬨の声を聞いたがどうにもならないことにいらだっていた。周りは全部アイヌ軍に囲まれて激しく攻撃を受けている状態では、ひとつを抜いて応援に行くわけにはいかないのである。泰広が一番懸念してことがついに来たと彼は思った。敵の火攻めなど想定外のこともあったが、古くから城攻めで一番目標にされるのは大手門である。それをしっかり頭に入れていればもっと丈夫な門にしておくべきだったのだ。たとえ時間が無くてもアイヌ軍が現れた時まず何より先に門前の橋を壊しておくべきだった。どうも心の何処かに攻勢が激しく手に負えなくなれば、遂にはここから脱出する気持ちがあったのだろうか、何とも後悔することが次々と頭を巡るばかりで、まるで手から滑り落ちた高価な磁器の茶碗の欠片を手に取る様に、もう一度時間を過去にもどせないだろうかと広林は意味の無い考えにとらわれていた。だが覆水は盆に返らない、というではないか、敵はまさに砦の中にいま現在突入しており、まったくもって、これで総ては終わるのかも、築城の苦労も、多くの情報収集に奔走したことも、兵をかき集めたことも、何度も繰り返した訓練もその全てが徒労に終わり、ついに討死か、と考えれば油汗とも冷汗といえぬものが、額や脇からじわりとにじみ出て気分も悪く吐きそうで、たとえ生きて帰っても敗戦の責任をとって切腹しかないとなれば、いま広林は生に執着するとなると震えるほど恐怖を感じたのである。
しかしこのままには出来ない、何とかしなければ、何を、どうすれば、いいのか、わからぬ。と思考も定まらぬまま、彼は敵軍の進入によほど強く衝撃を受けたのか、茫然として従者も連れずひとり槍を握ると大手門に向けて駈けて行った。後に考えてもどうしてそうしたのかわからず足が勝手に動いたと言っていい、これは、指揮官としての自分としては失格であり、なんとも侍の意地だけが彼をして動かせたとしか言えないのであった。
もうもうと埃立つそこには大勢の具にもつかない民兵が敵軍に突入された恐怖で闇雲に騒いでいるだけだった。なんとも、頼りにするのはこの一番弱い民兵とは、広林は奥歯が折れるくらいに食いしばったが是非もない。武士の家の子として生まれて来た以上、人殺しをせぬまま生涯を閉じるほど情けないものは無いではないか、そう自分を奮い立たせればするほど、逆に殺される怖さも感じるのだった。何とも、人殺しも殺されることも如何ほどのものかと思えば腹も決まりついにここで我も死ぬぞ、こうなれば武士らしく後世に語り継がれるような死に様を見せてくれるわ、と勝手に納得して駆けつけて行く広林をアイヌ兵がひとり突出するように出てきて迎えうった。相手が突き出す槍を広林は絡めるようにして弾き返すと石突きで思い切り相手の足を払った。アイヌ兵が宙高くトンボ返りでもするかのようにどっと転ぶとすかさずその腹に広林は蛙でも踏み潰すように足を掲げて押さえ付け、間髪を入れず両手で思いっきりブスリと喉元に槍を入れてひねりながら抜いた。手応えが、敵の死が柔い肉体に刺さった槍から己の手の内に伝わって獲物を倒した快感がわくわくするほど感じるのである。相手は首筋の動脈が切れたのか、ドバっと血が吹き出し、血はぶくぶく泡をたてていつまでも流れて止まず、乾いた地面を朱色に染めて染込むように流れていった。日照りも続いていた大地はまるで渇きを癒すように血を音さえもたてているほどに急ぎ吸い取り始めるとやがてシルト分の多い火山灰地は埃も舞い上がりその死体も血の跡もさらさらと白く覆い始めていったのである。
「見たかっ」
広林は血を見るといよいよ興奮し大鹿を仕留めた狼のようにそう吼えてみたのだが、しかし、と彼は前方の激しい混戦を埃と煙の中で見てふと思った。もしここが陥ちれば蝦夷はなだれをうったような勢いで福山に迫るだろう。そうなればどうなるか、迎え撃つべき松前兵はすでに全軍このクンヌイの砦で討ち死にしているのであり、八左衛門様が連れているのは東北各藩の寄せ集めにしかすぎず、彼らは誰も自国のためでもない戦に本気で戦う訳が無いだろうし、そんな兵と町人の軍で勢いついた蝦夷とどう戦えるといえるのか、しかも頼みの綱の鉄砲は全部このクンヌイの戦いで失ってしまい、それは逆に敵の武器となり、より彼らを強力にさせるだろう。蝦夷にはここで勝ちさえすれば多くの、まだ蜂起に参加しない者たちも集まってくるに違いない。その数はどれほどになるか、少なくとも倍の四千にはなること間違いなし、とすれば四千の強力な蝦夷、しかもこれまでとは違いクンヌイで一銭の金もかけずに手に入れた二百丁の鉄砲を持った蝦夷軍である。これは和人兵の十倍の軍団と同格と見るべきであって、ならば四万である。四万の敵を相手にこのあとの松前藩が迎え撃つとしたら、もう戦わずして津軽の海へ逃げるしかない。その後、幕府がこれを討伐するとなれば島原の乱の比ではないことになる。途方も無い兵を動員して日本中がひっくり返るような大騒ぎになることは必定なり、とここまで想像すると広林は肝が冷えて全身がその寒さでがたがたと震えだした。が、ここでハタと思って、自分でさえそう考えるのにあの聡明な八左衛門様がこのことを考えないわけがない。ここを捨てればすべてが終わりになると確かに亀田で言っていたではないか、そうなればきっと今ごろ援軍を差し向けているに違いないとここは考えるべきか、しかし一番手の早馬は無事に着いたろうか、外記殿が報せてくれたと同時に大手門から二番手の早馬を亀田に送っているのだが、まさか二人とも途中で力尽き駄目になったということはあるまい。ならば必ず援軍は来るだろう。どう見ても援軍が来て砦側と挟み撃ちにしなければ蝦夷を倒すことは叶わないのだ。それは八左衛門様も重々承知で説明もしていたではないか、さすれば希望はあると見るべきで、ここは何としても耐えねばならない時なのだ。広林はやっと勇気が湧いてきて、ここで死んでたまるか、と思ったが、ここで、門が破られるのは早すぎた、と彼はもっと冷静に考えるべきであったろう。
「おのおの方、ここは何としても耐えよっ、忍べっ、今、味方がこっちさ向っていると報せがあったぞうっ、」広林は味方よりも敵に聞こえるようにあらん限りの声を挙げて一世一代の法螺を吹いた。
 その叫びは自らを一番勇気付けたのだが、それでも現実に圧倒的なアイヌ軍を見ているとこれで終わりだという気持ちがまたも湧いてくる始末で、それを追い払うためにも彼は悲痛な思いで叫んで走った。彼は槍を突くというよりもブンブンと振り回して混戦の中に飛び込み、二三人のアイヌ兵を殴り倒して行った。その姿もやがて埃と煙の中に運命に翻弄されているかのように飲み込まれて見えなくなってしまったのである。
 大手門が破られた以上、圧倒的に白兵戦に強いアイヌ軍、それも常に仲間同士で何年も争ってきた戦なれした最強の日高族が中心となったアイヌたちに砦内に踏み込まれた以上、最早和人軍に勝ち目はないと見るべきか、もともと泰広の言うように守りを堅くして遠く鉄砲を使って追い落とす以外に彼らに勝つ作戦はなかったのだ。それも早々と破られた。運命は今アイヌ軍に輝かしい勝利を与えようとしているかのようで、負ければ、砦内の千人の和人は皆斬殺され首は土手伝いに並べられるだろう。やがて烏の群れが現れ腐った目玉を突付き中の脳みそを美味しそうに食べるに違いない。首を失った胴体の内臓は山犬たちの最高の夕食となることも確かなことだ。人は死んで土に返るか、だがその前に多くの生き物の命を養うのだ。この地の和人たちはこの後亀田から福山へと大量の餌を多くの生物に与えていくことになるだろう。
それは海上を疾駆する泰広にもわかっていた。
 追風を受けて船団は渡島半島を回りこんで太平洋から内浦湾へと取舵をとった。曲げた舵が元にまっすぐ戻れば舳先はクンヌイへ向く。
「様候」と船頭が舵を抱きかかえる水手に潮風でしゃがれた声も絞り込むように大きく叫んだ。
いま船団は太平洋から内浦湾へ入ったのである。
そこには湾を見張る護門の神がいた。威風堂々として他に並べくものも無し、かつ恐るべき荒神である。
泰広は折弓の馬鞭を杖にして五百石船の艫で風に吹かれながら弓手に雄大な駒ヶ岳を見ていた。船団は亀田を出てすでに恵山岬を廻り内浦湾の一番奥にあるクンヌイへまっすぐ向かっている。いま駒ヶ岳を左に見れば、是より先は穏やかな湾内を走ることになり、速度も上がるだろう。
それにしても、と泰広はこの山を見ながら神の力の棲さましさに脅威をもった。
今から二十九年前、それまでこの山は富士山のように円錐の普通の活火山の姿をしていた。それが今、泰広が見ているように頭部が吹っ飛んでしまった姿になっているのである。駒ヶ岳よりも巨大な神がやって来て鍬で一気に岳の頭を削ぎ取って内浦湾にその土くれを捨てたのだ。だから紺碧の天空を後ろに控え怒りに燃える神は今も肩を大きく上げてかつてそこにあった頭のあとの首穴から血しぶきの代わりに白煙を吹き上げ、無くなった頭部を探しているのだった。
 寛永十七年六月十三日西暦一六四〇年七月三十一日、大噴火はマグニチュード5.4の地響きと共に山頂を内浦湾に投げ込んだ。丁度いま船団が通っているあたりである。湾岸はこのため大津波に襲われた。そのときの死者は七百名を越えたといわれている。蝦夷地はまだ各地の人口が少ないので、この被害者数は内浦湾沿いに住む総ての人を残らず殺したと言っていいのではなかろうか。
この時の噴火の規模の大きさ途方もないもので、対岸の青森までも襲い『津軽一統志』にも噴煙は津軽の天をも覆い三日間は陽を見ることが出来なかったばかりか、降灰は六七寸ほど積もったと記されている。泰広はまるで廃墟のようになった山容をじっと眺めていた。神はなぜ意味も無く力を鼓舞するか、それを鑑みればこれから自分のすることなど如何ほどのものか、と思う。今まで一度も人を殺したことのない泰広だったがこの戦でも駒ヶ岳の神ほど自分は人を殺しやしない。そうとも、殺しも殺されもさせるものか、と思った。そのためにも陽が真上に来る前になんとかクンヌイに着きたいのである。すでに用意していたとはいえ亀田で船団を集結させ人員を搭乗させるのに時間がかかりすぎたかもしれない。それを取り返すためにも泰広は、
「もそっと早くならぬかのう」と急かせるのだが、そばであれこれ指示をしている船頭は、
「大将、風は北へ吹いてまさあ。これより追風となるで、」と嬉しそうに泰広を見た。「潮も浦に流れ込みますればなんぼか早まろうほどに、」とまた付けたしこれで期待に答えられると船頭は思ったのだが。
 ところが船団の速度が気になるのは自然の力ばかりではない。何はともあれ船団の船種は寄せ集めだけに大小様々で、川崎舟のように細身で早い物や弁財船のようにずんぐりしたものもあって、これがため全船の速度はまちまちで一律ではないのだが、これでは泰広の作戦上困ることになるのだった。つまり海からの援軍は船団が一丸となってクンヌイの沖を埋め尽くすように見せかけなければ効果はないのである。載っている兵員はみな素人なので当り前だが上陸して戦うようには出来ていない。だから視覚効果で忽然として海を覆い尽くすほどに敵の前に現れ、彼らの度肝を潰すほどに圧倒するしかないのである。これをもって敵を浮き足だたせ、動揺させれば戦機はこちら側へ一転するだろう、が、と言って自軍は張子の虎で戦力にはならないのだが、泰広には敵を軽んじて見ても重んじて見ても、たとえ前者の場合なら蛮族などそれだけで怖れて逃げるに違いなく、後者なら知恵を持つ者がひとりいるだけで、このままでは挟み撃ちになって滅びるしかないだろうと判断し、取り合えずはこの場から撤退して軍をもう一度他所で立て直そうと考えるに違いない。泰広の狙いは相手がどちらであろうと、浮いた敵の足を掬って倒すという作戦であった。つまり敵の勢いを削げば、こちらが少数でも勝てると信じていた。そのためには船足の一番遅い船に合わせて進むほかないのである。これは現代のエンジン付の船舶なら容易かもしれないが、風を頼りの帆船では思う様に全船が足並みをそろえるのは至難の事であった。だから早い船の艫に太縄を延ばし遅い船を引っ張っているのである。それでどうやら船団は洪水のあとの流木帯のように北へ向っているのだった。
「お頭っ」と天から突然声が降ってきた。
なんと五百石船の帆柱に猿のように上って天辺にしがみついている見張りの水手が大声で叫んでいたのである。泰広も船頭も首を折るように見上げえると、その水手は北を指差しているのが見えた。
 誰もがその手の先につられるように目的地の方を見た。
 翳むように湾の北、陸地と思しき彼方、その白いもやった細長い帯を切るようにクンヌイの方向に縦に何筋もの黒い煙のようなものが上がっているのが見えた。あれは、と泰広だけでなく船団の誰もが目を凝らして見つめた。
 砦が燃えている?
 まさか、泰広は吸い込んだ息を吐くことが出来なかった。絶対に信じたくない現実がいま目の前にある。嘘だろう、見間違いだ、きっと。あれは何かの自然現象に違いないと、そう信じるしかない心持が泰広の心を被い、間の抜けた思考が現実を逃避させ、とんでもない事を考え付き、あれは昼間の狐火ではないのか?狐の嫁入りか?己としたことが何をたわけたことを考えているのか、と思っても笑うことも出来ない緊張が、彼の身体を締め付けてくるだけだった。
「蔵人らは果たして我らが行くまで持ち堪えれるだろうか、いや、きっと持ち堪えてくれなければならぬのだ。こればかりは何ともそうでなければならぬ」
亀田川の湊を出てから祈る気持ちで泰広はこれまで船上にいたのだった。それなのに霞たなびく遠くの海岸線を縦に筋立つ黒煙は、もし夜ならばまさに狐火の如く赤々と不気味に光っているであろう。あそこで何が起きているのか、
 呆然とする泰広は武田菱の家紋を打った陣笠をかぶり、火事場にでも行くかのような火消装束の姿をしていた。これは反乱の火を消すという意味なのか、それとも武力より諜略で敵を倒すから本格的に武装しなくてもよいという意味なのか、あるいは単に、夏場に暑苦しい具足など着けたくなかったのかもしれない。どちらにせよその姿は泰広らしく似合っていたが、只、蝦夷を倒せるという自信が彼をして簡略な武装に変えたといっていい。机上の計算どおりにものごとは運ぶという奢りがその装束に現れていたのかもしれない。ところが北に上がる黒煙を見たとき、彼の強気の気持ちもまたたくひまもなく萎えてしまったのである。
遠くの黒煙はいったい何を意味するのか、すでにわかっている質問を何度も頭で反芻してみても、それでも泰広は思惑の内にいたままで、
「もし我らが上陸しても間に合わなければ蝦夷軍は勝った勢いでこの見せ掛けだけの軍勢も滅ぼしてしまうだろう。はたして砦の鉄砲だけでどれほどもつのか、」と船頭に云ってもせん無い話を独り言のようにしていう。
 船頭も豆鉄砲くらった鳩のように、きょとんとしたままで大将が何でこのような下々の者に戦の意見を求めるのか、という当惑した顔のまま返事もできなかった。
ここで負ければすべては終わりになる。泰広も広林と同じことを考えていた。アイヌ軍の増勢。本格的な幕府の介入。東北各藩の大規模な参加。松前藩の滅亡。そう未来を想像すれば泰広は吐き気がした。船頭は船酔いだろうと思って見ていたがそうではない。ただこれは総大将だけが味合う苦しみだった。クンヌイは果して持ち堪えているのか、今それは泰広にもわからない。あの設楽ヶ原の合戦でさえ織田徳川連合軍は数で武田軍に勝っていても敵に中へ踏み込まれているではないか、クンヌイでは軍勢が逆だけに、さらに簡素な低い土塁の砦に味方が籠城しているだけでは、頑丈で高い石垣の城でさえ堪えるのは厳しいのになお土塁だけではいかほどのものかと思えば当然彼らは現時点で全滅してしまったと考えてもおかしくない。しかも籠城戦は外から味方が救援に来なければ必ず滅びる運命にあり、砦側もその希望があってこそ凌げるのだが、果たして彼らは味方が必ず来ると信じているだろうか、もし諦めてしまえば自ら滅びることになる。まさに戦は気力の勝負でもあるのだ。泰広の思惑どおりアイヌ軍はクンヌイに現れて、あとは作戦どおり挟撃するだけという、ここまでは筋書きと同じだった。しかし肝心の援軍が間に合わなければ総てはアイヌ軍側へ逆に有利に変わってしまうのであり、まったく実戦は紙一重に勝負の運命が両者に等しくあるのであって、泰広はそこに賭けてみた。
今も船団は前方遥かに幾筋かの黒煙を見ている。陥ちたのか、それとも一部が燃えているだけに過ぎないのか、まだ戦場は遥かに遠くここからはそれがわからない。泰広は弱きになった。思惑よりもはるかに早くにアイヌ軍は砦を破ってしまったのかもしれない、なんと言うことだろうか、あれらの強さを警戒していたにも係わらずしてやられたのか、それならば次はどうすればいいのか、しばらく泰広の頭の中は真っ白になって考えが浮かばなかった。それでも船団は予定どおり北を目指して進んでいる。たとえ落ちたとしても、あるいは砦を脱出して海岸に逃れ助けを求めている味方もいるのではなかろうか、その者たちだけでも助けなければ、泰広は何とかいつものように冷静になろうとした。
さても自分は何を呑気なことを考えているのかとここでふと思い、落武者たちを助けるだと、そのような余裕が今の自分達の何処にあるというのだと考え直し、どうせ彼らはもう一人も生きてはいないさ、これまでどおり全員虐殺されたに違い無いのだ、となれば、それで勝ったアイヌ軍は次に何をするのか、ええっ、何をするというのだ。
 落ち着け、落ち着くのだ。
深く息を吸い丹田に吐き出せ、そうすれば落ち着く、このような時にこそは最悪の状況を考えればいいのであって、もしすでにアイヌ軍が砦を陥したとして、次に彼らはどうするか、クンヌイを陥落させるのが彼らの本来の目的ではないはず、本当の狙いは福山にあり、次の目標は当然亀田となれば戦は勝った勢いこそ一番の大事で、今頃は直ちに亀田を攻めるため向っているだろう、なら亀田を守るためにも我らは、ここで旋回し元来た海路を戻って急ぎ亀田を強固にして迎え撃つしかないではないか、陸路を行く奴らより海路のほうが断然早い、が待てよ、アイヌ軍はクンヌイの勝利を機にどんどん内浦アイヌ族の参加もあって膨れ上がって行くに違いない、その大軍を真正面から戻って一丸となって戦ってもはたして勝てる見込みがこちらにあるだろうか、まず無理だという考えが熱を帯びた泰広の脳細胞に浮かびだした。
 北の海は群青色である。
 泰広はその海を見た。海水は夏でも冷たく、その深みを帯びた青色の下は何も見えず船縁を叩く音は駒ヶ岳の噴煙よりも不気味であった。
「どうせ負けるなら、少しでも勝機のあるほうを選ぶか、」と泰広は見通せぬ深い海底から十何尋も高い海面に浮かぶちっぽけな船の上で思い詰めた青白い顔で誰に云うとも無く呟いた。
 呆然とした青白い顔の男がもう一人クンヌイ砦にもいた。
 北の矢倉では井上外記がぼんやりと天井を見たまま寝転がっていた。
 当然ここでもアイヌ軍の火攻めにあっていて、そばでは夏目の二人の従者と外記のもうひとりの従卒左武衛が健気にも板壁に突き刺さる火矢を払い落とそうと懸命だった。しかし火矢は床下に多く突き刺さり矢倉の中にまでもう白煙が立ち込め初めていた。風も、火を煽るように少し出てきた。
「五平、五平、」外記は煙の異常に気付き咽びながら五平に事情を聞こうとした。頭は、はっきりしないままぼんやりしている。
「若、しっかりなさいませ。五平兄はもう居りませぬっ」左武衛は叫びながら主人のそばへよった。
 そのとき西の方で大きな音と次いで歓声がわきあがった。
「ん?さぶか、左武衛、今の音はなにか?」
「大手門が破られましてござる。若、此処からよう見えまする」
「何、門が破られただと、まさかよ」
 外記は一気に目が覚めた。勢いよく立ち上がったのだが足がふらつきぐらりと目眩がしたが、それどころではないのであって、柱にすがるようにして寄りかかると大手門の方を自分の目でも見てみた。そこに、民兵とアイヌ軍がまるで力比べでもしているかのように押し合っているのが黒煙の向うにちらりと見えた。外記はそばに転がっている自分の鉄砲を取った。煙で室内が良く見えずおまけに息が思うようにできない。それでも何とか火種壷から腕に絡めてある火縄に火をつけ、
「弾は入っているか?」と左武衛に叫んだ。
「はい」
 救援のため門へ行かなければと思い、這いずるように梯子口をさぐり見つけて下りたそのときに外記の目はうっすらと床に敷き詰める煙の中、矢倉の隅に安置されている二人の遺体にそそがれた。かっと頭に昇っていた血がすうっと下がっていくのを感じながらうっと涙が出て身体が凍りついた。何と言うことだ。五平まで死んでいるではないか、突然吐くような苦しみが身体を巡り再び涙が吹き上げてきてさらに呼吸が苦しくなって声がもつれ何か言おうとしても嗚咽だけしか出てこなかった。すべて俺のせいだ。後悔が痛い頭の中でぐるぐる廻りだしてうろたえたが、今は悲しみに浸っている場合ではないと気付き頭の隅に残っていた理性が外記を励ました。行くのだ。砦が陥ちるぞ、泣いてばかりでいいのか、外記は煙で影しか見えない夏目の従者らに叫んだ。
「方々、ここはもはやあきらめましょう。あとは下で戦うしかない」というや否や梯子を二段ほど下りた。
「さぶ、あとに続け、」と叫ぶなり飛び降りるようにして梯子の残りを下った。
「心得て候」左武衛は腰に巻いている早盒のほかに箱からも出来るだけ掴んで具足の脇から懐にいれると外記の後に続くと、夏目の従者も同じようにして彼の後について矢倉をおりたのだった。
 降りるなり一直線に門へ向かって駆けた。足が絡まるようにして巧く動かない。何ともしっかりしないか、クソッタレの己の馬鹿が、ここで気力のすべてを使い果たせ、と自分に言い聞かせた。すでに各矢倉も炎上が始まり、穴から這い出る蟻のように鉄砲隊が梯子を降りてくるのが見えた。黒煙は砦の中にも火炎風に乗って流れていた。駆ける前方ではモウモウと埃と煙が舞い立ちあがり互いの怒号が喧しくも、両軍混戦状態となり激しくぶつかるように戦っている様が見え、倒れたアイヌ兵に民兵達は群がり鋤や鍬を地面でも耕しているかのように振り下ろしていた。アイヌ兵もまるで鮭でも刺すかのように迫り来る松前藩士や民兵の腹をめがけて器用に次々と槍を繰り出しており、両軍一歩も引こうとせず、攻める方も守る方も此処を限りに最大限の力を出し何とか押し捲ろうとしているのだった。こうして戦う者らはどちらも汗と返り血でびっしょりと濡れていた。気力の尽きた方が負けるとどちらも信じきって戦っているのだった。
「くそっ、」と叫びながら外記は駆けていた。
 悲しみも何もかも吹っ飛び頭は真っ白になっていた。一番怖れたアイヌ軍の砦内への突入、泰広の渋い顔が見えるようだ。死ぬぞ、死ぬぞ、腹の中で何度も叫びついに口に出した。
「わりゃあ死ぬぞっ、」
 砦が落ちれば泰広に会わせる顔がない。また腹を切ってそれで済む問題でもない。ならばここでアイヌ軍と刺し違え、一人でも敵の数を減らしてて死ぬしか他に道はないのである。気力がいっきに身体中に復活すると、夏目や五平の仇を打つという思いを脳中いっぱいにすることによって野生の時代から人間誰もが持っている殺意の本能に火を着けた。
「早苗―っ、」外記は妻の名ではなく一人娘の名をなぜか叫んだ。
 ホントに死ぬ気なのだ。可愛い娘とももう会えないという気持ちが一瞬胸に浮かび引き締められるようにいたかったが、公が重んじられ私ははずかしい時代である。歯軋りするように彼は私的感情を押し殺し、走りながら火縄をはさみ火蓋を切って銃を構えた。前方には今しも転んだ蛎崎蔵人に槍をつけようとするアイヌ兵がいるのが見える。
「さてもなるかや」と叫びながら外記は叫ぶも早く火鋏を落とした。
 ドン、前が硝煙で見えなくなったがかまわず煙の中を飛びこんだ。抜け出ると弾に当たったアイヌ兵が背骨を砕かれて死んでいた。
「弾をこめよ、」外記は後ろから駆けて来る左武衛に銃を投げる。
「心得て候」
 受け取って左武衛はそこに留まり懐から早盒を取り出すとあまりにも入れすぎていたのか取りこぼし、あわてて拾うと膨らませた頬から一気に息を吹きかけ土を落とすし素早く弾薬を込めた。完了して外記を探すと、彼ははるか向う、
「ご免っ、」と叫びながら転んでいる蛎崎蔵人の上を飛び越えて走っていくのが見えた。
 まだ走っている外記の前方に異相のアイヌ兵がいた。その男、具足は完璧に着けているが兜をかぶってはいない。直な総髪を後ろで束ねアイヌ独特の木屑の冠を頭に巻いている。その装束と所作から見てこの突撃隊の隊長に違いないと彼は思った。
「鉄砲組は敵の組頭を狙え、頭を倒せば敵の組は崩れるのだ。一人殺すだけで一組がひとつ減るこれほど効率良き事はなし、また将の首は金になる、このさい、方々その卑しき心も戦の勝ちを導くものなりと知れ」と船中で泰広は言っていた。
それにしてもこの男、顔に髯は生えているが他の蝦夷のように鬱蒼としているわけではなくて無精ひげのようなものである。身につけている着物もアイヌ織だったが明らかに和人に見えた。ここへ来る前、蔵人がアイヌに味方する和人が四人ほどいると言っていたがそのひとりかもしれない。
「裏切り者め、」外記は訳のわからぬことを言って立ち止まると腰の馬上筒を抜いた。
 ついで後の操作が如何にも手馴れ手早く、火鋏を持ち上げるとカチリと音を立ててゼンマイは縮みそれが引き金に固定され、次いで腕に絡めてある火縄を挟むと火蓋を切り、真横に構え片手で銃を水平に伸ばし狙いを庄太夫に定めて発射した。一瞬他のアイヌ兵が庄太夫の前に飛び出したように見えたが、吹き出した硝煙で前は何も見えない。気が付くと発射時の後火で外記の腕に絡めていた火縄全部に火がつき腕は燃えていた。慌ててそれを振り払っていると硝煙が晴れ、向うに庄太夫の身代わりになった少年兵が顔を真っ赤に染めて倒れているのが見えた。初めて馬上筒で人を殺したのである。それも子供を、呆然とする外記へ向かって庄太夫は驚きながら少年の遺体を抱き上げようとして思いとどまった。すでに死んでいるのは、顔の半分が吹っ飛んでいるのを見ればわかるのだ。ついで外記に向かい満面憤怒の形相で睨みつけると、
「おのれは、なんということを、」そう叫びながら一機に槍を入れてきた。
 が庄太夫は、目に涙が溢れ、的を見失った。槍は外記の右脇を掠めるように迫ったが間髪、彼はスペインの闘牛士のように火の着いた右腕の馬上筒で払いのけた。かわされて庄太夫の身体は流れた。そこへ向けて外記は馬上筒を投げつけると、ついで腕の燃える火縄も一緒に飛んでいった。庄太夫はそれを左手の篭手で受けながらはじき返した。くそっ、外記は左斜めに背に負っている伝家の太刀を抜く様(さま)に左手で鯉口を掴み右手で柄に手を掛けた。これがため前が無防備なった。そこへすかさず庄太夫は竹柄の槍を再び繰り出すが、これも外記はわずかに髪も入らぬ距離で身をかわして避けた。すると庄太夫は外れた勢いに逆らわず今度は身体をクルリと回転させながら竹の柄でしたたかに外記の背中を叩いたのである。さらに彼は槍をクルクルとあざやかに回しながら飛び上がると外記には彼が宙にふわりと浮いたように見えた。これはまるで唐土の軽業師じゃないかとあきれていると、ガツンと竹で顎を殴られてしまった。ぐらっとふらつく外記に又も庄太夫は槍をいれた。外記も一刀流の免許は取っているほどの腕である。いつまでもなぶられてはいない。入りくる槍をまたも紙一重でかわすなり、
「とおっ、」と太刀を振り下ろし竹柄の槍を中ほどから斬って捨てた。
「わっつ、」と庄太夫は驚き怒るなり残りの柄を外記に投げつけた。
 実はこの槍、竹の内側の節がくり貫かれて中は水筒になっているもので、その先に袋槍を付けた簡易な槍で当時としては別に珍しくもない物だった。その竹筒の中の水が外記の顔にピシャっとかかり目に入った。目が見えぬとたじろいた外記に庄太夫は脇差を抜くと突き出し一気に身体ごと突進してきた。ところがカーンという金属の音がして脇差は外記の着けている沢瀉胴に跳ね返され曲がってしまった。外れて及び腰になる相手の足を外記は思いきり払った。ドッと庄太夫はぶさまに倒れ、しまったとばかりにあわてて立ち上がろうとし、振り向いた庄太夫へすかさず外記は太刀を大きく振りかぶり薪でも割るように首と肩の辺りへ振り下ろした。ついに初めて刀で人を斬るか。一瞬のさらに一瞬の間に外記の脳裏をその思いが翳めた。生身の首を斬るということは道場で藁束を切った時のようにズバリといくのだろうか。そして鎖骨を斬り通すまで刀はこの男の胸に食い込むのか。その手ごたえが、やったぞという人を殺す快感が全身を走るのがなんとも嬉しかった。そして全知全霊を持って体力の総てを、刀を持つ手に集中してバシッと振り下ろしたのだが、ここで一瞬、庄太夫は首をかしげて避けようとするのが目の端に見えた。が、かまわず太刀はブンと唸るように落ちた。ところが、袖板にガツンと当たって火花が散り刃こぼれしたようであった。空しい手ごたえは手の骨に激しい痛みを走らせ首の骨から歯にまで伝わった。
「しまった、大事な刀を」こいつは父に叱られると思ったがどうしようもない。首筋の後ろが冷たくなるばかりで、うろたえたが、それも寸時も問わぬ間で、もはや刀などどうでもいい。芝居掛かって出来もしない首を狙うから外すのだ。簡単に無防備な頭を割ればいいではないか、
「この野郎」外記はそう叫ぶと二の太刀を振りかざした。
今度こそこの敵を仕留めてやる。庄太夫も観念して目をつぶった。
「もらった、」と外記が叫んだとき、ブスリと草摺りの間から太股に槍を入れられた。
 振り返って見たら供回りか、アイヌ兵がひとり槍を引き抜きまた刺そうとしている。
「おのれ、」叫んだが間に合わない。
 槍は、頭上高々と刀を翳して開いている外記の脇を狙っている。
 そのとき後ろ彼方からドーンという音がした。槍のアイヌ兵は弾かれたように倒れた。その向う、かがり火のそばで銃を構えたままの左武衛がいた。左武衛は火縄を持っていなかったのか、燃え残りのかがり火に直接火皿を付けたらしい。爆風で顔が真っ黒だった。左武衛どころではない、庄太夫は、と外記は前を見た。庄太夫は最初の一撃で鎖骨が折れたのか右腕をだらりとたらしたままでいる。それでも左手で曲がった脇差をつかむと振り向いた外記の顔めがけて投げつけた。脇差は回転しながら飛んで来た。外記は刀の柄ではじき返した。刀は再び庄太夫の方へ飛んでいった。庄太夫はそばに落ちた脇差を拾おうとして飛びつけば、そのとき首が長く伸びた。
「今だ、死ねや、」もう一度、
 外記は再び太刀を振り下ろしたが、刃が首を襲う寸前に頭に石でも投げつけられたような衝撃を受けてどっとよろめいた。
 このときなぜか鷹が一羽急降下しながら鋭い爪で外記の鉢金を一撃すると再び空へ飛んでいったのである。庄太夫の愛鷹アムルイが外記には見えなかった。石だと思った。瘤のあたりを嫌というほど小突かれたが目前の獲物を逃がすわけにいかない。ふらりとして庄太夫を見るとすでに彼は脇差を握って立ち上がろうとしている。しかし肩を負傷して動きが鈍い。ところが外記も頭部への思わぬ一撃でこれもふらついている。庄太夫が先に攻撃して来た。しかし彼は刀を上手く使えないのか足で外記を思いっきり蹴飛ばした。軽い脳震盪を起こしている外記はそのままドッと倒れてわっとばかりに埃が舞い上がった。庄太夫はすかさず脇差を一旦宙に軽く投げて浮かすと逆手に持ち替えるように掴み、ついで上から刺そうとした。ところが転んだ外記も偶然毒矢を掴んでいた。その矢は最初の攻撃で砦内に打ち込まれた際に落ちていたものであろうか、それを迫り来る庄太夫に投げつけた。矢は飛んで、思わず反射的に受け止めようと動きの鈍くなっている右手が上がり、庄太夫のその手のひらに刺さった。がすぐに矢箭だけポトリと落ちた。この仕組みは蜂が毒針を敵の体内にいつまでも残しておくよう身から取れることに似てる。ともかく庄太夫の右手のひらにも同じように骨の鏃が残った。たとえ手の平でも効果は同じである。庄太夫もそのことは十分承知していた。これはまずい、と思ったに違いない。これは外記に斬られるより危険な状態に追い込まれたかも知れないのだ。彼は急ぎ口で手の平に刺さっている鏃にかじりつくなり吐き捨てた。それでもアイヌの矢毒は即効性がある。さらに何度も傷口に吸い付いて毒を吸い出し除こうとしたがもう遅いと言うべきか、腕から身体へ一気に痺れが襲ったのである。彼はその痺れに耐え切れなくなってガツンと地面に膝まついた。頭を両手で挟まれて捻り潰されたように、目の前の景色が大きく歪んでゆくのが吐きそうなほどの気持ち悪さを誘い、ついに俺もここで果てるのか、それが彼の最後の意識だった。どさりと前のめりに庄太夫は倒れた。再び機会は外記に回ってきた。突然の敵の異変に最初は外記も唖然としていたが、気を取り直し今度こそ、彼は立ち上がるなり三太刀目を振り下ろした。
ところが、又も横から別のアイヌ兵の差し出した槍に受け止められてしまった。何と言うことか三度も斬りつけておきながらまだ相手を殺せない。刀で人を殺すと言うことはこれほどむずかしいものなのか。人など簡単には殺せぬものよ、という剣の師の言葉を思い出した。なるほど自分と同じように懸命に生きている人など竹藁同様に斬られては堪らぬ話しだ。しかし内心殺さなくて済むならそれにこしたことはないとも思った。それにしてもこうも次々と邪魔が入るものなのか、この男はいったい何者か、只の組頭ではないのか、なぜそうもしてみんなはこいつを必死に護るのか。うん?
「まだこの男はあんたらには渡せないね」と言いながら新たに現れたアイヌ兵は外記の三度目の空しい一撃を受け止めた赤槍を翳した。
 兵はそのまましゃがみこむと意識を失っている庄太夫の襟首を掴んだ。
 このとき外記はアイヌ兵の着けている朱色の皮胴の向こうに豊かな白い谷間を覗き見た。それは丈夫な胴丸さえも内から破壊しそうなほど張り出さんとして活き活きと輝いている。ドキリとした。なんと女かよ、敵兵には女もいるのか。おもわず顔をよく見ると唇が耳まで裂けており、上目使いにニヤリと笑っていた。鬼女、と外記は心臓が止まるほど驚き一瞬本気で思った。この地獄そのものの戦差の場では鬼がいたとて何の不思議もない、彼をしてその恐怖が思わず後ずさりさせた。が、アイヌ民族には女性の唇と手の甲に刺青の風習があると船中の四方山話で泰広から聞いているのを思い出した。蝦夷は鬼女を好むのか、初めて見た外記もサポの美しい顔によく似合う鮮やかな刺青に魅了されて茫然とした。般若面のごとき人か、まさにこの戦の場では現世の者に見えなかった。このとき先駆けるサポを混戦の中で見失った彼女の供回りらが庄太夫の危機を見つけた。皆駆けつけると外記に向かって槍を突くというよりも棒で上から叩くように振り回してきた。外記はそれを受け止めながらもこの五月蝿さにうんざりして後ろへ下がった。すでに負傷した庄太夫は上背のあるサポに軽々と担がれ炎上する門の方へ逃げていくところだった。鬼子母神が天から舞い降りてあっという間に赤子を誘って行ったのである。という図に外記は苦笑せざる負えなかった。しかしその赤子、つまり逃した男が敵の大物軍師であったことを彼は後に知るのだが、惜しむべし、このあとに受ける幕府連合軍と外記個人の災難を思えばなおさらのことであった。
 この大手門付近は誰が誰を相手にしているのかわからぬほど埃と煙が舞いあがっており、庄太夫を担いだ鬼女らはその混乱した中を消えるように行ってしまった。
 アイヌ軍は門から二十間ほど入ったあたりから中々奥へ進めない状況がもう半刻も続いていた。この部署での戦いは松前藩士よりむしろ民兵が活躍している。いかに町人達で結成された弱い民兵とはいえ、負ければ自分らの首はその貧弱な胴体から離され土手伝いに並べられるだろうと聞いていたから彼らは必死だった。しかも砦内では二百と三百で数の上では民兵が勝っている。しかも大手門の炎上が逆にアイヌ軍の増援を阻んでいたという好条件が彼らにはあった。せっかく門を突破して勝利を目前としていながら最初に入った二百名の後を継いで次々と兵が入れない不幸が逆にアイヌ軍側にある。全軍が入れば砦は間違いなく落ちたろう。しかし門を火矢で攻めたことが逆効果となった。もし後に続いてこの火炎門をくぐって行こうとするならばベルトコンベアーに載って焼かれるターキーのようになるだろう。門は地獄の門と化している。生身の人間は通れない。だから後援のないまま突入したアイヌ軍は砦の中でじりじりと押されている。そこへ負傷した突撃隊隊長の庄太夫が担がれて門外に出た。サポは火炎門を避け土手にいる籠城兵に槍を振り回してこれを難なく追い払うと一気に駆け上って味方が待つ向うへと姿を消した。追いかけるように鉄砲が発射されたが、もう遅い。射程外だ。それにそんなへな猪口弾など彼女は絶対当たらないと自負しているのであって、鮮やかに赤い風は去って行った。
砦の中のアイヌ兵はサポの赤胴を誰もが知っている。担がれているのは庄太夫、しかもぐったりとしていた。これを見ていたアイヌ兵に当然動揺が起きた。指導者のひとりが死んだと思ったらしい。軍の女神も長い髪をなびかせて走り去って行ってしまった。誰れもが口を開けたまま呆然として何とも戦どころの話ではないではないか思えば、これが引き鐘となって砦内のアイヌ軍は徐々に後退し始めたのである。
門付近に向うように少しづつ退却しようとしていたアイヌ軍が集まったとき上の矢倉は激しく不気味な軋む音を上げていた。火の燃え盛る大きな丸太が左右にぐらぐらと揺れている。バキッと柱が燃えて細くなり支えきれずに折れる音もする。矢倉は原形を崩そうとしていた。柱も算木も板壁も総てが炎を噴出していた。ぎぎーっとはらわたに響くような音を発てながらゆっくりと城門は巨獣が倒れるように崩れていった。地響きが唸り、わあっと驚いたアイヌ兵は散った。ところが火矢はみな外側の柱に刺さっていたため此処から燃え始め当然そこから燃え尽きたので楼門は砦の外側へと崩れだしたのだった。それでも動揺が走りこれでアイヌ軍はどっと崩れた。この機を逃さず平民軍は奇声をあげながら彼らに向って突っ込んでいったのである。ついに平民軍は数で押し出すようにして一兵残らずアイヌ軍を退けるかに見えたその時、矢倉の中に放置されていた火薬の樽がこの機を待っていたかのように爆発したのである。まるで地が割れたかと思うほど凄まじい火炎と木切れが爆風とともに飛び散り周りに居た人々を軽々と吹き飛ばしてしまったのだ。これによって門の周りにいた誰もが混乱を起こした。アイヌ軍はこれに乗じてあわてるようにして土手を逆に昇って堀に転がり落ちていった。
 このことを見て、火を今度は逆に民兵らが利用したのである。燃えあがる矢倉の火を消さないよう近くの小屋を壊してその廃材を燃える門に投げ込みだした。これを高く積み上げて再び火炎を強くしてこの砦の弱点を守りとしたのである。
戦はまだ終わっていないのに、此処ではみんなが煤で真っ黒くなった身体を気にもせずに抱き合い飛び跳ねて勝ち鬨を挙げていた。この部分的勝利が他の部署で戦っている者たちにも勇気を与えたといっていい。次々と土手を這い登って柵にアイヌ兵は迫りくるのだが、犬走りにいる槍組は民兵に負けるものかと勇気付けられて長い槍で必死になって突き伏しては彼らの侵入をかろうじて防いでいたのである。それでもアイヌ軍は森の細木で編んだ簡易な盾を少しづつ増やし軍全体が徐々に前進しており、砦へ迫っていた。それに引き換え守備軍の鉄砲方は逆に能率が落ちていた。銃は撃ち続けると熱で弾込めが出来なくなる。それを水桶に漬けて冷ました銃身をさらに布で拭いて水分を取りまた装弾するというようにしなければならないのであって、これにはえらく手間がかかるようになってしまった。このため外記は鉄砲方全部を雑賀衆の三人交換式にやり方を変えらざる負えなかったのである。銃の使用率は三分の一に変わってしまった。この不足した穴をまた平民軍が埋めてくれた。彼らは土手を這い上がってくるアイヌ軍に対し、棒で叩き落としていた。その姿は無様であったが効果はある。大手門の攻防の勝利で彼らはついに自分らでもやれるのだと自信をもったのである。
 ふたつの民族が修羅の場で鬩ぎ合う中、アムルイは鉄砲玉も届かぬ天空をゆっくりと、下からの火炎で吹き上がる上昇気流に羽根を乗せて戦場を見下ろしていた。矩形の砦は格矢倉が燃えていて楼門同様今にも崩れそうであった。陣屋の屋根も飛び火で失火していたが、それを何人かの人間が屋根に上がってドテラで叩いていた。砦の中は煙と埃が舞い立ち人々が慌しく駆け回っている姿は混沌としていて一律性は無く虚しい動きにみえるのだった。また土手に寝そべっている者達からは時々白煙が鋭く吐き出されるのも見えた。咆哮する煙の先、砦外でも同じように盾に隠れて人々が大勢動いていた。それらは皆、胡麻粒のようにあるいは蟻がエサを探してうろついているようにも見えた。どちらにも整然とした軍団の美しさなど何処にも見られず、ただ方向性を失った雲霞のごとくうごめているだけだった。アムルイは主人を探して時に大きく首を振ってみたが、優しい飼い主は何処にも見えなかった。
まるで距離感を無くすれば嘴で一飲みに出来るほど人々は小さくて、哀れであった。まさにアムルイからすれば、食欲を満たすための殺戮でない労苦と危険な戦いに全力を挙げている人間どものしていることなど理解する気もなかったのだ。
 その小さき者のひとつが土手に怪我で寝転んでいる外記であった。彼の太股を貫いた槍は和製の鉄槍でこれには毒を塗る仕掛けは無いのが運がよかったというべきか。外記は晒しでその傷を強く縛って貰うと土塁のそばまで左武衛に連れて行ってもらいそして指揮を取りながら遠くの敵を六匁銃で撃ち、土手下に迫る敵には馬上筒で撃つという二人分の活躍をしていたのであった。今や砦軍は一丁の銃も無駄にできないのである。左武衛も必死になって弾込めしていた。ただし、熱をもった銃身に装弾すれば暴発する危険もあるのでどうしても慎重にならざる負えない、銃身はすでに熱で紫色に変色しておりこれがためだんだん射撃間隔が開いてきたのである。このままでは数の多いアイヌ軍が又盛り返すだろう。すでにアイヌ軍も鉄砲の合間を縫うようにして土手の柵を越えようとする者も増えてきた。ただこれが大きな塊となって突き破ってくるというものではなかった。鉄砲の威力が強すぎて集団で押すことが出来ないのである。盾に隠れて死ぬ者は少なかったが、弾丸の当たる強さが激しくてそれを支え持っているだけでも辛く、思うように進めない。だからあくまでも個々の判断で射撃の隙を見て攻め上るしかないのであった。こうした隙間に土塁を越えられたのはコタン単位の五六人の群れだけである。これが何度かあった。しかし砦の中に入るとアイヌ兵は三百六十度鉄砲の恐怖に晒される。盾は一方向にしか防げない。当然設楽ヶ原の武田軍の武将のように群れの中心にいる男が一番先に狙われる。鉄砲は遠くから将の後ろを撃ち抜いた。コタンの酋長が殺されると彼の部下はその遺体を担ぎせっかく土手を越えたのにあっさり引き揚げていった。こうして砦側にとっても、ほぼ点のように乗り越えられるというところではある。また勇敢にも一人で柵を乗り越えてくる者もいた。鉄砲方はそんな時装填が間に合わず、背中の刀を抜いて応戦していた。弾の無くなった鉄砲を逆に持って撲りつけている者もいる。中にはしがみついたまま掘まで転げ落ち泥だらけになってもどちらかが動かなくなるまで組打ちを止めなかった者もいる。夏の炎天下で死闘は繰り返された。しかも周りの矢倉はみな燃え出して辺りは熱風が吹きすさぶ。体感気温は普段の倍はあるといっていい。戦場は兵士たちの汗と血、走りまわる人々の立ち上げる埃、炎上家屋の黒煙で地獄を見るようだった。ここには講談で語られるような戦記物の美しさなど何処にも無いと外記は思うばかりである。人と人が組み打ち刀を刺しあって悲鳴をあげる。生まれて初めて経験する戦の場は、互いに生き残る執念だけがぶつかり合う激しい音が響くだけだった。外記はこの場から逃げ出せるものなら逃げたかった。身体が冬の池に落ちたようにがたがたとなぜか振るえている。あとどれだけ戦えばいいのか、手当て受けるまで足の傷から多くの出血があった。それがこのクソ暑い夏でも外記の身体から熱を奪っているのだ。が、外記にはそれがわからない。寒気は自分が戦場で怯えているためだと思っている。
 結局時が経つうち鉄砲方も鉄砲を使うより槍組と一緒になって刀で戦う事が多くなってきた。ただ外記だけは足が利かないため周りに守られて射撃を繰り返していた。組み合っている者が互いに離れた時を見計らって外記はその相手を土手の上から射殺していった。下であれほど激しい殺し合いをしているのに、鉄砲はあっけなく相手を殺してしまう。これほど恐ろしい武器があるだろうか、と外記は思った。殺される男だってそれまで生きて来た人生と家族もあったはずなのに、鉄砲は圧倒的に有利な立場で殺される者に何の生き残る機会も与えず一瞬のうちにあの世へ送ってしまうのだ。鉄砲とはなんという人間の生きる権利を意図も簡単に無視してしまう武器であろうか、しかも非力な者でも引き金さへ落とせば簡単に大男をでさえも殺してしまうこともできる。これほど人を殺すために優れている武器はないのではないか、まさに鬼の手だ。それを操れる自分が楽しくてしかたないと思えることはどういうことなのか、手を汚さずとも遠くから人はばたばたと倒れていく様に、この当たった時の手応えに何ともいえぬ快感を覚えるのは、あの少年を殺した時の怖れた心はもう当の昔に起きたことのようで、的を狙ってそれに当てるという感覚だけが今の自分の中にある。この時代、人の命などさほど重要ではないのだ。しかも相手は犬畜生と同じ異民族にすぎない。だから標的は動く標的以外の何物でもないと外記は思ってしまった。こうなれば皆殺しだ。彼は狂ったように叫び笑いながら六匁目銃を構えていくのだった。
 各矢倉は燃え尽きるとぐわっと不気味な音を発して崩れていった。それは楼門の時とは逆に全ての物が今度は砦の内側へ倒れたのである。これは知恵者庄太夫が楼門とは違いむき出しの矢倉を支える柱の何処を燃やせばどう倒れるかこのことを予期して火攻めをしたことにあった。しかし彼が思いもしていなかった火薬樽がまたも大爆発し煙と埃と木片と火の子が八方に飛び散り舞い上がり、その凄ざましさに攻めてくるアイヌ兵も爆風に飛ばされたり火炎に襲われたりで誰もこれには驚き矢倉近くから攻めるものはいなくなったのである。が、これは砦側も同じでむしろ内側に倒れていった爆風は当然彼らの方に大半が襲ってきたのであるが、しかし燃えている矢倉の下で闘う者などすでにいるわけも無く被害は少なかった。こうして互いに闘う場所は狭められたが実際は、外側から自由に攻め場所を決められるほうが有利になった。つまり砦が中で分断され縮んでしまったのである。このために砦中の者たちは矢倉が倒れ爆発するとそちらを振り返り、益々不安を募らせていくばかりで、もはやこれまでか、
 死神が日本中からここに集まってきた。目ぼしい者を選んでは連れ去っていく。それが誰の目にも見えた。次は自分のところへ来るのだろうか、
 早朝に始まったこの戦もすでに昼になろうとしている。攻防軍のどちらも疲れ果てていた。今、殺す方も殺される方も極度の緊張の中にいる。人間の集中力などどれほどのものだろうかと考えれば大したものではないだろう。誰も超人ではないのだから、朝からずっと闘いぱなしなどということは有り得ないのだ。だから仲間内で交代しながら攻め、守る方も同じであったが、こうも長いと十分な休息は誰も取れず、もはや両軍とも酸欠状態であった。
 アイヌ軍は第二次攻撃以降、大きな楯をさらに多く作って攻めて来た。攻める方は如何に楯に身を潜めていようと銃弾が当たる度にビシッ、ビシッと木が弾け飛んでいく様に次の弾が撃ち抜いてくるのではないかという恐怖に常にかられていた。楯は二枚重ねて用いられたが自然木のためどうしても隙間ができる。だからさほど安全が期待できるものではなかったということもある。また撃つ方もいくら撃っても楯はジワジワと前に進んでくるのだ。これも大きな負荷を与えられる恐怖であった。アイヌ軍には初めて鉄砲を見る者も多かった。それでも彼らは怖れず勇敢に向かって来た。屍を山と築いてもものともしない。いったいどういう民族なのかと和人たちの誰もが思うばかり。
このため砦の外では多くのアイヌ兵が死んでいた。どうもこの民族には死者を早く葬らわなければならない事情があるらしい。どうやら魔神がすぐにやって来て魂を奪い彼らもまた死後魔人に化すという言い伝えがあって、これゆえ定期的に彼らは遺体を引き取りにきた。当然彼らは攻撃を中断して作業に掛かるので、そんなとき砦側も射撃を止めじっと運び終わるのを待っていた。これが小休止となっていたから誰も無防備の彼らを撃つという馬鹿なことはしなかった。それどころか、同じように死後の世界観をもつ和人であるみんなはそんなアイヌ軍に対し敬意さえ払っていたのであった。
戦場はわずかな時の静寂を経る。
聞こえるのはバチバチと矢倉の燃える音だけだった。外記もそのときは馬上筒の銃身を掃除しながら、茫然とて何も考えていなかった。身体は疲れきっていても頭だけは妙に空気が薄気味悪く抜けて行くばかりで、彼は装填し直した馬上筒を胸に抱きごろりと仰向けに土手の上に寝転んだが木陰も無く、すでに夏の鋭い日差しと汗と埃で顔は赤黒くなっており、何とも喉が渇いて冷たい水が呑みたかった。
「兜を取って、具足をはずして褌ひとつであの国縫川に飛び込めばどんなにすっきりしますかのう」とそばの左武衛が外記に言ってきた。
 外記は生唾を飲んだだけで何も云わなかった。足の真っ赤な晒しは少し乾いてきて出血は止まっているのかもしれないのだが、それでも寒気は続いていた。しかし川に飛び込んで水を腹いっぱい飲みたいのは左武衛と同じである。今、わずか数間先のその場所が江戸へ行くよりはるかに遠いとは、うらめしくあっても、
「思えば腹もへったのう」干からびた声はかろうじて喉から出ているにすぎない。
「確かにひもじゅうございますな。そういえば何も朝から食っとりませなんだ。ちょいと陣屋へ行って握り飯などもらってきましょうかの」左武衛も話すだけでも疲れるという風である。
「ああ、確かにはらが減ったのう。腹が減ったとわかるということは生きているということか…、すまぬがめしと水を頼むぞえ」
 左武衛は返事をするのも辛いのか黙って立ち上がるとよろよろしながら歩いて行った。
 アイヌ軍は朝食前にやって来たのだった。
砦軍はまさに目覚めてそのまま戦をしたといっていい。それでも他の連中は戦の合間に町人たちが陣屋から握り飯を運んできてくれたから朝飯は食べているのだが、外記は食べていない。外記は忙しかった。敵を一番先に発見し慌てふためき何が何だかわからぬ内に戦が始まってしまい、ほどなく強弓を鉢金に受けてぶっ倒れ、彼が忙しくないときはその気絶していたときだけだったろう。
空腹は虚しい気持ちをいっそうかりたてた。見上げる北の広大な空は余計にそう思わせる。目に晴天は眩しかった。北の澄んだ夏の空はあくまでも青く、白い雲が地上の騒動とは無縁であるかのように光輝きながら北へ流れて行くばかり、あそこへ逃れたいと外記は思った。あそこへ行けばこの緊張から解放されるに違いない。彼はもう疲れてどうでもよかった。このまま敵に殺されて、もう二度と妻や子供に会えなくなってもこの辛さから解き放されるならすべてを捨ててもいいのだ。射撃は見た目よりもはるかに気力と体力を消耗させる行動で、首も肩も手ももうくたくたで動かないばかりか、撃つたびに衝撃が頬骨に直に来る様になり右の顎が紫色に内出血しているのだった。ここに右手を添えるのがだんだん嫌になってきてそのため命中率もどんどん落ちていくのみで、その苛立ちと疲れが精神を余計萎えさせるのだ。あれほど死を恐れていたのに最早殺されることになんの恐怖もなかった。それらは疲れからくる気だるさなのだろうか、それとも空腹で気力を失ったからだろうか、あるいは身体の中の血液をだいぶ失ったせいかもしれない。思考だけが意味も無く空転しているのだ。この天佑ともいえるわずかな休息に、茫然として時を過ごしていると、傷が病みだしていることに気付いた。槍は深く太股をえぐったのだ。化膿してきたのかもしれない。たとえ槍に毒が塗っていなくとも傷にばい菌が入ったかもしれないではないか、ここは傷を負った者には最悪の環境だった。熱も出ている。脂汗が暑い夏の汗と混じって流れてくる。先ほどからの寒気はこのせいもあるのではなかろうか、やがて意識が朦朧としてくるように思えた。自分の心が身体から離れていくように感じて身体が思うように動かないとはどういうことなのか、終には魂が離れて人は死ぬというではないか、外記は自分にも死期が迫っているのだと思った。やがて意識がなくなり自分は深い闇に落ちていくのだろう。ひとり誰もいない世界へ行く。ぞっとした。そんな冷たい暗い世界には行きたくない。胸が苦しくなる。死ぬことの本当の恐ろしさを今はっきりと外記は感じた。そこは冷たく暗い無の世界なのではないのか、彼は子供の頃母の実家、信州にある善光寺へ行ったときを思い出していた。そのとき本堂にある秘仏を納めた瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、真の闇の恐ろしさを知った。
「人は死ねばあそこへ行くのです」母はお戒壇巡りを終えた泣きっ面の少年に厳しい顔でそう言った。
 それが常に子供の頃から外記の心の中にある。これまでも死ぬ目に会ったときいつもあの闇が襲ってきた。恐ろしい、限りなき世界、どんな魔物に襲われるより怖いと外記は思うばかりで、魔物なら声も聞こえる姿も見えるだろう。だから対立する自分の存在も少しはわかるが、闇は姿どころか心の存在すらも確かめることはできないではないか、これほど恐ろしくおぞましい世界はあろうか、考えることも見ることも出来ないところ、自分の存在が完璧に消えてしまうところ、死の恐怖がぞっとするほどの寒気を伴なって外記の身体を駆け巡った。死が訪れれば、何度も手を差し出してもがいてももがいても誰も助けに来やしないのだ。独り深く音もなく落ちていくばかり、永遠に… 
 それがやがて来る。身体の冷たさからくる止めようもない震えや心が体内から落ちそうになっていることを思うとそれは近いに違いない。さきほどまでの死んで楽になりたい気持ちは何処かへ行ってしまい、今は死を本当に恐れているとはどういうことか、頭が心が乱れてまともに動いていないのではないだろうか、それとも死が現実に目前にあると考えはかわるのだろうか、心は正逆をとどめない。常に揺れている。この世に確固たるものは絶対無い。自分の心さえそうなのだ。
だから死神がそばに立っている姿が見えてもその意味をすぐに理解出来なかった。死神は灰色の薄汚れたボロボロの着物を着ていた。髪の毛は半分ほどが抜け落ち、残っているものもほとんどが白髪でそれが長くだらしなく着物の胸の辺りまで垂れていた。皺だらけの顔は頭蓋骨に直接皮だけを被せた様に痩せこけている。死神は不気味に笑いながら仰向けに寝ている外記の顔を面白そうに覗いている。黄色い汚れた歯ほとんど抜けて、その奥に蛇のように細い真っ赤な舌が不気味に揺れていた。嘘だろう。外記は驚いて首を横に振った。
 「旦那さまあ、」そこへ左武衛が握り飯と水筒を持って戻ってきた。
死神はすうっと消えた。戦はまた始まろうとしている。
「もう身体に血がない」外記は蒼い唇でそう言いながらぶるぶる震える手で握り飯をかじり、水を飲んだ。死神なんぞ冗談じゃねえ、まったく、
「食べて呑めば少しは血になりまするて、」
 左武衛は別に持ってきた焼酎と晒しで外記の傷の手当てをし直した。そのあと余った焼酎を自分で全部飲み干すと汗をかきながら外記の身体をさすってやった。
この日は両軍にとって時間の経過が余りにもゆっくりと進んでいるのではなかろうか、あるいは止まったままなのではないかと誰もが思っていたかもしれない。そうした緩慢な時間でもわずかに進んでいるのか、それが積重なるように過ぎて行くと現状はアイヌ軍にとって有利に展開されているように感じるのだった。それが砦の誰にもわかってきた。確かに鉄砲によるアイヌ軍の被害はこちらより多く見られるようだ。それでも疲れを知らぬ狼のように彼らは襲って来るのである、まるで基礎体力が違うのだ。きっと援軍も間に合わないだろう。自分らはまもなく皆殺しにされるかもしれない、誰もがそう思うようになってきた。もうどうでもいいのだ。この夏の暑さに矢倉が側で燃えている熱さも加わっている、それに守備軍は倒れた矢倉で分断されてお互いの連絡が取りづらく、果たして向こうは破られてはいないのか、もしもと考えれば、いつの間にかアイヌ軍が後ろからやって来るかもしれない恐怖が誰にもある。こうした交々の苦しみから逃れることができるなら死ぬことも厭わぬ、そうさ、むしろ望むべきことではないのか
 外記はまだ寝転んだままだった。
疲れた身体を励まし自分を何とか現実に戻そうとしていた。儒者のようにあれこれ悩んでいる場合ではないのだ。あと何回かの攻撃でここは陥ちるだろう。その前に弾薬は後どのくらい残っているのだろうか、と不安になった。弾が無くなれば彼らは怒涛のごとく土手を這い上がり全員すり潰すようにして殺しにくるだろう。陽は今真上にある。これが西へ傾く頃、自分らはみな屍になっているに違いない。人はいつか必ず死ぬ。これこそが自然の法則、誰もが逃れぬ定めである。しかしそれが数刻後に間違いなくやって来るということに、砦の中の者で疑うものはひとりもいなかった。アイヌ軍はしぶとい。手製の盾の数を序々に増やしながらじりじりと全体的に包囲網の輪を縮め砦に迫ってくる。
 外記は寝返りをうって腹ばいになると土手の向うのアイヌ兵の楯に狙いを定め馬上筒を構えた。火鋏を起こし火縄を挟め火蓋を切る、子供の頃から何万回もしていたことを又繰り返すだけ、それが天性の仕事だと思いながら外記は馬上筒の丸い引き金を引いた。筒先の向うでアイヌ兵が盾ごと転がっていった。外記の思いは砦方全員も同じだった。射手の助手である従卒は胴乱の中の早盒の数を気にするようになってきたし、犬走りの槍組も何度追い払っても次々と繰り返しやって来るアイヌ軍に疲れ果て、生きる希望も萎えてきた。自らの死がはっきりと現実の姿を佩びはじめているのが誰にもわかって、戦とはこうも過酷なものかと新たに真実を知ったときはもう手遅れで、あの期待に胸膨らませて江戸湾を出た意気込みはなんだったのか、太平の世にめったにない名を挙がる機会が来たと喜び勇んだあの時の自分らはいったいなんだったのか、と思うばかりである。
広林も外記も差配者としてまるで崖っぷちの木にぶら下がって助けを待っているようなものだった。ふたり共もう握力の限界にきていて、手を離せば楽になれるという思いが心を占めるようになってきた。人々は地獄の巨大な釜の蓋が、ギシギシと軋みながらゆっくりと開いていくのがわかり、砦の者全員の死は今そこにある。


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